愛あるセレクトをしたいママのみかた

「母のために頑張って生きてきた」仲代達矢さん看取った養女・奈緒が初めて明かした「最期の言葉」

女性自身
「母のために頑張って生きてきた」仲代達矢さん看取った養女・奈緒が初めて明かした「最期の言葉」

仲代達矢さんと奈緒



「今日もですよ、父が夢に出てきたのは。夢では友人と車で出かけて迂回しないと行けなくなったんですね。知らない道に入っていくと父の楽屋に入ってしまったんです。父はいつものように怖い顔していて『あれあれ?』って……」

そう語るのは先月8日、肺炎のため逝去した俳優・仲代達矢さん(享年92)の養女で女優の仲代奈緒(51)だ。最期を看取った彼女が初めて亡き父について語った。

「息を引き取るときには、もう意識がなくて、話しはできませんでした。ただ、この夏のドキュメンタリーのインタビューで父がこう答えていたんです。

『舞台はやはり自分が楽しくなければ、お客さんに感動を与えられません。
だからいつも稽古は楽しくなるように心がけているんですよ。それは亡き妻の教えでね。私はいつも怖い顔ばかりしているけれど、戒めになっているんです』

父は努力の人で、あの年齢になっても、なお怖い顔して突き進んでいくイメージ。でも内心では、母の遺言で“楽しさ”を求めていたと、そんなこと思っていたんだなあって。私にとっても、それが父の最期の言葉になりました」

仲代さんは妻・恭子さんを’96年に亡くしている。

「父が母と出会ったのはまだ有名になる前のこと。俳優・仲代達矢も無名塾も父母二人三脚で一歩一歩作って来たものと思います。夫婦を超えた同志。
同じ夢を叶える相手として、楽しい時も大変な時も共に歩んできたのでしょう。

それが突然、父一人で歩いていかなくてはならなくなったこと、本当に辛かったと思います。亡くなって改めて、母がいないこの30年近く、父は母のために頑張って生きてきたのだと感じました。母との思い出を胸に、母への思いや二人で作って来た夢を一人無我夢中で果たそうと生きていたのではないかと思います」

仲代さんの葬儀は主宰した俳優養成所『無名塾』で営まれた。役所広司(69)、益岡徹(69)らが参列し、奈緒は喪主を務めた。

「私は歌手デビュー30年にアルバムを作りました。今の私を全て詰め込んだアルバムにしたいと作りましたが、出来た作品は音楽というよりは、とても演劇的な楽曲作品集でした。それは私の中に、父と母が作って来た演劇の世界が深く刻み込まれているからだと思います。
そして、聴いた方から、感動した、元気が出た、悩みがなくなったなどという嬉しい声をたくさんいただきました。この様なアルバムが出来たのは2人のおかげ。感謝の形として、天国で2人で聴いてもらいたいと、棺に入れました」

■「生前最後の舞台を父がやり遂げられたのは、母への強い思いがあったから」

改めて父・仲代さんとの思い出を聞くと――。

「幼少期の私は父が大好きで家の中でもついて回っていました。そんな私を父も本当に可愛がってくれました。若いころから有名になった父は出かけることが苦手でしたが、私の手を引いて出かけると、俳優ではなく、父として歩くことができると、外に出かけることができるようになりました。

我が家では私と父は1番の仲良し。『手のかかるもの同士が出かけてくれた』と、母や祖母に喜ばれるほど、一緒に出かけていました。
似たもの同士の父が、私は大好きでした。デパートや遊園地、『ネズミが嫌いだから嫌だ』と言っていたのに、私がミッキーマウスが好きだと知ると、ディズニーランドにも連れて行ってくれました。保育園にお迎えに来てくれたことも、お揃いのアロハを着て花火大会に行ったことも、撮影所や公演先に遊びに行ったことも…貴重な思い出は数えきれません。

大河ドラマ『秀吉』やCM、無名塾『森は生きている』の舞台で俳優・仲代達矢と共演できた事も大切な思い出です。ただ、大人になってからは、父は俳優・仲代達矢で、皆のものだとわかり“私は娘だから”と遠慮して生きてきたところがあります。普通の親子だったらもっと父との時間を過ごせたのかなと思います。

その反面、葬儀を通じて改めて仲代達矢を通して広がった人間関係を知り、多くの方に愛され、たくさんの方を幸せにしたのだなと父を尊敬すると同時に、娘であれたことを誇りに思いました。出棺の時にご近所の方々が道々頭を下げ、涙ながらに手を合わせてくださる姿にも、感動いたしました」

仲代さんの生前最後の舞台は今年6月、能登演劇堂で主演した『肝っ玉おっ母と子供たち』だった。


「母が書いて演出し、父が55歳で演じたこの作品を父は80歳を超えて二度再演しました。55歳の父にあてた作品をその年齢でやるのは普通に考えたら不可能でしたが父はやり遂げました。そこには母への強い思いがあったのでしょう。

母・恭子は、たくさんのことを遺してくれました。本当に大きな愛のある人でした。母の思い、美学…それはわたしや父はもちろん、無名塾を通った方々の中にも今も色濃く残っているようです。母が肝っ玉おっ母で父と無名塾の方々は子どもたち。艱難辛苦を乗り越えながら旅は続ける。
そんな思いだったと思います」

偉大な父の“遺言”を胸に、奈緒は新たな旅を始める。

提供元の記事

提供:

女性自身

この記事のキーワード