【ファッションの“未来”たちに聞く】ルーツを辿って行き着いた“オカン”と二人三脚で作るファッション--デザイナー村上亮太 1/2
日本のファッションの未来を担うであろう若き才能たちに迫る連載、「ファッションの”未来”に聞く」。第3回となる今回は、リョウタ ムラカミ(RYOTA MURAKAMI)のデザイナーである村上亮太に話を訊く。上田安子服飾専門学校を卒業後、「リトゥンアフターワーズ(writtenafterwards)」でアシスタントを務めながら、「ここのがっこう」へ通う。実の母親と共同で手掛けた卒業制作が欧州最大のファッションコンテスト「ITS」にノミネートされ、注目を集める。でんぱ組.incへの衣装提供や、VOGUE ITALIAが主催したイタリアの百貨店「リナシェンテ」のウィンドウを手掛けるなど、活動は多岐に渡る。今回のインタビューは、母親が描いたデザイン画が展示された「村上千明の絵画展」の会期中、阿佐ヶ谷のTAV GALLERYにて敢行。在廊中の村上を訪ねた。ーーこの連載でみなさんに最初にお聞きしている質問です。
ファッションに興味を持ったのはいつ頃でしょうか。幼い頃は母親が作った服を着ていました。リボンがついている、女の子が着るようなセーターみたいなものです。それまでは、自分の服装を意識したことはなかったんですが、ちょうど小学3年生の時に引越しをしたんです。新しい学校に行くわけですが、そこで初めて「村上クンの服なんなの?」って違和感を持たれて(笑)。転校して不安な時期だったこともあって、いじられたことに対して、すごくショックを受けました。それから半間ぐらい不登校になりました。その時に初めて、自分が着ているものを意識すると感情が生まれました。
同時に、母親を馬鹿にされたような気持ちになって、すごく傷付きました。デザイナー村上亮太さんと母・村上千明さんーー着ている服一つで不登校になる程いじられるって、子供は残酷ですね。お母さんには言い出しにくかったのでは?そうなんですよ。でも、ずっと聞かれていたので、ついに告白したら、母親も「ごめんね」と、必死に謝られて。この後近くのスーパーで、みんなと同じような服をいっぱい買ってきてくれました。でもそれもまたなんかズレてるんです。プーマの偽物みたいな服でした(笑)。でも結局その新しい服を着て、また学校に通うようになりました。
それから母親は服を作らなくなったし、僕も自然とそういうことがあったことを徐々に忘れていきました。ーーデザイナーへのなろうという想いはどの辺りでお持ちになりました?はじめは人と同じ格好がしたいから洋服に興味を持ち、その延長で中学、高校くらいから漠然とファッションの仕事がしたいと思うようになりました。高校2年生くらいの時に、雑誌の「マルジェラ特集」をたまたま古本屋で発見して、ファッションってこんなこともできるんだと、純粋に感動しました。それからデザイナーという職業への憧れがどんどん強くなっていきました。ーー上田安子服飾専門学校を卒業後は「リトゥンアフターワーズ(writtenafterwards)」でアシスタントを経験されていますね。インターンという形で勉強させてもらいながら、「ここのがっこう」に通いました。ーー「ここのがっこう」を選んだ理由は?もともと存在は知っていました。卒業者が海外のコンペでグランプリを獲ったり、上京前から興味は持っていました。
それ以上にリトゥンアフターワーズの山縣さんがやっている学校というのがなによりの魅力でした。高校生の頃、装苑の記事で初めて山縣さんの作品を見た時、「ビッグブラ(the big bra)」が紹介されていて。これを言うのはとても恥ずかしいんですけど、その時、「絶対にこのデザイナーに負けたくない」って思った事を覚えています。そこから毎シーズン、リトゥンアフターワーズのコレクションが楽しみで、上京後はアシスタントを経験させていただきました。リトゥンアフターワーズでのコレクション製作では、最後の最後まで服と向き合い、土壇場で今までやってきたものをひっくり返す事などもしょっちゅうありました。デザインのテクニックや物の見せ方などはもちろんなんですが、それ以上にファッションへの情熱、クリエーションに対する純粋な姿勢を学びました。ーーそれで、どのタイミングで母親(通称「おかん」)が出てくるんですか?ここのがっこうの卒業制作を作るにあたり、自分のルーツを探るところから始めるんです。他の人と自分にどういう違いがあるかって考えた結果、幼い頃に母親が作っていた服を着ていたっていうのは。
特別かもと思い至って。実際、ディスカッションの際に打ち明けたらみんなが驚いてくれたので、「あ、ここに違いがあるんだ」って気付くことができました。「ここのがっこう」では、最終的に海外のコンペにチャレンジするというひとつの目標がありました。みんなコツコツ作業を進めて行くんですけど、1年の学期のうち、10か月間くらい何もできなかった。あと2か月ぐらいしかない状況でも、うだつの上がらない状態が続いていて、それでどうしようもなくなって、母親にダメモトで、デザイン画を描いてくれって連絡したのが、はじまりでした。ーーそのデザイン画が入っているダンボールを、学校でみんながいる前で開けたらしいですね。このエピソードが村上さんらしさなのかなと思います。いや、とても嫌でしたよ(笑)。
でももうその時は、それを見せるしかないってぐらいに追い込まれていたんで…。そこで勇気を出して見せたら、割とクラスのみんなから共感をもらえました。今でも母親のデザイン画を見せるのは、正直恥ずかしいです。堂々と飾っているように見えるんですが(笑)。一方で、母親が描いたもの、母親が作ったものを、幼い時に馬鹿にされていたものを今改めて評価してもらいたいという気持ちもあります。阿佐ヶ谷TAV GALLERYで開催された「村上千明の絵画展」ーー吉田(圭祐)さん(KEISUKE YOSHIDAデザイナー)もそうだったんですけど、「恥ずかしい部分をさらけ出す」ことが新しいアプローチなのかなと。恥ずかしい部分をさらけ出すことによって、少なからず共感してくれる人がいると思います。デザイナー自身が生きていく場所を探る事で、新しい場が生まれる可能性や共感が生まれる事があると思います。
それと同時にブランドストーリー内での共感をどうファッションの価値観へと変えていけるかが今後は必要だと思っています。【ファッションの“未来”たちに聞く】世界をちょっとだけ、でも確実に、ハッピーにするファッションを デザイナー村上亮太--2/2に続く。
Photo by Kazan Yamamoto (c) FASHION HEADLINE
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