《能登半島豪雨から2年》遺族が偲ぶ“犠牲になった14歳少女”との思い出「成績はよくて、夢は公務員」
“翼音のフクロウ”の絵を描く祖父・誠志さん(撮影:ただ〔ゆかい〕)
2024年9月に発生した「令和6年能登半島豪雨」。21人が犠牲となったが、当時中学3年生だった少女・喜三翼音(きそはのん・享年14)さんも、そのうちの1人だった。それから2年、三回忌を前に遺族たちが、翼音さんとの思い出を語ってくれた――。
黒い板の上に漆を練り出し、少し灯油を混ぜてなめらかに。手の脂で漆をはじかないよう、ゴム手袋をはめた喜三鷹也さん(44)が筆を取り、慎重に色を塗る。
「漆を塗った箸は、霧吹きなどで湿気を与えながら数日かけて乾かします。自分が塗った箸が、ようやく売り物になるようになりましたが、まだ職人なんて名乗れるレベルではありません。
娘の翼音がいまの姿をどう見ているかですか?ボクが漆塗りをするとは想像もしていなかったはずやから、まったくわかりません」
鷹也さんは振り返って、ピースサインをする白い制服姿の翼音さんの遺影を見つめた。
写真は翼音さんを含む21人の犠牲者を出した令和6年9月能登半島豪雨の1カ月ほど前に行った修学旅行中に撮影されたものだ。
翼音さんは輪島塗の蒔絵師である祖父・誠志さん(65)の作業を見るのが好きだったという。祖母の悦子さん(66)はこう語る。
「初孫やし、すごくかわいらしかった。よく気がつく子で、私の体調が悪いときは『ばあちゃん、大丈夫?』って気遣ってくれるんです。
逆に私が翼音のことを心配していると『大丈夫や』と答えてくれる。『大丈夫』という言葉をよく使っていました」
’24年元日に発生した能登半島地震では、鷹也さんの輪島市の自宅は一部損壊で済んだ。だがその9カ月後の豪雨被害のため、鷹也さんと長男は野々市市の誠志さんの仮住まいに身を寄せることになった。
「いまでも会いたいし、翼音がいないのは不思議な感覚です。漆を塗って集中しているとき、出張朝市で接客しているときは気が紛れますが、ふとした瞬間に悲しみは襲ってきます」(鷹也さん)
あの日から2年、まもなく翼音さんの三回忌が訪れる。
■「ばあちゃん、落ち着いて」、能登半島地震発生直後も家族を励ました翼音さん
喜三翼音さんは’09年12月28日、石川県輪島市に生まれた。当時、父親の鷹也さんは製材所に勤めていた。
「出産にも立ち会いました。抱かせてもらうと、温かくて重くて。一人目の子供やったんで、いろんな感情が湧き上がりました」
さまざまな方面で活躍してほしいという願いから「翼」、それに鷹也さんは音楽が好きだったため「音」の文字を合わせ「翼音」と名付けた。
「翼音が小1のときに離婚して、翼音と長男をボクが、まだ小さかった次男を元妻が引き取ることに。
翼音はごはんをおいしそうに食べる子で、サーモンのお寿司が大好物。朝は、ボクが作ったスクランブルエッグというか炒り卵をごはんにのせて、ふりかけをかけて食べるのが好き。そして何よりお気に入りなのは、ばあちゃんの作るご飯とお弁当でした」
翼音さんは、祖父の誠志さんから絵の才能を受け継いでいた。
「ボクに絵の才能はなく、輪島塗の仕事を継ぐ気はありませんでしたが、翼音は絵がうまいこともあり、じいちゃんの仕事にも興味を持っていました」
翼音さんは中学生にもなると、反抗期を迎えたという。
「休みの日に『金沢に行こうか』と誘っても、ついて来なくなりましたね。『服を買ってやるから』っておまけをつけないと来ない。でも、ケンカもしたけど、反抗期はほかの家よりはマシやったと思います」
能登半島地震が起きたのは’24年元日の夕方。鷹也さんは親戚へのあいさつまわりをして自宅に帰ったとき、翼音さんは当時は近所にあった祖父母の家にいたときに発生した。
「家が潰れるかと思うくらいの揺れでした。テレビが倒れたり、冷蔵庫がずれたり、立って歩ける状況ではないから、息子とコタツの下に隠れました」
揺れがおさまって屋外に退避すると、景色は一変していた。
「家や倉庫が倒壊したり、山肌が崩れたり……。津波が来るかもしれんから、翼音のいる実家に行って、実家の裏から高台に移動しようと思いました」
鷹也さんと長男は、潰れた小屋や散乱する木材を避けながら、歩いて実家に移動。倒壊を免れた実家を一目見て、安堵した。
「少し斜めになった部分はありましたが、家族の命さえ無事であれば、なんとでもなりますから」
地震発生直後のようすを、悦子さんが振り返る。
「揺れがおさまったころ、翼音の部屋にあわてて行くと、エアコンも落下してメチャクチャなのに、ベッドの上にいた翼音は『大丈夫、大丈夫やから、ばあちゃん、落ち着いて』って」
そんな孫娘の冷静さに、悦子さんも救われた。鷹也さんが続ける。
「翼音はわりと“なんとかなる”という前向きな性格だったから」
地震発生直後は余震が続き、家に入ることはできなかった。そこで誠志さんが所有する荷台付きの箱型トラックを鷹也さんの自宅の庭に移動させ、布団や毛布を持ち込んで雨露をしのいだ。
「家族が集まっていたから、子供たちにはキャンプをしているような感覚もあったのかもしれません」
だが誠志さんと友人が共同経営する、工芸品と輪島塗の店「HAPPY Rest」がある輪島朝市通り方面の空が赤く染まっていた。
「火事に巻き込まれているのではと心配でしたが、道が寸断されて見に行けませんでした」
悪い予感は的中し、店は火事で商品も含めて焼失してしまった。さらに誠志さんの家は、準半壊という判定に。全壊、半壊に比べ、準半壊の場合は受け取れる義援金が少ないという。
「準半壊という判定では実家を修理することも取り壊すこともできませんでした。仮設住宅にも入れないから、両親は輪島から野々市市の仮住まいに引っ越すことに。
ボクの自宅は無事だったから、輪島に残ったんです。でも……」
■福井県の海で漁船が見つけた翼音さん。「娘さんは頑張って浮いてくれていた」
輪島市の地元の学校が再開されたのは2月に入ってからだった。
「翼音はよく頑張って、成績はよいほう。公務員になりたいって言っていました」
そんな将来の夢を温めていた翼音さん。一方、祖父の誠志さんにとっても、前向きになれる出来事があった。
全焼してしまった1200年の歴史がある輪島朝市の伝統を守るため、各地で出張輪島朝市が開催されることになったのだ。
朝市が復活することは職人の誠志さんの生きる糧となり、孫の笑顔が背中を押してくれたと、誠志さんが語る。
「地震で店や家を失ったじいちゃんやばあちゃんのつらさを、子供ながらに感じたのでしょう。出張朝市として再開するときも、朝早くから起きて、手伝ってくれてね」
翼音さんは接客、商品の包装、支払いのやり取りなども任せられた。鷹也さんが続ける。
「最初はお小遣い目当てだったのかもしれませんが、そのうち『お小遣いがなくても、朝市手伝いたい』と言うように。翼音なりに祖父母を助けたかったのでしょう」
中学3年生の夏休みには金沢市の高校に体験入学。卒業後は野々市市で仮住まいする祖父母の家に住んで、金沢市の高校に進学する計画も立てていた。
そんな夏休みのある日のことを、誠志さんが思い出す。
「私が木製のカップに、漆で白や茶色のフクロウの絵を描いていたんです。それを見た翼音が『じいちゃん、フクロウにかわいい色をつけてみてよ』って言うんですね」
伝統工芸士(伝統的工芸品の伝統的技術・技法を有している人の称号)である誠志さんには、リアルな動物画の発想しかなかった。
「パステル調の色なんて、翼音ならではのアイデア。それに翼音は、“1羽じゃなく、2羽のフクロウが寄り添うようにしてよ”って言うんです。それだとカップルのようにも見えるし、親子やじいちゃんとばあちゃんのようにも見えるからって。
言われるまま絵付けをしていくと『じいちゃん、これ、絶対に売れるよ。私も朝市で売るから』って自信たっぷりに言ってね。実際に富山市の出張朝市で、初めて出品したとき、フクロウのカップは完売したんですよ」
しかし、その喜びを翼音さんに報告することはできなかった。
富山市での出張朝市の前日夜から、輪島では強い雨が降っていた。翌日の9月21日早朝、鷹也さんはサッカーの試合に出場する長男を、最寄り駅まで送った。
「輪島駅では雨やったけど、試合のある志賀町では大したことがないみたいでした。出社するときに自宅前の塚田川を見ましたが、泥水にはなっていても水量は増えていなかったんです。昼ごはんを食べに自宅に戻ったときに水量をチェックしようと思っていました。その日は土曜日で学校が休みやったから、翼音のこともそのまま寝かせていたんです」
自宅から車で10分ほどの場所にある会社に出社しても、周囲の景色は変わらないため、知人から「塚田川が大変なことになっているみたいやけど、大丈夫か」と電話があったときも、信じられなかった。だがしばらくして、もう1回「本当にやばいらしいぞ」と電話があったことで、鷹也さんは翼音さんにビデオ通話をした。
「翼音は『まわりが海みたいになっとる』と言って……。部屋のドアを開けようにも、水圧で開かんようになっていたんです」
3階建ての家で、翼音さんがいた2階の自室にまで水が上がってきていたのだ。
「翼音は外を見て『水に流されて車庫がないよ』って。『そんなん、いいわ!それよか絶対に出るなよ』って伝えました。外に飛び出しても溺れ死ぬだけだと思ったんです。ぬれて体が冷えるかもしれんから、とっさに『とにかく長袖長ズボンをはいておけ』とだけ伝えて、消防署に電話するために一回電話を切りました」
富山の朝市に出店していた誠志さんと悦子さんも、急きょ、店を片付け、輪島に戻り始めた。
「翼音に電話したら、落ち着いた様子で『大丈夫』と言っていたんですが、それが最後の言葉に……」(悦子さん)
鷹也さんも翼音さんへのビデオ通話を切ってすぐに家に戻ろうと車に乗ったが、あちこちが水浸しになっていて、3時間ほどかかって自宅近くに到着。だが規制線が張られ、それ以上進めない。「家族なんです!家があるんです!娘がいるんです!」という鷹也さんの声があたりに響いた。
自宅は濁流に押し流され、大破したようだった。翼音さんの姿は見つからないし、電話をしても通じない……。
捜索活動には、鷹也さんの友人や地元の漁師たちも協力してくれた。通常なら3~4日で打ち切られるところ、犠牲者のなかで翼音さんだけが見つからず、延長して捜索が続いた。“無事におってくれ”と一縷の望みを持ち続けていたが、日を追うごとに鷹也さんは憔悴していった。
そして豪雨から10日後のことだった。福井県の海上保安庁から電話があり、「おそらく娘さんだと思います。長ズボンに『喜三』と名前が入っています」と伝えられた。
「反抗期で、ボクの言うことはあまり聞いてくれませんでしたが、最後に言うとおりに長袖長ズボンをはいていてくれて……。名入りの学校のジャージーやったから、身元もすぐに判明したんです」
見つけてくれたのは、福井県の漁船。陸から30キロ離れた沖で、甘エビ漁の漁師が奇跡的に発見したのだった。
「大きな船で、ふつうなら気がつかんところ、スッと横切る翼音を見つけてくれたんです。目を離すと二度と見つからないから、海上保安庁が到着するまで、浮いたままの翼音のそばにいてくれました。発見してくれた漁師は『沈んでしまったらわからなくなるところでした。娘さんは頑張って浮いてくれていた。だから褒めてあげてください』と……。家に帰るために、翼音は本当に頑張ってくれました」
亡きがらの損傷は激しく、見ないほうがいいと止められた。
「あまりにも違う姿やからって……。家族で話し合って、対面はせず、かわいい姿のままの翼音の記憶だけを残すことにしました」
(取材・文:小野建史)
【後編】《能登半島豪雨から2年》亡き14歳少女の父が明かした遺族のいま「娘の死で、商売をしている」という誹謗中傷に苦しんだこともへ続く