奥様はコマガール (40) 阪神ファンの夫と巨人ファンの妻
だからこそ、山田家のテレビには当然のように阪神戦の中継(CS放送)が映っていることが多く、それについて妻のチーの顔色をうかがうこともしばしばだ。
何を隠そう、チーは子供のころから巨人ファンだからである。
阪神ファンの男と巨人ファンの女。
球界でもっともライバル視されている双方の伝統球団のファンに分かれた、一見相容れそうもない2人が、ひょんなことから出会い、結婚までしてしまった。
傍から見たら、一触即発の緊迫状態をイメージするのではないか。
しかし、これが意外にそうでもないから、男と女はおもしろい。
僕は父親と姉が巨人ファンという家庭の中で、なぜか自分だけ阪神ファンになった男であるため、身近に巨人ファンがいる状態にすっかり慣れており、おまけに極度のアンチ巨人というわけでもない。
阪神ファンである前に、プロ野球ファンなのだ。
そういう意味では、父親と姉が巨人ファンという家庭の中で育ったチーのほうが、盲信的な巨人ファンになりそうだ。
実際、子供のころは桑田真澄のファンで、その後も高橋由伸や二岡智宏など、巨人の歴代のスタープレーヤーを順当に応援してきたらしいが、そこは何事も年長者に従順な生粋の次女体質(犬体質とも呼ぶ)である。
7歳上の僕と結婚して以降、テレビに阪神戦が映る環境に徐々に染まってきたのか、最近では阪神が勝利した瞬間、僕と一緒に喜ぶことも増えてきた。
阪神ファン化が進んでいるのかもしれない。
だから、僕らはいわゆる阪神・巨人論争で揉めることがない。
2人で阪神・巨人戦を球場観戦するときは、僕の希望で阪神側に陣取るのが通例なのだが、チーは特に抵抗することなく、平気な顔で席に座っている。
いやはや、そのへんは本当に楽な女性だ。
とはいえ、チーの体には幼少期から育まれた巨人ファンの血液が根強く流れているのだろう。
以前、東京ドームの阪神・巨人戦を観に行ったとき、特にそう思ったのである。
その日の試合は、序盤から巨人が阪神を圧倒的にリードする展開だったため、東京ドームの阪神側スタンドに陣取る数万人の阪神ファンは一様に意気消沈しており、暗いムードが漂っていた。中には口汚い罵声を飛ばすガラの悪いファン(こういう阪神ファンは嫌いです)もおり、実際いくつかのメガホンがグラウンドに投げ込まれていた。
そんな中、僕の隣のチーだけが、あろうことか無邪気に喜びを爆発させたのだ。
「わー、やったー! さすが由伸ー! 」。
当然、周囲の阪神ファンの視線が一斉に集まった。
しかし、チーはそれに気づいていないのか、どこまでもヘラヘラした顔で「巨人、強いねー! 」と僕に話しかけてくる。
あわわわ、あわわわ。
僕は一気に狼狽した。
チーさん、それはさすがにやばいって。
いくらなんでも場違いすぎる。
こんなガラの悪い阪神ファンがたくさんいる中で、彼らの神経をむやみ逆撫でするような巨人ファン発言は、ほとんど自殺行為だ。
おそるおそる周りに視線を配った。
すると、数人の阪神ファンが怪訝そうな表情で、僕を睨んでいた。
きっと彼らは僕のことも巨人ファンだと思ったのだろう。
チーが「巨人、強いねー」などと嬉しそうに同意を求めてくるからだ。
普段、僕は球場で野球観戦をするとき、阪神の帽子をかぶったり、レプリカユニフォームなどを纏ったりしない主義だ。
メガホンすら一度も買ったことがなく、いつも普段着のまま席に座ることにしている(立って応援するのも嫌い)。
といっても、そこに何か深いポリシーがあるわけではなく、単純にグッズ類には興味がない淡白な性格なのだ。
したがって、傍から見たら阪神ファンだと思われにくいのだろう。
僕のことを睨みつけた阪神ファンの方々も、外見で自分たちの仲間だと判断できなかったため、チーの巨人応援発言に過剰反応を示したのではないか。
それを証拠に、周囲の観客はみんな阪神のレプリカユニフォームを纏っており、僕1人だけが完全に浮いた状態だ。
そうなのだ。
僕1人だけが浮いている、すなわちチーは意外に浮いていないということだ。
それもそのはず、チーは本来は巨人ファンのくせに、場の空気に染まったのか、球場の売店で阪神グッズ(虎耳が付いたカチューシャ)を購入しており、試合開始から迷わずそれを装着。
だから周囲の観客は、チーを阪神ファンだと信じて疑わないわけだ。
そう考えると、みるみる恐ろしくなった。
ということは、きっとあれだ。さっきの巨人応援発言は、阪神ファンの女(虎耳カチューシャのチー)から巨人ファンの男(普段着の僕)に向けられたものだと解釈されたのだろう。
つまり、発言を意訳すると「やったー! さすが由伸ー! 」は「やったね、あなたの好きな由伸が打ったよ」、「巨人、強いねー! 」は「巨人が強くて良かったね」という意味になる。
うーん、ありえますね。
果たして僕は身の危険を感じ、試合終了を待たないうちに、チーの手を引いて観客席から退散した。
背中に冷ややかな視線が容赦なく突き刺さり、心臓が早鐘を打つ。
今度、野球を観に行くときは阪神・巨人戦以外にしようと思った、恐怖体験である。
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