「お笑い界の母」児島気奈さんK-PROライブ立ち上げの裏にあった村田渚さんとの出会い
私も尖っていたので『わからないなら、もういいです!』とばかりに、女のコとしゃべることもなくなったんですね」
それでも、お笑い番組さえあれば孤独を感じることはなかった。
「朝から晩まで、家中のビデオをフル稼働させて、全番組を3倍録画。部活が終わって学校から帰ると、ビデオを早送りにして、お笑い芸人が一瞬でも出ていたらダビングして保存していたんです」
絶対に逃せないラジオ番組は、学校にこっそりラジカセを持っていき、トイレの掃除用具置き場で録音した。
「『笑っていいとも!』にネプチューンさんが出演するときは、給食の時間に家に帰ってテレビを見て、猛ダッシュで学校に戻ったりしていました」
携帯のメールもSNSもない時代、雑誌の文通コーナーは、情報収集の貴重な場。地方に住むお笑い好きに《NACK5でゴスペラーズのラジオを録音したテープがあるので、大阪の芸人が出るビデオと交換してください》と手紙を書いた。そんな文通相手の一人からあるとき、《今度、お笑いライブがあるんだけど、お手伝いに行かない?》との誘いが。これを機に、気奈さんの運命が大きく変わる。
■35歳で亡くなった先輩芸人の思いを受け継ぎ、ライブ運営に本腰を入れる
文通相手と訪れたライブ会場では、年長の女性スタッフから手伝いの内容を指示されたが――。