「パラレルアイデンティティー」でいいと気づいて。ASDの私の、見失った「私らしさ」を探す旅
アイデンティティーとは? 私という人間を俯瞰して
アイデンティティーについて辞書で調べると、以下のように定義されています。
1 自己が環境や時間の変化にかかわらず、連続する同一のものであること。主体性。自己同一性。「―の喪失」
2 本人にまちがいないこと。また、身分証明。
引用: デジタル大辞泉 小学館
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC/#jn-1107
アイデンティティーとは、誰かが「私はBやCではなく、間違いなくAという存在である」と言うときのAだということですね。
私のアイデンティティーは長らく混乱していました。
若いころには子ども時代に親や社会から背負わされた役割を自分のアイデンティティーだと誤解。一方、背負わされたものは捨てていいのだと理解したここしばらくは、代わりに何をアイデンティティーとしていいのか分からなかったのです。
自分のアイデンティティーを発見するのに必要だったこと
ここ数回のカウンセラーの先生とのセッションでは、ずっとアイデンティティーがテーマになっていたように思います。
「今後、どう生きていくべきだろうか。私が人生で本当にやりたいことはなんだろうか。それがよく分からない…」
トラウマ治療を専門としている先生は「複雑なトラウマのある人は自分の欲求を感じる部分が混乱していて、つい『べき』で動いてしまうことがある。コツとしては、何かをしているときの自分を想像してみて、身体感覚が楽になるか不快になるかを基準とするといい」と説明してくれました。
しばらくそれをヒントに過ごして自分と向かい合ってみたあと、ある日のセッションで、私は先生に掘り下げてもらいながらこんなことを語りました。
「私は、文章を書くことは得意だし、周囲から要請されるからやってきたけど、実はそれほどやりたいことではないのかもしれない」
「最低限人生でやりたいことは、夫のパートナーとして共に楽しく穏やかにささやかな日々を暮らすこと」
「価値観の合う人たちと人生について深い語り合いをするようなことが大好き」
「私的なアイデンティティーと職業上のアイデンティティーはそれぞれ違うものなのかもしれない」
これらの考えが、私が自分のアイデンティティーを見つけるうえでの大きなヒントになりました。
私の私的なアイデンティティー
「べき」を捨てて自分の心身にとことん素直になった私が、では自分の私的なアイデンティティーとはなんだろう? 私は私的な人生において何者だと言えるのだろう? と考えてみて、こんな答えが出てきました。
・私は「夫の妻」である。
・私は「父の娘」である。
私は、理屈で考える場合には女性を「誰々の妻/娘」と定義づけることは好まないのですが、自分の中から出てきた素直な感覚は、夫の妻であり父の娘ということでした。これには驚きました。
こうした答えには、私がいま、夫の妻であることを自ら選択し、彼の妻という生き方を楽しんでいることが現れていると思います。同時に、関係の悪化や断絶といった紆余曲折を経て、いまは父の娘として関わることを自ら選択し、彼との関係性を大事にできていることも。
逆に、私が彼らと関係性を持つことを望まないのであれば、夫とは離婚し、父とも関係を断絶すればいいはず。私が、まだ存命中の母と関係を断絶し、自らを「母の娘」とは呼んでいないように。でも私は望んで夫と父との関係性を続けていっているのです。
私の職業上のアイデンティティー
「私の当面の職業はライターだけど、だからといって職業上のアイデンティティーをライターに置く必要もないんだな、だってアイデンティティーって自分で決めるものなんだから」というのが、職業上のアイデンティティーについて最初に考えたことでした。
しばらく考えて、こんな答えが出てきました。
・私の仮の姿はライター、その真の姿は「ピア支援者を目指す者」。
私はまがりなりにもライターとしてのキャリアを積んできたのは事実です。心理や福祉の専門家を目指したこともあった。
今後もライターとして仕事がいただければお受けするだろう。けれど、本当に仕事としてやりたい、かつ、やりがいを感じながら生涯続けていけそうなのはピア支援者だと気づいたのです。
文章を通して不特定多数の人を助けることではなく、クローズドな場で私の個人的な語りを通して特定の仲間の助けとなること。それが私のやりたいことであり、かつ、できそうなことでした。
アイデンティティーは自ら選んでいくもの
上に挙げた私の私的アイデンティティーと職業上のアイデンティティーには共通点があります。それは、私が自ら選択したものであるということ。
冒頭の引用に「主体性」とありますが、このようにして、自分が主体となって選んでいくのがヘルシーなアイデンティティーだと思うのです。
中盤に出てきたカウンセラーの先生は私に「人は選択肢が与えられなかったときにトラウマを負う、逆に言えば選択肢が与えられればトラウマにはなりにくい」と教えてくれたことがあります。
人生はいつもままならないものですが、そのままならない中でも自ら納得して選んでいくこと。これが私、これが私の人生、そう言えるのがアイデンティティーなのでしょう。
パラレルキャリアならぬパラレルアイデンティティーでいい
もう一つ重要なのが、アイデンティティーは自分の側面の数だけあってもいいということです。
知人のキャリアカウンセラーが、「最近はセカンドキャリアではなくパラレルキャリアと言って、自分のキャリアパスを複数持ちながら生きていくのがよいとされている」と言っていたことがあります。
これは私的アイデンティティーでも同じで、私的アイデンティティーでも職業上のアイデンティティーでも、それぞれにおいてアイデンティティーはいくつもあってよいと思います。
たとえば私がもし、趣味のダンスにもっと心血を傾けているとしたなら、私的なアイデンティティーに「ダンサー」を加えることもあったかもしれません。
ときどきは「べき」や常識から離れて、自分のアイデンティティーについて考えてみるのもいいかもしれませんね。
文/宇樹義子
(監修初川先生より)
ご自身のアイデンティティーにまつわる思索のシェアをありがとうございます。
自分とは何者か、それを掴むための視点の一つとして、宇樹さんのカウンセラーの方からの、自分が何かしている際の身体感覚が快か不快かといった面に注目してみること。そのようにご自身のこれまでと今を振り返られ、一つに定めすぎずにあるありようが、しっくり来た、というところのように感じました。カウンセラーの先生の言葉として紹介されていたように、自分が選択肢を持ち選ぶことができること(どんな小さなことでも自ら「選ぶ」ことができるとそれは自分自身で決めたことになるので、納得度合いが深まり、振り回され度がさがりますね)、そして、「こんな自分もあり、あんな自分もあり」と自分で納得できるならば、ご自身のありようとして統合されているといえます。自らの行為(好きなこと・仕事など)に限らず、人間関係でも「自分はこの人といると心地よいのだ」と感じることができればそれは宇樹さんのいうところの「ヘルシーな」ありようなのだと感じます。
読者の方の中には、お子さんの子育てで慌ただしく過ごされ、翻弄されているように感じる方もいらっしゃると思います。自分って…というテーマと出合うことも、時には大事ですし、そうして振り返ることで今の自分のありようをどう捉えるかが変わってくる面もあります。一人で悶々と考えるとつらくなりやすいテーマでもありますので、よき相談相手を見つけ(心理専門職などそうしたテーマに長けた人もいます)、話し合ってみることをおすすめします。