昭和の残像 鉄道懐古写真 (60) 全国のふるさとを駆け抜けた蒸気機関車D51
今回は「デコイチ」「デゴイチ」の愛称で知られる国鉄の代表的な蒸気機関車、D51の写真を紹介します。
まずは山陰本線東萩駅で撮影したD51から。
D51はおもに貨物用として、1936年から製造が開始されました。
第2次大戦中に大量生産されたこともあり、機関車1形式として最多の1,115両が登場しました。
このため全国各地で活躍し、国鉄を代表する蒸気機関車となったのです。
ちなみにこの「機関車1形式で1,115両」という記録は、現在も破られていません。
D51を含む国鉄のSL(蒸気機関車)は、国鉄が1960年から15年計画で実行した「動力近代化計画」によるディーゼル化・電化が進む中、1970年代に入ると急速に淘汰され、全国各地から次々と姿を消していきました。
これに際し、SLの煙から解放されることを意味する「無煙化」という言葉も使用されました。
山陰本線下関口のD51も、写真1~3を撮影してから8カ月後の1974年11月に引退。
この引退で本州最後のSLが消え、残るは北海道と九州のみとなりました。
翌1975年12月、SL最後の活躍地となった北海道で、D51とC57が定期列車の牽引から引退。
そして1975年度末の3月、貨物の入換用として、国鉄線上に最後まで残っていた9600形が引退し、「完全無煙化」が達成されました。
続いては鹿児島本線(筑豊本線)原田駅で撮影したD51。
鹿児島本線と筑豊本線が接続する同駅では、当時、1日わずか数本ながら、筑豊本線のSLが牽引する貨物列車と普通列車が原田駅に顔を出していました。
その貨物列車をとらえたのが下の写真です。
終戦直後の筑豊本線は、筑豊炭田からの石炭輸送を担った重要路線で、直方を中心に数多くのSL牽引の石炭列車や旅客列車が行き交っていました。
しかし、1960年代から1970年前半にかけて、エネルギー革命のあおりを受け、筑豊炭田にあった多数の炭鉱が急速に衰退して閉山が相次ぎ、石炭列車も次第に減少していきます。1970年代には無煙化も進み、1974年6月、筑豊本線のSLは引退となりました。
最後に、別の日に撮影した原田駅のD51も紹介しましょう。
当時、筆者はまだ小学生。
ぎりぎり撮影できた現役のSLたちは、この撮影の後、次々と姿を消してしまいました。
その後、SLを撮影できたのは1回きり。
1980年6月に横浜開港120周年イベントで走行したC58でした。
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