奥様はコマガール (57) 専業主婦になることの罪悪感と日本人の国民性
妻のチーがそれまで勤めていた会社を円満退職したのだ。
直接的な退職理由は、今春以降のチーがどういうわけか体調を崩すことが多くなったからだ。
月に数回のペースで発熱に悩まされ、仕事と家事の双方ともが疎かになりがちだったため、家族会議の結果、ここらへんで仕事をやめて体調管理を優先しよう、すなわち生活リズムを改めようということになった。
なお、今のところチーが新たな別の仕事を始める予定はない。
要するに、これにてチーはいわゆる専業主婦になるということである。
もともと、僕らの中では以前からその予定だった。
近い将来、子供だって欲しいことを考えると、いずれはチーに家庭中心の生活を送ってもらいたい。
チー自身もそれを望んでいたため、今回の件がちょうどいいきっかけとタイミングになったわけだ。
金銭的には確かに痛い。
これからはチーの給料分がなくなるということを踏まえたうえで、最低限の生活ができるよう金策に励まなくてはならない。
もちろん、それは僕の仕事である。
チーに対しては「金ならなんとかなる」とは言わなかったが、「金ならなんとかする」とは言った。
いささか見切り発車な感じもするが、今はチーの体調優先だ。
かくして7月以降の山田家は、世間で言うところの夫婦共働きではなくなった。
チーは専業主婦として家事に勤しみ、僕は執筆業を中心に、そこから派生した様々な仕事に励んでいる。
これによってチーの精神的負担もずいぶん軽くなることだろう。
と思いきや、実際はそうでもなかった。
会社を辞めた当初のチーは、それまで何年間にもわたって当たり前のように継続していた「仕事をして給料をもらう」という生活がパタッと終わったことに対する奇妙な違和感を覚え、どうにも気持ちが落ち着かなかったという。
仕事をしていない自分に、ある種の罪悪感があったのかもしれない。
また、会社を辞めるときに、それまで共に机を並べてきた同僚女子や、その他の女友達から「いいなあ、専業主婦。
わたしも楽になりたーい」などといった羨望の言葉をかけられたことも、チーの中の罪悪感を微妙に刺激したのだろう。専業主婦は世間一般から気楽な存在だと認識されていることに気づき、心がモヤモヤしたらしいのだ。
これはまさに勤勉と評される日本人の性である。
もちろん個人差はあるものの、一般的に多くの日本人は、世界的に見ると非常に真面目で働き者だとされている。
大昔から質素倹約、節度節制、禁欲、勤勉というストイックな精神を美徳としてきた歴史があり、「働かざるもの食うべからず」をモットーに驚異的なスピードで戦後復興を果たした誇りが、日本人のDNAには刻まれているのだろう。
日本人は働くことが好きなのではなく、楽をしながら怠惰に気ままに暮らすことを、笑って肯定できない国民なのだ。
それを証拠に、宝くじにまつわる興味深いエピソードがある。
某調査機関が「もし宝くじで数億円当たったらどうする? 」というアンケートを日本で行ったところ、第1位は「家を購入する」で、実に半数以上もの割合を占めたという。
その他には「貯金する」「世界一周する」「別荘を買う」といった回答が目立ち、男性に限って言えば「会社(店)をおこす」という回答も少なくなかったらしい。
一方、同じアンケートを欧米でも行ってみたところ、第1位は80%以上もの圧倒的な割合で「仕事をやめてのんびり暮らす」だったとか。
欧米の人々にとって働くということはあくまで金銭を得るための手段でしかなく、その金銭が手に入るのなら、わざわざ働く必要はないということだ。
家よりも世界一周よりも、まずは仕事をやめる。
悠々自適に楽をして生きていくということは彼らの憧れであり、決して罪悪感を覚えることではない。
彼らにしてみれば、「会社(店)をおこす」と答えた日本人男性はアンビリバボーな存在だろう。
大金を手にしてなおも働こうとするとは、まさに東洋の神秘である。
話を戻すと、そんな東洋の神秘、あるいは勤勉のDNAがチーの潜在意識にも横たわっており、だから会社をやめた自分にこそばゆさを感じてしまう。
ビバ、日本人だ。
だから僕は、チーに「専業主婦は立派な職業だ」と話すようにしている。
実際、そうだろう。
よく考えてみると、チーは会社をやめたことで仕事をしなくなったのではなく、家庭を守るという仕事に専念できるようになっただけだ。
プロスポーツ選手が体調管理も仕事のうちだと主張するように、いずれ出産を目指している若奥様にとっては母体の健康を促進することも立派な仕事の1つだ。ましてや出産してからの育児に至っては、男女問わず、すべての人間にとって最大級に尊い仕事だと言えなくもない。
要するに、結婚によって会社をやめた女性のほとんどは、仕事をしなくなったのではなく、専業主婦という別の仕事に転職したということなのだ。
その転職先がハードなのか否か、報酬(夫の稼ぎのうちの生活費)が高いのか安いのか、そのへんは各家庭によってばらつきがあるだろうが、少なくとも離職ではなく転職なのは間違いない。
そういう解釈をすることで、今後のチーの精神衛生が保たれるなら、それもまた良しである。
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