「一緒にいて不幸だと思ったこと一度もない」津久井やまゆり事件から10年…施設を離れた生存者・尾野一矢さんの家族が語る“植松死刑囚への回答”
事件の日、やまゆり園の慰霊碑に手を合わせる。「昔は園に近寄るのも嫌っていたのが毎年、行けるように」(父・剛志さん)
【前編】「病室でずっと“お父さん”と私を呼び続け」津久井やまゆり園の悲劇から10年…生存者・尾野一矢さんの家族が振り返る“当日のこと”から続く
そのころ、相模原市に住んでいた大坪さんは、事件の報に「同じ市内でこんなことが起きるなんて」と愕然とした。だが、まさかその被害者と関わることになろうとは、このときは思いもしなかった。
「ただ、新田さんたちが形作った『重度訪問介護』は、従来は重度の肢体不自由者が対象だったのが、新田さんが他界した1年後に、知的障がいや精神障がいの人にも対象が拡大されて。そのころから僕も知的障がいの人の地域移行、施設を出て地域で暮らすための支援をするようになっていて……」
肢体不自由者と知的障がい者では、求められる介護も違う。その違いに戸惑っていた時期だった。
「やまゆり園は、僕があまり触れ合ってこなかった知的障がいの人が多く暮らす施設。そこの職員だった犯人が、メッセージを突きつけてきたように感じました。『お前の知らない世界を覗いて、俺はこういう答えを出したんだ』と」
その少しあと。
介護を担当していた人と行ったコンビニでのこと。
「その人、いつもは自分で支払いもできるのに、なぜかその日はレジ前でブツブツと言い続けていて。『あれ?』と思った途端、暴れだしてしまった。物をひっくり返し、レジの女性に殴りかかろうとして。あまりのことに、僕はぼうぜんとなって、なにもできなかった。
その後も精神的に参ってしまって。『僕には荷が重すぎる』と。そして、そのときも犯人の『本気で地域移行なんて、やれると思ってるのか?』って声が、聞こえてくるようで。
打ちのめされる思いでした」
■施設での集団生活は障がい者にとって本当の幸せとは言えないのではないか
「え、地域移行?それってどういうことですか?」
剛志さんとチキ子さんは事件後、被害者家族のなかで唯一、実名で取材に応じ、多くの場所で差別根絶を訴え続けた。そこで出会ったNPO法人「自立生活企画」の関係者から「一矢さんの地域移行やってみませんか」と提案されたのだ。「私も不勉強でしたが、県も施設からもまったくアナウンスがなかったから。『重度訪問介護』という制度のことを知らなかった」
施設での長年の集団生活の結果、すっかり口が重くなってしまった一矢さんの姿に、剛志さんは改めて思いを強くしていた。「この暮らしは一矢たち障がい者の本当の幸せとは言えないのではないか」と。
「だから、そんな制度があるなら、一矢にも世間の人と同じような普通の暮らしをさせてあげたい。それこそが、一矢の幸せにつながるはず、そう思った」
こうして父母は、改めて東京都西東京市にある「自立生活企画」に足を運び、相談を重ねた。そして、一矢さんの介護リーダーに白羽の矢が立ったのが、大坪さんだった。
大坪さんは、一矢さんとの出会いの場面を鮮明に覚えていた。
「2018年の8月、やまゆり園の仮園舎近くの公園でした。一矢さんとご両親と、お弁当を食べたんです」
事件後、やまゆり園は全面的な建て替え工事を敢行。一矢さんたち入所者の多くは、横浜・芹が谷の仮園舎に仮住まい中だった。
「僕はまだ、あのコンビニでのトラブルを引きずっていて。もう、自分に介護の仕事は無理ではと、自信をなくしていた。そこに、『一矢さんの介護者に』というお話をいただいて。元職員とはいえ介護者に裏切られ、命まで奪われかけた一矢さんが、どういう心持ちでいるのかも不安でした。
拒否されたり、恨まれたり、かみつかれたりする可能性も否定できなかった」
チキ子さんお手製のお弁当を、おおむね食べ終えたとき。
「予想に反して一矢さんは天真らんまんというか『本当にこの人、被害者なの?』と思うぐらい朗らかで。すると、不意にデザートのメロンを僕の口元に運んでくれて、笑顔で言ったんです。『大坪さん、また来る?』って。僕、その瞬間、涙があふれて止まらなくなっちゃって」
大坪さんは「申し訳ない」と心の中で謝罪したという。それは、疑ってしまった一矢さんに、そして、亡き新田さんに対しても。
「新田さんが苦労して作り上げた『施設から地域へ』という大きな流れに背を向けようとしていたことが恥ずかしかった。それに、なんだか一矢さんといると、まるで新田さんが隣にいるような気がして。
『性根を入れ直し、また頑張ります』と胸の内でつぶやきました」
その後、大坪さんは約2年間、毎週のように一矢さんのもとに通い、ゆっくりと信頼関係を構築。そして、2020年8月。NPO団体が借り上げ、現在も一矢さんが暮らすアパートで2泊3日の“宿泊体験”を実施した。徐々に環境に慣れてもらうのが狙いだったのだが……。大坪さんが振り返る。
「初日はやまゆり園の職員さん、2日目は僕が介護を担当したんです。その2日目の午前中に、ふと一矢さんがささやくように言ったんです。『せりがや、やめとく』と」
大坪さんが「ん?何か言った?」と聞き返すと、最初はもじもじしていた一矢さん。
だが、時間がたつにつれ、その声はだんだんと大きくなって。それは、一矢さんの明確な意思表示だった。
「夕方には、はっきり大きな声で『せりがや、やめとくー!』って」
その日以来、一矢さんは施設へは戻っていない。自ら「かずやんち」と呼ぶアパートでの暮らしは、やがて6年になろうとしている。
■「お母さん、好き」「お父さん、だーい好き!」その笑顔に幸せを感じる
「英雄ですよね。僕なら自慢げに吹聴しちゃうと思う。そういうのが、一矢さんには一切ないのが逆に、すごいなって思うんです」
大坪さんが話すのは、事件から3年半ほどのち、公判で明らかになった当日の一矢さんの行動のこと。
結束バンドで拘束されていた職員の「携帯電話を取ってきてくれない?」という頼みに、負った傷の痛みをこらえながら、一矢さんは応じていた。
リビングルームまで這っていき携帯電話を職員に届け、それが110番通報に、迅速な救助活動につながったのだ。
「そういうところも一矢さん、新田さんに似てます。世間から『金食い虫』『迷惑だよ』と心ない言葉をぶつけられながら運動した結果、バリアフリー化が進み、誰もが暮らしやすくなったのに。新田さんは褒められることもなければ、決してふてくされることもなかった。植松は『不幸しか作らない』と決めつけたけど、一矢さんには、あんなすごいことができたんです」
両親も「一矢といて不幸だなんて思ったこと一度もない」と力を込める。剛志さんは笑顔で続けた。
「むしろ、幸せを感じることばっかり。どんなとき?それはやっぱり、一矢が笑ってくれたときですね。いい顔して笑うんだ。『お母さん、好き?』って聞くと、笑顔で『お母さん、好き!』って」
すると、今度はチキ子さんが「面白くない」と言わんばかりに、言葉を継いだ。
「最近もね、かんちゃんのアパートに遊びに行って『一矢、お父さん好き?』って聞いたの。そしたらさ、『お父さん、だーい好き!』だって。『だーい』まで付けるんだよね、私には付かないのに(笑)」
取材の日、一矢さんは大坪さんとのドライブで、江の島まで足を延ばした。ランチは大好きなソースをたっぷりかけた、希望どおりのカキフライ。食べたいものを、食べたいように食べる──、そんな当たり前の自由を、いまようやく一矢さんは享受している。
「かんちゃん、おいしいですか?」
大坪さんの言葉に箸を止めた一矢さんは、ソースだらけの口元と、力いっぱいの笑顔で答えた。
「おいしいー!」
(取材・文:仲本剛)