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川崎麻世、事務所新たに心機一転! 今語る芸能人生の父母&スターの教え

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川崎麻世、事務所新たに心機一転! 今語る芸能人生の父母&スターの教え

1976年に芸能界入りして以来、第一線で輝き続ける俳優・歌手の川崎麻世(崎はたつさき)。レコードデビューの記念日となる7月1日には、自身のブログで新たにプラチナムプロダクションに所属することを発表し、世間を驚かせた。

昭和の時代にアイドルとして活躍しながら、平成ではさらなるステップアップを求めミュージカル界に進出、たしかなキャリアを築いてきた川崎が、令和で心機一転、新たなスタートとなる。今回は川崎にインタビューし、これまでのキャリアの振り返りと、現在の心境について話を聞いた。

○■新たな転機を迎え、芸能界の変化も感じる

――今回、どういった理由でこのような転機をむかえることになったんですか?

数年前に、縁があって社長から「何か一緒にお仕事をできれば」と言ってもらったことが、ずっと頭にあったんです。そこからちょくちょくご飯を食べたり、事務所に遊びに行ったりしているうちに、情熱が湧き上がってきて、今回新たな転機となりました。「これからだな」という気持ちです。

――今年で芸能生活は44年になりますが、デビュー当時の芸能界というのはどんな世界でしたか?

やっぱり40年以上経つと変わりますね。
13歳のときに大阪でものまねの番組に出ていたところをジャニー(喜多川)さんにスカウトされて、夏休み中に東京に行くことになったんです。そしたら、よくあるということで『カックラキン大放送!!』に出るようになって、『怪人二十面相』『レッツゴーヤング』「不二家のハートチョコレートのCM」とどんどんレギュラーや仕事が決まっていって。その後にレコードデビューしたんです。

――『カックラキン大放送!!』はアイドルの方が出るバラエティとして元祖みたいなところがありますけど、現場はどうでしたか?

堺正章さん、研ナオコさん、野口五郎さんなどがレギュラーでした。当時は、カンペがなかったんですよ。収録は中野サンプラザとか全国の市民会館でやるんですけど、お客さんの前でやるため、台詞ががっちり決まってたので、毎回、覚える量がハンパない。収録だけど、ほぼ生のような感じでした。

――歌を出されて、この世界でやってくんだという気持ちはその頃固まっていったのでしょうか?

中学生の頃は歯科医になりたかったんです。
だから歌手になるなんて夢は持っていなかったんですが、1年たって歌手デビューしたら、「もう頑張るしかない」という気持ちになりました。

――そんな中で大変だったことは?

忙しくて常に眠くて、気づいたらあっという間に時間が過ぎていたという感じでしたね。僕がデビューした年は、狩人が「あずさ2号」、清水健太郎が「失恋レストラン」、高田みづえが「硝子坂」でデビューしていたので、僕は新人賞にはひっかかるんですけど、もう勝てないんですよ。だから、新人賞のグランプリのドラムロールがなってるときも「どうせグランプリはとれないんだろうな」なんて思ってました(笑)。

その当時は、世の中が変わっていってる真っ最中で、どんどんニューミュージックの人が出てきてたんです。サザンオールスターズ、世良公則&ツイスト、Char、松山千春、原田真二、長渕剛……ファンが「キャー」っていう対象がそういう人たちに移っていくので、我々アイドルは「あれ?」って。もちろん、僕らにもずっとついてきてくれてるファンもいたし、『レッツゴーヤング』とかもあるので、出る場所はあったんですけど、そこに来て「たのきんブーム」が来て……。

――トシちゃん(田原俊彦)、マッチ(近藤真彦)、よっちゃん(野村義男)が1980年代のはじめに組んでいたトリオですね。


同じ事務所でバックで踊ってた後輩が、『3年B組金八先生』に出たことで、一夜にしてスターになって。それで僕は「アイドルにしがみついちゃいけない」と思って、ミュージカルの世界に入ろうと決意するんです。

――どういう行動を起こしたんですか?

20歳のときに、劇団四季『キャッツ』の初演があったんです。それで、2期目のオーディションを受けたら受かって出ることになって。でも当時はアイドルからミュージカルに行く人は僕の周りにはいなかったので、「アイドルを諦めて逃げた」と思われたりして。でも、自分としては次のステップだと思っていました。
○■アイドルからブロードウェイへ

――今なら、そういう道に進む人もいますし、当然それがステップだと思われますけど、当時はそうじゃなかったんですね。

舞台に出ると、自ずとテレビの露出も少なくなるし、余計にそう思われてしまうという。
でも、自分の中では、『キャッツ』に出たことは、ものすごい達成感だったんですよ。もう初めての達成感というくらいの。つらいレッスンを毎日受けて、舞台に立って、拍手を受けて。だから、破天荒だけど「次はブロードウェイだな」と思って。ブロードウェイに勉強に行ってオーディションを受けて、ロンドンにも行きました。そしてアンドリュー・ロイド・ウェバーの作曲したイギリスのミュージカル『スターライトエクスプレス』でワールドツアーに出ることになるんです。

――ワールドツアーはどこを回られたんですか?

日本は東京と大阪、オーストラリアはシドニー、アデレード、メルボルン、ブリスベン、どこも満員でした。達成感がありましたね。


――BOYS AND MENなどが所属する事務所(フォーチュンエンターテイメント)の社長である谷口誠治さんも、『スターライトエクスプレス』に参加していたと仰ってますが、一緒のときに出演されてたんですか?

彼はアクション専門でやっていて、ツアーで回っている間は毎日一緒でしたよ。今も仲がいいんですけど、昔はみんなでピザを分け合って食べてたのに、今は高級なもんも食べていて、「あのときとはぜんぜん違うな」と言ってたところです(笑)。

――そうやって海外に勉強にいったり、オーディションを受けたりということは、周囲は協力的だったんですか?

背中を押してくれましたね。勉強している間は、なんの収益にもならないけれど、ちゃんと給料ももらえたし、ロンドンに行ってる間も、メリー(喜多川)さんが段ボールにカップ麺とか梅干しとかといった日本食を入れて送ってくれて。当時はカップ焼きそばの空いた容器をお弁当箱にして、鍋で炊いたご飯をそこに入れて、醤油をかけて食べたりしていました。

――川崎さんが『スターライトエクスプレス』に出たことで、光GENJIも『STAR LIGHT』でローラースケートを履いてデビューするわけですね。

僕が『スターライトエクスプレス』のオーディションに受かって、日本では主催をフジテレビがすることになったので、イメージキャラクターということで彼らがデビューしたんです。今でも、光GENJIだった大沢樹生とも仲がいいけど、「麻世さんがいなかったら僕たちデビューしてませんでした」と言ってくれますね。


――13歳でジャニーさんに認められてデビューすることになって、その後、いろんな形で背中を押してくれたメリーさんもいて、お二人は川崎さんにとってどんな存在でしたか?
メリーさんがお母さんで、ジャニーさんがお父さんという感じです。今までにたくさんデビューしたメンバーがいても、こんなに面倒みてもらったのは自分くらいじゃないかって。というのも、郷ひろみさんも移籍して、僕がデビューした翌年にフォーリーブスも解散し、社員も10人くらい。そこで一緒にやってきたというのがあったので。

――今も交流は。

ずっとなかったんですけど、マッチのバースデーパーティーとかには行っていて。そこで、マッチにメリーさん、ジャニーさんに会わせてほしいと、お願いをしていました。実際に会えたのはジャニーさんが亡くなって、東京ドームでのお別れ会のときでした。
部屋に通されて、そこで30年ぶりでメリーさんに会ったときは、昔に戻ったように、僕をハグしてくれて「愛してるよ」とほっぺにキスしてくれて。30年ジャニーさん、メリーさんには謝罪できず、心のつかえがずっとありましたが、心が晴れ、リラックスした気持ちになりました。

――40年以上芸能界にいらっしゃるわけですが、人前に出る仕事ということで、「かっこいい存在である」ということを意識していらっしゃいますか?

誰でもそうですけど、見た目でイメージが決まったり判断されますよね。僕の場合、チャラく見られることも多いので、そのイメージを役で生かすときもあるし、ギャップを楽しむときもあります。でも、実際にチャラいと、ほんとにチャラい人になっちゃうから、礼儀正しくしようと思っているし、そういうところはメリーさんの教育もあってちゃんとしています。

それと、常に「かっこよく」ありたいと思っています。芸能界は良い意味でのナルシストじゃないといけないと思ってるんですね。それは先輩から学んだところです。かつて歌番組でご一緒した沢田研二さんは、台本を見て歌うときのカット割りが全部頭に入っていて、カメラに向かって指を差す振り付けのときも、最初はカメラを見ないようにして、「ここだ」って瞬間にぱっとカメラを見て指を差すから、見ている方もドキっとするんですよね。風を受けながら歌うときも、風の角度をちゃんと意識していて、そういう姿を見て学びました。ほかにも、郷ひろみさんの存在のアピールの仕方や、西城秀樹さんの情熱やコミュニケーションの取り方などからも学びました。秀樹さんは、本当にいろんな人に「元気?」とか声をかけてくれる人で、そう言ってもらえると「がんばろう」と思えました。――ご自身も研究されましたか?

そうですね。デビューしたばかりの頃は、メリーさんにいろいろ教えてもらいました。例えば、『夜のヒットスタジオ』は、スタジオ収録だから、カメラと自分の立ってるところが、同じ高さなんです。でも、『レッツゴーヤング』のNHKホールでは、僕らはステージの上だけど、カメラは別のところにある。そうすると、手を広げる振りなんかも、手が見えなくなってしまうから、「手をかぶせぎみにすると、長く見えるんだよ」とか、そういうことを教えてもらって研究しました。

僕は手足が長いので、ステージに立ってても浮いてるように見えるからということで、メリーさんにはプレスリーのビデオを見せてもらったこともありました。プレスリーのどしっとした感じを参考にして、「麻世は足の親指に力を入れなさい。そうすればもっとどしっとして、その中で腰の感じがセクシーに見えるんだよ」と。ジャニーさんも、当時、ビデオデッキで僕が出た番組を見せてくれることがあったんですけど、そういうときにまだ子供だからお菓子食べながら見てしまって、画面から目をそらしてたりすると、「ちゃんと自分の姿を見なさい」って怒られたりしましたね(笑)。
○■令和のアイドルのプロデュースも!?

――そして、今年はデビューのその日に、事務所を移籍されたわけですが、心機一転で、今後はどんな風に活動していきたいと考えられていますか?

テレビを見てる人にとって、僕はマスコミタレントみたいに思われるかもしれないけど、それはやっぱり嫌なんですよ。だから、今の時代を生き抜くプラチナムという事務所に入って、今の世代の人にも認識してもらえればいいな、と。40年以上芸能界でやってきて、特に舞台の世界で経験を積んできた自負がありますし。

さらに言うと、その中でも、僕の中にはいろんなしきたりや決まりが身についていると思うんです。萬屋錦之介さんや坂東玉三郎さんに何かと面倒みてもらったりもしてきてるんですが、玉三郎さんは現役ですけど、錦之助さんのようなスターのことを伝えられる人ってなかなかいないので、良き昭和の灯を消さないように、後輩につないでいけたらと思いますね。同時にこれまで培ってきた経験を活かして、令和の時代のアイドルの育成やプロデュースをしたいと思う気持ちなんかもあります。

――そういうお気持ちもあるんですね。具体的に今後の川崎さんのお仕事の予定もありますか?
8月はコロナで延期になっていた明治座の音楽劇『モンテ・クリスト伯』に出演しました。そのあとは、ドラマとして放送されていた『サウナーマン ~汗か涙かわからない~』の舞台にゲストとして出演したり、明治座の『西遊記』という、芸道45周年細川たかし特別公演、35周年ダチョウ倶楽部一座旗揚げ公演の舞台に出たりします。その合間にも映画やイベントにも出たりと、新しい仕事もどんどんしていきたいと思っています。

■川崎麻世 プロフィール
1963年3月1日生まれ、大阪府枚方市出身。1976年、バラエティー番組『カックラキン大放送』レギュラー出演を経て、1977年1月TVドラマ『怪人二十面相』主役の小林少年役で俳優デビュー。 同年7月『ラブ・ショック』(CBSソニー)で歌手デビュー。第10回新宿音楽祭、第7回東京音楽祭 国内大会など各音楽祭で新人賞受賞。 以後、TVドラマやバラエティー番組などで活躍。1984年、劇団四季『CATS』出演を皮切り に数多くのミュージカルに出演。1987〜1988年『スターライトエクスプレス』日本、 オーストラリア公演に初の日本人キャストとして参加。以降、『レ・ミゼラブル』 『マイフェアレディ』『ブラッドブラザース』『泣いたらあかん』『親鸞 わが心のアジャ セ』『クリスマスキャロル』『細雪』などあらゆるジャンルの舞台で活躍を続ける。

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