天国に旅立った恩人へ… 感謝とお詫びのLINE(辻仁成「ムスコ飯」エッセイ)
幸せというものは失ってはじめて、あのときこそが幸せだったのだな、と思い出すものですね。私たち家族はパリのとあるすし店の常連でした。タケさんという大阪出身の板前さんがいて、元気で明るく人情に溢れた人で、いつもきさくな冗談を言っては笑わせてくれました。息子もタケさんに懐いていました。でも、3人家族が2人になった後、私たちの足は遠のきました。たぶん、そこに行くと幸せだった頃を思い出してしまうからでしょう。
離婚後、わけのわからない中傷を受け、そういうのを面白がる人もいて、パリの日本人社会とも疎遠になりました。息子の耳に余計なことを入れたくないという親心もあり。
ところがタケさんだけは心配してくださり「辻さん、どうしている?心配しているよ」としょっちゅう電話をくれたのです。そっとしておいてほしいと思うのに、呼び出されて、家に籠もっているだけじゃだめだ、とはっぱをかけられました。
去年の暮れ、タケさんの店に久しぶりに行くと、なんだか様子が変なのです。どうしたの?と尋ねると、「あ、わかる?癌やねん」と返ってきました。病状は一進一退。無理しないでほしいのに、タケさんはちょっと体調がよくなると店に立ち続けました。