「子供たちを腹いっぱいにしてあげられる、と一人で泣いて…」生みの親明かす“国産ポン菓子製造機”完成までの戦時中の苦悩
夫・文夫さんとともに、国産ポン菓子機を日本で初めて開発した吉村利子さん(100)。甘くてサクサクの“ポン菓子”は戦後の食糧難に苦しむ多くの子供たちの希望となった(撮影:豊田有希)
「ドカーン!!」
木槌が振り下ろされ、機械の蓋が開いた瞬間、腹の芯まで響く爆発音とともに白い煙が吐き出された。同時に部屋中が、香ばしい匂いで満たされていく。やがて白煙が消えると、目の前のカゴに、“ポン菓子”が小山のように積み上がっていた。米を加熱・加圧し、その後一気に減圧することで12倍にも膨れ上がったものだ。
「うんうん、いい出来やね」
満足げに大きくうなずいたのは吉村利子さん(100)。1月にめでたく紀寿を迎えた彼女こそ、この小さなSL(蒸気機関車)にも似た“ポン菓子機”の生みの親で、終戦直後に完成した国産第1号機の開発者だ。
ポン菓子といえば、素朴な昭和のおやつのイメージだが、レインボー色などカラフルに加工されたポン菓子を結婚式の引き出物にする若い世代もいるといい、近年はヘルシー志向などから、また注目が集まっている。
「さあ、お母さん。
次は味付けをしようかね」
利子さんに大きなしゃもじを手渡すのは、長女の真貴子さん(71)。2人は、福岡県北九州市戸畑区の「タチバナ菓子機」の事務所兼自宅で同居している。
「機械を熱しながら回し続けて30分ほどで完成すると、砂糖湯で味付け。少々の塩を加えるのが、うち独自の製法。といっても、秘伝の隠し味とは違うんです。母は『おいしいもんはみんなで』の精神で、ポン菓子機の発売当初から、そのレシピも企業秘密にすることなく公開してきましたから」(真貴子さん)
その間も利子さんは、まるで教え子たちに語りかけるように、なにやらブツブツ言いながら、しゃもじでできたてのポン菓子を、いとおしげにかき回し続ける。
大阪の裕福な旧家に生まれ、周囲からは“いとはん(お嬢さん)”と呼ばれていた利子さんが国民学校(現在の小学校)の教師になったのは、太平洋戦争の真っただ中。
「子供たちに、おなかいっぱい、消化のいいものを食べさせたい」
その一心で、ポン菓子機の製造を思い立ち、大阪からはるか遠い北九州へと単身旅立ったのは、利子さんがまだ10代のときだった。
「ただただ一生懸命に働いてきました。昔、機械のテストのときに左手を78針も縫う大ケガをしたから、ほれ、今も薬指は曲がったまんま」
そう言って、記者に左の手を差し出して見せた。耳も少し遠くなったという利子さん。ときに筆談も交えながら、大正、昭和、平成、そして令和という、まさしく1世紀にもわたる波乱と、「ポン菓子機こそ我が命」という信念に貫かれた人生を語ってもらった。
■「この子らをどうにか飢えから救いたい」。鉄を求め、風呂敷包みひとつで北九州へ
「はい。私が、いとはん!大正の最後の年の生まれ」
ちゃめっけにあふれた童女のような笑みとともに、幼い日々を語り始めた利子さん。その言葉のとおり、彼女は1926年(大正15年)1月11日、大阪府八尾市の大地主の橘家に、3人きょうだいの次女として生まれた。
「うちは蔵が4つあって、手伝いの“おとこし(男衆)”と“おなごし(女衆)”も大勢おって、大事に大事に育てられました。でも、父は二号さん(愛人)がおって家には寄りつかず、やがて両親は離婚。お金には困らなくても、寂しい思いをしたねえ」
母に代わってきょうだいの世話をしたのが祖母で、その教えが利子さんの人生観を作っていく。
「『人にはやさしく』と、ことあるごとに言われて育ちました」
大阪府女子専門学校を経て、18歳で国民学校の代用教員に。赴任した学校は陸軍の飛行場にも近く、太平洋戦争の末期には、教え子をかばってB29の落とす焼夷弾から逃げ回ったことも。
しかし、それ以上に深刻な問題があった。
「食糧難でどの子の手足も痩せ細り、おまけに燃料不足でアワやヒエなどを生煮えで食べるから、おなかをこわす子が多かった。先生になって最初の仕事は、新聞紙をちぎって手でもんでやわらかくすること。
おなかをこわして授業中に便所に駆け込む生徒に、それを渡すの。もちろんトイレットペーパーなんてまだない時代やったからね。弁当を持ってこられる生徒も、60人いた子供たちのなかで、わずか10人くらいだけ。日に3件もの弁当泥棒騒動が起きることもあった」
当時の話をよく聞かされたという真貴子さんが、隣で補足する。
「母は、先生といっても当時まだ18歳ですから、教え子との年も10歳くらいしか違わなかった。だから、子供たちのひもじさやつらさも、誰よりひしひしと感じたのだと思います」
そして、利子さんは決心する。
「この子らを、どうにかして飢えから救いたい、そう思いました。穀物なら膨らませられるはずと考えて、まずは図書館で文献をあさり始めたり、知り合いの大学教授を頼って設計図も自分で描いたり」
その行動力や知識には非常に驚かされるばかりだ。
「女学校では物理や化学を専攻していたので、穀物を膨張させる仕組みは理解しとったからね」
なるほど、利子さんは、わが国のリケジョのさきがけだったようだ。大まかな設計図も完成し、次はその製造機械を具体的に形にしていく段階となったが、大きな壁にぶち当たる。肝心の材料の“鉄”がないのだ。当時、民間の金属類は、兵器製造などのために軍に徴発されていたためだ。
そんなとき、くだんの大学教授から「鉄の町・北九州なら材料があるのでは」と聞かされた利子さんは迷うことなく、製鉄会社や鉄工所などが集まっていた北九州行きを決意する。
しかし、周囲は当然、「苦労知らずで育ったいとはん(お嬢さん)が、あんな気性の荒い、大酒飲みばかりの土地へ行くなんて」と猛反対した。だが、利子さんの決意は固かった。当時の思いをこう語る。
「不思議に怖いとは思わなかったよ。それはな、私が飢えた子供たちのためにポン菓子機を作るんだ、私がなんとかせにゃいかん、しちゃるんだという、たしかな目的があったから」
1944年の夏。体ひとつ、風呂敷包みひとつで夜汽車に乗り込んだとき、利子さん、まだ18歳。それは何不自由ない“いとはん”としての生活との決別でもあった。
■世間知らずのお嬢さんと酒飲みの鉄工職人夫婦の連携で念願の第1号機が完成
北九州市の戸畑区で暮らし始めた利子さんは、まず小さな工場を構えて、自動車部品などの注文を受けるようになる。同時に、ポン菓子機の開発に一緒に取り組んでくれる職人を探し始めるが、そこで出会ったのが、のちに夫となる文夫さんだった。
「主人との生活?楽しかったし、大変やったね(笑)。というのも、主人は鉄加工の腕はピカイチやったけど、酒飲みで苦労したから」
10歳年上の文夫さんは、根っからの職人肌だった。
「父は実は再婚で、4人の子供もおったそうですが、母は知らずに結婚したみたいです。仕事一筋の変わり者で、工場の徹夜作業に夢中になった挙げ句、ダライ粉(鉄くず)の上で平気で寝てるような人でした」(真貴子さん)
いとはんの利子さんと、職人かたぎの文夫さん。一見、相反する組み合わせに見える夫婦の見事な連携ぶりについて語るのは、長男の文明さん(77)。
「当時の職人さんは、うちの親父だけでなく、誰もが人見知り。口ベタではけ口は酒くらい。ですから、腕はいいがしゃべりは苦手な父が現場を担って、代わりに、ふだんの職人さんたちの世話や、営業や金策を、人当たりのいい母がやってました。終戦前後の混乱した世で、海千山千の人でひしめいていた北九州でのことですから、営業でもさまざまな障壁があったはず。ですが、母はお嬢さん育ちだったからこそ、周囲を気にせずに、理想に向かって突き進むことができたんじゃないでしょうか」(文明さん)
まさに夫婦の二人三脚で、八幡製鐡などの下請け仕事をこなしながら、開発が進んでいく。もともとポン菓子機自体は欧州などにあったが、そこに画期的な改良を施したのが吉村さん夫婦だった。
「『鋳物から鉄への軽量化』『燃料を薪からプロパンガスに』『地べたに置いていた機械に脚をつけた』この3つの改良によって、機械が安定して、容易に移動もできるようになりました。小型トラックに積んでの営業も可能に。まさに日本が得意とする、既製のものに手を加えてより便利で高品質にするという技術でした」(文明さん)
こうした日本人ならではの器用さや工夫が、ほかの分野同様に戦後の経済復興を支えていったのだ。そして終戦の年の’45年夏、悲願の吉村式ポン菓子機の第1号機が完成、特許も取得した。
「子供だけでなくまわりの大人たちも、『ほんとに、まだ子供みたいなあんたが、この機械を作ったのかい』と驚きながら、私の頭を何度もなでてくれたの」
このときの喜びと感動を、利子さんは生涯忘れない。
「ただただ、よかったという気持ち。これで子供たちを腹いっぱいにしてあげられる、と。こっそり一人で泣いたんよ。もう、うれしゅうて、うれしゅうて……」
(取材・文:堀ノ内雅一)
【後編】夫を失った後も、子育てしながら寝ずに働いて――子供たちのお腹と夢を膨らす「ポン菓子」広めた100歳が伝える“平和への思い”へ続く