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きゃりーぱみゅぱみゅ「支えられた10年」 “本名の私”を見失った時期も

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きゃりーぱみゅぱみゅ「支えられた10年」 “本名の私”を見失った時期も

●「調子に乗るタイミングはたくさんあった」
2011年8月17日にメジャーデビューし、今年10周年を迎えたきゃりーぱみゅぱみゅ。デビュー直後からポップカルチャーのアイコンとして注目を集め、デビューからわずか1年で日本武道館単独公演を行い、NHK紅白歌合戦にも出場。13年にはワールドツアーをスタートさせ、国内外で“きゃりー旋風”を巻き起こした。当時きゃりーは10代後半。下積み時代もないままいきなりスポットライトを浴びることになった彼女だが、「いわゆる調子に乗っていた、天狗だった時期はないんですよ」と笑顔で言い切る。その一方で本名の自分ときゃりーぱみゅぱみゅとしての自分との隔てを感じて苦しんだ時期もあるという。現在28歳のきゃりー。この10年の歩みを振り返ってもらった。


高校生の頃、ファッション誌『KERA』や『Zipper』『HR』の読者モデルとして活動していたきゃりー。歌手としてデビューするきっかけとなったのは、ファッションショーに出演する友人のフィッティングについて行ったこと。そこで現在の事務所アソビシステムの社長と出会う。

「そこで『きゃりーちゃんはどんな音楽を聴くの?』と聞かれたんです。大好きな音楽はたくさんあったけど、パッと浮かんで咄嗟に答えたのがcapsuleだった。そしたら『じゃあ今度中田(ヤスタカ)さんとイベントやるからおいで』と言ってくれて。その中田さんと出会い、『TAKENOKO!!!』という高校生のDJイベントに出るようになって、『面白そうだからデビューしてみない?』という流れになった。あのときcapsule以外を答えていたらまた違う流れになっていたと思う。
だから、あれが運命の質問」

YouTubeに公開された「PONPONPON」のMVで一気に注目され、2011年8月17日に中田氏のプロデュースでミニアルバム『もしもし原宿』でメジャーデビュー。「つけまつける」「ファッションモンスター」などを世に送り出し、一世を風靡した。

デビュー当初の自分は「怖いもの知らずの無敵だった」ときゃりー。「売れる、売れないとかまったく考えたことなくて。自分ではイケてるから間違いないという感じだった」と自信に満ちあふれていた。「ただ驚いたのは、今もそうですが、自分はメジャーなものではなく、サブカルチャー寄りの存在だと思っている。それがメジャーに認められて驚きました。こんなにたくさんの方が曲を聴いてくれるとは思わなかったし、有線で自分の曲がかかるとは想像していなかった。
『まぁ刺さる人には刺さるでしょ』と思っていたので、まさかこんなに注目されるなんて…」と振り返る。

ただどんなに注目されても「いわゆる調子に乗っていた、天狗だった時期はないんですよ」。その理由について聞くと、「私の家族も、アソビシステムのスタッフさんも私をもてはやさなかったし、裏では普通に『おつかれっす~』みたいなテンション(笑)。過剰に挨拶されることはなかったし、どんなことを成し遂げても『きゃりーはなんてすごいんだ!』と言われることもはあまりなかったですね。いい意味でおだてられなかった。今思うとそれがよかった。振り返ると調子に乗るタイミングはたくさんあったけど、足を踏み外さなかった。ブレなかったのは周囲のおかげ。
支えられた10年です」と感謝する。

また高校時代の親友の存在も大きいという。「高校からその子が変わらず仲良くしてくれたので、高校生のときの感覚をずっと忘れられないでいられた。カラオケのフリータイムで歌いまくるとか、等身大の若者の感覚を常に持っていられました」

楽曲リリースに音楽番組、イベントの出演。国内ライブにワールドツアー。多忙を極めた。「めちゃめちゃ忙しかったです。次の日の洋服を着て寝るとか、よくやっていましたね(笑)。
今はしっかりパジャマ着て寝られるし、家を出る1、2時間前に起きるという余裕があるけど、当時はその余裕がまったくなかった」

歌手として順調に歩んでいたきゃりーだが、「本名の自分」と「きゃりーぱみゅぱみゅの自分」の間に溝を感じるようになってくる。

「みんなから『きゃりーちゃん』と呼ばれて、海外に行っても『きゃりー』と呼ばれる。きゃりーぱみゅぱみゅとしての花はどんどん成長するのに、本名の自分はどんどん枯れていった。みんなが『きゃりーちゃんすごい』と言ってくれるたびに、本名の自分を愛し忘れていたし、愛されていないと錯覚していた。この時期はどんなに華やかな場所でライブをしてもなんか満足できなかった。自分は何者なのだろうかと思い悩みましたね。今思い返すと、本名の私、ありのままの私を愛してくれる人がいなかった」

苦しい時期もあったが、活動休止もせずにここまで駆け抜けたのは、なにより自分が“きゃりーぱみゅぱみゅ”を好きだからだ。「10年もやっていると『本当はこの仕事やりたくなかった』ということも出てくるけど、私は一切それがなかった。
思い悩んだりしたけど、切羽詰まったヤバい状況ではなかったし、ここは私の夢を叶えてくれる場所」と微笑む。現在はプライベートも充実し、“隔たり”を感じることもない。それでも「彼氏ができたら、絶対に『きゃりーちゃん』と呼んでほしくないかな(笑)」。

●コロナ禍で焦りあ~ちゃんの言葉が支えに

充実した10年。あっという間だった10年。笑顔で語るきゃりーだが、2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で全国ツアーが中止、出演予定だった米カリフォルニアの野外音楽イベント「コーチェラ・フェスティバル」など海外公演も次々に延期・中止に追い込まれた。

「2020年はとにかく世界で頑張るぞとめちゃくちゃ気合を入れて頑張っていました。デビュー9年目にして、ここでまた世界と勝負だと意気込んでいたんです。
でも、残念なことになくなってしまって、とても絶望しました。人生おしまいだって……。デビュー10年の実感がないのは、コロナ禍でほぼほぼ1年活動ができていないからで、実質9年という感覚です」

歌手として最も輝ける場所はステージだ。自分の居場所、発信する場所を失くしたきゃりーは「ファンの方がいなくなったらどうしよう」と焦りを感じるように。「抱えている不安を自分で消化しなきゃいけなくなって、コロナ禍で円形脱毛症になってしまいました。10円くらいの大きさでしたね。気がつくとまた髪の毛は生えてくるので、最初は気にしてはいなかったのですが、どんどん感染者数が増えてライブができない現実を突きつけられ、もう1つ円形脱毛症ができちゃって…。ふさぎこんじゃいました」と意気消沈した。

そんな中、支えになったのはプライベートでも仲がいいPerfumeのあ~ちゃん。「誰かに弱音をぶつけられる性格ではない」と話すきゃりーが思いの丈を打ち明けると、こんな言葉が返ってきた。「きゃりーだけじゃなくって、日本中、世界中の人の時計が止まっている。だからそんなに焦らなくて大丈夫だよ。みんなそうなんだから」

「優しい言葉をかけてくれて、さすがだなって。あ~ちゃん、すごく優しいんです。その言葉はいつも思い出しています。フェスもめっちゃ中止になっているのですが、でも『みんなの時計が止まっているだけ、私だけじゃないんだ』と心の中で反芻すると、円形脱毛症から遠ざかります(笑)」
デビュー記念日の8月17日には中田ヤスタカ氏プロデュースの新曲「原点回避」をデジタルリリース。原点回帰しながらも前に突き進んでいくという決意が込められている。年明けの2022年1月からは2018年以来3年ぶりとなる自身最大規模の全国ツアーをスタートさせる。

「私の人生のテーマは『夢みたいなことを現実で表現する』。コロナで何か我慢していたり、不安に思っている人の前でライブがあった1日は『めちゃくちゃ楽しかった』『ここまで頑張ってきたよかった』と思えるパフォーマンスがしたいですね。この日だけは幸せだった、そう思ってもらいたい」と意気込んでいる。

デビュー10年経っても勝負の姿勢は変わらない。今年6月にスタートしたオリジナル番組『dTV Presents KPPとBose みんなの放課後』ではレギュラー生配信のMCに初挑戦している。「すごくアットホームな雰囲気な番組です。何か聞かれたときにパッと答えるような、歌手のお仕事であまり意識しない瞬発力を大事にしていますね」

プライベートでの目標を聞くと、「かつての私だと30歳で結婚して出産するのが理想でした。今28歳なのであと2年ですね。でも、私にはまだやりたいことがある。一通り色んなことをやってから『今だ!』と思うときに結婚したい。やってみたい表現や行ってみたい国があるので、結婚の前にまずは体験していきたい。ツアーもありますし、まずは健康第一で過ごせたら」

■きゃりーぱみゅぱみゅ
1993年1月29日生まれ、東京都出身。中田ヤスタカ氏(CAPSULE)のプロデュースのもと、2011年8月17日にミニアルバム『もしもし原宿』でメジャーデビュー。コンスタントに楽曲をリリースし、国内外でツアーも行う。クールジャパンのアイコンとしても知られるようになり、「Kawaii」文化を発信している。10周年となる2021年にプライベートレーベル「KRK LAB」を立ち上げ、記念日の8月17日に「原点回避」をデジタルリリース。2022年1月16日より約3年ぶりとなる全国ツアー「きゃりーぱみゅぱみゅ 10th ANNIVERSARY JAPAN TOUR 2022」をスタートさせる。

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