横浜銀蝿・Johnny 解散後はレコード会社の社長に就任も…再びバンドマンに戻したリーダー嵐さんの「遺言」
横浜銀蝿・Johnnyさん(写真:本誌写真部)
「YouTubeやSNSで“絶対買います”とか、“声が全然変わってない”とか、“コンサート行きます”といった書き込みがあって。いまだに応援してくれる方がいるというのは本当にありがたいです。3月に初めてのソロツアーも控えているので、期待に応えられるライブにしたいなと思って日々精進しているところです」
こう語ったのは横浜銀蝿のJohnnyさん(67)。’85年以来、実に40年ぶりにソロ活動を再開させ、1月28日にソロアルバム『ヨコハマ・グラフィティ』をリリース。さらに3月には東京・名古屋・大阪をまわる自身初のライブツアーを開催するという。
印象的だったリーゼントは白髪へと変わったが、優しい表情は以前と変わらない。かつて人気を博した甘い歌声も健在だ。
「35年くらい喉を使っていなかったのがよかったんだと思います(笑)。
バンドマンを再開したのは65歳からですからね」
横浜銀蝿としてデビューし、解散後はキングレコードに入社。執行役員、さらには関連会社の代表取締役社長に就任。そして再び音楽活動に――。異例の経歴を持つミュージシャンだが、デビューは’80年。革ジャンにサングラスといったファッションで独特の存在感を放った。
デビュー翌年にはシングル『ツッパリ High School Rock’n Roll(登校編)』が大ブレイク。同年に発売されたJohnnyさんのソロシングル『ジェームズ・ディーンのように』は自身も出演したドラマ『茜さんのお弁当』(TBS系)の主題歌にも起用され、50万枚以上の売上を記録した。
「このころのバレンタインデーは、事務所に4トントラックいっぱいのチョコレートが届きました。
横浜の単なる不良が1年ちょっとでデビューして、この量のチョコレートをもらえるなんて、何が起きたんだと思いました。ほかのメンバーはみんな口ひげがあって、ボーカルの翔くん(67)なんかはしゃがれ声だったから若い女の子には怖そうに見えたのかもしれません。俺だけ口ひげがなかったからね。男らしい翔くんやTAKU(65)のほうが男性人気はあったと思いますよ。
チョコレートの送り主は小中学生も多かったので、“これはちゃんとしなくちゃいけない”とも思いましたね(笑)。見本になれるちゃんとした大人になろうと」
絶大な人気を誇ったが、’83年末で横浜銀蝿は解散。活動期間は3年と意外にも短かった。
「デビュー当初に『2年間で完全燃焼して辞めます』と宣言して最初から終わりを決めていたんです。
実際その2年間で“アルバム1位”と“武道館満タン”の目標は達成。もうひとつの目標だった“シングル1位”を取れるまで少しだけ期間を延長して、最終的には3年3カ月で解散しました。目標を定めてみんなで全速力で走ったから、最後のコンサートでは本当に充実感、満足感いっぱいでした。“不良はゴールがないと走れない“みたいなね(笑)」
横浜銀蝿は解散後もたびたび再始動しているが、Johnnyさんが本格的に参加したのは’20年からだった。
「デビュー当時の担当ディレクター・水橋春夫さんのお別れ会で、20年ぶりぐらいに翔くんと顔を合わせました。そのときに翔くんから、『再来年の’20年で横浜銀蝿結成40周年になる。当時小中学生だったファンの子たちはなかなかコンサートに来れなくて、1回も動くJohnnyを見たことがないという子がいっぱいいるんだ。動くJohnnyを見せてあげたいんだ』と言われたんです。
そのときちょうど俺は還暦というのもあったし、水橋さんが20年ぶりに翔くんとめぐり合わせて『Johnnyちゃん、もう1回やりなよ』と言ってくれてるのかなと思ったんです。会社の社長もやっていたのでずっとはできないけど、結成40周年の1年限定なら、と」
「横浜銀蝿40th」として、ついに4人そろっての活動がスタートした。
「本当に楽しかったです。好きなメンバーと好きに奏でるというのは本当に楽しいと再確認できました。
レコード会社に入って音楽で一生飯が食えるというのはすごく幸せだと思っているんですけど、年齢を重ねて役職も上がってくると“年間何十億売り上げを出せ”とノルマが課される。そうすると音楽が苦痛になってきて、家に帰るともう音楽を聴きたくないという気持ちにもなっていたんです。だから、高校生のときに翔くんとバンドを始めたときの気持ちに戻れて本当に楽しかったです」
1年限定の予定は、コロナが重なったこともあり2年間に延長。最後のライブは‘21年12月31日に行われた(配信)。
しかし、’04年に脳梗塞を発症して以降リハビリしながら活動していたリーダーの嵐さん(享年67)はこの直後に体調を悪化させた。「年が明けた’22年にすぐに体調を悪くして入院して、歩けなくなってしまったんですよ。それでも車椅子で同じ年の4月に横浜で自身の誕生日ライブに出演した。俺がステージ横から車椅子を押したんですが、そのときに袖で嵐さんから『Johnny、横浜銀蝿にはやっぱりお前がいないとだめだ。ずっと一緒にやろうよ』と言われたんです。でもそのときは40thが終わって4カ月しか経ってなくて、俺は社長業に戻ったばかり。だから『嵐さん、嬉しいけど40thが終わってからまだ4カ月だ。50周年とか60周年とか、そういう機会があったらまたやりましょうよ。
それまでみんな元気でいましょうね』と話したんです。そしたらその3か月後に嵐さんは亡くなった」
「やっぱりお前がいないとだめだ」という嵐さんの言葉は、まるで遺言のようにJohnnyさんに深く刺さった。
「嵐さんの言葉が心に残っていて、’23年には社長を辞任。またバンドマンとしてメンバーに戻ることにしました。
今回はソロでやらせてもらっていますけど、やっぱり横浜銀蝿のメンバーという意識が強い。みんな元気に身体が動く限りはやりたいなと思っています。あともう1回、横浜銀蝿として武道館をやりたいなと思っているんです。この目標に向かってみんなそれぞれ頑張っていこうというところで、ソロ活動はその一環でもあるんです。
嵐さんも見守ってくれていると思います」
嵐さんの思いを胸に、再び武道館を目指すJohnnyさん。年を重ねてもなお、挑戦は終わらないーー。
【後編】《“ロスの彼氏”と噂されたことも》横浜銀蝿・Johnnyレコード会社社員時代に中山美穂さんと築いた「絆」へ続く