ステージ4の末期がんを抱えながらキッチンカーを走らせる子ども3人ママ
「父は『女が学校なんか行かんでよか。頼むから20歳までは家におってくれ』と。私は、すごくばかにされた気がしたのを覚えています」
仕方なく、秋吉さんは地元の農協に就職。2年間勤めたのち、退職し一人暮らしを始めた。
「いろんな仕事を掛け持ちしながら自分で学費を稼いで、夜間の調理師学校に通いました」
22歳、念願だった調理師の資格を取った秋吉さんは大阪に。飲食店を何店舗も営む、社員寮もある会社に、正社員として就職した。
「最初はホール、その後は調理場に入って5年ほど勤めました。営業時間は朝まで。
250席が3回転するような忙しい店。朝の9時過ぎに寮に戻って、午後2時にはまた出勤。むちゃくちゃな生活でしたが、体力には自信あったから。たいへんでしたけど楽しかった」
やがて、叔母から「店を譲る」と言われ、佐賀に戻ったのが27歳のとき。しかし、バブルは遠い昔で、街のにぎわいはすっかり消えていた。「驚くぐらい人がいなかった。いるのはお年寄りばかり。ここでの商売は無理、そう思いました」
そこで秋吉さんは方針転換。
「高齢化が進む故郷で先々、商売をするにしても、まずは勉強」と、介護の職に就いたのだ。