デビュー60周年……加藤登紀子さんと娘Yaeが明かす“子育て秘話”と最愛の夫・藤本敏夫さんとの別れ
加藤登紀子とYae。鴨川自然王国にて(撮影:保坂洋也)
日本の棚田百選にも数えられる、千葉県鴨川市の大山千枚田。その絶景を背に、車一台がようやく通れるほどの狭い山道を脱輪しないように慎重に進むと、いっきに視界が広がる。
鴨川自然王国。デビュー60周年を迎えた歌手の加藤登紀子(82)の亡夫・藤本敏夫さんが1981年に創設した、農薬や化学肥料を使わずに米や野菜を栽培し、現在ではカフェや里山帰農塾、加工品販売なども手がける農園だ。施設内にある一軒家で、おときさんが腕をまくる。
「今日はテフテリ(ロシア風肉団子)を作るね」
大鍋を用意して台所に立ち、目の前の畑で収穫した大量の玉ねぎをみじん切りにする。ロシア文化が色濃く残る、旧満州のハルビン生まれのおときさんが、母親から受け継いだロシア料理だ。
「“ばっぱのテフテリ”は、わが家のスペシャルメニュー。
本当においしい。私は農作業ができないから、家事を手伝おうと、鴨川では飲み屋のママのようにずっと料理を作っているんです」
ところが……。
「母は主婦ではないので、料理をしたあとは台所が荒れる(笑)」
こう苦笑するのは、おときさんの次女で、鴨川自然王国に拠点を置くYae(ヤエ・50)。“半農半歌手”として、農をとりいれたスローライフを実践する一方、歌手としても活動。日本ユニセフ協会の東北大震災応援メッセージCMや小田急ロマンスカーのCMで、その歌声を聴いた人も多いだろう。
「トキコにもの申せるのは娘たち以外いないと思って、あえて指摘することもあります。だからいまだに日々、ぶつかり合うんですね」
Yaeは言うが、おときさんは、どこ吹く風。
「私はぶつかり合ってるなんて思ってないわ」
できあがったテフテリの大鍋は、Yae一家と、近くに住むおときさんの長女一家で囲む。
おときさんは戦争の話を孫たちに伝えたり、孫たちの進路の話に耳を傾けている。Yaeが続ける。
「幼いとき、母は家を空けることが多かったのですが、時間があるときは必ず朝食に味噌汁を作ってくれて『学校に遅れてもいいから、食べていきなさい』と言われていました。食事を通して親子の時間を作りたかったのかもしれません」
おときさんは東京大学在学中、学生運動のリーダーだった藤本さんと交際。1972年、長女の妊娠がわかり、投獄中の藤本さんと看守の前で獄中結婚したことは、メディアで大きく取り上げられた。
藤本さんが出所後にYae、三女が誕生し、1981年に鴨川自然王国を創設。歌手活動をしているおときさんが3人の娘たちと東京に住み、藤本さんは鴨川に住むという2拠点生活が続いた。
2002年に藤本さんが亡くなった後も、おときさんは農園を維持するために尽力。
農園を舞台に家族の物語が紡がれていき、いまでは親子孫3代がつながる癒しの場所となっているのだ。
■“王国作り”がきっかけで離婚寸前に
逮捕歴のある学生運動の元リーダーだった父と、歌手として活躍する母だから「自由と革命を大事にする家でした」とYaeは振り返る。
「幼いとき、母に『お父さんはなんで刑務所に入っていたの?』と聞いたんです。母は隠すことはせず『お巡りさんを殴ったから』と答えていました」
藤本さんは出所後、環境や食問題に取り組み、有機農業を普及するために大地を守る会を発足。
「父はよく『地球に土下座せなあかん。環境を守り、次世代にどういう地球が残せるのか』と語っていました。留守がちでイクメンとは言えませんが、子供たちの壮大な未来を見据えていたんですね。『楽しくなければ人生ではない』と言っていたように、いつも仲間に囲まれて、楽しそうに活動している父が好きでした」(Yae)
一方のおときさんは、紅白出場(1971年『知床旅情』)も果たした人気歌手。
十分に娘たちとの時間が持てなかったが、Yaeの独特の感性には注目していたという。
「雨の日に保育園にお迎えに行くと、Yaeがどうしても長靴を履きたがらない。雨の中、子供だけ裸足はだしにすると虐待だと思われるでしょ。だから2人して裸足で帰ったのを、すごく覚えています。
雨といえば、雨を涙のようだと表現したりしますが、Yaeは『それは違う』と言う。『雨は冷たいけど、涙はあたたかい』と。なかなか面白い考え方をするなと感心していたんです」
Yaeが小学校にあがったころ、最大の両親の離婚危機があったという。鴨川自然王国の創設だ。
ある日、藤本さんがYaeに「ふるさとが欲しいか?」と聞き、車で千葉県・鴨川に向かった。
「当時は高速道路がなく、東京から5時間もかかりました。その間、父は一生懸命、鴨川でやろうとしていることを伝えてくるんですね」(Yae)
藤本さんは、家族を連れて鴨川に拠点を移すつもりだった。しかし、大賛成だったおときさんは、急に考えを変えた。
「鴨川で蜂に刺されたんです(笑)。薬局まで車で30分もかかることで、田舎暮らしの大変さを実感。夜、鴨川から帰ると、彼は『疲れた』とさっさと寝てしまいました。そこから私は3人の娘の世話があるのに……。
“これはマズイぞ”と思ったんです」(おときさん)
一緒に鴨川には行けないと伝えると、藤本さんが激怒。
「『鴨川に移ってからが、ボクの考える結婚生活。今までの結婚生活はボクのものじゃない』と言われたことは、ショックでしたね」
大揉めに揉めた結果、東京と鴨川の2拠点生活をすることに。一時は離婚を決意したが、夫婦危機のおかげで、数曲のラブソングも生まれたという。
「それに離婚って、やっぱりさみしいでしょ。しばらくサボるうちに、離婚せずに済んじゃったんです」
■娘のデビューが病床の父の希望となった
おときさんは子育ても、いい意味で“サボった”と振り返る。3人姉妹のなかで、いちばんやんちゃなYaeが思春期を迎えたころのことだった。
「Yaeが高校に入学して最初の面談のとき、『先生、どうですか?』と聞くと、『3日、学校に来てません』って言うの(笑)。
彼女に聞くと恋に夢中だという。そんな娘を、親がコントロールするのは難しい。反発から対話がなくならないように、あまり厳しい制限はしませんでした。家にいない親だったし、子育てをわざとサボったんですね」(おときさん)
半面、Yaeは朝帰りしたとき、おときさんから言われた一言が忘れられないという。
「玄関で待っている母に、心配しなくていいと伝えたら、『じゃあ、私はあなたを信じるから』と言われたんです。逐一、注意されたら反抗していたかもしれませんが、“信じている”という母を裏切ってはいけないと思えたんです」
両親ともに多忙で、一緒に過ごす時間が少なくても、Yaeの進路には不安を抱いていたようだ。
「でも、考えていることは2人とも全く逆で。母は沖縄の芸術大学、父は帯広の畜産大学をすすめてきました(笑)」(Yae)
だが、Yaeはどちらの進学先も選ばず、歌手としての道に進むことになる。そのきっかけを作ったのが、おときさんだ。
「Yaeが高校時代、私が『コルチャック先生』というユダヤ人居住地・ゲットーを舞台にした音楽劇の、音楽監督を務めることになったんです。幼いころのYaeの感性を面白いと思っていたから、キャバレーの歌手をしているユダヤ人女性を“これはYaeだ!”と感じて、オーディションを受けるようにすすめたんです」(おときさん)
Yaeは高校を卒業し、19歳のときに舞台に出演。
「音楽監督の母には戦争体感がありますが、私には、毎日が生死との隣り合わせという状況が理解できません。母からは、銃を突きつけるドイツ兵にひるまずに立ち向かう少女の写真を見せつけられ『あなたは、彼女よ!』って指導されました。稽古のときも『親子じゃなければ、きちんと向き合えるのに』って。それでまたぶつかったりしていました」(Yae)
おときさんも、当時を振り返る。
「親だと思うから甘える部分もあったんでしょう。本番直前のゲネプロのときでさえ、できていなかったので、一回だけ殴りました」
歌に目覚めたYaeは、音楽の道を突き進む。アルバイト先の飲食店で暇な時間に歌わせてもらうと「今度、ボクのライブで歌ってくれないか」と誘われたりした。
小さなライブハウスや路上ライブで経験を重ね、レコード会社からのデビューが決まった。Yaeの根底にも、藤本さんの“楽しくなければ人生じゃない”という考えが染み込んでいたのだろう。
そんな娘を、両親はどう見ていたのだろうか。Yaeが語る。
「父は『大丈夫か、そんなんで食っていけるのか』と心配していたみたいです。母には……。詳しく話しませんでした。介入させると面倒くさいことになるから」(Yae)
おときさんも、こう語る。
「何かやっているなと思っていたけど、音楽活動に関しては、何も言ってくれませんでした。スタッフから『お母さんは、なんて言っているの?』と聞かれることもあったそうですが、Yaeは『ママが出てきたら、誰も反論できなくなるから、何も言わないで』と言われていたんです。私がYaeの曲を聴いたのは、CDができあがってからでした」
藤本さんのがんが発覚したのは、ちょうどそのころだった。
「1998年に大腸がんがわかり、手術で切除したのですが、’01年には深刻な肝臓がんを発症。かなり痛みが激しく、漢方や自然成分にこだわっていた父が、痛み止め薬に頼りきりになりました」(Yae)
病床の藤本さんを元気づけたのは、Yaeの歌手デビュー。CDを箱買いして入院患者たちに配っていた。しかし藤本さんの病状は悪化をたどり、食事もままならず、みるみるうちに痩せていった。
「自分の命がなくなっていく不安もあり、私たち家族には『もう、ダメかもしれないな』と弱音を吐くこともありました」(Yae)
最終的には肺にも転移したため呼吸すら苦しくなった。2002年7月、藤本さんが危険な状況に陥り、医師からも「あとわずか」と知らされ、家族が病室にかけつけた。
藤本さんは「まだか」とうわごとのように、沖縄から向かっている三女夫婦や初孫の到着を待っていたという。
病室では、おときさんが「がんばって、がんばって」と励ましていたが、藤本さんは三女一家が到着すると「もう、いいだろう……」と、酸素吸入器を自ら手で払った。
激動の人生を共にした藤本さんを失ったおときさんは、マスコミ向けに《2人の人生はいまからまた別の形で始まると思っています。彼が残した未来への夢を、受け継ぎ、やり遂げたいと思います》とコメントを発表。
その《未来の夢》の一つが、鴨川自然王国だった。
(取材・文:小野建史)
【後編】加藤登紀子の娘Yaeが明かす鴨川自然王国での暮らし「いつの日か母との終のすみかに」へ続く