「女性のパイロットは前例がない」155cmの日本初女性機長 身長制限で壁に直面も…人生を変えた“決断”
ボーイング787型機のコックピットで。藤さんが座る左側の席は、飛行機運航の最高責任者である機長にのみ許された場所(撮影:水野竜也)
日本の主要航空会社におけるパイロットの数は約7千人。そのうち女性はわずか142人だ(’24年時点。国土交通省調べ)。長らく男性の仕事とされてきた世界に風穴を開けた、日本航空の藤明里さんは、今も操縦桿を握り続けている。日本初の女性定期旅客機機長として道なき場所に航路を描き16年。「特別なことはしていない」と言い切るその背中に宿るのは、揺るがぬ覚悟と、空への尽きない憧れだった。
「すみません!スカーフがうまく結べなくて」
照れくさそうに小走りでやってきた藤明里さん(58)の制服の肩章には、機長の証しである金色の4本線が光っている。
’10年7月、藤さんは女性として日本で初めて定期旅客路線の操縦席の左側に座った。
そこは最終判断と全責任を担う「機長の席」だ。日本の旅客機の機長は、長い間、男性だけの職業だった。大阪発仙台行き、彼女の初フライトには多くの報道陣が詰めかけた。
「特別なことをしている感覚は正直なかったですね。いつもどおりにすれば問題ないので」
当時、取材陣の問いかけに、新米機長は初フライトについて淡々と答えていた。あれから16年。藤さんは、今の仕事をこう語る。
「月によってばらつきがありますが、月50~80時間ほど飛んでいます。
通常は4日働いて2日休むサイクル。国際線、たとえばアメリカ西海岸などへの長距離フライトのあとは3日休みになります。
それから、20人ほどの機長や副操縦士をまとめるグループ長もしています(※取材時)。パイロットは基本的に個々で動くので、3カ月に一度ほどグループ全員で集まって意見交換をしたり、要望を聞いて私が会社に伝えたり……班長さんみたいなことをしています」
現在、操縦桿を握るのは最新鋭のボーイング787型機。国際線や長距離路線における主力機、通称「ナナハチ」を操り、乗客を安心・安全に目的地まで送り届ける。
「安全性はもちろんのこと、定時性、快適性、運航効率を高めることにも気を配ります。天候は毎日違うため、フライトも毎回異なり、同じものはありません。お客さまも、ビジネスマンばかりのときもあれば、正月やお盆などで家族連れが多いときも。
定時到着を求める乗客が多い場合には、少し揺れる進路をあえて選ぶこともあります。
一方で、家族連れが多いときには、サービスが全員に行き渡るように、快適性を最優先にした高度を選択する。いろいろな要素を組み込んで、フライトを組み立てていきます」
取材時の撮影場所は、滑走路が見渡せるオフィスの片隅。広報担当者が正装のスカーフを整える間も、藤さんの視線は駐機場へと向かう。自分の愛機“ナナハチ”を探してキョロキョロ。
「あっ、この時間帯なら大谷選手の塗装機が見えるかも」
大谷翔平選手をデザインした特別塗装機「DREAM SHO JET」を広い滑走路から探し出そうとする藤さん。その瞳は、子どものように輝いていた。
■身長が足りず国内での進路断たれるも、夢を追い単身渡米し、ライセンス取得
藤さんには、忘れられない風景がある。
2歳半のときに、親の膝の上に座って見た、機窓からの景色だ。
「父の実家がある九州方面に向かう飛行機だったと思います。窓の外をのぞくと、お風呂場での泡遊びみたいなモコモコの泡がいっぱい。とてもキレイで、ビックリしたことを今でも覚えています」
建築士の父と専業主婦の母、弟の4人家族で育った彼女が、初めて空に憧れた瞬間かもしれない。将来は飛行機を操縦したいと決めたのは高校2年生のとき。
「高校時代に東京・八王子に住んでいたので、近くの横田基地を離着陸する飛行機を『うわ?、いいな』といつも見上げていました。小さいときから乗り物が好きで、もうひとつ人生があるなら、新幹線の運転士になりたいぐらい。それに、船も好きだし、ユンボ(油圧ショベル)やブルドーザーの操作にも憧れました。
ただ、なによりもジェット機の音が大好きだったんです」
当時、パイロットになる道は2つに限られていた。日本唯一の国立パイロット養成所である航空大学校に入学するか、航空会社の自社養成パイロットに応募するか。ところが、航空大学校の受験では、身長155cmの藤さんは、当時の身体基準(163cm)に8cm足りないことがわかった。
ひとつの道は閉ざされた。それでも、思いは少しも揺らがなかった。航空会社の自社養成パイロットに応募するため、高校卒業後は、一般大学へ進んだ。
「そろそろ就職という時期を迎えて、いくつかの航空会社に自社養成パイロットについて問い合わせてみると、電話口の相手は困惑している様子。『女性のパイロットは前例がない』と、エントリーすらできませんでした」
そんな藤さんを奮い立たせたのが、大学時代のゼミの先生の言葉だった。
「将来、パイロットになりたいと先生に話したとき、『女性なのに頑張るね』とは言わずに、『エレガントに生きなさい』と。年齢や性別、常識などに縛られない自由な先生の一言は、『女だから』『男だから』という枠を超えて、自分に備わっている魅力や気質を失わずに、しなやかに生きなさいと教えてくれたように感じました。今でも人生の指針です」
大学卒業後は、米連邦航空局のライセンス(事業用操縦免許)を取得するため、アメリカへ渡ることを決めた。
「父は、二十歳を過ぎたら、自分の責任で全部やりなさい、という人。アメリカ行きを告げたら、さすがに驚いていましたが、反対はしませんでした。渡航費用は、『オレの名前で、銀行から借りてやる』と言ってくれた父が500万円近くのお金を工面してくれ、ロサンゼルスのパイロット養成学校に入りました。本当に航空大学校の受験資格である身長によって操縦ができないのか確かめてみようという思いもありました」
初めて1人で軽飛行機のセスナ152の操縦桿を握ったときの気持ちの高ぶりを鮮明に覚えている。
「ソロフライトをするためにはインストラクター(教官)付き添いのもとで、最低20時間は飛ぶ必要があります。
ある日、訓練が終わった後に『今日はOKのサインをしてやる』と言われて、30分ほどのファーストフライト(初単独飛行)に。いつも厳しいインストラクターがいないことも大きかったですが、伸び伸びとした気持ちで、この上ない解放感でした。
目印となる幹線道路やオートセンター(自動車販売所)など地上物標を確認しながらのフライトでしたが、青空を思いどおりに飛んでいるとき、やっぱりこの仕事が自分に向いていると思いました」
初の“乗客”は家族だった。
「ライセンスを取得したころにアメリカにやってきた父と母にロスの夜景を見せてあげようと、セスナ機での夜間フライトを計画。格納庫から機体を引っ張り出していたとき、高所恐怖症の母が『やっぱり私は乗りたくない、地上で待っている』と言い出し、それを聞いた父が『1人で生き残るつもりか』と(笑)。ジョークのセンスがいいとネタにしてます」
アメリカでライセンスを取得して帰国。その後、父への借金を返済しながら派遣社員として働き、国内の事業用操縦免許も取った。藤さんは、飛行機の運航管理や整備の手伝いなど地上での仕事をしながら、空を飛べる機会を求めて就職活動を続けた。
’97年、日本航空のグループ会社・JALエクスプレス(現在は日本航空と統合)が、ライセンス取得者ならば、誰でも応募できる採用制度をスタートさせた。
「この機会を逃すわけにはいかないというプレッシャーが重くのしかかってきました。それでもエントリーに必要な計器飛行証明という資格を取って、’99年に採用試験を突破することができました」
30歳で入社した藤さんは、その後トレーニングを経て、約1年で副操縦士に。機長になるという夢に一歩近づいた。
(取材・文:山内太)
【後編】「ペダルに足が届くのか?」との偏見を一蹴!日本初女性機長が示した「女性こそパイロットに向いている理由」へ続く