盟友・寂聴さんに寄せ…作家・澤地久枝「死ぬ準備ができてない」
同じ女性の作家として長く活躍してきた寂聴さんと澤地さん。ふたりの出会いは60年以上前で、寂聴さんは当時、新進の作家であり、当時中央公論社に勤めていた澤地さんは『婦人公論』の担当編集者という間柄だった。
8歳年上の“盟友”の大往生によせて、澤地さんが口を開く。
「それは見事な人生だったと思う。わが子を置いて家を出て、夫と別れ、男性たち(作家・小田仁二郎さんや井上光晴さんら)との出会いと別れがあった。存分に愛し、ダメならサッと別れた。でも、男性たちからも恨まれてないと思うんです。そして後に娘さんとも和解している」
澤地さんが担当していた時期は、寂聴さんが「瀬戸内晴美」として執筆していた50年代後半のころ。
女性としての台頭“ガラスの天井”に阻まれ「子宮作家」などとやゆされていた。
「ほとんどの文芸誌から依頼がなかったその時期、私は『婦人公論』で寂聴さんに執筆をお願いしていました。練馬の畑の真ん中にあるご自宅に原稿を取りに行くと、寂聴さんはまだ、たっぷりの黒髪を結われていました」
後の72年、澤地さんのデビュー作『妻たちの二・二六事件』の出版パーティでは、寂聴さんが発起人の一人になった。