「21歳のパパのカノジョと相部屋に」手塚治虫、石ノ森章太郎、赤塚不二夫 伝説漫画家の子供たちが暴露!衝撃的すぎた“幼少期エピソード”
漫画界の3狭小の子供たちがトキワ層に集結!父親の思い出語った(撮影:ただ)
手塚治虫、石ノ森章太郎、赤塚不二夫。3人の運命の交差点ともいえる「トキワ荘」に集った2世たち。偉大な父たちの素顔や創作への執念、今だから笑える家族の絆などを語り合った。
ギシギシギシ。レトロなアパートの急勾配の階段を上ると、廊下の両サイドに共用トイレや共同炊事場、4畳半の居室が並ぶ。
手塚るみ子(以下、手):階段を上るとき、あえてギシギシという音が出るように、忠実に再現したそうです。小野寺丈さんは、トキワ荘マンガミュージアムに来られたのは初めてですか?
丈:そうなんですよ。でも、中学生くらいのとき、トキワ荘のことは父(石ノ森章太郎さん)から聞いていたので、取り壊される前に本物を見学したことがあります。
赤塚りえ子(以下、赤):共同炊事場の流しを、父と石ノ森先生がお風呂がわりにしていたそうですね。
東京都豊島区にあるトキワ荘マンガミュージアムは、手塚治虫さんの入居(昭和28年)を機に、のちに人気漫画家となる若者が全国から集ったトキワ荘を、再現している施設だ。
2月某日、同施設に手塚治虫さんの長女・るみ子さん(61)、赤塚不二夫さんの長女・りえ子さん(61)、石ノ森章太郎さんの長男で俳優の丈さん(60)が集った。
手:丈さんとは、石ノ森先生のお別れ会のときに少しごあいさつしましたが、父のことなど、お話しする機会はこれまでなかったですね。
丈:はい。ボクが何か言って迷惑をかけたくないから、あえて父のことは語ってこなかったんです。
赤:でも、今回はなんで?
丈:今年1月に還暦を迎えて、父が亡くなった年齢に追いついたことで心境が変化し、今後は少しずつ、父のことを語っていこうかと。
手&赤:いやいや、たくさん語ってもらいたいですね!
父親たちの息遣いを感じながら、幼少期の思い出から語り始めた。
手:石ノ森先生は、ご自宅でお仕事をしていたんですか?
丈:ええ。記憶に残る父の姿は、漫画を描いている後ろ姿ですね。
手:そうなりますよね。私も父の背中を覚えています。
赤:私が思い出すのは、パパが遊んでいる姿。パパはスタジオ・ゼロ(トキワ荘メンバーが中心になって設立したアニメ制作会社)でも遊んでいたようで、銀玉鉄砲の撃ち合いをしていたんです。
それで、あの温厚な藤子F先生(藤子・F・不二雄)に「うるさい!」って怒られて、近所にある自宅に移動。家でパパがスタッフたちと遊びの続きをしているのを見てたら、偶然、玉が私の鼻の穴に入ってしまって、パパにピンセットで取ってもらった記憶が(笑)。
手:うちは家と虫プロが同じ敷地内。スタッフが何十人といる環境でしたね。実写とアニメが合成されたテレビドラマ『バンパイヤ』(1968年、フジテレビ系)もうちの庭で撮影していて、セットの一部が庭に転がっていたし。
丈:アシスタントは夕方に来て、朝方に帰るから、父はすごくおなかが減っているんですよ。父はいろんな袋麺を買いだめて、お湯の代わりに味噌汁を入れたりして、オリジナルラーメンを作るのが好きで、ボクも弟も朝からラーメンという日が多かったですね。
手:大人に囲まれた環境だったから、兄(手塚眞さん)は年の割に大人びて、生意気な口もきいたりするので、編集者に、父が見ていない隙に池に落とされたり。
赤:かわいそう(笑)。
手:人の出入りが多いので玄関の鍵も開けっぱなし。
すると、お酒を飲んで終電を逃した編集者が「手塚さんちなら開いている」と泊まりにくるから、玄関の鍵を閉めるようになったんですよ。それでも「トイレの窓なら開いている」と入ってくる人も。その編集者は出禁になりました。
丈:うちの父は忙しい中でも、一生懸命、家族との時間を作ってくれました。父がいつもネーム(漫画の下書き)を描くのに使っていた、「ラタン」という喫茶店の父の特等席で、ケーキやコーラを頼んで、帰りに本やレコードを買ってもらうのが大好きだったんです。
手:私の父も石ノ森先生と一緒で、家族の時間を大切にしてくれました。必ず夏は家族旅行に連れて行ってくれたり。
赤:忙しい先生方に、よくそんなお時間あったね。
手:でも最後まで来なかったこともあるし、旅行先でも締切りギリギリまで漫画を描いて、ついてきた編集者が原稿を持ち帰るようなこともありました。
赤:わかる。私も17歳のときに行ったセブ島では、パパは仕事で2日ほど遅れてやってきました。しかも赤塚不二夫が子供たちと行く、セブ島ツアーで、宝探しなんかもする健全な旅行だったんですが、パパは昼間からずっと飲んでいました。丈:赤塚先生らしい。
赤:パパが来るまでは、21歳のパパのカノジョと相部屋に。
手:えー!嫌じゃなかったの?
赤:全然。パパはいつも人に囲まれて、いろんな人との付き合いも多かったから、私の中では“公共物”というイメージ。
帰宅するのは深夜4時とか遅いんです。寝ている私に「女にフラれた」と愚痴をこぼしたり、「りえ子、ビールをつぎなさい」と起こされたり。両親ともに宵っぱりで朝起きれないから、幼稚園にもほとんど通いませんでした。
パパは私が小学校になったころには、ほとんど家にいなくて。小学校で先生がみんなに「赤塚さんのお父さんから漫画の描き方を教えてもらいましょう!」って言ったときは、すごく切なくなったんです。
丈:一方、当時はまだ漫画の地位が低かったですよね。学校の先生も平気で「漫画を読んだらバカになる」って言っていました。たまたまボクと目が合ったら、気まずそうしていましたよ。
手:2世の子たちは、みんな似たような経験あるよね。
赤:なかでも赤塚漫画はPTAの敵でしたから。
丈:おそらく、ちょうどその時代に始まったのが、『仮面ライダー』(1971年、現テレビ朝日系)でした。
赤:私、当たりキャップを集めたら仮面ライダーのワッペンがもらえる「パイゲンC」を飲んでた!
丈:あった、あった。ボクはカードのおまけがついた「仮面ライダースナック」が好きで、自分の小遣いで買ってました。レアカードが当たったときは、すごくうれしかった!
手:え?おうちにサンプルとか送られてこなかったの?
丈:うちの親が偉いのか、自分の小遣いで買えって。今思うと、裏から手を回してもらえばよかったって思います。
手:うちも『鉄腕アトム』のいろんなグッズが家に送られてきたけど、母が全部与えたらろくなことにならないと、どこかに隠していました。子供が悪さしたら父の名前が出るから、母はしつけには厳しかったんです。
丈:うちも。逆に父はすごくやさしかったんです。一度、弱いものいじめのようなことをしてしまって、ビンタをくらったことがありましたが、手を上げられたのはその1回だけでした。
※手塚治虫/手塚プロダクションの「塚」の、正しい表記は旧字体
【後編】「赤塚先生には“ホテル行こうか?”と誘われた(笑)」手塚治虫、石ノ森章太郎、赤塚不二夫伝説漫画家の子供たちが明かす“豪快すぎる伝説”、家族の交流秘話もへ続く