2018年4月3日 11:50
精神科医の仕事は、心に寄り添うための橋渡し役。発達障害のある子の「育ち」のために-精神科医・田中康雄
「家族ですら、私の気持ちを分かってくれる人はいません。本当に疲れてしまいました」
「本当は、私のせいではないのですか」
僕は、診察室で、このような言葉と出会うのです。そしてその言葉の後ろにある、思いにー。
子どもの生きる力を、思いを、翻訳して親に伝える。それが、僕ができることー
出典 : http://amanaimages.com/info/infoRF.aspx?SearchKey=10211000955
診察室でできることは限られている。
育ちの見通しを明確に告げる予言は僕にはできない。せめてこの子の行動に裏にある意味や行動を説明する仮説を設定し、それを言葉にして親に伝えようと、僕は苦心する。
時にそれは発達段階としての生物学的説明であったり、思いを言葉にできないゆえの行動であったり、強い個性から生じるちょっと分かりにくい個性的思考であったりする。
同時に、言葉を届ける相手の気持ちに思いを馳せる。
僕にとってそれほど的を外していないと思われる言葉であっても、今の眼の前の親には届かない場合もある。今、欲しい言葉でないときに、聴きたくないときに、言葉は対話とならずに宙をさまよう。今、最大限伝わると思われる言葉を選りすぐり、僕は親に言葉を贈る。何年やっても、その選択には自信がない。
語り合うなかでの、微妙な表情の変化を読み取り、僕の言葉がシャットアウトされていないか、スルーされていないか、誤解されて伝わっていないか、恐る恐る微調整していく。気持ちの乗せ方、発語のスピード、抑揚、一期一会のやりとりである以上、できる限りこころを砕く。
思いがこもる発話は、侵襲性が高い場合もある。記号化した言葉よりも、思いが過剰に残像となる場合もある。時に僕は紙に説明文を書き、それを説明して音としての言葉でなく、文字としての言葉を遺すこともしている。
言葉は、恐ろしいものである。誤解も簡単に作ってしまう。そもそも、育ちという先の見えない、しかも、すべてが例外という育ちを、平均的に説明すればするほど、眼の前の子どもの有り様が消えていく。発達障害臨床、あるいは子どもの精神医療とは、マニュアル、ガイド化しにくいもので、診断名がついたことで、先が見えるというものではない。
常に「じゃ、今を、明日を、これからを、どのように生きていけばよいのですか」。
答えのない疑問を共有し、今できる小さいことを提案し、それを積み重ねていく作業を応援していく、それがそだちに関わる僕の仕事である。