2020年11月16日 11:00
山谷のけんちん汁店 84歳の店主が見た日雇い労働者の町の盛衰
午前4時半。夜も明けきらぬ仄暗い路地裏に、小気味よい包丁の音が響く。薄く開いたシャッターの隙間からは音とともに、厨房のほのかな明かりと湯気が店外に漏れ出ていた。
ここは、けんちん汁の専門店「大倉屋」。
なかでは、狭い厨房で高齢の男女が、開店の準備に忙しない。にんじんや大根、ごぼうなど、切ったばかりの野菜を大きな鍋で勢いよく炒めていたのは、店主の石橋新平さん(84)だ。
「だしを入れて煮込む前にね、たっぷりのごま油で炒めてやると、おいしくなるんだ」
すると、妻のヒロ子さん(83)が、こう言って胸を張った。
「このけんちんはね、もともと私の実家の、田舎の味なんですよ」
夫婦が、テークアウト・スタイルの、この店を始めたのは平成の時代がスタートしたころ。
以来30年余。具だくさんのけんちん汁は多くの人に愛され続けている。
午前5時。新平さんが厨房から手を伸ばし、ラップの芯を使ってグイッとシャッターを押し上げて、いよいよ開店。すると、早速1人目の客がやってきた。
「けんちん、1杯」
70代と思しき男性がぶっきらぼうに注文を告げると、満面の笑みを浮かべたヒロ子さんが、張りのある声で答える。