30分で60個完売のシフォンケーキ 妻と義母の支えでうまれた
しっとりもちもちの口当たりに、優しい甘さ。通販やリヤカーでの行商でシフォンケーキを販売する「ちゃんちき堂」の主人、久保田哲さん(49)の作る味は、多くの人の心を癒し、笑顔にしてきた。
哲さんもまた、癒され、救われたうちの一人だ。うつになり会社を辞めたつらい日々を支えてくれたのは、妻のかおりさん(45)と、義母が焼いてくれたこのケーキ。食べた瞬間、これを売って生きようと決めた――。
哲さんはIT企業に入社。社内コンサルが主な業務となった。
会社の“世界中の人を幸せにする”という企業理念に賛同し、企画室で新規事業を立ち上げ、赤字部門を黒字化。
管理職として能力を発揮し、昇進を重ねた。
同じ会社に勤めていたかおりさんとの距離も縮まり、2人は04年に結婚。会社ではナンバーツーにまで出世したが、経営のやり方に強い違和感を持つようになっていった。
「世界を幸せにするという会社の理念を実現するには、まずは社員がしっかり稼いで、幸せにならないといけない。でも、ボクから見るとそうではないことに経営資源が割かれているように思えました」
知らないうちにストレスをためこみ、哲さんはうつ病に襲われ始めていた。いよいよおかしいと感じたのは、経営会議に出た直後、一つも内容を覚えていないことだ。
「いつもはメモがなくても、議事録を書けるほどなのに。それで通勤途中にあるメンタルクリニックへ行くと、自律神経失調症だと。
『つまり、うつ病ですね』と聞き返すと、『そうです』と言われ、休職したんです。わけもなく悲しくなって、気力が湧かない。ちょっとした刺激があると、パニックを起こすんです。空気を吸っても吸っても苦しくて、過呼吸になる。人と会ったり、電車に乗るのが怖くてできませんでした」
かおりさんにとっても、大きな試練だったと振り返る。
「病気のせいで、今までできたことができないので、悲観的になります。一般的には“落ち込む”から慰めるという流れになると思うのですが、哲さんは病気に対し“怒る”ので、それに対応する方法がわからなかったです。私自身は、哲さんが○○に行きたい、〇〇が欲しいと言ったときにすぐに対応できるよう、自分の心身を健康な状態に維持するように心がけていました」
そして、かおりさんは状況を前向きに捉えるように心がけた。
どんと構えるかおりさんの存在があったから、哲さんはその後の人生を、ゆっくり考えることができたという。
うつ病のために人と会うことができない。モノを売るには、通販しか選択肢はなかった。そこで、かおりさんの母が作ってくれたシフォンケーキのおいしさに感銘を受けたのだ。
もちろん、順調に物事が進んだわけではない。楽しいこともストレスになりかねない病気のため、かおりさんからは「考えすぎはダメよ」とくぎをさされていたと、哲さんは言う。
「1日30分考えると疲れてしまい、2~3日、布団から出られない日もありました。10年に『ちゃんちき堂』を立ち上げましたが、通販を始めて1年は、体調面で注文が受けられない日があったし、お義母さんが作れない日もあるから、(立ち上げた)ブログには『(シフォンケーキは)いつ届くかわかりません』と注意書きをしていました」
少しずつ社会に復帰していくと、うつ病もだいぶ改善していった。
「通販だけをやっていくことに飽きたというか、人に会いたいと思うようになって。有酸素運動で体のリハビリをしたかったし、通販以外の販売チャンネルを持ちたくて、リヤカーでの行商を始めたんです。でも、最初の1~2カ月は一人では怖くて、かおりさんについてきてもらっていましたが(笑)」
神出鬼没で、次に出会えるのがいつになるかわからない希少性から、60個のシフォンケーキは、30分ほどで完売してしまう。10年以上、地元・青梅で愛され続けているのだ。
「行商に出ると、日々お店が閉まっていく。人ともすれ違わなくなるんです。地元の商店街が衰退すると行商にも影響が出るので、地域で根づいて店を始めたい人を応援したい」(哲さん)
「これ以上忙しくなったり、稼ぐモードに入らない─。粛々とブレずに10年続けてこられたからこそ、街の方々によくしてもらったり、新しい発見や出会い、やりたいことが見つかったりしているんだと思います」(かおりさん)
行商中、リヤカーを見かけて駆けつけたお客とにこやかにやり取りをしていた哲さん。
お釣りを工房に忘れて、1万円札しかないお客とともにカフェに引き返したり、お金だけ受け取ってシフォンケーキを渡すのを忘れてうっかり立ち去ろうとしたりするユルさもご愛嬌。それが「ちゃんちき堂」のシフォンケーキの“隠し味”なのだから。
「女性自身」2021年4月27日号 掲載