2018年11月22日 16:00
藤城清治さん 放射線の防護服に身を包んで描く「命の影絵」
しかし、年齢を重ねていくうちに、美しいものがある一方で、人間の負の歴史や現実の生きざまもありのままに伝えていかねばと思うようになりました」
藤城さんが喜寿を迎えるころから、地方へも同行するようになったという娘の亜季さんが語る。
「父は、それまで戦争に関する場所に行きたがりませんでした。原爆ドームの前でも、『僕はここを描きたい。でも、現実を描いたら、僕のメルヘンの世界に親しんでくれていたファンやスタッフが嫌がるんじゃないか』。そう言って涙を流すんです。私はとっさに、『絵描きが描きたいものを描かないでどうするの。チチ(お父さん)の自由に描いてください』と言っていました」
3日間の予定の広島滞在は、終わってみれば10日間にも延長されていた。こうして’05年、『悲しくも美しい平和への遺産』が完成した。
この広島以降、藤城さんに一つの変化が起きた。
「それから父は、旅行カバンに必ず2冊のスケッチブックを入れるようになりました」(亜季さん)
東日本大震災の後も、藤城さんは、愛用のスケッチブックを手に被災地へ向かった。
震災翌年の’12年夏には、東北各地を訪れ、『南三陸町防災対策庁舎』や『陸前高田の奇跡の一本松』といった作品を制作。