「蒙古タンメン中本」白根誠社長に聞く"幻の味"が復活するまで - 「二度と食べられないなら俺が継ぐ」(前編)
店が閉店し二度と食べられない「幻の味」となってから、一人の後継者の努力によって復活し、現在広く親しまれているラーメンがある。辛うまラーメンの代表格「蒙古タンメン中本」だ。現在東京・神奈川・埼玉に16店舗を構える同店は、激辛イベントの多くにその名を連ね、開店から15年経った今でも各店舗には行列が絶えない。また、セブン&アイ・ホールディングス・日清食品と製造し誕生したカップ麺は、2008年の発売から7年が経つものの、今でも人気商品だ。
Web上にはファンサイトも存在し、ツイッターなどのSNSに「中本を食べた」と投稿する人も多く、先日にはジャネット・ジャクソンの来店がにわかに話題になった。店舗数も決して多くはない、関東にしか店舗が無い同店がこれほど認知と支持を得ているのはなぜだろうか。
中本の"二代目店主"である白根誠氏は、「すべては"人対人"でここまできた」と語る。
一度消えてしまった味がいかにして復活したのか。
また、一口食べれば汗が吹き出るほど辛いのに、何度も食べたくなってしまう"辛うま"の秘訣とは何か。そこには、真っ赤に燃える"ラーメン愛"と"人間愛"があった。
――今日はよろしくお願いします。
はい、何でもどんどん聞いてくださいね!
――ありがとうございます。では、Webサイトや店舗の漫画を読んで知っている方もいると思うのですが、初めての方にも向けて中本のこれまでについて教えていただけますでしょうか?
中本との出会いは35年くらい前になります。今55歳ですから、ハタチの頃です。上板橋(東京都板橋区)で先代のおやじさんがやってた「中国料理 中本」。そこに、友達にだまされて行ったようなものですね。
俺は風邪気味だったんだけど「辛くてうまいよ」「食えば一発で治るよ」って言われて食べてみた。
その時は「味噌タンメン」っていう初心者向けのメニュー(現在の辛さで言うと「レベル3」)と、若くてがっついてたので「定食」頼んで、定食のご飯とマーボーを食べた瞬間に頭からボーンと爆発した感じだった。「何だこの辛さは!!」って。
酒は飲むけどどっちかって言うと甘党だったし、辛いのはもともと苦手だったのでとにかく「すげぇな」と……。食べ物じゃないと思ったよね。その当時そんなラーメン無かったからすごい衝撃でしたよ。俺は真っ赤になって、「北極」(辛さレベル10)なんかいつになったら食べられるのかなって思ったよね。
昔だから店内にはクーラーも無いし、きれいってわけでもないし、町の中華料理屋さんって感じだった。
でも友達は結構ハマってて、他にお客さんもいっぱいいた。当時からにぎわってたんです。
メニューには辛いもの以外にも炒飯、ギョーザ、レバニラ炒めとかあったんだけれど、先代も辛いものが好きだからってどんどん辛いラーメンを作ってたら結局そっちばっかり出るようになったんだって。そうすると辛いもの以外は自然と無くなっちゃったとおやじさんは言ってました。俺が行き始めた時はもう既にやってなかった。先代が30年店をやっていたうちの、俺はだいたい20年を通ったんだよね。
――1日2食を中本で食べていたこともあったと聞きました。
そう、1日2食の時も、ほぼ毎日通ってた時期もあった。
昼飯晩飯、俺すごい量を食べる方だから一回に2人前頼んでたりしましたね。最初は辛くてとても食べられないと思ったのに。
――なぜそんなに通いつめるほどの魅力を感じたのでしょうか。マイナスイメージからのスタートでしたよね?
一回目は、もう辛くてね……。でも俺たちの世代はじいさんばあさんから「食べ物は粗末にするな!」と言われて育ったから、食べ物を絶対に残しちゃいけなかった。今の人たちだったらラーメンは気軽な食べ物だよね。でも、当時の俺に関して言うと、お金が無くて、貧乏でハタチのぺーぺーで。だから、ラーメンだって今で言う焼肉とかおしゃれなイタリアン行くようなごちそうだったんだよ。
だから残せないというより「残さない」。
スープだって今の人は、ほとんど残すよね。俺も今では年齢と塩分を考えて飲めない時もあるけど、当時だったらもう、1滴残らず全部飲んで「ごちそうさま」だった。
それが中本の初回はできなかった。初めて外食で残して頭にきて、友達に「なんでこんな辛いものを食べさせるんだ!」って口げんかをしました。ただ、見渡すとお客さんがいっぱい入ってて、その友達も「うめぇうめぇ」って食べるわけ。だからやっぱり何かあるのかなって。ほんと、「すっげぇラーメンだったな~」ってインパクトがあったんですね。
そのまま何も無かったらその1回きりだったかもしれないんだけど、友達が「もう1回行こう」って誘ってくれたから、「じゃあ行ってみるか」って。辛いのは分かってたから気合入れて行ったけど、2回目も完食できなかった。でも3回目は俺から行こうって言いました。初めて完食したのは3回目ですね。結構辛いもの食べるとウルウル涙が出ちゃうんだけどスープまで飲んじゃって。そこから、どんどんどんどんはまっていったんですね。
――そこで達成感みたいなものがあったと……。
達成感というよりは「何か辛いんだけどやめられない。
うまーい!」っていうのが分かったのかな。うちのラーメンは「辛い・激辛」って言われるけど、そこにはバランスが必要。旨味とかコクが無かったら、辛さは痛いだけなんです。"うまい"と"辛い"の両方ともちょうどバランスが良くないといけないし、それが当時から既にできてたんだろうね。そこからハマっちゃった。
――旨味が実感として身に落ちた時に、通いつめるまでの道ができたんですね。
20年近く通ったうち最初の5、6年は味噌タンメンを食べてました。今は初めて来た人にすすめてるやつ。ラーメンの辛さのレベルを徐々に上げていって全部制覇した後は、注文の時いつも迷うようになって。「せっかく中本来たから何食べようかな~。『冷し味噌ラーメン(以下「冷し味噌」)』にしようか『蒙古タンメン』にしようか『味噌タンメン』にしようか『冷し味噌』と『冷しラーメン(現在は冷し醤油タンメン)』両方でもいいな~」って悩んで、注文後にころころ変えたりしてました。
まず冷し味噌頼んでしばらくしてから、やっぱり蒙古タンメン全部大盛でー! って。さすがに3回注文を変えた時は先代も嫌な顔していてね、そこから変えるんだったらどちらも食べちゃえ! って2杯頼むようになりました。たまにアルバイトのおばちゃんが2杯俺のところに持ってきて、「あれ? 注文間違えたかな?」って戸惑ってると先代が、「いいんだいいんだ、そこのお客さんいつも2杯食うからさ」って言ってくれたりね。
●断られた弟子入りからの新店オープン「やっぱり中本しか無いよ」
――そんな中、先代のお店が閉店してしまいます。閉店は突然のことだったのでしょうか?
いや、噂はありましたね。中本っていろいろうんちくを言いながら食べる人が多いんです。後輩連れてきて「まずはこれを頼めこれをこうしろ~」って言う人もいて。そういう人たちから聞こえてきてました。
実際、先代のおやじさんが1998年に店を畳んでしまった。そこから俺はどうしよう!! と困って、東京で辛いと評判のラーメン屋さん巡りをしました。でも、中本と同じように辛さをうたってるお店はあるんだけど、辛いだけとか、バランスが悪いとかで、中本と違うんだ。中本に代わるところは無かったんだよ。
で、「中本を継ぎたい」と思って、おやじさんに電話をかけた。当時の中本は一階が店、二階が住まいっていう昔ながらの中華料理屋で、店畳んだらおやじさんも引退して一軒家に造り変えるって聞いてたので、電話番号は同じだなと思って、幾度かかけてみたんです。おやじさんが年末に店畳んで、翌年の2月くらいかな。
電話をかけてみたらつながったので「ぜひともお会いしたいんです! お願いします!」って言った。あっちはもう俺の声で分かるよね。だって20年通ってたから。それで、「いいよ」って会ってくれた。
面と向かって、「俺自身こんなにはまったラーメン屋はありませんので、ぜひとも店を継がせてください!」って2時間くらい話して頭下げたかなぁ。「うんうん、うんうん」と熱く聞いてくれたんだけど、「うん、分かった。でもうちのラーメン屋はやめときな」ってあっさり断られてしまいました。「他のラーメン屋やんなよ。うちは大変だよ」と。
――会うところまでこぎつけたけれど、断られてしまったんですね。
今考えるとやっぱり調理に手間がかかるからというのもあるだろうし、中本は自分の代で閉めたかったらしいんです。おやじさんにはせがれもいたんだけど継がせる気は無くて、他の仕事をしてたので。で、先代は頑固なおやじさんだったんだよ。だからそういう風に言われてこれはダメだなと。
中本禁断症状が出てしまって、その後1、2カ月してまた電話しました。俺ももう3カ月くらい中本を食べてなかったから、「じゃあもう継ぐって話はいいです。食べさせてもらえませんか」と。
先代は「自分も好きで、家で食べる」って聞いてたので、絶対家でも作ってると思ったんです。だから「作ってる時でいいですから、俺の分も作ってもらえませんか。材料費も出しますから」って言ったら「そりゃああんたの分だけそういうわけにはいかないよ」って断られちゃった。正直ケチだな~、そのくらいいいじゃん! と思いましたよ(笑)。
とはいえ、断られたからガチャンって切るのも大人げないので、「じゃあラーメン屋ってどういうものなのか、ラーメン屋の話を教えてください」って言った。そうしたら「ああ、いいよ。酒飲めるか? 飲みに行こう」って返ってきてて、飲みに行くようになった。
何回か飲んでいるうちにまた色気が出てきて……。「これだけ親しくなったらいいんじゃないか、もう一回言ってみよう」と思って言ったらおやじさんは「う~ん……ちょっと考えてみる」という反応で、すぐ「NO」とは言われなかった。
次電話した時に「じゃあもう一回会うか」と言われて会って、「お前だったらいいよ」と許可がもらえたんです。もう、天にも昇るうれしさというか、人生の中でも相当うれしい瞬間だった。それから頭にあったのは、「ああ、また食べられる~~!!」って。自分で作れれば好きなだけ食べられるし、無くなっちゃったものが復活してくれるんですから。
――まさに「この世に無い」ってことですもんね。
そう。だから先代の店の閉店から1年ちょっと経った1店舗目の再オープンの時には、前の「中国料理 中本」から「蒙古タンメン中本」に名前は変えたけど、ものすごくお客さんが来ました。
――店名は先代がつけたものだと聞きました。
最初はかっこ悪いなって思ったけどね(笑)メニュー名が屋号なんだから……。寒い地方では生活の中に、辛い唐辛子料理が身体を暖めるためにある。っていうところから先代がメニューに蒙古ってつけたみたいです。先代は純粋な日本人ですが、メニューにも「蒙古」「樺太」「北極」とかを使っていた。あと、俺たちが若い頃は札幌味噌ラーメンも若干唐辛子が入ってました。ラーメンに唐辛子を入れるってアイデアは札幌からじゃないかなぁ。で、蒙古とか樺太、北極は札幌より北にあるから、もっと辛いという意味もあるようです。
――オープンの日のお客さんの反応はいかがでしたか?
すごかったですよ。泣いてる人もいて、握手してきてくれた人も何人もいた。「あんたが白根さん? 復活させてくれたんだってね、ありがとう! 今日、食べられたよ!」って。そんな風に言われたらこっちもウルウルしちゃうよね。
――その方々にとっては「二度と食べられない」ものだったと考えると、喜びもひとしおだったのではないでしょうか。
そう、俺と同じことを思ってた人が何人もいたみたいです。「他も行ったんだけど、やっぱり中本しか無いよ」って、何人も握手された。今でもいますよ。「あなたがいなかったらね、俺らがこうやって食べることもできなかったんだもんね」って。そう言われると。いやいや俺もそうだったんですよ! って思っちゃう。
――先代の時から通っているお客さんが今も来ているんですね。
親子三代のお客さんもいるんです。先代が32年、俺が15年で都合47年くらいやってるからね。祖父、息子、お孫さんで来て「親子三代で中本来てるよ~。俺、あんたより古いよ!」って自慢されたりする(笑)。俺自身は先代がやってた30年中の20年通ってたんだけど、それよりもっと前から行ってたって。
――オープン日には行列もできていたとか。
100人くらい並んでましたね。しかも、朝から晩まで行列が絶えないから、「えらいもの継いじゃったな~こんなすごいんだ。俺や、俺らでやっていけるのかな」って、正直な話、俺が一番焦りました。「これが毎日続くんだ……」ってプレッシャーを感じた。
――店舗の漫画で拝見したんですが、シャッターにオープン情報を書かれたんですよね?
告知するお金も無いから、借りた店のシャッターに「中本復活! 2月中旬!」ってスプレーで殴り書きしたんです(笑)。まだインターネットも今みたいに普及していなかったから、それも宣伝になったみたい。あとは立て看板と、ハガキを出したかな。それで、人伝いに口コミで広がっていったようで、朝から行列が続いてた。それが今までつながっている。
本当にお客さんあっての商売。食べていただけるというのはありがたいことだから、お客様方々に感謝の気持ちを忘れず、味と接客でお客様に返そう! と、中本の会議の場では常々言ってます。
前編では、先代の中本に通っていた時代から、復活に至る経緯までを詳しく語ってもらった。次回中編では、実際にラーメンを作る際の「辛うま」を作り出すための調理工程や使用する唐辛子について、また現在セブン&アイ・ホールディングス・日清と製造し、販売しているカップめんについての開発秘話を聞いていく。