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足の骨ないアーティスト語る“呪縛”愛娘の「好き」が背を押した

女性自身
足の骨ないアーティスト語る“呪縛”愛娘の「好き」が背を押した

愛娘に微笑みかける片山さん



「ヒマちゃん、ママのお仕事、なんだかわかる?」

おもちゃのブロック遊びに夢中になっている長女に、彼女は優しくこう尋ねた。ここは東京・銀座のギャラリー「AKIO NAGASAWA GALLERY GINZA」のバックヤード。声をかけられた女の子は、気恥ずかしいのか、すぐそばでやりとりを眺めていた記者をチラッと見てから、女性のほうに向き直って、元気にこう答えた。

「さくひーん、つくってるー」

4歳の愛娘の返答に「ちゃんとわかってるのね」と顔をほころばせたのは、アーティストの片山真理さん(34)。この日は、同ギャラリーで個展の真っ最中だった。

片山さんはまだ高校2年生だった05年、若手芸術家の登竜門「群馬青年ビエンナーレ」で奨励賞を受賞し、現代アート作家としてデビュー。以後、数多くの個展を開催し、「あいちトリエンナーレ」「ヴェネチア・ビエンナーレ」などなど、国内外の大規模な芸術祭にも多数出展。さらに一昨年には“写真界の芥川賞”「木村伊兵衛写真賞」も獲得と、いま世界的に注目されているアーティストの1人だ。


だが、彼女がメディアで紹介されるとき、必ずと言っていいほど、ある枕ことばがついて回った。

それは「義足のアーティスト」。

四肢疾患を抱え生まれた片山さん。両足の脛骨(けいこつ)がなくて、左手の指は、生まれつき2本しかない。長年、義足での生活を続けている。

「小学生のころは“スーパーいじめられっ子”だった」と振り返る。長いこと「自分も皆と同じようになりたい、人混みのなかに自然と紛れ込みたい」、そんな思いを抱き続けてきた。一方で、アーティストとしては、義足を素材にしたオブジェや、それらとともに障害のある自身の体を撮影した写真などを、作品として発表してきた。


「自分ではそこまでこだわってきたわけじゃないんです。義足が主役なんて思ったことないし、特別扱いされるのもいや。ただ、もしかしたら私自身、呪縛に囚われていたのかも。ずっと追い求めていた“正しい体”という呪縛に」

こう自らを分析した片山さんは「でも」と続け、笑みを浮かべる。

「5年前、娘の陽毬が生まれて、ちょっと変わったんですよ。彼女の目線で自分の体を見られるようになったというか……」

少し前にこんなことがあった。保育園から帰ってきた長女が、驚いた様子でこう告げてきた。「○○ちゃんのママの足は硬くないんだってー」と。


「私、思わず笑ってしまって。そっか、彼女にとって私の足は硬いのか、そりゃそうだよなって。あれはちょっと面白かったな。そういう経験を経て最近は、自分の体を素直に楽しめるようになってきた。以前はオブジェと一緒に、メークにウイッグ、それに奇抜な衣装で『自分は作品世界を説明するためのマネキン』という感覚で写真におさまっていたんです。でも最近は、もっとストレートに作品に登場することも増えました」

銀座で展示していた新作『leave-taking』では、長時間露光という撮影法を採用。写真の中、オブジェに囲まれた彼女の体は透け、消え入りそうにすら見える。

「呪縛から解放されたんですよ」

朗らかに笑った片山さんは、改めて、長女に話しかけた。


「ねぇ、ヒマちゃん、ママの足とか手、どう思う?」

長女は少しモジモジしながら小声で「ワニさん」と返した。

「2本指の私の手を、彼女は『ワニさん』って呼ぶんです。彼女なりに好感を持ってくれてるってことだと思うんですが……。ヒマちゃんはワニさんの手、好き?」

母の質問に、今度は満面の笑みを浮かべた陽毬ちゃん。力強くうなずくと、元気な声でこう続けた。

「いちばん好き!」

■娘が友達と仲よくしているのを見ると、涙が出るくらいに嬉しいんです

17年、片山さんのおなかには、新しい命・陽毬(ひまり)ちゃんが宿っていた。陽毬ちゃんの父=片山さんのパートナーは音楽家・浩朗さん(51)。

「妊娠がわかって、私自身は『やったー!』って、超嬉しかったんです。
だけど、家族や浩朗さん、ごく近しい友人たち以外の人からは『え、産むの?』という声ばかりで。『生まれてくる子に障害があったらどうするの?』『子育てって大変で、その体じゃ苦労するよ』なんてことも言われました」

もちろん、多くは善意ある、自分を心配してくれる声ということは理解していた。だが、言われるたび片山さんは、打ちのめされるような思いだった。

「それまでも、ひどい仕打ちに散々あってきました。障害があるというだけで、選択肢の幅が驚くほど狭められてしまう経験も。だけど、妊娠や出産という人間の基本的なことまで、自由に選択させてもらえないのかと、愕然としたのを覚えています」

実際、片山さん本人も不安な気持ちがなかったわけではない。

「でも、仮におなかの子に障害があったとしても、なんとでもなると思った。それに、その心配というのは、どんな母親でもするものだとも。
だから、産まないという選択肢はまったくなかった」

その年の7月、陽毬ちゃんが誕生。母となった片山さんは、やはり真っ先に、赤ちゃんの足と手の指を確認したという。

「でも、そのとき『あってもなくてもどっちでもいいや』って、本心から思っている自分がいたんです。それぐらい、いとおしかった。そして、私を産んでくれた母も、障害があることなど関係なく私を愛してくれたと確信できたんです」

片山さんは「もともと結婚する気はぜんぜんなかった」と話す。

「知り合ったのは私が19歳のころ。音楽が好きだったので、バンドのライブやクラブへよく出かけました。浩朗さんは地元で人気のDJでした。
私はすっかり彼の才能にほれ込んで。大学時代は追っかけファンをしていました」

その後、彼女が上京したため、しばらく会わない時期も。だが14年、片山さんが地元・群馬に拠点を移したのを機に再会し、交際に。

「元々、私が結婚という制度に懐疑的だったので事実婚で構わないと思ってました。でも、子供が生まれ、家族で暮らし始めると、当時は会社員もしていた彼の育児休暇や時短勤務、それに保育園や住宅ローンと、結婚していないことで、なにかと不便が多くて。それで、親戚が集まった機会に突然、彼が『結婚宣言』して(笑)。18年に入籍しました」

片山さんは子育てをしながら、自分のことを見つめ直した。周囲が心配したとおり、彼女特有の苦労も、少なくなかった。

「たとえば、立ったまま抱っこしていて娘が眠ってしまうと、義足の私は屈んでベッドに寝かせてあげられないんです。しょうがないので、ずっと立ったまま。『どうしよ?これ普通のお母さんなら寝かせてあげられるのかな?』って」

でも、そこは、しっかり者の浩朗さんが全面的に支えた。だから、マタニティブルーも、産後うつも乗り越えられた。

片山さんは「彼の助けがなかったら、いまの私はない」と明言し、感謝も口にする。

「他人と関わることが苦手だった私は以前、なんでもひとりでやらなきゃって気持ちが強かったんです。でも、夫とともに子育てしていくうちに、ひとりじゃできないことは誰かの助けを借りてもいいんだって、素直に思えるようになった。それに、娘は私たちのやることをすべてインプットして、そのままアウトプットするので。もう、彼女との関係はガチンコの人間関係だと気づきました。もし、私が取り繕ったり無理をしたら、彼女もそういう人生を送ることになるから。だから私はいま、等身大の自分でいられているんです」

真剣勝負な育児のさなか、胸が熱くなるような経験もした。

「娘が友達と仲よくしている姿を見ると……あれほど、友達なんかいらないって言ってた私なのに『友達できてよかったね』って、涙が出るくらい嬉しくなるんです」

■娘のアイデアを採用した作品も。「私は私、作品は作品。感想は見た人の自由です」

「作品を見てくれて『元気をもらった』とか、ときには『自分をさらけ出して、すごい』とか、いろんな感想を持つ人がいて。ありがたいんですけど、自分では『私は私、作品は作品』と距離を置いて考えていて。どんな感想を抱こうが、それは見た人の自由だし、どう思われたいというのもないんです。最近は海外での展覧会も増えて『すごいね』って言われることもあるけど。でも私が暮らしてるのは、牛だらけの田舎ってことに変わりはないしな、って」

冷静に語る片山さんだが、銀座のギャラリーでは、思わず相好を崩す場面も。

「この作品、じつは娘のアイデアを採用したものなんです」

それは、貝殻の装飾が施された絵画だった。

「昨年、パリでの個展を終え帰国して。コロナ対策の隔離後に描いた作品なんですけど。いつも、完成した作品を陽毬に見せて『どう?』って聞くと『うん、いい!』って言ってくれるのに。そのときは言ってくれなくて。しばらく考えてた彼女が急に『貝殻つければ』って。それで、試してみたら、思いのほか、出来栄えがよくなって。だから、最近は彼女のOKがもらえたら作品完成って、そんな感じになってきてますね」

嬉しそうにほほ笑む片山さん。夫と娘、最愛の家族に支えらながら、彼女は堂々と、義足とともに歩み続けていくーー。

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