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高橋一生が辿り着いた芝居の本質「この体を使って表現できるものをやるだけ」

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高橋一生が辿り着いた芝居の本質「この体を使って表現できるものをやるだけ」

(撮影/堺優史)



高橋一生の近年の代表作のひとつである『岸辺露伴は動かない』シリーズ。その監督・渡辺一貴と人物デザイン監修・衣裳デザイン監修を担当した柘植伊佐夫とタッグを組み、また不可思議で奇妙な世界をつくり上げた。

それが、4月10日公開の映画『脛擦りの森』だ。岡山県西部に伝承される妖怪・すねこすりをモチーフに、静かな森の奥深くで起きる、人智を超越した出来事が描かれていく。

高橋が演じたのは、謎の男。長い白髪に、深い皺が刻み込まれたビジュアルが公開前から大きな話題を呼んでいる。俳優の力量が問われるような難役。だが、力んだ様子はまるでない。


もう何百年も前からそこで咲いていた植物のように、ただ高橋一生は映画の中に存在していた。

いい作品をつくるために、“わかっているふり”はやめた

高橋一生が辿り着いた芝居の本質「この体を使って表現できるものをやるだけ」


静かな映画だ。台詞もごく最小限しかない。高橋が演じる男の正体も謎めいている。これ見よがしに感情を放出することもなく、ただそこにいるだけ。なのに、自然と目が吸い寄せられる。

「芝居とは、そのままそこにいることが大前提だと思っています。服を着て、その場所に立って、人がいれば、もうそれ自体がお芝居。
だから僕からわざと意味づけするような動きを付け足すことは何もなかった。むしろ極限まで削っていったら何が見えるだろうという実験をしていたのかもしれません」

説明的な芝居はしない。その分、「役の9割くらいを占めていた」というのが、場所と衣装だった。ロケ地となった、すねこすり発祥の地・岡山の荘厳な風景は、高橋に豊かなインスピレーションを与えた。ビジュアルに関しても、柘植や渡辺と「きっと男にはこういうことがあったんじゃないか」と意見を交わしながら、人物像を築き上げていった。

今の高橋にとって、役とは俳優一人がつくるものではない。スタッフと共にクリエイションしていく面白さを追求している。

「“わかっているふり”でやってしまうことって、制作側も俳優側も結構多い気がしていて。
疑問や違和感があっても、聞かないほうがいいという雰囲気に流されて、なんとなく曖昧なままにしてしまう。その結果、やっぱりお互いの認識に齟齬があって、作品上の穴になるということが、現場では往々にして起こりがちです。そういうことがないのが、このチームの強みの一つ。今回も、みんなで認識をすり合わせることで、不透明なモヤモヤを一切抱えることなく、役をつくり込むことができました」

たとえば、用意された衣装が自分のイメージする役の雰囲気に合っていなくても、黙って飲み込むということが、現場ではしばしば起こり得る。「尊重」は、日本の美徳の一つだ。特に映画制作は、確固たる専門分野を持ったプロの集まり。それだけに、相手の領域には口を出さないという空気が慣習として根づいている。

「空気を読む力が、日本人は長けている。
だからこそ、『そこは言わなくてもわかるでしょ』という呼吸のようなものが暗黙の了解として成立してしまうんです。ただ、いい悪いは別にして、摩擦を恐れず、『自分はこう思う』と伝え合うことも、いい作品をつくる上では重要なんじゃないかと思います。なので、最近は『ここはあんまりふれずに流しておこう』とされがちなところを、『これってどういう意図ですか』とコミュニケーションをとって認識をすり合わせることを、この現場以外でもやるようにしています」

本物のおじいちゃんではできないことを求めて

高橋一生が辿り着いた芝居の本質「この体を使って表現できるものをやるだけ」


そんな密度の濃いコミュニケーションを経て完成したビジュアルをまとい、高橋は映画の中で老人を演じている。現在45歳。この世代の俳優が老人を演じるとなれば、否が応でも「どうしたら老人に見えるか」を考えずにはいられない。だが、高橋の演じた謎の男にはそういった作為がまるで見当たらない。

「動きが緩慢で、背中が曲がっていて……という一般的なおじいちゃん像があるのはわかります。でも僕の周りにいるその世代の方々は、仕事柄なのか、中身は若者じゃんという方ばかりで。
そもそも自分の中に、おじいちゃん=辛そうというバイアスがあまりないんです。もちろん人生の終わりを迎えて行くにあたって、肉体的な劣化はあります。でも、ヴィンテージバイクみたいなもので、内燃機関をちゃんと整備していれば、今の新しいバイクよりもよく走る……、というような。それと同じ感覚でいたのかもしれません」

発声も同じだ。老人を演じる多くの俳優が、しわがれたような声をつくる。だが、高橋は安直に轍を踏まない。

「声をつくるとなったら、声優の方々にはかなわない。肉体をもって演じる俳優としては、ちょっと違うアプローチをしたほうがいいのかなという思いがありました。
あとはやっぱり場所ですね。あれだけ素晴らしい場所を用意していただいて、そこで声で芝居をするようなことをしたらトゥーマッチになる気がした。この場所にいて居心地がいいかどうかということが、今回のお芝居のトーンを決める一つの重要な指針でした」

高橋一生が辿り着いた芝居の本質「この体を使って表現できるものをやるだけ」


見た目は、一瞥しただけでは高橋一生であることがわからないくらいに、本物同然の老人だ。けれど、そこにまだ40代の高橋一生という器を介すことで、奇妙な違和感が生じている。この違和感こそが、ミステリアスな『脛擦りの森』の世界をつくる要素の一つになっていた。

「本物のおじいちゃんではできないことがあるんじゃないか、というのは考えていました。言ってしまえば、別に老年期は僕がやる必要はないんです。どなたか実年齢の近い俳優の方にやっていただいて、僕は若い頃のパートだけやればいい。
でも、今回はそういうやり方をとらなかった。そこに意味がある気がしました」

老人の特殊メイクには、毎回およそ4時間も要した。

「これも実年齢の近い俳優の方を起用していれば、僕が夜中の2時から起きてメイクをしてもらう必要はないんです。でも、そうやって4時間かけて特殊メイクをする負荷というものを観てくださる方が感じたなら、それを逆手に取ってみるのも面白いんじゃないかなと思いました。今の時代、ヒーローものだって全編フルCGでつくることができますが、生身の人間がやるから生まれる面白さがある。だから今も俳優が生身で演じるヒーロー作品がつくられ続けているんだと感じるんです。それに通じるものが、今回の老人役にはある気がしました。どれだけテクノロジーが進化を遂げても、人間の動きを完全にトレースすることはできないと僕は信じていたい。そういう意味でも、老人を演じるというのは、僕にとっては面白い出来事でした」

人間なんて大差ない。まず“自分であること”が大事

高橋一生が辿り着いた芝居の本質「この体を使って表現できるものをやるだけ」
日進月歩のスピードでAIは進歩し続けている。2025年には、世界初のAI俳優、ティリー・ノーウッドが誕生。いずれ俳優という職業がAIに淘汰されるのではないかという議論は日に日に高まっている。

「僕の芝居の特徴をAIが抽出して、僕とそっくりな俳優を生成することも、そのうちできるようになるだろうし、世の中全体の流れとしてもそちらの方向に向かっていると感じています。その発想自体は面白いなと思いますが、いずれいろんな人が困ることになるんじゃないかと思います。そういう未来が見えているのに、なぜそっちに舵を切ろうとしているんだろうと僕は不思議に思っているんですけれど、どうなんでしょう。お芝居の世界がAIに見事に蹂躙されきったときに、どれだけのものが残っているのか、個人的には楽しみでならないです。今の世の中は老いることを嫌いますが、老いる体があることがどれだけ人間らしいことだったか、気づくことになるんじゃないかと思います」

過剰な作為は持ち込まず、余計なテクニックも付け足さず、ただそこにいる。熱演や力演という美辞麗句とはまるで対照的な地平に、高橋一生は今立っている。どこか仙人のような空気をまといはじめたこの俳優は、今、「役づくり」というものについて、どんな考えを持っているのだろうか。

「今は役づくりということ自体が、ちょっと気持ち悪いなと思いはじめているんです。なんだかそれって免罪符なのでは?という気がします。役づくりをしてますと言ってることで、自分がどこか安心したいだけなんじゃないかと」

高橋一生が辿り着いた芝居の本質「この体を使って表現できるものをやるだけ」


高橋一生が今重きを置いているのは、その対極。“自分であること”だ。

「僕は人間ってそんなに大差がないと思っているんです。天賦の才能のようなものはなくて。いわゆる個性というのは、全部後付け。周りの状況と環境でその人の肉体と精神がつくられていくだけで、基本のスペックというものは、みんなそんなに変わらないんじゃないか、というのが僕の考えです。この持論にのっとると、そもそも別人になろうというアプローチ自体が違うんじゃないかなと。違う人になるのではなく、この体を使って表現できるものをやるだけ。“自分であること”を現場に持っていくしかないんじゃないかと今すごく感じています」

俳優は、生活するための手段でしかない

高橋一生が辿り着いた芝居の本質「この体を使って表現できるものをやるだけ」
熟達した独自の視点は、まるで求道者のようであり、哲学者のようでもある。演じるとは、どういうことか。その深遠なる問いに対する直近の成果が、彼にとっては最新作なのかもしれない。

ならば、この求道者の好奇心は今何に傾けられているのか。その答えもまた、一筋縄ではいかない高橋一生らしかった。

「俳優として見られない時間をどう過ごすかを、今楽しんでいます。普通に街中を歩くことに対して、あれこれ言われなくなりまして、ようやく気兼ねなく外を出歩けるようになりました。おかげで、ただ生活者として散歩するとか、そういう時間がどれだけ大切だったかがわかったんです。いいですよ、散歩って。今日のこの夕暮れの感じがいいなって、ただそれだけのことが泣けるくらい感動できたりする。なんだかおじいちゃんみたいなことを言ってますけれど(笑)、でも本当にそう思います」

良き表現者である前に、良き生活者であること。ただ無為に過ごすひとときが、彼の心を満たしている。そして、それらは決して芝居のための鍛錬や研究の時間でもない。

「何でも芝居に直結させようとすると姑息になる。そうならないように、俳優である時間とそうではない時間をちゃんと切り分けることが、今の僕には大切なんです。俳優は、生活するための手段でしかない。俳優をやっていないと、生きていけないということはまったくなくて。あくまで仕事であり、仕事=生きることではないんです」

高橋一生が辿り着いた芝居の本質「この体を使って表現できるものをやるだけ」



<作品情報>
『脛擦りの森』

全国公開中

高橋一生が辿り着いた芝居の本質「この体を使って表現できるものをやるだけ」


配給:シンカ
© 『脛擦りの森』プロジェクト
https://synca.jp/sunekosuri/

出演:高橋一生蒼戸虹子黒崎煌代
監督・脚本:渡辺一貴

ストーリー
人里から離れた深い森で、足に傷を負った若い男(黒崎煌代)は、女の甘い歌声に導かれ、古めかしい神社にたどり着く。そこには謎の男(高橋一生)と、若く美しい妻・さゆり(蒼戸虹子)が暮らしていた。傷の手当てを受けながら、若い男はこの場所で夢のような、時の止まったような時間を過ごす。繰り返される穏やかな日々、すべては永遠に続くかに思えたが……

公式サイト: https://synca.jp/sunekosuri
公式X: https://x.com/SYNCACreations
公式Instagram: https://www.instagram.com/synca_creations
#脛擦りの森

撮影/堺優史、取材・文/横川良明

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