風の谷の熱血園長 親子の体温、子供の責任感を信念に理想の幼児教育を根付かせた25年の奮闘
兄のお弁当には卵焼きが入ってるのに、私のにはおかかだけ。両親になぜだと聞いても納得いく答えは返ってこず、つらい思いをしました」
成績はよかった。しかし、そのことを自慢できなかった。
「あの兄でさえ中学を出て就職していたから、中1のころには“私の人生には先がない”と思っていました。ところが、一緒に生徒会活動をしていた会長が、奨学金のことを教えてくれたんです」
親には内緒で奨学生の試験を受けて合格し、厚木東高校へ進学。
「でも、その先の大学進学は絶対に無理とわかってたから、勉強はほどほどで、相変わらず山本周五郎などの本を読み漁っていました」
卒業後の64年春、大洋漁業(現マルハニチロ)に就職。働きながら、国際問題を考える勉強会に参加し、ここでのちに夫となる5歳上の学生と出会う。
「プロレタリア文学の『蟹工船』なども読んでいて、知的なものに飢えていたのだと思います。
ですから、会社の労働組合の運動をするのも、ごく自然でした。
まだまだ結婚退職が常識の時代に、育児休暇制度なども訴えました。でも当時のマルハは、こんな跳ねっ返りの(笑)女子社員の話をちゃんと聞いてくれ、事務から人事課への異動もかなったんです」