【展示レポート】横浜美術館リニューアルオープン記念展『いつもとなりにいるから 日本と韓国、アートの80年』 日韓美術の交流史をたどる初の展覧会が開催中
1965年の日韓国交正常化から60年となった2025年。日本と韓国の国公立美術館が共催し、リサーチから約3年かけて実現した展覧会『いつもとなりにいるから日本と韓国、アートの80年』が12月に開幕し、2026年3月22日(日)まで横浜美術館で開催されている。韓国の国立現代美術館が所蔵する19点のほか、日本初公開作や新作を含む、50組を超える作家・約160点を通して、1945年以降の現代美術における日本と韓国の関係史をたどる。これまで開かれてきた展覧会の蓄積の中で、一方では1945年以前の近代期の日韓美術関係史について研究が進み、もう一方では現代のグループ展があるが、1945年以降の日韓美術の関係を歴史的に見通した展覧会は初だと、企画した横浜美術館主任学芸員・日比野民蓉は語る。
横浜美術館から韓国の国立現代美術館に提案し、ともに展覧会をつくる中で「両国が難しい歴史にあっても、アーティスト同士はずっと交流を続けていた」(横浜美術館館長・蔵屋美香)、「国内の政治的な問題や様々な情勢の中で芸術家たちは同じように悩みを抱えて共感し合っていた」(国立現代美術館館長・キム・ソンヒ)と、共通する感想を抱いたようだ。国立現代美術館学芸研究士チョン・ユシンは、こうした作家たちの“移動”に着目し「ロードムービー1945年以降の韓日美術」というタイトルで一部作品を入れ替えて展覧会を企画。こちらは2026年5月から韓国の国立現代美術館果川館(京畿道果川市)で開催される。
「いつもとなりにいるから」展は全5章からなる。
まず1章「はざまに-在日コリアンの視点」では、日本と朝鮮半島の間に国交が正式に回復されていない1945年から65年の約20年間をたどる。1945年の日本の敗戦により、朝鮮半島は1910年からの日本の植民地支配から解放されたが、ほぼ同時に北側をソ連、南側を米軍が統治。1950年に起きた朝鮮戦争を経て、半島は大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分断された。日本統治時代、朝鮮半島の人々は日本国籍であったため、1952年のサンフランシスコ講和条約発効で日本が朝鮮半島の独立を正式に承認すると同時に、在日コリアンは日本国籍を喪失する。日本統治時代の朝鮮半島出身者を示す「朝鮮籍」として事実上の無国籍となるか、大韓民国の国籍を取得するか、日本に帰化するか、それぞれの道に分かれていく。こうした理不尽な境遇のもと、在日コリアン一世の作品には朝鮮半島の分断の歴史や自らのアイデンティティ、在日コミュニティの生活実感に根差したものが多い。
なかでも代表作が集まった曺良奎(チョ・ヤンギュ)に注目したい。日本統治下の朝鮮半島で生まれ、1948年から日本で生活し、武蔵野美術大学を中退。
朝鮮戦争特需を起点とした高度経済成長期の陰で労働を強いられた者たちの存在を、自らも日雇い労働をしながら、具象的とも抽象的ともいえる画風で描いた。当時から評価されたことは知られていたが、展覧会準備中に同世代の美術評論家・織田達朗との書簡や写真が発見され、日本の美術界に深く関わりながら制作したことが明らかになってきたという。なお曺は、在日コリアンの北送事業を機に1960年に朝鮮人民民主主義共和国に帰国し、1968年以降の消息は不明のままだという。
曺良奎《密閉せる倉庫》1957年 東京国立近代美術館蔵(左)、《マンホールB》1958年宮城県美術館蔵(右)
フォトジャーナリストの林典子は、北送事業で在日コリアン1世の夫と朝鮮民主主義人民共和国に渡った「日本人妻」に取材した写真や映像、テキストを展示。また、韓国の現代作家ナム・ファヨンは、日本統治下の朝鮮半島出身で世界的に活躍した舞踏家、崔承喜(チェ・スンヒ)を題材とした映像作品と、1960年代に日本でフォークソングとしてヒットした『イムジン河』をめぐる映像作品を展示している。二人とも当時を知らない世代であり、「継承」としても考えさせられる。
林典子《sawasawato》2013年-ongoing展示風景
1965年、日本が朝鮮半島の南側の大韓民国とのみ国交を樹立。人や物の行き来が自由になる。
2章では、この国交正常化の時期を前後して日本の美術界と関わった世界的なビデオ・アーティスト、ナムジュン・パイク(白南準)を紹介。続いて3章ではこの60年代後半から80年代を中心に、重要な展覧会を軸として、両国の美術がどのように相手の国で紹介されたかをたどる。1968年に日本の国立近代美術館で開催された「韓国現代絵画展」では、のちに世界的なアーティストとなる李禹煥(リ・ウファン)と韓国単色画を代表する朴栖甫(パク・ソボ)が出会っている。
朴栖甫《遺伝質 1-68》1968国立現代美術館蔵
李禹煥《風景(I)(II)》1968/2015 個人蔵(群馬県立近代美術館寄託)。 「韓国現代絵画展」に出品した3点組絵画の再制作。今回は空間の都合上2点を展示。
関根伸夫《位相 No.13》1968年豊田市美術館蔵(右)、劉永國(ユ・ヨングク)《山(南)》1968年 国立現代美術館蔵
1956年から日本で活動する李禹煥の紹介で、1972年に批評家・中原佑介と東京画廊の山本孝が韓国を訪れ、翌年には明洞(ミョンドン)画廊の招待で中原と山本のほか、李禹煥、斎藤義重、高松次郎ら日本の作家が韓国を訪問。日本の主要な美術館や画廊で韓国の美術が紹介されるようになった。
また、1979年「第5回大邱(テグ)現代美術祭」も紹介。ソウルに集中していた現代美術を地方にも拡散させるべく、1974年から79年に毎年、韓国の地方都市、大邱で開催された展覧会だ。第5回では海老塚耕一ら日本の若手作家も招聘された。今回は、朴炫基(パク・ヒョンギ)による自然物である石と人工物であるビデオを組み合わせた作品、李康昭(イ・ガンソ)によるパフォーマンスを記録した写真と映像を展示している。
朴炫基《無題》1986年国立現代美術館蔵(写真右)、李康昭《洛東江イベント》1977年 個人蔵(中央)、《ぺインティング-78-1》1977年 国立現代美術館蔵(左)
今夏他界した郭徳俊(クァク・ドッチュン)は、京都生まれの在日コリアン2世。サンフランシスコ講和条約後、ある日突然、日本国籍を喪失したアイデンティティの混乱、20代前半に結核で3年間の闘病生活を送ったことが芸術活動の源となる。同展では、デビュー前のドローイングからコンセプチュアルアートへの流れが見て取れる。
郭徳俊の作品展示風景
4章は1995年に光州ビエンナーレ、2001年に横浜トリエンナーレが始まり、グローバル化の時代へ。
新しい世代の新しいメディアや表現手法を振り返る。特に韓国の国費留学生として弘益(ホンイク)大学大学院で学んだ中村政人を軸に、村上隆とソウルで開催した『中村と村上展』、イ・ブルらとの親交を紹介する。
4章「あたらしい世代、あたらしい関係」展示風景
最後の5章「ともに生きる」では、1980年に韓国の光州で起きた民主化運動に連帯した、富山妙子ら日韓の作家たちの軌跡から始まる。さらに、高嶺格、金仁淑(キム・インスク)らの現代作品も紹介。2015年、隣接する朝鮮大学校と武蔵野美術大学に橋を架け、合同展を開催したプロジェクト《突然、目の前がひらけて》の展示も。市川明子、鄭梨愛(チョン・リエ)、土屋美智子、灰原千晶、李晶玉(リ・ジョンオク)がすれ違いや葛藤を含み対話のテーブルに座り続けた記録が貴重だ。
富山妙子作品展示風景
バックグラウンドの異なる人々が異なるままに共に生きることはできないか。田中功起は映像作品《可傷的な歴史(ロードムービー)》をインスタレーションとして展示。
在日コリアン3世の女性と日系スイス人の二人が出会い、東京や川崎など在日コリアンの歴史にまつわる場所をめぐる中で、これまで語れなかった感情を言葉にしていく物語だ。
田中功起《可傷的な歴史(ロードムービー)》2018年個人蔵
さらにギャラリー8の無料スペースでは、百瀬文とイム・フンスンの映像作品《交換日記》を上映。日比野学芸員が国立新美術館在籍時に担当したグループ展『アーティストファイル2015』で始まったプロジェクトで、展覧会終了後も継続され、今回は2015年から18年に紡がれた第1部と、2025年の新作を発表している。互いにiPhoneなどで日常風景を撮りためて送り、受け取った側は再解釈して言葉を載せる。映像に相手の声で言葉が重なる。
展覧会の途中途中で、自分の出自など偶然でしかなく、この時代、この立場におかれたらどうだろうかと想像しながら見た。5章を共に生きるためのヒントとして、1章から再び身を置くようにして知り直していくのも方法かと思う。
取材・文・撮影:白坂由里
<開催情報>
『横浜美術館リニューアルオープン記念展いつもとなりにいるから日本と韓国、アートの80年』
2025年12月6日(土)~2026年3月22日(日)、横浜美術館にて開催
公式サイト:
https://yokohama.art.museum/