「うちだけじゃなかった」戦争トラウマに苦しむ復員兵家族たち、2世や3世へと広がる共感と平和への願い
自宅敷地内に建てた「PTSDの日本兵と家族の交流館」の前に立つ黒井さん
【前編】「みんな死ぬぞ」と言ってガスの元栓を…父の戦争トラウマに苦しめられた女性明かす“心の傷”は世代をこえるから続く
戦場で極限状態を経験した復員兵には、悪夢やアルコール依存、家庭内暴力、自殺願望、無気力などに苦しむ人が少なくない。こうした症状は「戦争トラウマ」と呼ばれ、ベトナム戦争後の米国で広く知られるようになった心的外傷後ストレス障害(PTSD)のことだ。一方、日本では復員兵の心の傷は長く語られなかった。
しかし近年、復員兵の家族がトラウマ体験を語り始めたことで、厚生労働省は2024年度に初めて実態調査を実施した。「戦争は戦場だけで終わらない」という現実が、ようやく知られ始めている。
「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」代表で、会を立ち上げた山形県出身の黒井秋夫さん(78)もまた、戦争から帰還した父を持つ2世だ。父・黒井慶次郎さんは約6年間、満州や中国戦線の最前線でゲリラ掃討作戦などに従事した元日本兵。1946年6月に帰国し、2年後に黒井秋夫さんが生まれた。
「父は定職に就くことができず、日雇いの仕事を転々としていました。家族ともほとんど口をきかず、問いかけられても一言二言返すだけ。いつも悲しげで困惑したような表情を浮かべ、笑顔を見せることもありませんでした」
黒井さんは長い間、そんな父を「でくの坊みたいな親父」だと半ば軽蔑していたという。
「何を考えているのかわからない。私が結婚したい女性がいると切り出したときも、父からは何の言葉もなかったんです」
晩年まで心を閉ざしたまま、1990年に77歳で亡くなった。父が戦争で心を壊されたのだと気づいたのは、黒井さんが定年退職した後のこと。
「2015年、退職記念に妻とピースボートに乗りました。船内でベトナム帰還兵を描いたドキュメンタリー映画を見たんです。
戦場で子どもを殺した記憶に苦しみ、帰国後もPTSDに苦しむ姿に、『親父と同じじゃないか』と直感しました」
戦後70年近くを経て、黒井さんは初めて、父が「怠け者」でも「でくの坊」でもなく、戦争で心を壊されたのだと理解した。
「どうしてもっと早く気づけなかったのか……」
当時、戦争でPTSDになった日本兵の存在はほとんど知られていなかった。
「父の名誉を回復するためにも、私が伝えなければと思いました」
黒井さんは、船内で「父と二人三脚でPTSDになった日本兵の語り部になる」と心に誓ったという。しかし、家族会を立ち上げるまでに2年を要した。
「家族の不名誉を今さら公にしてどうするんだ。地域や親族からも反発されるのではないか。そんな不安がずっとありました」
親族に理解を求め、準備した。満を持して2018年に、自身のブログで「家族会」設立を発表したが、反応は皆無だった。
黒井さんは市民集会などへ足を運び、証言者を集めるためのチラシをまき続けた。そんな黒井さんを、いつも隣で支えてきたのが妻・さち子さんだ。
「『頑張って』なんて言われたことはありません。でも、集会へ行くときは、いつも来てくれました。家族会のシンボルの白旗の原型も、妻が一針一針縫ってくれたんです」
そう言って見せてくれた白旗には〈戦争はしません 白旗を掲げましょう 話し合い和解しましょう〉の文字が書かれている。
「家族会」発足から2年後、自宅の敷地に「PTSDの日本兵と家族の交流館」を建てた。ちょうどそのころから、2世たちが少しずつ名乗りを上げ始めた。
一方、黒井さんも父の足跡をたどるため、軍歴調査も続けた。
「調べていく過程で、父は多くの中国人の命を奪い、仲間の死を目の当たりにして、その記憶を背負い続けていたのではないかと、考えるようになりました」
父もまた戦争の犠牲者だった。
「しかし同時に、中国では加害者でもあった。その事実から目を背けることはできませんでした」
父に代わって謝罪したい。そんな思いから、黒井さんは中国人の知人の協力で2024年に訪中。交流の場となった小学校で、日本兵の息子だと明かし、「父が申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
「父は、『よくやった』と言ってくれていると思います……」
そう話す黒井さんの目には涙が浮かんでいた。
■「うちだけじゃなかった」3世にも広がる共感の輪
こうした黒井さんの活動は、孫の世代─「戦争トラウマ3世」へも広がりを見せている。
埼玉県在住の石井みきこさん(41)も、その一人だ。
石井さんは九州出身。両親ときょうだいの5人家族のもとで育った。経済的な不自由はなかったが、家庭では父が母に暴力を振るう「面前DV」が繰り返された。
「父は夜に帰宅することが多く、車の音が聞こえるだけで『また始まる』と身構えていました」
幼稚園に入る前から頭痛や視界のかすみに悩み、小学校では教室に入れないことも。教師には「夫婦げんかはどこの家にもある」と言われ、「苦しい自分がおかしい」と思い込んだ。しかし、その苦しさは大人になっても消えなかった。
「子どものころから『大したことじゃない』と言われ、『つらい』と口にすれば人間関係が壊れる気がしました。一人で抱え込むしかなく、仕事も長続きせず、結婚後は夫に感情をぶつけることも」
39歳で複雑性PTSDと診断され、両親と距離を置いても、「父はなぜあんな人になったのか」という疑問は消えなかった。
そんなある日、ベトナム帰還兵の家族を描いたアメリカのドキュメンタリー番組を見た。
「家族の雰囲気が自分の家と似ていて、『戦争の影響なのかな』と思いました。でも父は戦争を経験していない。何がつながっているのかわかりませんでした」
疑問が解けたのは昨年11月、黒井さんの活動を紹介するテレビ番組を見たことがきっかけだった。
「そのあと『家族会』に参加しました。さまざまな2世の方々に話を聞くうちに、『父も戦争トラウマ2世だったのではないか』『祖父にも戦争の影響があったのではないか』と確信したんです」
父方の親戚に尋ねると、幼少時代に父は、復員兵の祖父から軍隊式の体罰を受けていたことを知る。石井さんは、さっそく祖父の軍歴を調べた。
「1912年生まれの祖父は29歳で召集され、内地勤務ながら捕虜収容所などで働いていました」
専門家からは、高齢で徴兵された祖父は軍隊内で厳しい扱いを受け、捕虜収容所でも過酷な任務に就いていた可能性があると聞いた。
「祖父が父にしたことも、父が家庭でしたことも許されません。でも、戦争トラウマという視点で見ると、個人だけではなく、社会全体の問題だと気づいたんです」
石井さんは今年3月、同じように生きづらさを抱える女性たちの語り合いの場「日本兵の家族かもしれない人の家族の『もやもや』を語る・聞きあう会」を立ち上げた。
「参加者の方は、『自分の家だけがおかしいと思っていた』『誰にも話せなかった』という人ばかり。でも話し始めると、『うちだけじゃなかった』と気づく。それでやっと、『この痛みは感じていい痛みなんだ』と、自分を肯定できるようになるのです」
戦争は終わっても、その傷は家庭の中に残り、子や孫へ受け継がれていく。「だからこそ、政治を預かる人たちには、戦争を軽く考えてほしくない」と石井さんは話してくれた。
家族会代表の黒井さんもこう誓う。
「為政者が戦争を始めようとしても、白旗を掲げ続けます。それこそが、先の戦争で他国の人々を殺め、そのトラウマに苦しみながら死んでいった復員兵たちの願いだと思うからです」
復員兵の家族は、今日も空高く平和のシンボルである白旗を掲げる。新たな悲劇を生まず、戦争の傷をこれ以上誰にも受け継がせないために──。
(取材・文:和田秀子)