「新党を作れ!」認知症の菅直人元首相が選挙特番の“中道惨敗”に叫び…妻・伸子さんが「介護生活」
夫の政治活動を支えてきた伸子さん(写真:時事通信)
「本人は至って元気です。徘徊することもなく、一人で買い物に行くことも。毎晩、好きな芋焼酎を、多いときは四合瓶1本飲むこともあります(笑)。いまのところ穏やかに暮らしていますよ」
こう語るのは、第94代内閣総理大臣、菅直人氏(79)の妻・伸子さん(80)だ。2024年10月に政界を引退した菅氏。その後、ほとんど表舞台に姿を現さなかったが、今年に入り、認知症を患っていることが明らかになった。
「引退する1年ぐらい前から兆候がありました。当時、菅の秘書をやっていた息子の源太郎(現・武蔵野市議)から、何度も同じことを聞き返すので、“ひょっとして”という話は聞いていました。
それでも、日常生活はふだんと変わりがなかったので、認知症を発症していることに、私は気づきませんでした」(伸子さん、以下同)
ところが引退後、伸子さんや周囲の人たちに対しても、短時間のうちに同じことを何度も繰り返し聞く回数が増え、認知症を疑うようになったという。
「専門医を紹介してもらって、MRIなどさまざまな検査を受けました。その結果、脳が萎縮していることが確認され、認知症であると診断されたのです」
政治家時代は、怒りっぽく、すぐにイライラする性格から“イラ菅”というあだ名で呼ばれていた菅氏。認知症になると怒りっぽくなる人がいるともいわれているだけに、言動にも何か大きな変化が起きたのだろうか。
「もともと主人は、家では怒鳴ったりすることはなかったです(笑)。認知症になってからも同じで、直近の出来事の記憶は弱くなりましたが、目の前のことには対処できるし、会話もゆっくりですが普通にできる。トイレやお風呂も自分で行ける。介護で困ることはなかったですね」
だが昨年8月、認知症の症状が一時悪化する出来事が起きた。
「修理に出していた時計を一人で受け取りに行った際、お店の近くで転倒したんです。主人から“滑って転倒して動けなくなった”と私の携帯に連絡が入り、急いで現場に行くと、とても痛がっていたのですぐに救急車を呼びました。
病院で検査を受けたところ、左足の大腿骨転子部を骨折していることがわかり、手術後に入院。しばらくの間歩けない状態となったので、一時的に認知症の症状が進んだようでした。でも、約2カ月後に家に戻ってきてからは骨折前の状態に戻りました」
菅氏は入院中に「要介護3」の介護認定を受けた。
「退院後、11月から週2回デイサービスに行くようになりました。最初は行くのを嫌がるかも……と思いましたが、足のリハビリをしっかりやってくれる施設だったので、本人も抵抗することなく受け入れてくれました」
■「なんとかしなさい!」妻の叱咤で真相解明が
菅直人と伸子夫妻は、いとこ同士。伸子さんが津田塾大学3年生のときに、菅氏(当時、東京工業大学2年生)の実家に下宿。
それから親しくなった2人は、4年後の1970年に結婚する。
「いとこなので、幼少のころにも法事などで会ってはいますが、ほとんど覚えていないんです。覚えているのは、私が中学1年で主人が小学6年生のとき、夏休みに兄と遊びに行ったら、彼が一人でずっとしゃべっていて、“うるさいガキだな”と思ったのが第一印象でしたね(笑)」
結婚後、菅氏は弁理士となるが同時に、婦人運動家・市川房枝氏らのもとで市民運動にも参加。その後政治家への道をたどる。1980年、衆議院選挙で初当選。若き市民派代議士の誕生は、多くのメディアでも取り上げられた。
1996年、厚生大臣だった菅氏は、血友病患者の治療に非加熱製剤を使用し、多数のHIV感染者やエイズ患者を生み出した薬害エイズ事件の真相究明に着手。国が責任を認めるに至った。
じつは、そのきっかけを作ったのは伸子さんだった。
「国や製薬会社を相手取って起こしていた薬害エイズ訴訟の原告で、実名公表していた川田龍平さんと会って話を聞く機会がありました。薬害によって多くの命が奪われているのに、なぜ国は被害拡大を防ぐことができなかったのか。その真相が解明されないのはどう考えてもおかしい。そう思ったので、家に帰ってから主人に、“なんとかしなさいよ!”って、怒鳴りながら、調査をするように背中を押しました」
そして菅氏といえば、やはり2011年3月11日に発生した東日本大震災。とくに福島第一原発事故の対応では、自ら現地視察も行った。
「総理官邸と公邸は隣り合わせなんですが、陣頭指揮を執らないといけないので、震災直後から1週間以上帰ってきませんでした。それは官邸に詰めている官僚や職員たちも同じで、まともに食事をとる時間さえもなかった。
若いスタッフから“カップラーメンよりカップ焼きそばのほうが、冷めても食べられる”と聞いたのですが、近隣のコンビニから商品が消えていたので、京都でスーパーマーケットを経営している知人に電話で相談しました。
翌朝7時、カップ焼きそばを満載したトラックが到着したという連絡が入り、うれしさのあまり急いで道路まで走って、トラックを公邸の中まで誘導しました」
政界を引退するまでは、2人で政治にまつわる白熱した議論を交わすことも多かったという。菅氏は伸子さんのことを“家庭内野党”と呼んでいたほどだ。
「昔は2人でよく議論をしていましたね。だいたい私が論破するんです(笑)。でも今は、もう政治にほとんど興味がないって感じで、私が話を振っても乗ってきません。新聞も毎日読まなくなったし、それほど政治には関心がなくなってしまったようですね」
だが、先の総選挙で政治家の本能をのぞかせる出来事が起きた。2人で選挙特番を見ていたときに、“自民党歴史的大勝”“中道改革連合大惨敗”のテロップが出た。
その瞬間、菅氏は「チャンスだ!新党を作れ!」と、叫んだそうだ。
「ビックリしました。ふだん、政治の話なんてしないのに、突然声を上げましたから。これまで自分がやってきたことが、頭のどこかで感覚的に残っていたのかも。驚いたけど、面白いな~と(笑)」
■「私の顔がわからなくなるまでは……」
菅氏は自分が認知症であることを自覚しているのだろうか。
「自覚しています。自分で“頭の中に蜘蛛の巣が張っている”と言ったりすることもあります。以前のように、自分の頭がしっかり働いていないことが、本人にもわかっているようです」
「本当のことだから、隠したってしょうがないよ」と、認知症を公表することも受け入れているという菅氏。
認知症とはいえ、買い物や行きつけのラーメン店にも一人で出かけるという。伸子さんが心配しているのは、今後のこと。
「時々ですが、幻聴が起きることがあるんです。“今ピンポンって鳴った。誰か来たんじゃない?”って言うんですけど、実際インターホンは鳴っていないし、誰も来ていない。これからもまた別の症状が出てくるかもしれません」
伸子さんは夫を介護するうえで1つだけ決めていることがあるという。それは、“私の顔がわからなくなったら、施設でお世話をしてもらう”という。「やはり家族同士で、顔がわからなくなると、介護する側は悲しいし、情けなくなってくる。そして、腹が立ってくることもあるでしょう。とくに自分の夫や親だとなおさらつらいです。だから、もしそうなったらプロにお任せしたほうがいいと思っているんです。でも、私の顔がわからなくなるまでは、毎日楽しく穏やかに過ごせるように、見守っていくつもりです」