すゑひろがりず、もがいた10年「やっと芽が出た」 試行錯誤を繰り返した狂言風漫才
●「後半2年に全部が詰まった10年」 狂言風は1年目で発見
扇子と鼓を携えた和の装いで狂言風の漫才やコントを繰り広げるお笑いコンビ・すゑひろがりずが、今年4月に結成10周年を迎えた。ボケと扇子担当の三島達矢と、ツッコミと小鼓担当の南條庄助による伝統芸能風スタイルは徐々に反響を集め、『M-1グランプリ2019』で決勝に進出。彼らの名を一躍全国区に広めることとなった。
伝統芸能風・狂言風スタイルは意外にも結成初期に開発するも、ブレイクまでには時間がかかっている。結成10周年の感想は「ここ最近の2年がすべて」と語るすゑひろがりずにインタビューし、追い込まれても腐らなかった10年間の道のり、芸人たちのアドバイスを受け、流れに身を任せながら時代の空気を味方に付けた軌跡を聞いた。
――結成10周年を迎えていかがでしょうか?
南條:後半2年に全部が詰まった10年でした。仕事においては2019年末からの1年半、2年弱がほとんどの記憶で、それ以前の8年半は本当にもがいたなあと。時間はかかりましたが、今思うと全部無駄じゃない、実になったとは思っています。
三島:長かったですね(笑)。まさか自分がこの歳になるまで続けていると思っていなかったですし、意地で続けている状態のなか、やっと芽が出たという感じです。きっちり狙ったというわけではなく、本当にラッキーパンチ。でもこのパンチが打てたのは、今までの何年分があったからこそだと思います。
――コンビ結成時に思い描いていた10年後と現状を比べると、どういう感じでしょうか?
南條:思い描く能力がなかったです。売れることがどういうことかわからず、ぼんやり成功したいと思っていたから売れなかったと思うんです。和風の感じを見つけた時に霞がパッと取れて、こっちの方向性で行けばいいのかと思ったのが、結成1年目、2012年頃でした。
三島:でも、若くしてブレイクするのは無理だなという感覚は確実にありました。
王道コースに乗って売れようとする道が絶たれた状態で、横やりを刺すしかないだろうというところまで来て、この状態にたどり着いた。でも、そこからも長かったですね。もっと早くブレイクするだろうと思いましたが、そんな簡単じゃないんだなと。
――最初に披露した狂言風のネタは「狂言風クリスマス」だったそうですね。南條:見つけた瞬間は「ウケるぞこれは!」と本当に思い、5人くらいのライブでしたが手応えを感じました。そこにミルクボーイの駒場(孝)さんも出ていて、「今のネタええやん!」と言ってくれて。その数カ月後に劇場のオーディションでそのネタをやった時にドーン! とウケたので、「これやな」と2人で話しました。
三島:組んで1年くらい、30歳くらいの時です。
30歳は僕の中で大きかった。今でこそオッサン芸人が売れていますが、その当時は30歳では「もう遅いぞ」という空気がありました。でもだんだん時代が35歳でも若手となってきたので、まだ粘れるなという感じも出てきたんです。
――たしかに2010年代前半当時は、ピースや平成ノブシコブシなど、若手のスタイリッシュな感じがウケていたイメージがあります。
三島:あの頃は、やってもまったくウケなくて、マジできつかったです。
――狂言風スタイルは、どうやって見つけたのでしょう?
南條:クリスマスの時期だったんです。「今日のライブどうする?」という話になり、「狂言風にしたらどう?」みたいな思い付きだったと思います。
三島:試してみようとなった時に、ものまねの狂言師みたいな声が出たんです。
僕は今も鮮明に覚えています。喫茶店の中で。そこでめっちゃ笑って、やってみたらお客さんにも伝わった。初めて手応えを感じました。
●転機の連続…東京進出、漫才スタイル確立、そしてM-1へ
――1年目でネタを見つけた後、そこからも長いわけですよね。
三島:劇場で出番をもらえるようになっていくのですが、このままいくとしんどいなってなるんです。あんまり劇場のお客さんは入れ替わりがないので、「またこれか!」みたいになるんだろうなと。
南條:狂言風○○でやっていくと、全部同じに見えるんですよね(笑)。
当時はコントでやっていたのですが、飽きられてきて。劇場でのランクが上がったり下がったりして、このままだと頭打ちやなと。それが狂言風を始めて2年目、大阪時代の話です。
――どう現状を打破したのですか?
南條:その時に出ていた劇場は、芸歴8年目以上は出られず、卒業になったんです。それなら、このタイミングで東京へ行くかと三島が言い出して。確かにそうだろうと思い、東京に行く決意をしたという流れです。それが今思うといいきっかけになりました。――居場所がなくなったという理由もあるかと思いますが、東京を選択した理由はほかにあるのでしょうか?
三島:テレビのオーディションが多いだろうという理由だけですね。
大阪時代も始めたての頃に、ちょこちょこと深夜の関西ローカルのオーディションに受かる感じにはなっていたんです。けっこう奇抜だったので。これやったら東京のほうがずっといいだろうなと。
南條:俗に僕らはイロモンという感じのもので、劇場に毎日立って漫才してお客さんを喜ばせているというよりは、余興とか飛び道具的な呼ばれ方が多いんです。深夜番組の1分ネタなど、そういう呼ばれ方が多かった。東京ではその幅が広がりそうだなと。それが2014年の5月くらいですね。
――ただ、ちょうどその頃、『M-1』がない時期でした。
お二人がブレイクするきっかけは2019年大会ですので、5年後ということに。
南條:そうですね。『M-1』は当時1回終わっていて、『THE MANZAI』の時代で。でも、『THE MANZAI』にもエントリーしていました。
――東京生活はどう始まりましたか?
南條:東京は最初、調子良かったんですよ(笑)。最初は狂言風や伝統芸能風のインパクトを気に入って喜んでもらえて、ちょっと変わったネタというくくりでちょこちょことテレビに呼んでもらっていて、最初の1~2年は東京出てきてよかったという状態が続きました。でも、大阪時代と同じで、それが一周すると「こいつらこの感じね」となる。あれだけ呼ばれていたのに、2016、17年はテレビの仕事はほぼない状態になり、これはやり方を変えないとダメだなと思いました。
――今でこそ狂言風ネタは、数学の問題を狂言風に解いてみるなど、種類が豊富ですよね。徐々にネタのストックを積み上げていったのですか?
三島:実は最初は、漫才じゃなかったんです。大阪時代はコントで、それこそ能みたいな。センターマイクを立てたのは、たぶん東京出てきてから。コントばかりで単独となるとで飽きちゃうので、漫才みたいなものを入れてみるかとなったのが2015年くらいで、見に来てくれた同期のななまがりの初瀬(悠太)が、漫才の形も見やすいなあと言っていて、それ以来やるようになりました。
南條:それで2人でいろいろと試してやってみて、狂言風に合うネタを探すんです。向き不向きは設定上あるんですけど、意外と何でもできるようになってきたと思います。昔ほど選り好みはしなくてもできるようになってきた感じはありますね。
――ブレイクするまでには転機がいくつもあったと思いますが、最大のそれは『M-1グランプリ2019』の決勝進出ですよね。
南條:僕らを一番押し上げてもらったのは、『M-1』でしょうね。世の中で波は立ってなかったけれど、僕らの中では相当なものでした。
三島:『M-1』がなければゼロなので。
南條:『M-1』は、僕らをゼロから1にしましたね。東京に出て来て大宮セブンというお笑いのユニットに入って、それで大宮の劇場に出入りするようになったのですが、漫才でお客さんをもっと喜ばせないといけない、そういう意識に変わりました。これが2017、18年です。
――なぜ大宮で意識が変わったのですか?
南條:そこまでお笑いに詳しい方というよりは、地元の方がフラッと来るようなイメージなんです。年齢層も高齢者からお子さんまでさまざま。そうすると狂言風のネタがなんだかわからず終わってしまうこともあるんです。そこを矯正できた場所ですね。大宮での経験がなければ、もっとねっとりしていたことをやり続けていたと思います。
――まるでマーケティングのようですね。
南條:そうですね。遠いところへ出て、ようやくネタの傾向がわかるんですよ。大阪、東京、大宮と、比べる素材が出てくるので。ルミネは殿堂感があり、みんな笑いに来てくれるから、かなり温かい人たちなんです。大宮の場合、そこまでお笑いに詳しい人ばかりではない。これがよかった。
●M-1優勝目指すもコンビ間で温度差!? 将来の野望も語る
――『M-1グランプリ2019』で決勝に進出。一番の変化は何でしたか?
三島:安堵でしたね。これであと向こう10年くらい営業に行けると、それはまず思いました。
南條:仕事量が激増しましたので、決勝後の1カ月くらいで、それまでの芸人生活全部くらいの稼ぎがあったかもしれない。仕事の量だけでなく、内容も変わりました。
――今年はいかがでしょう? 意気込みのほどは?
南條:出ます!
三島:今年は会場を賑やかせればという感じです。
南條:1回目はまぐれみたいなところもあり、2回出れば実力を証明できると思うので、出るからには優勝ですね。
三島:僕はそこまで……。
――どういうことでしょう?(笑)
三島:前回で顔は売れました。2回目は1回目ほどのパンチ力はないと思うので、お祭り感覚で出たいかな。大会を盛り上げる感じで出たい。
南條:本人がこう言っているので気持ちは変えられないですが、上を目指して頑張ります!
――この狂言風スタイルの伸びしろと言いますか、可能性は感じますか?
南條:まだまだやれることがありそうだなと思っています。今まではネタを考えることが芸人の仕事だと思っていたのですが、先輩たちを見ていると、芸を磨いているというよりは技を磨く時期にシフトしている。それがこれからの課題というか、今まではネタを作ればゴールという考え方が、同じネタでもやり方によって面白くさせるというか、そういう努力をしたい。和牛さんのネタを見ていても、細かい調整がすごい。まるで精密機器をいじっているかのようです。上手に磨いていけたらいいなと思います。
――8月18日には初のDVD『すゑひろがりず結成拾周年全国行脚~諸国漫遊記~』が発売になりますが、全国ツアーの初日である4月8日のなんばグランド花月公演の模様を収録したものだそうですね。
南條:これはもう感動の幕開けで、大阪で単独ライブを初めてやったのですが、伝統あるNGKでご時世柄、間引いていましたが満席で。とんでもない大きさの拍手やったので、圧倒されましたね。その幕が上がる瞬間をまずお楽しみください。そこだけの10秒のDVDでもいいくらいです(笑)
三島:初回限定版はいろいろと特典も付きます。重箱、めちゃくちゃかっこいいです。洗ってお弁当箱にしてほしいですね。
――最後に、今後の野望を教えてください。
三島:師匠みたいになりたいとずっと思っていまして、早く師匠になって、寄席に出ている時のあの感じ。フラッと来て、フラッと笑いをかっさらって、合間は喫茶店に行ったりして、あの生活に早くなりたい。
南條:弟子を取りたいとかはない?師匠クラスの芸人になりたい?
三島:弟子はない。楽屋で師匠クラスが3~4人集まっていると、楽しそうにしゃべっているんですよ。本当にあこがれますね。人生最高やろうなと。もしかしたらご本人の中ではプレッシャーとかあるのかもしれませんが、見ているだけで本当にいいなあと。
南條:僕はこの芸風を突き詰めながら、新しいことも取り入れたいですね。同じにならないように狂言をやりつつ、ちょっとずつ新しい要素を取り入れたり、飽きられないようにしたい。10年後、まったく違う感じになっていてもいいかなと。そういう成長の仕方をしたいです。
■すゑひろがりず
2011年結成のお笑いコンビ。ボケ・扇子担当の三島達矢と、ツッコミ・小鼓担当の南條庄助で構成。伝統芸能風スタイルで進める独自の笑いで人気を得る。東京進出後は、大宮ラクーンよしもと劇場の専属芸人「大宮セブン」として活動し、2019年の『M-1グランプリ2019』では決勝に進出。全国区の知名度を得る。今年は自身初となる全国ツアー『すゑひろがりず結成拾周年全国行脚~諸国漫遊記~』を開催。その初日である4月8日になんばグランド花月で行われた公演を収録したDVDを8月18日に発売。また、デビュー・デジタルシングル「雅ーMIYABIー」を8月19日にリリースする。