実父には「難儀な子を産んで」と言われ。自閉症息子にとって「怖いおじいちゃま」だったけれど
孫の気持ちを考えない父
私の父は昭和9年生まれの、頑固な人でした。
今考えると、父も発達特性があったのかもしれません。周りがどんな状況であっても、昼の12時になったら「飯!」と叫び、夕飯はキッチリカッキリ18時半に開始…そんなことを母に要求する父でした。
息子を出産した日は、両親ともに病院に来てくれていました。息子の出産時刻は18時だったのですが、だんだんと18時半に時刻が迫ってきたときに出た言葉は「飯の時間だから帰るぞ!」でした。
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これは、食物アレルギーのある息子の目の前で、父が自分の食べたいソフトクリームを食べている写真です。
うしろから私が何とも言えない顔で見ています。
食物アレルギーのある子を育てる親御さんの中には卵や乳製品が入っていないクッキーやケーキなどのお菓子を準備する人もいます。
けれども、私は誤食事故を防ぐため、「自分の食べられない物を知る」という教育をしたかったので、目の前で食べることは悪いことだとは考えず、父に対して止めることはありませんでした。ただ、父はそんな教育方針を理解したうえで、目の前で食べたのではなく、「自分が今、食べたいから食べる」、そんな状態だったと思います。
孫の障害に対しても全く理解を示さず、私に対して「墓守なのに難儀な子を産んだ」とよく口にしていました。
たまに実家に遊びにいったときも、孫である息子が見たいテレビを要求しても、頑としてチャンネルを譲らない父でした。また、パニックを起こす息子を見て「静かにさせろ」と私に要求し、それでも収まらないときはいそいそとスポーツクラブに出かけてしまうのでした。
「怖いおじいちゃま」
7年前に父が癌で亡くなったとき、看護師が息子に「どういうお祖父様でしたか?」と尋ねました。すると息子は、「怖いおじいちゃま」と答えていました。
またお通夜の場で、実家の玄関に付いている祖父のフルネームが書かれた表札をいつ変更するということばかり気にしていました。
悲しい気持ちはもちろんあったのだと思いますし、自閉スペクトラム症の特性ゆえの面もあったでしょうが、自分を理解してくれなかった祖父に対して、息子なりにいろいろな思いがあったのだと思います。
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両親への想い
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母ももう80代となりました。母が子育てしていた時代は発達障害という言葉もありませんでしたので、知識も祖父のようにはありません。でも、障害があろうとなかろうと可愛い唯一の孫。そんな愛情をかけてくれる母です。
怖い父ではありましたが、シングルでも困らないようにと経済的な面でもいろいろ支えてくれました。生前は折り合いが悪いこともありましたが、亡くなった父の墓前にまいるたび、「本当にありがとう。感謝しています」と伝えています。
執筆/立石美津子
(監修者・鈴木先生より)
昔から「雷おやじ」「頑固おやじ」などと称される父親の多くには、ASD特性があったと思われます。
お父様には、食物アレルギーの孫の前でもソフトクリームを食べてしまう自己中心的な面や、パニックになった孫と遊ばずスポーツクラブへ出かけてしまう聴覚の過敏さやマイペースさ、また時間へのこだわりなどがうかがえます。
しかし、経済的な面での支えがあったことは救いです。
自己中心的な面があっても、娘のことを思いやる優しさがベースにある、一見怖いけれど実は優しいお爺さんだったのだと、お子さんに伝えてあげてください。