【ファッションの“未来”たちに聞く】オンナノコらしさとクールが混じりあう温度感--デザイナー青木明子--1/2
Photo by Kazan Yamamoto (c) FASHION HEADLINE
毎シーズンのテーマを超えて、常に「オンナノコらしさ」が見え隠れするのが魅力のファッションブランド、アキコアオキ(AKIKO AOKI)。そのクリエーションはどんなところから来たのだろうか。彼女がアトリエを構える台東区デザイナーズヴィレッジでデザイナー青木明子に訊いた。ーー都心のど真ん中がご実家と伺っています。どんな子ども時代でしたか?私が小さかった頃は、お花屋さんや、近所の駐車場のガードマンの方に、毎日学校に行くときには「おはようございます」と挨拶するような感じでしたね。帰って来たときも挨拶してくれて、すごくフレンドリーで、近所の付き合いがまだ結構あったような気がします。マンションも少なかったですし、高層ビルもありませんでした。ひとりっこでしたので一人遊びが得意だった気がします。
活発で、髪も短くて「僕、大丈夫?」なんてよく男の子に間違えられたりもしたようです(笑)。ーー意外ですね。1980年代後半というと、いわゆるバブル期ですね?そうですね、バブル、若干下降気味なときです。家の周りは場所柄、外国の方は多かったです。近所に教会があって、ハーフの子とかが来ていました。私自身も毎週、日曜学校に通っていました。聖劇やミサなどもあり、いろんな国籍の同い年くらいの子供や、その親御さんと話していました。日本語でですが(笑)ーーインターナショナルですね。
幼稚園から高校までミッション系の学校に通っていたんですが、日曜学校に行っていたのもその影響はあると思います。ーー大学は女子美だから、ずーっと女子校?!そうなんです。ロンドンのセントマーチンズだけが唯一共学なんですけど、「やっと共学」と思ったら、男子がほぼゲイでした(笑)。「あれ?なんかエレガントだな、かわいいな」みたいな(笑)。ーー子どもの頃は男の子みたいだったということですが、どのへんから変わっていったんでしょう?今でも本質的にはそんなに変わった実感は実はありません。幼稚園の時はピンクという色が好きではありませんでした。周りの子たちは、みんなピンクや赤をチョイスしていた中、1人で青をチョイスする子でした。今でこそ、コレクションでいろいろな色は使いますが、根本の部分では温度感でいうとちょっと冷たい感じが好きです。
AKIKO AOKI 16SS コレクションーーなるほど。そのどことなくクールな感じは青木さんのコレクションにいつも滲み出ていますね。いつ頃からファッションに目覚めたんでしょう?たぶん、ファッションを意識したのは「着ていく洋服を自分で選びたい」という自我が目覚め始めた幼稚園の頃からだと思います。ーー早いですね。学校がとても厳しくて、学校内での装いはかなり規制がありました。なので、私服で自分を表現する時間がたのしかったです。両親はそこまで「あれがダメ、これがダメ」ということはなかったのですが、校則を破って親が呼び出されるとなると子どもながらに、悪いなって思うじゃないですか。自分のせいで親が呼び出されて、親が学校からシリアスに怒られてしまうので(笑)。
小さな子どもにとって、それはちょっと深刻でした。今となってはかわいい内容だと思うのですが(笑)。ーー学校に行ってる時は全部規定通りにしていた?そうですね。幼稚園では、ティッシュの種類まで決められていたんですよ(笑)普通のポケットティッシュの半分くらいの小さなティッシュがあったんです。バラの絵みたいのがデザインされてて。ーーあら、かわいいですね。かわいいですけど、ちっちゃくて、3枚ぐらいしか入っていなかったような(笑)。ーー少ない!それ、商品化してもいいかも?(笑)今でもあるのかな?今は校則はだいぶ緩くなっているみたいですが、当時は厳しかったです。
それに、規則を破った格好で街中にいると通報する卒業生とかもいたので、朝礼で先生に「名乗り出なさい」と言われたり(笑)。今では、特殊な環境だったんだなと思いますけど、その当時はまだ幼くて他の世界もなかなか無いですし、それが全てでした。ーー常に見られていること前提という環境だったんですね。でも、学校の方針としては、「規律正しく」とか、「守りなさい」、「そこから生み出されるなんとかの精神性」とかがあるわけですものね。はい。「良心」とか「清く正しく美しく」という校訓でした。それが理由かはわかりませんが、同級生はかなり高い割合で、当時に自分がなりたかった職業について仕事をしています。お医者さんやテレビ局のAD、アナウンサーや芸能人まで、女子にしてはかなり独立している子が多いい気がします。
ただ、美術系に進学する子は少なくて、学年で私を入れて3人だけでした。みんなが日本史や数学を机に向かって必死にやってる時間、私たちはイーゼルに向かってデッサンを必死にやっていました(笑)ーー美大を目指したきっかけはどんなことだったんですか? 小学生の時から絵を描くのが好きでしたし、実は、小さい頃から将来の夢は「ファッションデザイナー」だったんです。あとは哲学者、心理学者というのもありました。たぶん校則もそうですが、何かに押さえつけられている現実やあらゆる現象に対して「なぜ?」と思うことが多かったのかもしれません。「なんでそうなのかな?」と、「人ってどうしてこうなのかな?」を考えることが好きだったんです。進路を決める時に、ファッションをやりたい、でも、ファッションの専門学校のようにオブジェクトにフォーカスするタイプではないだろうなと考えました。それで、バックグラウンドやコンセプトがあるファッション表現ができる美大を探して女子美術大学に進学することに決めました。先輩にはデザイナーの宇津木エリさんや、野田凪さんなど、ファッションの要素があるクリエーターの方が多いと感じていました。
ーー当時憧れていたデザイナーさんとか影響を受けた方はどなたですか?高校の時、ジョン・ガリアーノのDiorのコレクションを見て圧倒されました。美大に入りたての19歳の時は、六本木ミッドタウンの21_21 DESIGN SIGHTで山縣(良和)さんや坂部(三樹郎)さんの作品を見たのも影響を受けていると思います。ーー2007年にJFWの一環で企画された「ヨーロッパで出会った新人たち」展ですね。山縣さん坂部さんとの出会いはそちらですか?いえ、その少し前です。当時、女子美で教えていらっしゃった安達(市三)先生が運営している「コルクルーム」というファッションの私塾があるんですが、定期的にトークイベントをやっていました。留学したい気持ちが当時からあったので、安達先生に相談したところ、当時のイッセイミヤケの太田伸之さんのトークイベントがあり、海外で勉強してきた若いデザイナーたちも来るから来てみたら?と誘っていただきました。それに参加した時に、坂部さんも山縣さんもいらっしゃったのです。「ここのがっこう」もまだない時期で、writtenafterwardsの1stコレクションの前です。その時に「今度、僕たちこういうことをやるんだよね」というお話を聞き、writtenafterwardsのファーストコレクションの制作をお手伝いしたのがきっかけです。ーーなるほど。安達先生がキーパーソンだったんですね。はい。安達先生は、本当にいろいろ相談に乗ってくださって、学校以外の外の世界へのネットワークを広げてくださいました。今でも毎回コレクションを見に来てくださり、いろいろアドバイスも下さいます。【ファッションの“未来”たちに聞く】セントマーチンズで学んだゴミがawesomeに変わる瞬間--青木明子--2/2」に続く。
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