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ファッションデザイナー髙田賢三が語る成功と失敗、そしてこれから【INTERVIEW】

FASHION HEADLINE
デザイナー髙田賢三氏の自伝『夢の回想録』(日本経済新聞出版社)が発売された。デザイナーとしての活動から、私生活、恋愛、LVMH モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトンによる買収劇や「ケンゾー(KENZO)」ブランドからの舞台裏までを明かしたもの。山本耀司氏のインタビューやコシノジュンコ氏との対談なども加えている。4月10日には東京・千代田区のパレスホテル東京で出版を祝う会も開催された。

70年代前半から80年代前半までパリコレクションの人気ランキングのトップを守り続け、「ケンゾー」ブランドで生み出したデザインとスタイルが今もファッションに強い影響を与え続けている高田賢三氏。自伝で伝えたかったことや成功の理由、今のファッションとパリコレクション、これからやりたいことなどについて聞いた。

FASHION HEADLINE(以下、FH): 自伝『夢の回想録』が日本経済新聞出版社から発売されましたが、自伝を出されたきっかけは?

高田賢三氏(以下、高田): 2016年12月に日本経済新聞朝刊で連載された『私の履歴書』がきっかけになりました。

FH: 書籍化にあたり、かなり加筆したということですが。


髙田: 基本的には『私の履歴書』と同じですが、『私の履歴書』ではファッションの話があまり出ていなかったので、例えば、80年代のファッションについての部分やニューヨーク、ロンドンの話、更に自分のプライベートな話なども加えました。また、『私の履歴書』は新聞の連載で、1回の文字数なども決まっていますから、最初の連載で削除されてしまった人の名前なども追加しています。

FH: プライベートな話ということが出ましたが、今回の本では人生の伴侶となる人との出会いと別れ、LVMHによる買収、自己破産など、プライベートな部分についてもかなり率直に書いていますね。

髙田: もちろん、100パーセントすべてではありませんが、90パーセントくらいは書いてあります。どこまで言っていいのか、随分迷いました。僕自身、今もあれでよかったのか、よくわかりませんが、もう書いてしまったものですし、自伝であり回想録であるということで覚悟を決めました。

FH: 日本経済新聞朝刊の連載は、どちらかと言えば経営者やビジネスマンなど男性の読者が中心になると思いますが、書籍になるとファッションデザイナーや若い女性、学生などたくさんの人が読むことになります。賢三さん自身はどのように読んで欲しいと思っていますか?

髙田: 僕がしてしまった失敗を読んでもらうことで同じような失敗をしないようにするなど、読む人のこれからに役立ててもらえれば嬉しいですね。
また、僕自身、若いときから夢を持って冒険をしてきたことが今につながっているので、そうしたことも読んで欲しいと思っています。

FH: 失敗ということについては、どうすればよかったと思っていますか?

髙田: 70年代はビジネスのことはほとんど考えず、ファッションショーや服のデザインのことばかり考えていました。それだけではまずいと思いましたし、共同で経営の部分をやってもらっていた人とも別れてしまいました。それが、80年代に入ると、経営者も変わり、逆にビジネスが中心になってしまいました。僕自身はクリエーションに集中して、経営は人に任せきりにしてしまっていましたが、当時、その先のことや経営のことなどもよく考えて、クリエーションとビジネスを両立することができるような体制の会社にすることができていればよかったと思います。また、持ち株をLVMH モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトンにブランドを売ってしまったことも後悔しています。僕自身すごく軽はずみだったと思っています。

FH: 『時代の波』というページの部分で1973年春夏コレクションに「ジュルナル・ド・テキスチル」の人気ランキングで首位になり、83年くらいまで上位3位以内に入っていたのが、80年代後半から一気に順位が急落する話が出てきます。


髙田: 人気ランキングについては僕自身はほとんど気にしていませんでしたが、1位が2位、3位となってくると気になりはじめますし、会社のみんなも気にしてくる。もちろん、刺激にはなりましたが、やはり83年以降どんどん順位が落ちていくのは厳しかったです。自分自身、コレクションのクリエーションがどんどんなくなり、ビジネスが中心になっていることはわかっていました。70年代にはコレクションだけに集中しすぎて、ショーを見ていいと思った編集者に「この服を撮影で使いたい。どこで買うことができますか」と聞かれても実際には販売していない服も多かったことを批判されていました。それが、80年代にはジャーナリストたちから「ビジネスだけでなく、コレクションでももっとおもしろい服を作って欲しい」と言われていました。
FH: 共同経営者との衝突などについても書いていますが、クリエーターが1人でデザインとビジネスを両立させることは難しい。いいパートナーが必要ですね。


髙田: デザイナーにとってパートナーはすごく大切です。あの当時はあまり考えていませんでしたが、イヴ・サンローランにピエール・ベルジェがいたことはすごくうらやましいと思います。サンローラン美術館に行くとわかりますが、ベルジェはサンローランの最初のコレクションからほとんどすべての資料を保存しています。経営面だけでなくクリエーションもサポートしてくれるような素晴らしいパートナーがいてくれるというのはすごいことだと思います。以前は僕の所にも資料などもきちんと管理してくれる近藤淳子さんという女性がいました。共同経営者でありクリエーションも管理してくれるパートナーと一緒に仕事をすることはすごく大切なことだと思います。やっぱり、デザイナーが1人でできることは限られていますからね。

FH: 一方、ファッションデザイナーとして成功できた理由については?

髙田: 高校生の頃から自分のやりたいことがわかっていたので、パリに行くなど、冒険心を持ってやりたいことに邁進してきたことがよかったと思います。


-- 次のページは高田賢三が思う、今のケンゾー。そして最近のパリコレクションについて

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FH: 若い人たちにとっては当時のケンゾーブランドのコレクションやファッションショーは伝説といえるかもしれません。

髙田: 僕のコレクションが「ジュルナル・ド・テキスチル」の人気ランキングで首位になったのは1973年ですから、40年前、いや、もう50年近く前ということになりますからね。

FH: 最近、ケンゾーでも山口小夜子さんなどをイメージしたコレクションが出ていますし、コム デ ギャルソンやヨウジヤマモトの80年代のコレクションもヴィンテージや復刻として登場していますし、展覧会やコレクションをまとめたデザイナーの本も出ています。また、ここ数シーズン、そのブランドが発表していたコレクションやアイコンを現代に蘇らせることでよりそのブランドらしさを表現したコレクションも目立ちます。最近のファッションについてはどう見ていますか?

髙田: ケンゾーのコレクションは昔のアーカイブだったのでしょう。ファッションは繰り返すものですが、彼らが僕のことを考えてくれたようで嬉しかったです。ただ、ファッションはどんどん進化しています。
服はもちろんですが、ファッションビジネスやコレクションを伝えるメディアがすごく進化していますし、時代の展開がすごく早いと思います。そういう意味で、ファッションはすごい仕事だなと改めて感じています。僕たちがコレクションをスタートした70年代にはファッションは遊びのようなものに見られていましたが、今、ファッションはカルチャーであると同時に巨大なビジネスになっています。今後は更にライフスタイルに溶け込んで、生活の大きなポイントになっていくと思っています。

FH: 賢三さんがコレクションを発表していた頃はまだインターネットもなく、コレクション情報もコレクションの数ヶ月後に雑誌やテレビで見るという状況でした。その一方で、パリコレクションは夢であり憧れであったような気がします。当時と比べてスペクタクルなショーもなくなりました。発表されるルックの点数やショーの時間も少なくなり、10分で終わるパリコレクションをビジネス拡大のひとつの方法というデザイナーもいます。
賢三さんは先日、パリのバレ・ド・トーキョーで行われたジュンコ シマダ2018-19年秋冬のにもいらっしゃいましたし、以前はケンゾーのコレクションなどでもお見かけしましたが、現在のパリコレクションをどう思いますか?

髙田: 僕たちの頃と比べると、今のデザイナーは大変だと思います。たくさんのデザイナーやブランドがありますし、コレクションの数も多い。その中でコレクションやクリエーションを評価され、ビジネスでも成功するのは大変なことです。また、服の作り方も変わってしまいましたし、進化もしています。

FH: ファッションデザイナーとして成功するために必要なことは何だと思いますか?

髙田:デザイナーとしてのある程度の才能と好奇心。そして、「その時代に乗る」ということも大切です。僕はその時代に乗ったと思っています。当時、68年の五月革命でファッションが変わり、パリがロンドンに押されて、パリのコレクションに勢いが無くなる一方で、プレタポルテのドロテビスやソニア リキエルが登場するなど時代が新しいファッションやデザイナーを待っていた。僕はそういう時代に乗ることができました。もしも、パリに行くのが2~3年違っていたら、結果は違うものになっていたかもしれません。僕は日本に帰ってきて着物の生地や平面裁断なども取り入れましたが、当時はそれが新鮮に見え、僕の特徴のひとつになりました。FH: もし今、賢三さんが10代、20代の若者だとしたら、ファッションデザイナーを目指しますか?

髙田: もう1度やり直せるとしたら、ということですか。やっぱり、ファッションが好きなのでファッションの仕事をやると思います。やったことはありませんが、建築やインテリアにも憧れます。いずれにしても、絶対に経営や政治の世界には行かないと思いますから、ファッションや建築、インテリアなど、デザインの仕事を目指していると思います。

FH: ケンゾーを離れてからも様々な仕事を続けています。2016年にもセブン&アイ・ホールディングスのスペシャルゲストデザイナーとして、期間限定コレクション「セットプルミエ バイ ケンゾー タカダ」を手掛けました。

高田: あの仕事は大変でした。素材1つをとっても毎回触って、いろいろなものを見ていなければいけないし、服も毎シーズン作り続けていかないといけないと思いました。実際に仕事に入ってしまってからは、面白かったのですが、ファッションデザイナーという仕事は毎シーズン続けていなければ難しいと改めて感じました。

FH: 本の前書きでは、2017年に大病から快復して本格的なビジネスを再開したタイミングも自伝を出そうと思ったきっかけだと書いてありました。今後のデザイナーとしての活動についてはどのように考えていますか。

高田: 最近は服やファッションなども含めて仕事を減らすようにしています。ファッションはもちろん大好きですが、年齢などのことを考えても、元気でいられるうちに旅行をしたり絵を描いたり、自分の好きなことに時間を使いたいと考えています。

FH: ファッションデザイナーの仕事は減らしていくのですか?

髙田: わかりません(笑)。「セットプルミエ バイ ケンゾー タカダ」の仕事をしたときは久しぶりだったので厳しいと思いましたが、昨年、パリ装飾芸術美術館で行われたクリスチャン・ディオールの創業70周年を記念する大回顧展「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ展」で、トワルを集めた展示などを見たときにはあまりのすごさに「こんなにすごいアトリエだったら、もう1回やってみたい」と思ってしまいました。もちろん、一瞬だけですが(笑)。これからも自分の好きなこと、そのときにしたいことをしていきたいと思っています。

FH: 最近は頻繁に日本に戻られていますね。髙田: 去年は3回。今年は今回で2回目ですが、1ヶ月近く日本にいる予定です。仕事以外ではパリから日本に来た友人と一緒に旅行をしたりしていますが、僕自身日本のことをよく知らないので、旅をして日本の色々なところに行ってみたい。日本をもっと知るということもこれからやりたいことの1つです。

<プロフィール>
髙田賢三(たかだけんぞう)/デザイナー

兵庫県生まれ。1960年第8回装苑賞受賞。1961年文化服装学院デザイン科卒業、 1965年に渡仏。1970年パリ、ギャラリー・ヴィヴィエンヌにブティック「ジャング ル・ジャ ップ」をオープン。初コレクションを発表。パリの伝統的なクチュールに対し、日本人としての感性を駆使した新しい発想のコレクションが評判を呼び、世界的な名声を得る。その後ブランドを「ケンゾー(KENZO)」とし、高い評価を受ける。1984年仏政府より国家功労賞「シュヴァリエ・ド・ロルドル・デザール・エ・レトル」芸術文化勲章(シュヴァリエ位)受章。1998年仏政府より国家功労賞「コマンドゥール・ド・ロルドル・デザール・エ・レトル」芸術文化勲章最高位の(コマンドゥール位)受賞。1999年2月、ニューヨークで国連平和賞(タイム・ピース・アワード)の 1998年ファッション賞を受賞。10月パリコレクレションを最後にケンゾーブランドを退く。同年紫綬褒章を受章。2004年開催アテネオリンピック日本選手団公式服装をデザイン。パリ市よりパリ市大金賞を受賞。その後、デザイナー活動及び絵画を手掛けている。絵画展は、フランス、モロッコ、アルゼンチン、ウクライナ、ロシアで開催。又、ドイツにて2008年に開催。現在は、クリエーションにおける異業種とのコラボレート事業を展開。その他、世界の伝統文化を継承する為の活動をライフワークの1つともしている。2016年仏政府よりレジオンドヌール勲章「名誉軍団国家勲章」(シュヴァルエ位)を受勲。 同年、8月下旬より限定1年間、日本において、セブン&アイ・ホールディングスの社傘下のそごう・西武及びイトーヨーカドーのPBブランド「セット・プルミエ」を展開。

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