今回、お店をご紹介してくださるのは……【鎌倉 北じま】北嶋 靖憲氏1989年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本料理を学ぶためにと京料理の名店【和久傳】の門を叩き、【室町和久傳】【高台寺和久傳】【京都和久傳】の3店舗で16年間研鑽を積み、更に同店の系列店【丹】では料理長を務めた。その後独立し、自身の出身地である鎌倉で【鎌倉 北じま】を開業。フランスのレストランガイド「ゴ・エ・ミヨ2022」ではテロワール賞を受賞している。北嶋 靖憲氏がオススメするお店富山【御料理ふじ居】オススメの理由「いま、チーム富山として「フッコウメシ」を立ち上げられ、震災した方々に希望をあたえていらっしゃいます」御料理ふじ居【エリア】富山市その他【ジャンル】日本料理・懐石・会席【ランチ平均予算】15000円【ディナー平均予算】25000円【アクセス】富山駅北嶋 靖憲氏がオススメするお店石川・輪島【L’AtelierdeNOTO】(※臨時休業中)オススメの理由「今回の震災でご自身のお店も被災されていらっしゃいますが、炊き出し等のボランティアを優先したり、状況が見えない方々に積極的に情報発信をして下さっています。」北嶋 靖憲氏がオススメするお店富山・南砺【レヴォ(L’evo)】オススメの理由「チーム富山として「フッコウメシ」を立ち上げ、被災した方々に希望をあたえていらっしゃいます」レヴォ(L’evo)【エリア】砺波/五箇山【ジャンル】フレンチ【ランチ平均予算】25000円【ディナー平均予算】25000円ご紹介してくださった【鎌倉 北じま】北嶋さんの店舗情報鎌倉 北じま【エリア】鎌倉/逗子【ジャンル】日本料理・懐石・会席【ランチ平均予算】20,000円 ~ 29,999円【ディナー平均予算】20,000円 ~ 29,999円※推薦されたお店の営業状況は店舗様にお問い合わせください
2024年03月16日お笑いコンビ・トータルテンボスの藤田憲右(48/YouTubeでの愛称はFujiyama)が10日、コンビのYouTubeチャンネルで新車のJeep「Grand Cherokee(グランドチェロキー) L SUMMIT RESERVE」を披露した。納車の知らせを受けた藤田は、相方の大村朋宏(48/YouTubeでの愛称はTempura)と共に東京・世田谷のディーラーへ。前の日に「あんま寝れなかった」(藤田)くらい、この日を待ち望んでいたという。購入した「L SUMMIT RESERVE」は「グランドチェロキーの中でも一番上のグレード」のもの。4色展開のうち、藤田は白いボディを選んだ。動画では、シルバー→黒に変更したエンブレム&グリル(一部)や3列シートで広々とした車内など、魅力的なポイントを紹介。価格は約1200万円(税込)という超高額で、藤田は「初です4桁は」「これ多分、人生で一番デカい買い物だよ」と明かしていた。コメント欄には「この車、ハンパねぇ めちゃくちゃかっこいいですね!FUJIYAMAさんにお似合いですよ!」「男のロマンやな~」「凄い高級車!」「カッコいい」「納車の高揚感はやばいですよね。こっちまで嬉しくなりました」「納車おめでとうございます!」など、さまざまな反応が寄せられている。
2024年03月11日先頃、日本代表(A代表)のロールモデルコーチとして参加することが発表された、中村憲剛さん。世代別代表のロールモデルコーチも務め、U-17ワールドカップを目指すチームにも帯同していました。プロになる前は、世代別代表とは無縁の"非エリート"だった中村憲剛さんは、エリート選手たちに、どんな言葉をかけていたのでしょうか?さらには「伸びる選手と伸びない選手の違い」についても、お話しいただきました。(取材・文鈴木智之)ここだけのノウハウが詰まったDVD【KENGO Academy】>>■日常を、基準を高めていこうU-16、U-17日本代表に、ロールモデルコーチとして帯同した中村憲剛さん。エリートたちを前に、こんな話をしたと言います。「この環境にいることは、みなさんの努力の賜物なので素晴らしいことです。だけど、いまここにいることが、将来を保証するものではないことも確かです。過去のデータを見ると、このチームからA代表に上り詰められるのは、1人か2人ぐらいしかいないよ」さらにこう続けます。 「そして10年後。16歳、17歳の時点で日本のトップにいるキミたちではない、見向きもされないような選手が、日の丸をつけたケースがあります。それが僕です。僕はキミたちの年齢の頃、世代別代表のような良い場所にはいられませんでした。でも、みんなが途中で断念したところを越えて、違うルートで駆け上がっていきました」中村憲剛さんは「みんなはいま、この場所にいられているのだから、そこにいることを自分から放棄するのはもったいない。右肩上がりで成長していけば、他の選手が追いつけないところに行ける」と言葉に力を込めます。「努力を怠ると、ウサギとカメのように、追い抜かれてしまうんです。それが嫌なら、自分の日常を、基準を高めていこう。日本代表という素晴らしい環境で、最高の時間を過ごしているにもかかわらず、自分のチームに帰ったらそれを忘れて、のんべんだらりと過ごしていると、二度と戻ってこられなくなる。そんなもったいないことはないよ」■伸びる選手と伸びない選手の違いこのような話を聞いた選手たちは、「目の色を変えて取り組むようになる」と言います。そのうえで、中村憲剛さんは「伸びる選手と伸びない選手」の違いを、次のように表現します。「伸びる選手は、素直で聞く耳を持っています。人のせいにせず、自分の足りないところを分析した上で、ちゃんと努力し続けられる人。それが伸びる選手だと思いますし、その反対が、伸び悩む選手なのかなと思っています」中村憲剛さんは現役引退後、指導者の道を進み、S級ライセンス取得の過程で、母校・中央大学で指導を行っています。また、現役時代から若手選手の相談に乗り、アドバイスをしてきました。「現役のときは、後輩たちにも伝えていましたけど、話を聞く子、聞こうとする子、アドバイスをもらいに来る子は、継続して努力ができるんです。一方で、こちらの言ったことに対して『ちょっとそれは』とか『俺はこう思ってるんで』など、意見を聞き入れない人は、成長するチャンスを逃しているのかなと思います」■成長するために大切なことプロとして18年間、第一線で活躍してきた、中村憲剛さん。サッカー選手として成長し続けるために、必要なキーワードを3つあげます。それが「素直さ」と「傾聴力」。そして、努力し続ける「継続力」です。「監督も人間なので、目を見て話を聞く人と、明後日の方向を見ながら聞く人の、どちらに伝えたくなるか。僕はいま指導者なので、指導者目線で見ると『話が頭に入っていないな』『真剣に聞く準備ができていないな』と感じることもあります」さらに、選手から指導者に立場が変わり、見えるものが変わってきたと話します。「育成年代の子たちは、本人はちゃんと聞いているつもりでも、それが態度に現れない子もいます。だから指導者である自分自身も、しっかり人を観ないといけないなと思います」■育成年代を指導する上での気づき育成年代の指導に力を注ぐ中で、2023年には東京・調布でKENGO Academyのジュニアクラスを新設。既存の中学生(神奈川県・川崎市)に加え、S級取得の過程では大学生を指導しており、各カテゴリーで「何を、どのように教えるか。その違いに直面している」と言います。「大学生になったときに、新たなサッカーの考え方を入れるのは、なかなか難しいので、ある程度、小学生の段階でサッカー観を提示したほうがいいのかなと思っていました。でも、そうすると効率が良すぎてしまって、子どもたちがそれしか判断しなくなるのではないか。その結果、彼らが本来持っている、クリエイティブさに欠けてしまうのではないかというのが、いま感じている課題です」中村憲剛さん自身、小中高大、プロと、様々な環境、指導者のもとでサッカーをすることで「30代後半から40歳ぐらいのときに、自分のサッカー観ができあがりました」と話します。「それは、たくさんの経験をした結果だと思うので、削ぎ落としたものを小学生や中学生にポーンと渡すのはどうなのかなって。正解のプレーを提示して、それをさせるのは、道を歩いていて、小石をどかす作業をしているようなものですよね」さらに、こう続けます。「小石につまづくことで、次はつまづかないようにしよう、どうすればいいんだろうと考えますよね。そこに対して大人が関わり、正しい方向に持って行きすぎると、エラーが起きなくなるんです。そうするとトライアンドエラーではなくなってしまうので、すごく難しいですし、指導者としてはジレンマだなって思います」■KENGO Academy DVDでサッカーを学ぼう中村憲剛さんは現場での指導に加え、KENGO Academy DVDを通じて、サッカーの考え方のベースを提示しています。現役生活を振り返り「たくさんの指導者のもとでプレーしてきた中で、それぞれの良いところを抽出して、自分のものにしていく作業を繰り返してきた」と話し、「相手をどう攻略するのか。その基礎の基礎となる部分の話をしている」と自信を持つDVD。サッカーに対する考え方を知ることで、サッカー理解が深まることでしょう。ぜひサッカーIQを高めるために、DVDを観て学び、レベルアップに役立ててみてはいかがでしょうか?前回の記事「相手を観て、プレーすることの大切さ」はこちら>>
2024年02月01日●エレファントジョンに訪れた「今年こいつら、いいらしいぞ」飄々とした小気味いいテンポのボケと熱を帯びた正確なツッコミで、東京のライブシーンを沸かせたお笑いコンビ・エレファントジョン。2014年には『日清食品 THE MANZAI 2014 年間最強漫才師決定トーナメント! 栄光の決勝大会』(フジテレビ系)決勝の舞台にも立ったが、惜しまれながらも2017年に解散の道を選んだ。そのエレファントジョンでツッコミを担当していた加藤憲は現在、ピン芸人としてライブイベントのMCやライブ配信アプリ「17LIVE(イチナナ)」での配信を行いながら、プロレスのリングアナウンサーとして輝きを放っている。『THE MANZAI』以降も笑いをとり続けていたエレファントジョンはなぜ解散したのか。そしてリングアナの道へ進んだきっかけは何だったのか。コンビ解散から現在の活動に至るまでの軌跡をたどった。○■芸人になるっていう選択肢もあるのかと取材現場へは一人で現れた。こうした取材では通常、タレントはマネージャーと共に現場入りすることが多いが、加藤は現在フリーランスで活動しているため、基本的には全て一人行動だという。『THE MANZAI』決勝の舞台で華々しく笑いをとる姿をテレビ越しに観ていた身としては、不思議な感じがした。そう伝えると、「いやいや! 当時から、ずっとそういうもんでしたよ」と回想する。「芸能の他のジャンルの方々がどうなのかは分かりませんけど、芸人は相当上のほうに行かないと、現場にマネージャーさんがついてくることはないんじゃないんですかね? 『THE MANZAI』の決勝みたいな大きい仕事の時には、さすがにいてくれましたけど。だから、マネージャーさんがついてくると、『あっ、今日は大きい仕事なんだ』と。いない時は『今日はそうでもないんだな』という判断ができちゃう(笑)」1976年生まれで、現在46歳の加藤。本人も「僕らの世代はどう考えてもそうですね」と語るように、ダウンタウンから多大な影響を受けた世代だ。「小学生の頃は、とんねるずさんがすごく人気でした。でも、とんねるずさんは自分には遠いもの、みたいな感じで。語弊があるかもしれないですけど、ダウンタウンさんが現れた時、すごく身近に見えたといいますか。後になって、めちゃくちゃ高度なことをされていたと分かるんですけど、自分もそんなんできたらいいなって、何となく思っていた気がします」加藤が高校を卒業する年は、ちょうど東京にも吉本興業の養成所「NSC」が開校された年。ダウンダウンに影響を受けたのであれば、そのままNSCへと入学しそうなものだが、加藤は大学卒業後、プロダクション人力舎の養成所「スクールJCA」に7期生として入所し、芸人の門を叩いた。「高校の時、一緒にお笑いの真似事をしていた同級生がいて。そいつから『仙台に吉本の事務所ができるらしいから、一緒に行かないか?』と誘われたんです。二人とも仙台には縁もゆかりもないのに。今考えたら、すごい頭いいなと思うんですけど、『東京とか大阪だったら負けるだろうから、仙台に行ってデカい顔しようぜ』みたいなことを言われて。この時、芸人になるっていう選択肢もあるのかと思いました」「それで両親に相談をしたんです。『実は、友だちから誘われてて、ちょっとやってみたいんだけど』って。そしたら、『バカなことを言うな』と。今も両親には頭が上がらないですけど、『高校を出てすぐに芸人を始めたら、もしもダメだった時に苦労すると思うから、1回大学に行きなよ。大学に4年間行って、それでもその気持ちが変わらないんだったら、やってみればいいんじゃないか』と言われて。それで大学に入って、イベントのMCをするサークルみたいなところで、学園祭やいろんなイベントのMCをやってたんです。そしたら、より芸人をやりたくなってしまって。そのことを両親に伝えたら、『やってみたら?』と背中を押してもらいました」「当時はまだ、東京には吉本と人力舎しか養成所がなかった時代で、さっきの友だちの考えに近いんですけど、吉本に入っても勝てない気がすると思ったんです。でも人力舎は当時まだ先輩方も今くらい売れてなかったですし、『事務所の名前もよく分からないし、ここなら行けんじゃん?』みたいな感じでJCAに入って、そこからですね」そしてこの養成所で、後にエレファントジョンを結成することになる森枝天平氏(元ガッテン森枝) と出会った。○■エレファントジョンの分岐点元チャップメンの加藤と、元アメデオの森枝氏がコンビを組んだエレファントジョンは、当時芸人の登竜門だったネタ番組『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)で注目を集め、出演者のなかでも活躍した芸人が駒を進めることができるチャンピオン大会にも出場。『THE MANZAI』では2012年から3年連続で認定漫才師50組に選ばれ、2014年には決勝進出も果たした。このキャリアを整理しながら、エレファントジョン時代で一番印象に残っていることを聞くと、「2013年が一番強かった気がしますね」と答える加藤。そして「もう10年も前なんですね」と懐かしみ、「僕が勝手に思ってることなんですけど」と、ある持論を述べる。「『M-1』や『キングオブコント』といろんな賞レースがあるじゃないですか。芸人の界隈では、『今年こいつら、いいらしいぞ』『(賞レースで)いきそう』っていうのがあるんですよ。本当にすごい人は、この『いいらしいぞ』で本当にいくんですよ。その古くはバイきんぐさん。バイきんぐさんが世間的にはまだまだ全然知られてないとき、芸人界隈では『今のバイきんぐはめちゃくちゃ仕上がってる』と言われてて、ライブで一緒になると本当に渦を起こすくらい笑いをとる。その勢いのまま、『キングオブコント』で優勝したんですよね」「それが本物だと思うんですけど、実は『今年いいらしいぞ』のなかには、そのプレッシャーに負ける芸人もいて、2013年の僕たちは多分打ち負けたタイプなんです。『K-PRO』っていういろんな事務所から芸人が集まるライブがあるんですけど、2013年のエレファントジョンはもう毎月優勝、優勝できなくても2位か3位に入る、みたいな年で。それで芸人たちから『今年絶対にいく』と言われてました。でも、『THE MANZAI』は準決勝止まりで、全くダメだった」「次の年になったら、もう『いいらしいぞ』って言われなくなるわけですよ。そしたらちょっと肩の荷が下りた気がして、『THE MANZAI』の決勝にも行けたんです。僕たちのメンタルがもっと強かったら、2013年にそのままバンといけてた気がするんですけど、そこでいけなかったですね」この話を聞いて、ゾクリとした。飛石連休・藤井ペイジのYouTubeチャンネル『ペイジちゃんねる』に出演した森枝氏も、「芸人時代のピーク」として2013年を挙げ、さらにバイきんぐの話をしていたからだ。コンビとしての感覚はピッタリとシンクロしていたのだろう。この2013年以降もエレファントジョンは笑いをとり続けた。しかし、2017年に二人は解散することになる。余談だが、このインタビュー直後、別の芸人の取材があり、「さっき加藤憲さんの取材だったんです」と伝えると、その芸人は「マジですか! 加藤さんの後に自分なんかがすみません!」と謙遜しつつ、「エレファントジョンさん、なんで解散しちゃったんですかね」とポツリと漏らした。思わずそうこぼれ出るほど、エレファントジョンは「まだやれる」と周りの芸人たちに思わせた状態で、解散の道を選んだ。●ライブ配信に思わぬ訪問者「今日は謝罪と感謝を伝えに来ました」○■コンビ解散後、ライブ配信に思わぬ訪問者『ペイジちゃんねる』でも語られているが、解散を切り出したのは森枝氏だった。当時、自身の子どもが高校進学を控えるタイミングで、「自分のやりたいことで、子どもの進む道を減らすのはどうなんだろう」と揺れる思いがあったという。そして、現在は芸人を引退し、構成作家や養成所の講師として活動している。一方、解散を告げられた側の加藤は当時の心境をこう振り返る。「やっぱりお子さんのってなると、ちょっと何も言えないというか。元々森枝という人間は結婚して、お子さんが生まれるまで本当にめちゃくちゃなやつだった。僕はそれを面白いと思ってたんですけど、結婚してすごい真面目になって、お子さんもどんどん大きくなって、受験があって……ってなると、止められなかったですね」「それから、子どもの受験があるから芸人は辞めるけど、ここまでお笑いを一生懸命やってきたから、お笑いに関わる仕事をするみたいだ、とフワッと聞いて。僕としては、もっとしっかりネクタイを締めるようなサラリーマンになるもんだと思っていたのに、芸人を辞めて今度は裏方の仕事を始めました、っていうのが腑に落ちなくて」「解散を告げられて、僕がこの後どうしていくかを模索している時に、森枝が後輩のトークライブに普通に出てたんです。まだ解散してから1カ月後ぐらいですよ? 解散ライブの時に彼はお客さんの前で『引退する』と言って、ライブが終わったはずだったのに。『話が違うんじゃないか』と、すごい喧嘩しましたね」解散以降、森枝氏の近況については人づてに少し聞く程度で、どんな活動をしているかはほとんど知らなかったそうだ。しかし、そんななか、加藤が2019年より定期的に行っている「17LIVE」のライブ配信に、思わぬ訪問者があった。「ライブ配信に、森枝の息子さんが来てくれたことがあって。最初はそうだと分からなくて、初めて配信を観てくれた人にいつもするみたいに『はじめまして』というやり取りをしていたら、『実は僕、森枝の息子なんです。今日は加藤さんに謝罪と感謝を伝えに来ました。加藤さんのおかげで僕は高校にも行けましたし、今は大学生になりました。僕の受験のために加藤さんに多大なる迷惑をかけてしまったとずっと思っていたので、今日謝りに来させてもらいました』とコメントで言うんです」「でも僕、ひん曲がってるところがあるんで、『森枝の息子がわざわざこんなことするはずがない。偽物だ!』と思って。リスナーも顔を出して一緒に話せる機能があるので、『本当に森枝の息子なら、顔を見せてみなさい』と言ってみたら、本物の息子で。最後に会った時の面影があるし、なんなら親父にもちょっと似てるんです(笑)。それで、『いやいや! 色々あったけど、全くもって君のせいじゃないし、君の親父とか僕みたいな風にならずに、もっと堅実な道を選んだほうがいいから頑張ってね』と伝えましたね」●リングアナへの挑戦、今も大切にする下準備○■芸人からリングアナへコンビ解散後、いくつかのコンビやトリオを試しながら活動していると、新たな挑戦につながる転機が訪れる。芸人仲間から、レスラーの高木三四郎が代表を務めるプロレス団体「DDTプロレスリング」で実況を探しているから受けてみたらどうかと声をかけられたのだ。元々プロレスファンだった加藤は、オーディションに参加することに。しかし、即席実況が上手くいかず、結果は散々だったという。このままでは終われないと思った加藤は「何でもいいからやらせてくれませんか?」と志願。すると、偶然にも所属のリングアナウンサーが産休に入るタイミングということも重なり、会場スタッフとして下積みを行いながらリングアナの修行を始めた。そして1年間の修行ののち、晴れてリングアナとしてデビュー。現在は実況を担当する機会にも恵まれている。「何でもそうなんですけど、実情も知らずに色々言うのは嫌なんです。『17LIVE』も最初に声をかけてもらった時は怪しいなと思ったんですけど、やりもせずに文句言うよりは、ちゃんとやってみて、じっくり中まで見てみてから文句を言いたいなと思って、始めてみました。リングアナも正式になってから2年経って、少しずつ文句じゃないですけど、自分の意見を言えるようになってきました」芸人からリングアナへ。異業種からの挑戦である。ファンからの反応を本人はどう感じているのだろうか。「僕がリングアナや実況をしていることをよく思わない人も多分いると思います。いると思うんですけど、それは仕方ないことだなって。僕も言う側の人間なんで(笑)。プロレスのイメージがなかったタレントが『プロレス大好きなんです!』と言ってたら、『あれ、今までプロレス好きとか言ってたっけ? おかしくない?』『ここに空きがあるから、急に言い出したのね』ってなりますもん。だから、ファンの方の気持ちもすごく分かるんです。だからこそ、いまだにちゃんと下調べをしてからじゃないと現場に行かないようにしています」加藤がリングアナになって2年が経ったという報告をするSNSの投稿には、ファンや関係者から祝福の声が多数寄せられていた。プロレスという競技、リングアナという仕事、そしてファンへの誠意がちゃんと伝わっているということでは? そう尋ねると、「どうなんですかね? でも、そう思ってもらえていたら嬉しいですけどね」と少し照れくさそうに口元を緩めていた。■プロフィール加藤憲1976年12月27日生まれ。東京都出身。1998年、スクールJCAへ7期生として入学。現鬼ヶ島・アイアム野田とのコンビ・チャップメンとしての活動を経て、2004年にガッテン森枝とのコンビ・エレファントジョンを結成。2010年、「第9回漫才新人大賞」で大賞を受賞。2014年、『日清食品 THE MANZAI 2014 年間最強漫才師決定トーナメント! 栄光の決勝大会』で決勝進出を果たした。2017年、エレファントジョンを解散。2019年、「17LIVE」にてライブ配信をスタート。2021年、プロレスのリングアナデビューを果たし、現在はリングアナ・実況として活躍している。
2023年03月18日社会学者であり、コメンテーターとしてメディアに出演している、古市憲寿さん。古市さんは、2022年11月15日にTwitterを更新し、スペイン・バルセロナでの様子を公開しました。脱出ゲームを終えた後の写真や、サグラダ・ファミリアの写真に加え、『海外旅行する人が準備しておくと便利なこと』などの情報を投稿。スペインの脱出ゲームで汚れた。でも楽しかった! pic.twitter.com/rf2U4km4Zz — 古市憲寿 (@poe1985) November 14, 2022 いくつかのツイートの中で、自身の若い頃の写真も投稿しており、反響を呼んでいます。14年前、若い。バルセロナの港のどこか。 pic.twitter.com/gUMUt7Lkar — 古市憲寿 (@poe1985) November 15, 2022 古市さんは14年前にもバルセロナを訪れており、その時に撮影された写真を公開。2022年現在の古市さんと比べて、少しあどけない様子が伝わってきますね!投稿には、さまざまなコメントが寄せられました。・やんちゃな雰囲気があって、かわいい。・まったく印象が違う、別人みたい…。・昔もいいけど、今もかっこいいよ!・髪型が若いけど、顔立ちは全然変わらないですね。メディアに出演している時の、臆することのない堂々たる姿勢とのギャップに、魅了された人が多かったようです![文・構成/grape編集部]
2022年11月19日平川憲秀 著『日本一働きやすい治療院を目指したら、人が辞めない会社になりました』2022年5月16日刊行株式会社あさ出版(代表取締役:田賀井弘毅、所在地:東京都豊島区)は平川憲秀 著『日本一働きやすい治療院を目指したら、人が辞めない会社になりました』 を2022年5月16日(月)に刊行いたします。人が辞めない3つの「好き」のつくり方とは京都・大阪・滋賀に16店舗を展開する平川接骨院/針灸治療院グループ。成熟期に突入した治療院業界で、売上5年で8倍と驚異的な成長を続けています。本書は、同社を支える「圧倒的にホワイトな職場のつくり方」を解説。社員数132名で従業員満足度92%を実現する仕組みを紹介します。「社員同士でなんでも言い合える関係を目指さない」「教育研修は業務時間内に行う」など、業界を問わず、離職率の高さに頭を悩ませる経営者の助けとなるヒント満載の1冊です。「働きやすい」に必要な3つの「好き」※以下、本文より一部抜粋せっかく採用した「人」が辞めてしまう理由には、大きく3つあると私は考えています。それは、「会社がつらい」「仲間がつらい」「仕事がつらい」。逆に、この3つのうちの1つでも「好き」と思えるものがあれば、人はその組織で働くことに楽しさを感じ、「辞めたい」とは感じなくなってくれるはずです。そこで当社では、この3つのうちのどれかを「好き」になってもらうべく、会社の仕組みづくりを進めてきました。「会社が好き」になるために仕事において守るべき明確な「ルール」が あることが社内の心理的安全性を高める。仕事において守るべき明確な「ルール」があることが社内の心理的安全性を高める。手帳型のルールブック「経営計画書」。社員が社長の言葉に振り回されなくなり働きやすさが格段にアップ。手帳型のルールブック「経営計画書」。社員が社長の言葉に振り回されなくなり働きやすさが格段にアップ。「仲間が好き」になるために社員旅行、懇親会、サークル活動、コミュニケーションツールなど社内の人間関係をよくする仕組み。社員旅行、懇親会、サークル活動、コミュニケーションツールなど社内の人間関係をよくする仕組み。さまざまなチーム活動で、チーム力をアップ。社員の結束が高まる運動会は社員から一番人気の行事。さまざまなチーム活動で、チーム力をアップ。社員の結束が高まる運動会は社員から一番人気の行事。「仕事が好き」になるために結果が出れば仕事は楽しくなる。 だから教育研修時間は年間1000時間。結果が出れば仕事は楽しくなる。だから教育研修時間は年間1000時間。マニュアル化の徹底により社員一人ひとりが確実に仕事で結果が出せるようにする。マニュアル化の徹底により社員一人ひとりが確実に仕事で結果が出せるようにする。書籍情報表紙タイトル:日本一働きやすい治療院を目指したら、人が辞めない会社になりました著者:平川 憲秀ページ数:256ページ価格:1,650円(10%税込)発行日:2022年5月16日ISBN:978-4-86667-375-2 amazon: 楽天: 目次1章日本一働きやすい治療院のつくり方2章教育の仕組みで成長できる3章働きやすさは、「仕組み」がつくる4章風通しをよくするコミュニケーションの仕組み5章未来をつくる経営著者プロフィール平川憲秀(ひらかわ・のりひで)著者:平川憲秀EMPOWERMENT株式会社代表取締役。京都市出身。両親が1976年に京都市南区に開業した鍼灸整骨院を引継ぎ、平川接骨院/針灸治療院グループとして京都・大阪・滋賀に16店舗を展開。企業成長率年120%、圧倒的な働きやすさで注目を浴びる。現在は、全国50社以上が集まる「エンパワーメント経営アカデミー」で治療院成長のための「仕組みと組織づくり」のサポートも行っている。【報道関係各位】『日本一働きやすい治療院を目指したら、人が辞めない会社になりました』リリース.pdf : 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2022年05月12日戦争の極限下で異質な他者と出会い、人はどう変わるのか。古市憲寿さんによる、極上純愛小説『ヒノマル』。「この2年で、自由というのは脆いものだと痛感しました。ある出来事をきっかけに社会の空気はがらりと変わってしまうし、当たり前だと思っていた“自由”という権利すら、突然奪われてしまう。それが、またすぐに『いまはしょうがないか』と当たり前の形が変わって、いつの間にか窮屈さが増していくことだってあり得ますよね。そんなときに、社会の要請に従順に従うのか、徹底的に抗うのか。ただ、それ以外の第三の道というのはあるんじゃないのかなと思うんです」『ヒノマル』の舞台である戦時下と、コロナ禍にあるいまの状況に共通点を感じたという古市憲寿さん。「たとえば戦時下にも『不要不急』というスローガンがあったんです。そんな非常時だからこそ書けた物語かもしれません。戦争に対して、あるいはコロナウイルスに対してどう向き合うか。価値観が極端に対立していたり、親しい人同士でも本音と本音をぶつけ合えなかったり。そんなふうに疑心暗鬼になってギスギスした空気が蔓延する時代に、人と人はどうすれば信頼し合い、共に行動できるのかを考えたかったんです」主人公は、国家のために命を捧げたいと考えている軍国少年の新城勇二。ある日、中学の同級生で親友の小針啓介から〈魔女退治に行かないか?〉と誘われる。観音山公園内の洞窟に魔女が住んでいると噂があるのだ。探しに行くと、ひっそりとした洞窟に〈秘密の図書館〉を作っていた美しい女の子が現れて…。一ノ瀬涼子と名乗った彼女は、歴史学者の娘で、勇二より1学年上の高等女学校生。勇二は、「日本は負ける」と主張する涼子に反発を覚えながら、無意識に惹かれていく。だが、彼女は兄・優一の恋人だった。「聡明な兄と、国の教育のまま軍国少年になってしまった弟、リベラリストで自由奔放な女の子。いわゆる三角関係の物語なんですが、戦争中の物語なのでどうしても事件が起こるんです。兄が徴兵されたり、非国民呼ばわりされたり、空襲に怯えたり。極限状態で人はどうなるのか」第1稿のときの勇二は、国の勝利を疑いもしないような人間だったそう。書き直すうちに、内心では理知的な大人たちの言説を否定できなくなっていく“二重性”を、にじませるよう意識した。「勇二の正義感のゆらぎをどう書くかが、いちばん気を遣ったところですね。涼子は涼子で気ままに振る舞いすぎて、周囲とハレーションを起こしていますが、優一や勇二らとの交流を経て少し変わった部分もある。異質な他者との出会いによって人はどう変わるのか。それを見つめるのが大きなテーマでした」極限を苦悩しながら生きる若者たちの姿が描かれるが、読み心地は存外に明るい。「確かに重苦しい時代ですが、戦時中には戦時中なりの青春はあったと思うんです。たとえば、勇二らは勤労動員で軍需工場に行かされますが、夜中に涼子たちがいる女子寮に忍び込んだりします。実際にあったエピソードを参考にしたのですが、どんな大変な時代に生まれたとしても、楽しみ方はある。それは現代にもいえる話だと思います」本書には、機転が利いて要領よく立ち回れるような人物も多く登場するが、そんな人間でも時代の常識から完全に逃れるのは難しい。「ただそうした束縛を突破できる力があるとすれば、『自分や大切な人を守りたい。一緒に幸せになりたい』しかないのかなと。そんな思いを込めた作品です」シンプルだが力強いラストの一文まで、一気読み必至の大ロマンスだ。ふるいち・のりとし1985年、東京都生まれ。社会学者。同世代の視点からの新たな若者論『絶望の国の幸福な若者たち』で注目を浴びる。2018年に初小説『平成くん、さようなら』を発表し、コンスタントに作品を書き続けている。近著に『楽観論』など。『ヒノマル』物語は昭和18年、戦争の只中にある日本から始まる。大学生だった優一は学徒出陣で徴兵され、勇二らは勤労動員で駆り出される。重苦しい束縛をかいくぐり、青春を駆け抜ける彼らのたくましさが希望だ。文藝春秋2200円※『anan』2022年4月20日号より。写真・中島慶子(本)インタビュー、文・三浦天紗子(by anan編集部)
2022年04月19日冬晴れの1月に東京都江東区で中村憲剛さんのサッカー教室が行われました。子どもたち向けのサッカー教室と保護者向けのトークイベントが行われたこの企画。今回はサッカー教室の様子をレポートします。■小学生30人を対象にサッカー教室を実施よく晴れたフットサルコートに、小学生30名が集合しました。メインコーチを務めるのが中村憲剛さん。現役時代は川崎フロンターレの中心選手として活躍し、引退後は若手選手の指導やサッカー解説などを務め、人気を集めています。さらにはMCとして、名古屋グランパスや川崎フロンターレで活躍した中西哲生さんが参加。憲剛さんの指導内容に合わせて解説するなど、トレーニングを盛り上げていきました。■「正確に止めて蹴る」を実行するにあたり最も大切なもの最初のトレーニングは「2人組での対面パス」。パス&コントロールは、憲剛さんのプレーの代名詞「正確に止めて蹴る」を実行するにあたり、もっとも大切なものです。憲剛さんは子どもたちのプレーを見ながら「棒立ちではなく、ステップを踏みながらやろう」「足のインサイドを使い、体の前でボールを止めよう」と実演を交えながら、わかりやすく伝えていきます。続いて、憲剛さんは「さっき言ったことを意識しながらやったら、すごくサッカーっぽくなった。次はパススピードを意識しよう」と実演。転がってきたボールを両足でピタッと止める姿は、現役時代さながらです。憲剛さんのアドバイスによって、子どもたちの動きがどんどん変わっていきます。それを見て「良くなったよ。パススピードが上がったね!」などの声をかけながら、子どもたちの間を巡回していきます。■1つ1つのプレーにこだわる大切さを伝えた2つ目のトレーニングでは、4人の中心に1人の選手が入り、前後左右からのパスをコントロールして、横の選手にパスを出す動きを繰り返していきます。憲剛さんは「意識することはなんだろう?思い出してみよう」と投げかけると、子どもたちから「足踏み、インサイドにボールを当てる、体の前で止める」などの返事がかえってきます。憲剛さんは「そうだね。それを忘れると、せっかくいいトレーニングをしたのにもったいない。意識してやってみよう」と、1つ1つのプレーにこだわることの大切さを伝えていました。さらには、子どもたちのプレーを見ながら「ミスは問題ないよ」「慌てないで」など、プレーの後押しをする声をかける姿が印象的でした。■中西さん、憲剛さんともに短時間での成長に驚いた中西さんからは「この後にする、ゲームを想定しながらやろう」とアドバイスが送られ、ふたりとも、プレーを見ながら「良くなったね!」と短時間の成長に驚いていました。その後の「3対1のボール回し」では、憲剛さんがディフェンス役になり、子どもたちのプレーとシンクロしながら「遠い足で止める」「左足に出せるよ」「一回でボール止めれば、相手を見れるよ」など、一緒にプレーしながら声をかけていきます。そして「さっき言ったことを意識してやったら、パスは回った?」と質問。子どもたちからは「パススピードが早くなった」などの反応がかえってきます。それを受けて、憲剛さんは「さっき言ったことを意識してやるとボールは回る。ボールを持っている人の技術も大事だけど、ボールを持っていない選手のポジションも大事。試合と同じだからね」と語りかけていました。■「大事なのは自分の考えたことを積極的にやること」憲剛さんからのアドバイス最後のゲームでは、中西さんも飛び入り参加し、場を盛り上げます。中村さんは「ここまでやったことを全部意識しよう。ゲームには全部が詰まっている。みんな、頭の中を整理できたと思うから、ゲームで出そう。失敗してもいいよ。大事なのは、自分の考えたことを積極的にやること」と、子どもたちの背中を押していきます。憲剛さん、中西さんともに、子どもたちと一緒にプレーし、アドバイスを送りながら、楽しそうにボールを蹴っていました。そして、1時間におよぶトレーニングは終了。最後に中村さんは子どもたちに向けて、次のようなメッセージを送っていました。「短い時間だけど、積極的にやってくれたことに感謝しています。今後、みんなが試合を楽しむために必要なことを教えたので、ここで終わりにせず、常に意識してもらえたらと思います。また会えることを楽しみにしています!」■「憲剛さんからパスをもらえてうれしかった」子どもたちも大満足イベント終了後、子どもたちに感想をうかがいました。「中村憲剛さんのパスの一つ一つがすごくて、教え方もわかりやすかった。憲剛さんからパスをもらえたのがうれしかったし、みんな仲良くしてくれてよかった」(リュウジくん/小6)「中村憲剛さんから『ナイス!』と言ってもらえたのがうれしかった。パスをするときに、意識することを知ることができたのでよかった。憲剛さんはあこがれの人なので、会えてうれしい」(イオリくん/小5)子どもたちは、あこがれの中村さんと一緒にボールを蹴ることができて、ユニフォームにサインをもらうなど、かけがえのない思い出になったようでした。
2022年04月13日お笑いコンビ・千鳥の大悟が、8日から配信されるJT「スーシャルディスタンス」の新WEB CMシリーズ「あしたの喫煙所」で漫画『あしたのジョー』の丹下段平と初共演する。前作「ゴルゴと大悟ルゴ」が、「日テレCM大賞2021」のデジタル賞に選ばれたJT×大悟の再タッグ。今回の新作では、大悟が特殊メイクで丹下段平そっくりの「大悟段平」に。CMは15秒の「2人にとって」編、「お前が大事」編、45秒の「しつこいジョー」編、「大悟段平、灰になる」編、「丹下段平からの手紙」編、「建て! 建つんだ!」編の合計6編で「丹下拳闘クラブ」や「泪橋」、有名なリング上でのシーンなど『あしたのジョー』ファンにとって馴染みのある舞台が登場する。大悟は丹下段平の特殊メイクについて「スキンヘッドが非常に似合う顔だったということに気づきまして、(スキンヘッドに)してみても良いかなというぐらい。(メイクを)やってくれる人もすごい上手で、1日だけこれで帰っても良いんじゃないかというくらい。明日大変ですけど。それくらい馴染んでます」と満足げ。丹下段平との共演は「力強いですからね、丹下段平さんは。それに負けないように大悟段平をやったつもりです。(手応えは)あります。とにかく前歯が乾いて仕方がなかったです。ただ、やり切りました!」と振り返る。最後に視聴者へ向け「この状態で眼帯もつけてますし前歯も出しているので、ちょっと何話しているか分からないところはお許しください(笑)」と呼びかけた。
2022年02月08日株式会社カブト(所在地:東京都港区、代表取締役:行木隆)のアスリート社員でビーチバレーボール選手の池田隼平(JUMPEI IKEDA)は、庄司憲右(KENSUKE SHOJI)選手とペアを結成し、世界を目指します。■背景株式会社カブトでは、ビーチバレーボールを日本でメジャースポーツにし、人々に夢や希望、元気を与えられる環境を構築するプロジェクトとして「KABTO beach volleyball project」を立ち上げました。その具体的なアクションとして、国際大会での上位進出を1つの目標として掲げています。この度、プロジェクトの目標及び想いを、共に2022年前期男子ビーチバレーボール日本代表※である池田隼平と庄司憲右選手で共有できたことによりペアを結成し、世界を目指すことになりました。池田・庄司ペア※ビーチバレーボールの「日本代表」とは、日本バレーボール協会(JVA)で選出された強化指定選手を指します。■選手プロフィール(1) 池田隼平池田順平出身地:熊本県阿蘇市経歴 :熊本県私立鎮西高等学校・法政大学卒2010年、2011年全日本バレーボール高等学校選手権大会(春高バレー)2大会連続準優勝2010~2011 U-18 日本代表、2012~2013日本代表2012年 U-20 アジア選手権大会優勝【ビーチバレーボール日本代表歴】2018年前期、2019年前期・後期、2020年前期・後期、2021年後期、2022前期(2) 庄司憲右選手庄司憲右選手出身地:鳥取県境港市所属 :愛媛県競技力向上対策本部/湘南ベルマーレ経歴 :島根県立米子西高等学校・天理大学卒【ビーチバレーボール日本代表歴】2019年前期・後期、2021年前期・後期、2022年前期■今後の展開今年は9月に杭州で開催される国際大会出場を目指します。その後は、世界各地で開催されるワールドツアーやアジアツアー、ジャパンツアーを転戦し、国際大会のポイントを獲得していきます。最終的に、国際大会のランキングで上位獲得を目指しながら、プロジェクトを遂行していきます。■会社概要商号 : 株式会社カブト代表者 : 代表取締役 行木隆所在地 : 〒105-0003東京都港区西新橋3-24-10 ハリファックス御成門ビル2F設立 : 2000年7月事業内容: システム開発・販売事業、リスクマネジメント事業、コンサルティング事業資本金 : 4,550万円URL : 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2022年01月12日社会学者としてだけでなく、TV番組の司会やコメンテーター、小説家など、活躍の場を拡げ続ける古市憲寿さん。その軽やかなフットワークのヒントを教えていただきました。社会学者で小説家、TVのコメンテーターとしても活躍する古市さんが注目を浴びるきっかけとなったのは、ちょうど10年前、26歳で刊行した著書『絶望の国の幸福な若者たち』(巻末には俳優の佐藤健さんとの対談を収録!)だった。ただし本人の感覚としては、人生を決定付けたターニングポイントは、大学生時代まで遡る。「大学3年生の1年間、ノルウェーに留学したんです。そこで学んだことを元に卒業論文を書いていた頃、大学院進学を勧められ、社会学を本格的に専攻することになった。キャリア形成という意味でも大きなポイントでしたが、あの1年で生き方、考え方自体がかなり変わりました」もともと留学を決めた理由は、「単純に就活したくなかっただけ(笑)。それで一番ゆっくりできそうな国を選びました」しかし留学当初は、後悔することも多かったそう。「初めての一人暮らしだし食事もそんなに美味しくないしいつも天気が悪いし、友達もすぐにはできないし。勝手に思い描いていたキラキラの留学生活とのギャップで、最初の1か月は鬱々としていました。でも、この気持ちって、過度に自分に期待しているから生まれるんだよなと気が付いたんです。“自分はもっとうまくできるはず”とか考えて縮こまらないで、今の自分にできることをやれればいいし、日常の中で楽しいと感じられる小さなことを拾い集めていけばいい。今はもう、自分に期待しないと割り切っているので、どんな大舞台に見える場所でも緊張せずに済むし、トラブルが起こっても一人で抱え込まず、あっさりと人に頼れる。自分に期待しないって、結構いいことずくめだと思うんです(笑)」それは、自己否定とは異なる。むしろ、適切な自己肯定だ。「自分の足りないところや、コンプレックスに感じるところを認識するのは大事だと思うんです。というのも、それが変えられないものだなと分かったら、肯定するしかないじゃないですか。ある種の絶望から、楽観は始まるんですよね。例えば“何をやっても長続きしない”と思っている人は、楽観的な見方をすれば“好奇心が旺盛”ですよね。自分の淡泊な顔が気にくわなくても、実はそれって誰に対しても威圧感を与えない顔かもしれない。太っている人って、優しそうに見えたりしますよね。全ては解釈次第で、どんなコンプレックスも、見方を変えれば必ずいいことだと思えるようになる。別に“新しい自分”を目指さなくても、今の自分のままでも自分を肯定できるはずなんです」8月に出した新著の題名は『楽観論』だが、100%の楽観を目指せと説いているわけではない。大前提として悲観や「諦め」はありつつ、「それでも」自分自身や世の中に対していいところを探す。そんな柔軟なバランスを提案している。「自分の能力を活かせる場所は、この世界のどこかに必ずある。気付いていないだけで、“ここ”がそうかもしれない。こんな時代だからこそ、日常生活の中に少しの楽観を取り入れてみてほしいです」Noritoshi Furuichi1985年、東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。小説家として芥川賞に2度ノミネート。最新の著書は『楽観論』(新潮新書)。※『anan』2021年9月22日号より。写真・井手野下貴弘ヘア&メイク・堤 紗也香取材、文・吉田大助撮影協力・BACKGROUNDS FACTORY(by anan編集部)
2021年09月18日「僕は“勝手口”からこの世界に入った人間なので…(笑)」――。そう語るのはミュージシャンの牛尾憲輔。ソロユニット“agraph(アグラフ)”として活躍する一方、「LAMA」としてのバンド活動、「電気グルーヴ」のライブサポートやDJプレイなど、多方面で精力的に活動している。もうひとつ、牛尾さんの音楽活動の一面として、忘れてはならないのが“劇伴(げきばん)”と呼ばれる、映画やTVシリーズ作品の音楽の仕事。冒頭の「勝手口」発言は、この劇伴の仕事を指したもの。20代の頃から仕事として音楽に携わり、ソロアーティストとしても十数年のキャリアを誇る牛尾さんだが、劇伴を担当するようになったのはこの6~7年のこと。2014年のアニメシリーズ「ピンポン THE ANIMATION」を皮切りに、アニメーション映画『聲の形』、『リズと青い鳥』、さらに『麻雀放浪記2020』など、この6~7年ほどの間で次々と話題作の音楽を手がけてきた。昨年末にアニメ化が発表された「チェンソーマン」の音楽も担当しており先日、公開された音楽が入ったティザー映像も大きな話題を呼んだ。そんな牛尾さんが音楽をつけた最新の実写映画『子供はわかってあげない』が公開を迎えた。この機会に牛尾さんにインタビューを敢行。映画の世界で働く人々にその仕事について話を伺う【映画お仕事図鑑】連載第11回のテーマは「劇伴」!映画の音楽ってどうやって作るの? 普段の音楽活動との違い、その魅力は? たっぷりと話を聞いた。「ピンポン」で初めて担当した劇伴それまでの音楽活動とは「全く別物だった」――牛尾さんが最初に劇伴を担当されたのは2014年にフジテレビのノイタミナ枠で放送された「ピンポン THE ANIMATION」(湯浅政明監督)ですね?そうですね。メインで劇伴の全てを手掛けたのは「ピンポン」です。ただ、その前に知り合いのアーティストの方に「劇伴に参加してみないか?と声を掛けていただいて、ちょっとだけ参加したことありました。――「ピンポン」のオファーが来て、劇伴をご自身で手掛けることになったときの心境は?最初は不安でしたね。「できるのかな…?」と。そもそも劇伴というのは特殊な世界なので、ちゃんと劇伴のことを学ばないとできないと思っていましたし、僕はそれまで、基本的に自分のアーティスト活動しかしてこなかったので、白羽の矢を立てていただいたものの「僕(=音楽)がコケてしまったら、何百人という人が関わっている作品そのものにケチをつけてしまうことになるんじゃないか…?」とすごく緊張したこと覚えていますね。――アーティストとしてもともと劇伴に興味はおありでしたか?アーティストとしての活動の中で、テクノロジーをベースにした音楽を作っていたので、映像に音楽をつけるという部分で、技術的にトライしてみたいことはあるなという思いは持っていましたね。「こういう技術を使ってこういうことをやれば、きっとこんなことができるなぁ…」と挑戦してみたいという気持ちはありましたね。――実際「ピンポン」で劇伴を担当されてみていかがでしたか? それまでの音楽制作とはやはり違いましたか?全然違いましたね。とはいえ「ピンポン」の時にそれがきちんとできていたかどうかは怪しいですが…(苦笑)。とにかく全く別物でした。劇伴の場合、作った音楽を「これでOK」とジャッジするのが自分じゃないんですよね、それまでセルフプロデュースでクオリティを研ぎ澄ましていくということしかやってこなかったのですが、劇伴の場合「いかに作品にフィットするか?」ということが評価軸になるので、それはすごく新鮮だったし、そこで自分の足りない部分が見えてきたりもしました。――その後も京都アニメーション制作の映画『聲の形』、『リズと青い鳥』(いずれも山田尚子監督)など、次々と話題作の劇伴を担当されました。こうした活動を通じて、改めて感じた普段の音楽活動と劇伴の違い、劇伴ならではの面白さなどについて教えてください。先ほども言いましたが、これまでソロでアーティストとして活動してきて、単に自分の世界観とか自分のクオリティを研ぎ澄ますということであれば、自由に作れるんですよ。例えば、普段からダンスミュージックや電子音楽をベースにしていると、どうしても2のべき乗(※1,2,4,8,16…という2の累乗数)のリズムで作りたくなるんですね。でも映画ってそんなリズムとは関係ない。「このシーンは20秒と2コマ」と言われても、それは4小節にはならないわけです。音楽って時間軸をコントロールするものだと思いますが、映画の場合、音楽以外のものに主従関係の“主”があるわけで、それは普段の音楽活動とは全く違うものでしたね。そういう意味で、普段からのアーティスト活動も劇伴もどちらも「音楽」という言葉で表現されているけど、全く違う言葉で表さなくてはいけないものなんじゃないか? と思うくらい違うものだったし、それは発見であり、劇伴での経験から自分の活動へのフィードバックもあったし、すごく面白かったですね。――いま、ジャンルの話が少し出ましたが、agraphとしての活動でやられているのは電子音楽ですが、劇伴では作品に合わせて全く異なるジャンルの音楽を手掛けられています。牛尾さんが手掛けた複数の劇伴とagraphとして発表された作品を並べたとき、同じ人が作ったと知って、驚く人もいるのではないかと思います。いやぁ、そう感じていただけるのはすごく嬉しいです。最近、 “牛尾節”的な言い方をしてくださる人もいて、僕としてはそれはあんまり嬉しくないんですよね(苦笑)。賞味期限が短そうじゃないですか? 細く長くやりたいと思っているので…(笑)。それぞれの作品のジャンル的な違いについて、比喩的な言い方をしますと、真ん中に僕が音楽を手掛けてきた“作品”があるとして、僕が“作り手”の側にいて、作品を挟んで反対の側に“視聴者・観客”がいるとします。“視聴者・観客”側から見ますと、作品ごとに異なる様々なジャンルの音楽に見えると思うんですよ。「ピンポン」のようなテクノ系もあれば『聲の形』のような繊細なもの、今回の『子供はわかってあげない』のように、音楽というよりも映像に合った“音”が並んでいるような作品まで、様々な見え方がしていると思います。でも作り手の側の僕からしたら、制作のプロセスというのはほとんど一緒なんですよ。つまり、もともとの僕が音楽をやる上でのベースになっている“思想・哲学”みたいなものがあって、ほとんどの作品はそのフィルタを通って作られているんです。簡単に言葉にできないけど、ある哲学や思想が最初にあって、それをベースに個々の作品に寄り添いながら「こういう音楽にしよう」「こういうフレージングをして…」という感じでそれぞれの作品ごとの音楽を作っていく感じなんですね。そういう意味で、あんまりジャンルの違いで戸惑うようなことはないんです。同じスタートラインから始まって、4小節を「ドン! ドン! ドン!ド ン!」という強いリズムで均等に分割にすればテクノになるし、そうではなく、作品のゆっくりした雰囲気に合わせて、4小節を均等にではなく、例えば「ドン! ドーン…ドッ」というリズムにして有機的な音を組み合わせれば、また違ったジャンルの音楽になるんですね。創作の最初の一歩目に関しては、同じ部屋で同じコンピュータに向かって同じソフトを使ってやっているので、僕にとっては同じなんですね。ただ、作品ごとに向き合っていく“角度”が少しずつ違っていて、その角度の違いは最初の時点では1°とか2°くらいのすごく小さなものなんだけど、それが劇伴として観客・視聴者のみなさんに届く頃にはすごく大きな差になって見えてくるんですね。――いまおっしゃった「哲学・思想」というのは、担当する各作品のということではなく、あくまでも“牛尾さん自身が、音楽を作る上での”ということですね?そうです。おこがましい言い方ですが、それが例えば今回、沖田監督が僕を選んでくださった理由の部分でもあると思います。“作家性”と言い換えてもいいと思います。――その作家性と関連するかもしれませんが、これまで劇伴のオファーが届いたときに「え? この作風の監督が自分に音楽のオファーを?」と驚かれたことはありますか?ビックリすることはあります。それこそ今回の沖田監督の作品は以前から大好きで、『南極料理人』が公開されたのはちょうど大学生くらいだったかな? 世代的にもドンピシャで、お声がけいただいてすごく嬉しかったです。白石和彌監督(『麻雀放浪記2020』)もそうですね。僕は電気グルーヴとご一緒させていただいてきて、ピエール瀧さんからも白石監督について話を伺っていて「すごいな」と思っていたので、そういう監督からお声がけいただいたのはビックリしましたし、嬉しかったですし、面白いですよね。あえて全ての効果音をミュートして書き上げた、上白石萌歌と千葉雄大の車のシーン その意図は…?――アニメーション作品と実写作品で劇伴制作に違いはありますか?それはありますね。実写は基本的には“ピクチャーロック”と言われる、CGや色はまだ粗い状態だけど、基本的な画が出来上がっている「だいたいこういう映画ですよ」というのがわかる状態の映像が送られてきて、そこから劇伴の制作がスタートします。実写であれば、その段階で登場人物たちは動いているし、色も乗っているし、生音の効果音が乗っているんですね。でも、アニメーションだと、最初に頂く映像はバラバラだし、最後の最後……試写の前日くらいまで出来上がってなかったり、なんなら試写も回せない状態だったりするんですね。――なるほど、音楽をつける段階での映画そのものの完成度が実写とアニメでは全然違うんですね。加えてアニメの場合、当たり前ですけど、生の効果音がなくて、足音も衣擦れの音も、全てつけない限りは無音なんです。その差による違いはすごく大きいですね。影響を受ける部分も多いです。映画の中にセリフや環境音といったロゴス(=論理・意味)的なものが存在するときに、それを「支えるのか?」、「邪魔するのか?」、それとも「引くのか?」 ということをこちらでやらないといけないわけです。だから、元の映像に効果音があるかどうかというのはすごく大きいですね。例えば怒っている人が机を叩いた「ドンッ!」という音があったとして、実写であればピクチャーロックの段階でその音が既に存在していて、聞こえるわけです。なので、音楽をつける際に、その音にかぶらないようにしたりするんですけど、アニメの場合、その効果音が最後のダビングの段階まで鳴らないわけで、それはこちらが仕事をする上ではすごく難しいんですね。今回の『子供はわかってあげない』だと、美波(上白石萌歌)と明(千葉雄大)が、お父さん(豊川悦司)の家に向かう途中の車に乗ってるシーンで、まさにいまお話したような音楽の作り方をしています。僕のほうから沖田監督にお願いして、あのシーンの実景の音や車の音を全てカットしてもらったんです。というのは、僕があのシーンの曲を書いた時、効果音をミュートして、完全に画に合わせて書いたんですね。そうしたら“夏の予感”みたいな、すごくメロウな雰囲気の曲ができたので監督に「もしよかったら、これを聴いてみてくれませんか? 僕自身が効果音のない環境で画だけを見て書いたので」と説明して、それでOKをいただきました。――ここからさらに今回の『子供はわかってあげない』に即して劇伴制作についてお聞きしていきますが、その前に映画そのものについて、牛尾さんの感想をお聞かせいただけますか?もう沖田さんらしい“間”とかが、すごく面白くて…。沖田さんって本当にこういう奇跡みたいなフィルムを作るんですよね。先ほども言いましたが、音楽を作る上で、ある程度の映像をいただいた上で曲を作り始めているので、ずっと自宅のサブディスプレイに映像を流し続けてたんですけど、(細田)佳央太くんがすごくかわいくて好きになりましたね(笑)。「みんな! とにかく佳央太くんを見てくれ!」って思いました。「音が並んでいる」――“何も起こらない”のが魅力の沖田修一監督作品に寄り添ってできた劇伴――今回の劇伴に関して、先ほどのお話の中で「音が並んでいる」という表現をされていました。実際、映画を観ると、牛尾さんの制作された音楽だけでなく効果音やセリフも含めて、“音”がすごく印象的でした。今回の劇伴の制作の過程について振り返っていただけますか?今回の作品で最初に沖田さんと顔を合わせたのは……渋谷の焼肉屋だったはずなんだけど…(笑)、何を話したかなぁ? あぁ、たしか最初に「ハバネラ」の話があったんじゃなかったかな?――序盤の美波ともじくん(細田佳央太)の会話の中で、ゆったりしたリズムで流れる「ハバネラ」(※オペラ「カルメン」で歌われるアリア。本作の予告編でも使用)ですね。ということは、あの「ハバネラ」は監督の提案で?そうなんです。すごく申し訳なさそうな顔をしながら沖田さんが「すいません、牛尾さん。なぜか頭の中に『ハバネラ』が鳴り響いていまして…』って(笑)。こちらは「???」という感じだったんですけど(笑)、いま考えると、言っていただけてよかったなと思います。監督の話を聞いて「ハバネラ」バージョンと、そうじゃないバージョンを作ってみたんですけど、「ハバネラ」のメロディって聴けば誰でもわかる強いメロディだけど、ゆっくりにするとスカスカになるんですよ。音が落っこちてくるような感じというか…本来はすごくハーモニー豊かな曲なんですけど、それが一音、一音に寄っていく感じになるんですね。最初にゆっくりの「ハバネラ」を聴いた時、音が“密”ではなく“疎”になっていくのを感じて、それが大きな発見だったというか「これを劇伴全体を通してやってみようかな」と思いついたんですね。こういう言い方が正しいかわからないけど、それってすごく沖田作品に合う気がしたんです――「ハバネラ」によって、劇伴の方向性が決まったと?この映画、もちろん美波をはじめ、何人かにとっては、人生におけるすごく大きなことが起きる映画ではあるんですけど、とはいえ、それでも沖田監督の映画って何も起きないことが魅力なんですよね。相対的に、例えば宇宙大戦争的な作品と沖田作品を並べたとき、沖田作品って格段に“何も起きない”じゃないですか(笑)? そういう何も起きないけど、でも繊細で些細なことがすごく意味を持ってくる――そんな視点・視野を持っているんですよね今回の映画の中でも、お父さんと美波がご飯を食べている時、食べ物が飛んじゃって「ごめん」「いいよ」ってやりとりがあったんですけど、あれはアドリブなんですよね。でも、あそこにちゃんと視点があるっていうのは、沖田さんの作品ですごく大事なことだと思うんです。あの関係性を描いているってことは、あらすじに太字で書くべき重要なところなんじゃないかって(笑)。それくらい本当に一見すると何も起きてないような状態であっても、でも注目したものが繊細な動きで情感豊かなものになるっていうのは、僕が沖田さんの作品の中でも大好きな部分で、そこに向けて、さっきお話した自分の“哲学・思想”を発射させると、結果ああいう音楽になるのかな? と思います。――他に音楽に関して、沖田監督からリクエストなどはなかったんですか?そこまで大きなリクエストみたいなものはなかったと思います。ただ、こまごまと「ここはどうしましょうか?」という話はいろいろとしましたね。例えば、美波とお父さんが浜辺で歩いているロングショットのシーンとか。あのシーンの劇伴は果たして音なのか? それとも音楽なのか――? 僕自身、あれが曲なのかどうかもわからないんですけど、あれが「ありやなしや?」という話なんかはたくさんしましたね。ドラムの音だけが響き渡るクライマックスの“挑戦”――終盤の美波ともじくんの重要なシーンで、ドラムの音だけをバックにドラマが進んでいくところも印象的でした。冒頭で美波がもじくんと出会ったシーンでは、2人が屋上から校舎を降りてくるんですけど、あの終盤のシーンは、逆にのぼっていくんです。沖田さんからは「もう、しっちゃかめっちゃかでワケがわかんなくなっている美波でありたい」と言われて、それはどんな感じなのかな? とずっと考えていたんですが「フリージャズみたいな」という言葉を沖田さんからヒントとしてもらって、それならドラムで、リズムもだんだんメチャクチャになっていくような感じがいいかなと思いました。それで、冒頭で2人が降りてくるところのセリフのやりとりを使用して、“ダブ(※)”というんですけど、ワーッとエコーを重ねていく手法でやってみたいなと沖田さんに相談したら、最初は「うーん…」と考え込んでいたんですけど、最終的には「それでいきましょう」ということになりました。※リズムを強調してミキシングし、エコーなどのエフェクトを過剰に施し、原曲とは全く異なる作品に作り変えてしまう手法。――沖田監督は、牛尾さんのそうしたアイディアを積極的に取り入れていってくれたんですか?いや、笑顔で譲らないんですよ、沖田さんって(笑)。何より作品のことを第一に考えて、ダメな時はダメとハッキリと言うので、その中で僕は「こんなのどうですか?」「じゃあこれは?」と次々と球を投げるというのを繰り返していました。――改めて今回の劇伴において、本作ならではの新たな部分、いままでにない挑戦をした部分はどういったところですか?やはり、先ほどお話した、ドラムのソロでセリフがグルグル回るという終盤の部分ですね。ダビングステージという映画館のようなスタジオなんですけど、そこで実際の映像を流しながら、ミキシング・コンソールという機材を使って、その場でDJのように卓を演奏して、あのシーンの音楽を聴いてもらったんです。あれはセッションみたいですごく面白かったですね。――最後に牛尾さんが感じる劇伴の魅力、面白さについて教えてください。なんでしょうね? 勝手口からこの世界に入っておいて、その視点で好き勝手なこと言うと、他のちゃんと劇伴を学んで活躍されている作家さんたちに失礼ですけど……でも劇伴って楽しいなって思います。やってて楽しいですよ(笑)。ミュージシャンってつい手癖でやってしまったりするし、アーティスト活動をやってても、結局、いつも同じことの繰り返しになっている部分もあって悩むんですけど、劇伴って自分にない引き出しや忘れていた引き出しを引っ張り出さないといけなかったりするんです。さっき「フリージャズのような」という話が出ましたけど、僕自身は電子音楽畑の人間なので、ジャズは全く通ってないし、フリージャズなんてできないんですよ。でも、おそらく沖田さんが「フリージャズ」という言葉で表現したものは、本当のフリージャズじゃなくて、もっと衝動的な何かだったり、グチャグチャになっていく何かだったんだと思うんですよね。そこで、自分の引き出しの中にあるものをあれこれと組み合わせて、沖田さんの求めるものを狙って曲を作っていくんですけど、そういうことをしていると、今度はアーティスト活動のとき、それまでの自分では思いつかなかったようなことを思いついたりするんです。例えば普段の音楽活動でもドラムの打ち込みをすることはあるし、それで生っぽいものを表現したり、先ほども話に出た“ダブ”という手法でエコーを重ねるようなこともするけど、それらを組み合わせて何かを作るっていうことは、リクエストがないと自分には思いつかないですよね。そういう意味で、劇伴の制作が自分の中の面白い発見につながるなと感じています。僕のような者がお名前を出すのも本当におこがましいんですけど、武満徹(※)先生が、「ノヴェンバー・ステップス」という世紀の名曲を書かれる前に、その着想を得たのは劇伴だったそうです。それは『切腹』(1962年/小林正樹監督)という映画で、そこでオーケストレーションの中に邦楽器を取り入れたことで、そちらに意識が向いたということをおっしゃっていたのを以前、拝見しました。※ほぼ独学で音楽を学び、西洋音楽に東洋の伝統的な楽器や手法を取り入れるなどして、映画や舞台の劇伴から電子音楽、オーケストラまで幅広いジャンルで名曲を残した世界的作曲家。代表作に「ノヴェンバー・ステップス」など。1996年没。そうやって劇伴での経験を自分の作品にフィードバックして、そこからまた新しいものが生まれていくというのはすごくポジティブなスパイラルだなと思いますし、楽しいです。「劇伴と普段の音楽は全く別物」と言いましたが、とはいえ、そんなことを意識せず、楽しめる素敵なお仕事だなと感じています。(text:Naoki Kurozu)■関連作品:子供はわかってあげない 2021年8月20日より全国公開©2020「子供はわかってあげない」製作委員会©田島列島/講談社
2021年08月30日過去のいじめ問題がきっかけとなり、ミュージシャンの小山田圭吾さんが、東京五輪開会式の楽曲担当を辞任することが発表されました。同件は、小山田さんが、障害のある同級生などにいじめを行っていたことを明かした、1990年代のインタビュー内容が拡散されたというもの。小山田さんが楽曲を担当する東京五輪には、障がい者スポーツの大会であるパラリンピックもあり、かついじめの内容も度を越えたものだったことから、批判の声が殺到しています。古市憲寿「そもそも『いじめ』という言葉がよくない」2021年7月19日、社会学者の古市憲寿さんが自身のTwitterを更新。内容に反響が上がっています。フォロワーに小山田さんの件について聞かれた古市さんは、自身の考えをこう明かしました。「いじめ」に関する報道に思うことはずっと一緒で(これまで何度も発言したり書いてきています)、そもそも「いじめ」という言葉がよくないと思うんです。刑法における暴行罪や傷害罪に当たるなら刑事事件になるべきで、学校空間を聖域にするべきではありません。@poe1985ーより引用古市さんはそもそも『いじめ』という言葉がよくないとした上で、「学校空間を聖域にするべきではない」と指摘。また、問題なのは『いじめから時間が経過してしまった場合』とし、「すべての被害者がすぐに告発できるわけではない。言葉にできるまでに10年、20年かかることがある」と被害者の心に寄り添いました。続けて、古市さんはこう持論を展開しています。当事者の問題であること、日本は法治国家であること、の二点が重要だと思います。私刑は許されないわけですから、当事者が告発したい場合に、それを支援する制度や社会のあり方は大事です。だけどそれを、それこそ「いじめ」のような形で加害者を糾弾するのは反対です。@poe1985ーより引用最後に、「当事者が告発をしたい場合に、それを支援する制度や社会のあり方が大切」と持論をつづっています。投稿には、ネット上でさまざまな声が寄せられました。・「『いじめ』という言葉がよくない」というのは本当に共感。その言葉があることで、いじめの実情が曖昧になっている気はする。・当事者が告発できる社会の構築っていうのは少し難しいのかも。もちろん実現するのが理想だけど…。・開会式の作曲家としてふさわしくないという批判は仕方がないと思う。けど古市さんのいうように、私刑にしていい、というわけでもない。ネット上では賛否が分かれた、古市さんのいじめに対する持論。いじめに関する問題を他人事として済まさず、正しい方法によって少しでも傷付く人を減らす努力が必要でしょう。[文・構成/grape編集部]
2021年07月20日SNSの普及にともない、昔の友人や連絡の途絶えた幼馴染などをインターネット上で見つけ、再び連絡をとりあうことができるようになりました。昔の友人とつながることは懐かしい話で盛り上がったり、現在の姿に驚いたりと、楽しいものですよね。古市憲寿「18年ぶりに話せた!実は大学の同級生で…」2021年2月9日、社会学者の古市憲寿さんがTwitterを更新。音声SNS『Clubhouse(クラブハウス)』で、18年ぶりに会話したある友人とのエピソードを明かし反響を呼んでいます。クラブハウスとは、自分でルーム作りそこに友人を招待して会話を楽しんだり、ルームに入って話を聞いたりすることができるサービス。驚きの声が多く寄せられた、投稿がこちらです。クラブハウスで水嶋ヒロくんと18年ぶりに話せた!実は大学の同級生で、入学当初に会っていたのを覚えていてくれた。あと昔、YouTubeの悪口を言ったのもばれていた— 古市憲寿 (@poe1985) February 9, 2021 なんと、古市さんと俳優の水嶋ヒロさんは、2003年に慶応義塾大学へ入学した『同級生』だといいます。音声での会話を楽しめるクラブハウスで、水嶋さんと久しぶりに会話した古市さん。投稿では、「昔水嶋さんのYouTubeチャンネルの悪口をいったことがバレていた」と冗談交じりに明かしました。きっと、水嶋さんが18年経った今でも自分のことを覚えていてくれたことを、嬉しく思ったことでしょう。ネット上では、古市さんと水嶋さんの意外な関係に、驚きの声が上がっています。・まさかすぎる2人でした…!どちらも好きなので、嬉しい!・覚えていてくれてよかったですね。意外な組み合わせだったのでビックリです!・古市さん、悪口はほどほどに!クラブハウスで聞いていましたが、とても楽しいやりとりでした。SNSを通じて、学生時代を振り返った古市さんと水嶋さん。同窓会などができない中でも、SNSを通じて懐かしい友人とやりとりをするだけで、ちょっとした同窓会気分を味わうことができるかもしれませんね![文・構成/grape編集部]
2021年02月10日本日1月27日に発売された『FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号』では、中村憲剛氏とつながりが深い方々にインタビュー。誌面の都合で泣く泣くカットせざるを得なかった盟友・伊藤宏樹氏(現・川崎フロンターレ強化部)との対談の未公開部分を昨日に続き掲載。後編は長年、兄と弟のような関係で切磋琢磨してきたふたりが、印象に残っている試合やゴールについて語り合う。――印象に残っているゴールを教えてください。中村憲剛(以下、中村)「俺は2007年のナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)で、宏樹さんがアウトサイドに(巻いて)かけて、サイドネットに突き刺さったゴール。あれは、宏樹さんのゴールのなかでもすごく覚えてる」伊藤宏樹(以下、伊藤)「あれ?その試合に憲剛いたんだっけ?」中村「いましたよ」伊藤「いたか」中村「あれはいました(笑)」伊藤「憲剛はいつもカップ戦にあると、代表でいないイメージだったから」中村「あのときはいたんですよ、なぜか」伊藤「(チョン・)テセのゴール、アシストした?」中村「した、した。俺、意外と宏樹さんの生涯ゴールの半分ぐらいはアシストしていると思う。セットプレーも含めて」伊藤「少ないからな(笑)」中村「たぶん5点、6点くらいでしょ?そのうち3点ぐらいは俺がアシストしているよ」伊藤「もうちょっと(点は)多いわ!」――宏樹さんは憲剛さんのゴールで印象深いものはありますか?伊藤「ゴールでいうと、プロ1年目のアウグストからのボレー。まだ憲剛が26番のとき。引退セレモニーの『ThanksVTR』のなかでも流れていたけど」中村「あれね」伊藤「あとは、アシストは熊谷での大宮アルディージャ戦。ジュニーニョに出したロングスルーパス、かな」中村「それもう、だいたい世に出ているやつじゃないですか。……別のやつもらってもいいですか?(笑)」伊藤「じゃあ、やめようか?(笑)」中村「大丈夫、大丈夫、それでいい(笑)」伊藤「まだ、いっぱいあるけど、憲剛とジュニーニョの“翼くん・岬くんゴールデンコンビ”みたいに決めたやつも好きだけどね。あれはFC東京戦だっけ」中村「FC東京戦のやつね。あれもすごかった」伊藤「あれは本当にすごかった」中村「宏樹さん、ほとんど俺のゴールを後ろから見ているからね。確か、宏樹さんが俺と一番試合に出ていたんだよね?この間、誰かとその話をした覚えがある」伊藤「この間、タニ(谷口博之)が言っていたな」(写真左より)中村憲剛、伊藤宏樹――ふたりのなかで一番印象深い試合は?伊藤「ふたりのなかでか。俺が悲しかったのは、2004年に昇格して、2005年にいざ念願のJ1開幕戦を迎えた柏レイソル戦。憲剛が前日に熱を出して、いないという。あれは悲しかった」中村「それを挙げるのは、よくないなあ(苦笑)」伊藤「本当、そこを楽しみにめっちゃ(練習して)きていたのね。そしたら、前日のホテルで知らされて」中村「俺もそうだよ。飯を食って、部屋に戻ったらもう急に寒気がしちゃって」伊藤「39℃くらいあったよね?」中村「ああーってなった」伊藤「『何してんだよ!』と思った。あれが本当に残念だった」中村「現役最初のJ1の試合と最後のJ1の試合が柏戦で、両方とも行っていないという……(苦笑)」――なるほど。中村「実は2005年にJ1に昇格したときの試合日程が柏、続いて浦和レッズだったんです」伊藤「ああ」中村「しかもアウェイ柏、ホーム浦和で。それで、自分の現役最後のリーグ戦は、ホーム浦和、アウェイ柏!」伊藤「すごい偶然だね」中村「2020年のスケジュールが出たときにもう、ゾゾゾってなったよ。それで始まって、それで終わるの?という日程だったので。だからその2試合は絶対に出なきゃいけないって思ってた」伊藤「でも、最後、出ていないからちょうど良かったのかもしれないね(笑)」中村「というか、(伊藤が挙げた)一番悔しかった試合、印象に残っている試合に、俺がいないことが問題です(笑)」伊藤「印象に残っている試合……他は……」中村「何ですかね。もう、あり過ぎて…」伊藤「個人的にはあれかもしれない。俺の引退試合になった(2013年の)横浜F・マリノス戦。あの試合は憲剛がめっちゃめちゃパフォーマンスが良かったから。あれにはびっくりしましたよ」中村「俺ね、最初で最後だと思う。人のために頑張ったの」伊藤「結構、神がかっていた」中村「神がかっていましたね。『宏樹さんの等々力ラストゲームを負けて見送るわけには、絶対にダメだ』と思っていた」伊藤「しかも、相手は優勝のかかっていた大きな試合。大舞台ですよ」中村「あの試合は、もう本当に心震えましたね。それにこの人、引退すると言ったのが、その週の初めなんですよ。F・マリノス戦の週のオフの日に、電話がかかってきて、あり得ないよ、本当に」伊藤「(笑)」中村「それもあったから、俺は2カ月前に言ったんです。だって、さみしい。1週間前に言われて、気持ちの整理がつかないじゃないですか。だから自分は、引退するときは絶対に先に言いたいと思っていたんです。そうしたら、たまたまチームの調子も良くて言いやすかった。やっぱり、唐突なお別れになっちゃうのはダメだなというのは、宏樹さんから学びました(笑)」伊藤「あはは(笑)」中村「残される方はさみしいからね。俺、今回は去っていくほうの気持ちが初めてわかったけど、意外と去っていくほうは、さっぱりいけるんですよ」伊藤「うん」中村「ただ残された方は、キツいから」伊藤「俺の場合は、フロンターレだけで、憲剛の場合は背負っているものが違うから。俺はあれで良かったんだよ」中村「いやいや、そんなことないでしょ」伊藤「でも、改めて、憲剛のこの終わり方は本当にすごいよね。リーグ優勝を決めたことを考えても、最後に天皇杯決勝の舞台まで整ったことも含めて。普通のスポーツ選手では、なかなかできないことだと思います」取材・文:林遼平撮影:佐野美樹FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号川崎フロンターレとサッカー人生を歩んできた中村憲剛のバンディエラの矜持に迫ります。1万文字にもおよぶ本人のロングインタビューはもちろん、ピッチの外から見届けた天皇杯決勝のラストゲームにも密着。小林悠、家長昭博、大島僚太、谷口彰悟、登里亨平らチームメイト、恩師、クラブスタッフにもインタビュー。サッカー漫画『GIANT KILLING』の漫画家・ツジトモによる中村憲剛の描き下ろしイラストやスキマスイッチ・常田真太郎からのメッセージ、よき理解者である伊藤宏樹との対談も掲載。タイトル:FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号発行:ぴあ株式会社発売:2021年1月27日定価:1,500円(本体1,364円)判型:B5判・96ページAmazon: 楽天ブックス: 書店、ほかネット書店にて詳細はこちら:
2021年01月27日明日1月27日(水)に発売される『FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号』では、中村憲剛氏とつながりが深い方々にインタビュー。その企画のひとつとして行われた、かつてのチームメイトである伊藤宏樹氏(現・川崎フロンターレ強化部)との対談は関係性の深いふたりの歩みがわかる貴重なトークとなっている。今回、誌面の都合により、本誌ではカットせざるを得なかった未公開部分を特別に掲載。兄弟のように強い絆で結ばれたふたりのクロストークをお楽しみあれ。――ふたりがチームメイトだったときは、どんな話をすることが多かったのですか?中村憲剛(以下、中村)「本当にずっとしゃべっていたよね。だから、いつ、とかではなく常に、だよね」伊藤宏樹(以下、伊藤)「うん、何をしゃべっていたかが分からないくらいに(笑)」中村「アウェイのときに宿泊するホテルでも、普通に部屋に行って話していた。今はあり得ないけど、本当にずっとベッタリだった」伊藤「ね。でも、試合になれば、いつも喧嘩していた」中村「そうそう。ちなみに俺ら、仲良くはないんですよ?(笑)」伊藤「憲剛は俺しか文句を言える人がいないから、こっちにばっかり言ってくる」中村「みんな先輩だったから(笑)」伊藤「当時、ボランチなのに、まあ守備はしないし、ポジショニングはめちゃくちゃで(笑)。だからこっちも言うけど、でも、それがたまにいいチャンスになるし、(当時監督だった)関塚(隆)さんもそれを褒めるんですよ。それで憲剛は伸び伸びやっているから、こっちは(守備面などの)文句を言って、喧嘩をするわけです。そうしたら、だんだん憲剛が成長してくるにつれて、賢いから的確なことを言うんですよ。すると、こっちも言い返せなくなって、グーってなって、とりあえず『うるせえ!』となる(笑)。そういったやり取りが多かったかな。でも、昔はそんなことがおもしろかったけどね」中村「こっちとしても言い負かしているというか。この人ね、リアクションはそんなに多くないんですよ。我慢して、我慢して、最後に『うるせえ!』と言う。あとは『取れよ!』とか。まあまあな口を……」伊藤「そんな言い方ですよ。もう、昔は(笑)」中村「こっちも『宏樹っ!』とか、呼び捨てにしていて(笑)。だからシーズン最初のキャンプのときに、それをやると新加入(の選手)が『えっ?』ってなっていたよね(笑)。普段にしても好きなものや趣味も全部、違うからね。馴れ合うような仲の良さじゃない」伊藤「うん」――それなのにアウェイのホテルなどでも一緒にいられる理由とは?伊藤「何だろうね、あれ。バスや新幹線でも隣だったし」中村「居心地がいいから。何を言っても大丈夫という安心感。たぶん。失礼な後輩ですよ。今、思えば」伊藤「失礼極まりない後輩だよ(笑)」中村「極まりない(笑)。だけど、昔からのフロンターレのサポーターは結構、知っているよね」伊藤「ふたりのつながりで言うと、僕が(2013年に)引退するときに、憲剛は二人組(の練習相手)や隣に座る人がいなくなってさみしいんだろうなという話をしていたんだけど、この間、憲剛が引退するときに、(小林)悠が全く同じ話をしていたから『ああ、歴史っておもしろいな』というのは、個人的には思ったね」中村「だって大変だったよ。“宏樹ロス”……」伊藤「長くやったら、そうなるんですよ。やっぱり悠も憲剛と長く一緒にやって、そういう関係になった。それでまた、何年後かに悠が何を言うんだろう、というのは思います」中村「宏樹さんの引退VTRを、当時、妻とずっと見ていてふたりで泣いていましたもん(笑)」伊藤「あはは(笑)」中村「うう……いなくなるって……。だから結構、大変だった。2014年から悠がそういう存在になるまでは本当に。要は、宏樹さんがやっていた役割を俺がやって、俺がやっていたことを悠がやらなくてはいけなくなったから。本当はタサ(田坂祐介)だったんですけどね、俺のなかでは。宏樹さん、俺、タサで、いつも3人一緒だった。だから、つなげていこうと。だけど、あいつ(田坂)はドイツに行ってしまった(笑)」伊藤「そう」中村「だから、後継者を探さなきゃいけなくなってしまった。タサは今も仲がいいし、俺と宏樹さんみたいな感じだけど、でも、いなくなっちゃったから、当時は慌てましたよね」伊藤「あれは慌てたね(笑)」中村「せっかく宏樹さんがフロンターレの先輩から受け継いできたものを、俺もちゃんと受け継いで、それをタサにつないで、(その次は)悠と決めていたのに、いなくなったから結構大変だったよね」(写真左より)中村憲剛、伊藤宏樹――確かに、考えると中村選手と小林選手の間が、世代的にも少し空いている感じはあります。伊藤「年齢的にね」中村「タサやタニ(谷口博之)だったんだけど、間にいた選手は全員、菊地(光将)も横山(知伸)も移籍しやがった(笑)」伊藤「しやがったって(笑)」中村「だから俺が頑張んなきゃいけなかったんですよ。宏樹さんがいなくなって、いかに宏樹さんが、あらゆる日陰の仕事をやっていたかがわかったから」伊藤「それ、もうちょっと大きな声で言ったほうがいいよ(笑)」中村「(笑)。要は、俺と宏樹さんは“表と裏”ではないけど、俺が表面をやって、宏樹さんが裏面のマネージメントというかチームの雰囲気作りを含めて、いろいろなところに目を届かせてくれていたことに初めて気付いた」伊藤「俺らはチームキャプテン・ゲームキャプテンみたいな感じで別れていて、ふたり(の間)では『ふたりで一人前だな』みたいな自覚があった。お互いにないところを補いながらね。そういうのも含めて、僕が引退してからの憲剛には注目していましたけど、そこからの憲剛の歩みは成績にも出ていますけど、周りに伝えることを含めて後輩たちを育ててきたところがあるし、今のチームを作り上げるためにすごく貢献したと思います。本当にすごいと思いますよ」――“世代をつなげていく”話は、昔からそういうふうに話していたんですか?中村「昔からですね。『そこの木の“幹”をちゃんと太くしていかないと』という話はずっとしていた。だけど、自分ひとりではできないから、育つのを待つしかなかった」――宏樹さんは自身の引退後のことはどう考えていたんですか?伊藤「あまり考えてはいなかったですけど、自分の引退は関係なしに、ターニングポイントとしては、風間(八宏)さんが2012年に(川崎フロンターレに)来て、やるサッカーが明確になったことで、憲剛も楽しそうにしていた。そこを突き詰めたことが、今のこのスタイルになったところもあるし、そこについての心配はしていなかったです」中村「サッカー的なところはね」伊藤「うん」中村「振り返れば、最初は、サッカー自体も風間さんになって『大丈夫か?』みたいになっていた。でも、最初のサンフレッチェ広島戦で、俺のアシストから宏樹さんが先制点を取ったんですよ。不慣れな右SBで宏樹さんが珍しくいい動きをしていてさ」伊藤「あれ、面白いよね。本当に最初の試合で、みんな(従来の)ポジションと違うところをやっていて。ある意味、今までのフロンターレの概念みたいなものを壊して、一つでもいいプレーができればみたいな感じでやった試合だった。それで、あの得点が取れた」中村「あの1点は、今のフロンターレのベースの本当に第一歩になったから。あのゴールを俺と宏樹さんで取ったというのは、歴史的には非常に大きかったんじゃないかなと、改めて思いますけどね。……うれしそうだな、おい宏樹っ!(笑)」伊藤「『何で、お前があそこにいんねん!』みたいな感じだったんですけどね(笑)」中村「本当にそういうゴールだった。連戦がスタートするなか、風間さんになってからの新たな船出。『大丈夫かな、フロンターレ?』となっているときの1試合目。その試合はボッコボコにされるんですけど(笑)、それでもあの1点を俺と宏樹さんで取ったというのは『あ、これでやっていける』みたいな思いはありましたからね」(明日1月27日(水)7:00配信の未公開記事後編に続く)取材・文:林遼平撮影:佐野美樹FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号川崎フロンターレとサッカー人生を歩んできた中村憲剛のバンディエラの矜持に迫ります。1万文字にもおよぶ本人のロングインタビューはもちろん、ピッチの外から見届けた天皇杯決勝のラストゲームにも密着。小林悠、家長昭博、大島僚太、谷口彰悟、登里亨平らチームメイト、恩師、クラブスタッフにもインタビュー。サッカー漫画『GIANT KILLING』の漫画家・ツジトモによる中村憲剛の描き下ろしイラストやスキマスイッチ・常田真太郎からのメッセージ、よき理解者である伊藤宏樹との対談も掲載。タイトル:FOOTBALL PEOPLE 川崎フロンターレ 中村憲剛特集号発行:ぴあ株式会社発売:2021年1月27日定価:1,500円(本体1,364円)判型:B5判・96ページAmazon: 楽天ブックス: 書店、ほかネット書店にて詳細はこちら:
2021年01月26日川崎フロンターレひと筋18年の“クラブの象徴”、中村憲剛選手が現役引退を電撃発表したのは、大怪我から復帰し、40歳となる誕生日にゴールを決めた翌日。いま明かす胸の内とは……。無観客試合の味気なさ。コロナ禍で痛感したのは…。――シーズン中の引退会見は、我々が度肝を抜かれました。僕にとっては前々から思っていたことで、先輩である伊藤宏樹さん(現在、川崎フロンターレ強化部スタッフ)の引退も考えるきっかけのひとつになりました。宏樹さんは、僕が33歳の時に引退されたのですが、その発表をホーム最終戦の週初めにされたんです。僕たちは報告を受けて、気持ちを無理やり整理して試合に挑みました。結果は勝利こそしましたが天皇杯では負けてしまい、宏樹さんはドタバタしたまま退かれました。その様子を見て、チームメイトにも応援してくださる方々にも、お別れまでの気持ちの猶予みたいなものが必要だと思ったんです。また、今年改めてサポーターの存在の大きさを痛感したというのもありますね。無観客試合をスタジアムの上から観ていたのですが、何とも言えない味気なさを感じました。これまでサポーターがいて当たり前だったことが、実はそうではなかった。みなさんがいてこそエモーショナルな空間ができるのだと初めて思いました。ですから、ひとりでも多くの人に自分のプレーを見てもらいたい、そうじゃなかったら寂しいと思い、このタイミングでの発表となりました。――選手の方々の反応はみなさん同じだったそうですね。まずは絶句、次に「まだできるじゃないですか」の言葉でしたね。「そうだよね」や「おつかれさま」ではなく、そう言ってもらえるなんて、とても嬉しかったです。ただ、みんなが僕への思いもいろいろと話してくれたので、精神的にはこたえました(笑)。――中村選手も選手やクラブへの思いは相当あるでしょうね。僕は川崎フロンターレに拾ってもらったと思っています。最初はついていくのに必死でしたが、いつしか自分の立ち位置がわかるようになり、毎年すべてをクラブに捧げてきたつもりです。そこから、多くの人に「元気が出た」「勇気をもらえた」と言われるプレーヤーになれたのは、クラブおよび支えてくれたみなさんのおかげ。もう感謝しかないですし、これからはそれを還元していきたいです。なので、引退後もフロンターレを離れるつもりはありません。でも、クラブだけに携わるということでもなくて、まだ何も決まっていませんが、若い選手の育成や、Jリーグの普及活動もお手伝いしたいですし、ゲーム解説にも興味があります。今は指導者のライセンスを取っている最中で、将来的には監督も視野に。でもS級(最高位の指導者資格)を取るまでにあと3~4年はかかりますね。この仕組み、何とかしてくれませんか(笑)。って、これでは体がいくつあっても足りないですね。――ダメもとでお聞きします。現役復帰の可能性は、本当にもう1ミリもないのですか?本気で決断したことなので、それはないですね(笑)。自分を裏切ることになりますし、今はそのイメージは湧かないです。ともかく、これまで好きなサッカーを40歳まで続けたのは我ながらよくやったなと思います。そして、むしろここからだなと思っています。今まではいわば自分がメインで周囲を巻き込んでいましたが、これからはサポートや応援する側になりますから。自分なりにブランディングを考えていかなければいけない。でも、不安よりは期待のほうが勝っていますよ。第二の人生を思い切り楽しもうと思います。――とはいえ、現役生活はまだあります!(本誌発売日の)2日後は天皇杯の準決勝ですね。もちろん勝って、元日の決勝で優勝して引退できたら本当に幸せ。簡単ではないと思いますが、実現できたら、こんなに恵まれたサッカー選手はいないと思います。泣いても笑っても僕のラストになりますが、他の選手に余計なプレッシャーをかけたくないので、一選手として優勝を狙いにいきます。リーグ優勝も泣くかなと思ったら笑ってましたし、今回も笑って終えそうです。涙はきっと、グラウンドにひれ伏すほどに泣いたリーグ初優勝で枯れたのかな(笑)。なかむら・けんご1980年10月31日生まれ、東京都出身。川崎フロンターレ所属。ポジションMF。中央大学卒業後、同クラブ入団。幅広い視野と高度なテクニック、特にスルーパスが持ち味で、長年チームを牽引し3度のリーグ優勝に貢献、常勝軍団へと導いた。日本代表にも招集され活躍。2020年11月1日、今シーズン限りでの現役引退を表明。カメラマンがドリブルとシュートをいきなりリクエスト。「本当に怪我していたのかな、と思うくらい好調です。天皇杯は自分にとってラストの試合ですが、私情抜きに完全燃焼で頑張ります」。天皇杯準決勝は12月27日(日)、決勝は2021年1月1日(金)。クラブでは中村憲剛選手への感謝を込めて「One Four KENGO」プロモーションを実施中。※『anan』2020年12月30日‐2021年1月6日合併号より。写真・藤尾真琴インタビュー、文・伊藤順子(by anan編集部)
2021年01月01日地獄と天国を見た男。’19年から’20年にかけての中村憲剛選手を表すならば、これがしっくりくるかもしれない。選手生命を脅かすほどの大怪我からの復活、まさかの電撃引退表明、そしてリーグ優勝。記憶と記録に残る激動の現役ラストイヤーと、心に秘めていたある思いを中村選手に語っていただきました。――3度目となるリーグ優勝おめでとうございます!まずはこの一年を振り返っていかがでしたか。’19年11月、39歳を迎えた2日後の試合で、左膝前十字じん帯損傷という大怪我を負いました。手術を経てリハビリ中にコロナ禍となり、緊急事態宣言が出て練習場にも病院へも行けない日々が続いたのですが、周囲の方々のおかげで8月末には試合にも出られるようになったんです。その復帰戦や誕生日にゴールを決められただけでなく、クラブはJリーグ史上初の12連勝を遂げ、かつ史上最速で優勝することができました。その1か月前に現役引退を発表したのですが、思い描いていた以上の結果というかストーリーが生まれ、自分の想像を遥かに上回る素晴らしいシーズンになったと思います。――想像を超えていた、とは?妻以外は誰にも言わなかったのですが、実は35歳になった時に、40歳を迎えたら引退しようと決めていたんです。僕は計画的なほうではなくて、いつも目の前のことだけを考えて切り拓いてきたのですが、唯一未来を考えたのが引退だったんですね。自分が戦力として求められているうちに退きたいと、それだけは心に決めていたのですが、具体的な身の引き方は描けなくて。昨年10月にルヴァン杯で優勝した時点で、来年迎える引退に向けてどうやって終わっていくのだろうかと、漠然と考えていました。もちろんリーグ優勝は目標にありましたが、今シーズンの連勝や首位独走は想像できなかったですね。鬼木達監督や選手、スタッフの努力の賜物だと思います。――当然、怪我も想定外ですよね。全治7か月という、僕の選手生活で初めての大怪我でした。でも、予期せぬ出来事の一方で、これのおかげでラストまでの道は決まったとも思えたんです。そもそもサッカー選手を17年やってきた人間が、よりによって残り1年でここまでの大怪我なんてしないですよ。これは意味のあることなのだろうと。何が何でも克服し、復帰をしてプレーをみなさんに見せてからやめろと言われているのだと僕は受け止めました。とはいえ、早期に戻っても再断裂の危険があり、慎重に調整しながら進めました。今は痛みも全くなく、これまで通りに動けているので、プログラムを作ってくれたトレーナーや医師の方々に大変感謝しています。――焦りはなかったのですか?リハビリの時期がコロナ禍と重なり、自分だけじゃなく、Jリーグはおろか日本自体が止まっていたので、しんどかったですけれど、しゃあないと開き直れて、焦りはそこまで感じずに済みました。ただ、膝が思い通りに動かせなかったり、原因不明の痛みが出たりした時はすごく苦しい思いをしましたね。だから、妻にはしょっちゅう、「痛い」「無理」「もうやだ」と子どもみたいに弱音を吐いていました(笑)。妻は妻で、休校だった子どもたちの世話や食事作りで、言ってみればそれどころじゃなくて。毎回「そんなことを言ってもどうせやるんでしょ」と軽くあしらわれていましたけど、そのリアクションがありがたかったですね。――怪我がもたらしたものとは?大怪我は僕が唯一したことのない経験でした。というのは、35歳で40歳の年に引退すると決めてから、36歳でJリーグMVP初受賞、37歳でリーグ初優勝、38歳でリーグ連覇、ルヴァン杯初優勝と、立て続けにさまざまな経験を回収できていたので。これだけ並べると僕が“持っている”ように思われるかもしれませんが、大卒で入団した時は、クラブはJ2にいて、そこからJ1に上がれたものの、優勝まであと一歩の2位止まりで終わることが何度も続いていました。僕は、今の位置に辿り着くまで幾度も悔しい思いをしてきた人間で、近年得られた結果は、地道に鍛錬し積み重ねてきたクラブと自分へのご褒美だと思っています。だから、不謹慎かもしれませんが、この怪我によって、良くも悪くもすべての経験が揃って現役を終えられると。とはいえ、怪我については、そう捉えないと自分的に重すぎたことでもあって、終わりが決まっていたからこそポジティブに変換できたのだと思っています。怪我自体の痛みや辛さだけでなく、復帰する過程の苦しさ、試合に絡めない悔しさ。怪我を通して得た経験と湧き出たさまざまな感情は、今後指導者になるにしても、何にしても活かせるだろうし、説得力のある話ができると思っています。――では、現時点で夢がありながらもうまく進めていない人に対してアドバイスをするならば?中長期的なプランニングがあってこそですが、いま目の前のことをどれだけ頑張れるかが大事なのかなと。それを積み重ねた先に自分の望んでいた未来があるのだと思います。僕はそうやってきたから優勝という結果が出ましたが、努力しても報われないことや仕事なども多いと思います。それでも、努力してない人には絶対に何も転がってきません。自分なりにやったと思っても成果が出ていないのであれば、自分はまだ努力が足りないと思えるかどうかもポイントかな。そこに気づければ、足りない部分を補えて成長できるはずです。他人のせいにするのは簡単ですが何も残りません。僕も学生時代にそういうところがありましたが、結局選んだのは自分なのだから。努力している人に手は差し伸べられるという意味で、今を頑張ってほしいですね。絶対誰かが見てくれていますから。なかむら・けんご1980年10月31日生まれ、東京都出身。川崎フロンターレ所属。ポジションMF。中央大学卒業後、同クラブ入団。幅広い視野と高度なテクニック、特にスルーパスが持ち味で、長年チームを牽引し3度のリーグ優勝に貢献、常勝軍団へと導いた。日本代表にも招集され活躍。2020年11月1日、今シーズン限りでの現役引退を表明。カメラマンがドリブルとシュートをいきなりリクエスト。「本当に怪我していたのかな、と思うくらい好調です。天皇杯は自分にとってラストの試合ですが、私情抜きに完全燃焼で頑張ります」。天皇杯準決勝は12月27日(日)、決勝は2021年1月1日(金)。クラブでは中村憲剛選手への感謝を込めて「One Four KENGO」プロモーションを実施中。※『anan』2020年12月30日‐2021年1月6日合併号より。写真・藤尾真琴インタビュー、文・伊藤順子(by anan編集部)
2020年12月31日中村憲剛の偉大さはイベント名を見ても理解できる。12月21日に行われた引退セレモニーの正式名称は『おフロの恋人! LOTTE presents 中村憲剛引退セレモニー&優勝報告会』である。勝点83、26勝、88得点、得失点差57、2位に勝点18差、最少敗戦3試合などなど、記録尽くめで史上最速優勝を果たした川崎フロンターレの優勝報告会の前に、引退セレモニーと謳われているのだ。名前だけではない。2時間半ほどのプログラムの中で、鬼木達監督や谷口彰悟主将のあいさつなど優勝報告セレモニーは15分ほど。時間配分も大半は引退セレモニーが占めた。福田紀彦川崎市市長より市民栄誉賞が授与された (C)J.LEAGUE等々力陸上競技場に1万3000人を集めるなどセレモニーは異例の規模で行われたが、決して華美ではなかった。中村がどれだけクラブ・川崎市に愛され、中村がどれほどクラブ・川崎市に愛されていたかわかるあたたかいイベントであった。式はホームタウン活動で親交が深かった中原消防署や中原警察署、河川協力団体のとどろき水辺の楽校、フロンターレ算数ドリルで関わった川崎市立有馬小学校の関係者が感謝の言葉を並べてスタート。キングカズこと三浦知良をはじめ、川島永嗣、ジュニーニョなど盟友・戦友たちもビデオメッセージを送った。福田紀彦川崎市市長から市民栄誉賞が授与され、36名ものクラブOBも登壇した。さらに本人も登場。チームメイトからのメッセージ、家族からの花束贈呈、スキマスイッチ常田真太郎、SHISHAMOからのあいさつ、川崎市の小学生からの手作りシャーレのプレゼントなど、涙あり、笑いあり、感動ありのラインナップとなった。中村憲剛引退セレモニーに1万3000人が集った (C)J.LEAGUEエース・小林悠は涙ながらに「苦楽をともにした憲剛さんと初めて優勝した時を超える感動はこの先も絶対にない。一緒に抱き合って喜び合えたことが本当にうれしかった。憲剛さんがいなかったら、今の僕は絶対にないと断言できます。僕にとって大きな存在でした」と感謝の念を表した。長男・龍剛くんは「中村憲剛選手の18年間のサッカー人生は出来すぎでした。悲しい時も悔しい時もともに乗り越えてきた家族として、ありがとうと伝えたいです。引退、おめでとう。そして、ありがとう」と12歳とは思えぬクオリティの手紙を披露した。中村は集まったゆかりのある人々、チームメイト、クラブ関係者、そしてファン・サポーターに感謝の言葉を並べた。「みんながありがとうと言ってくれたけど、ありがとうと言いたいのは僕の方。何でもない大学生を拾ってくれたフロンターレには感謝しかありません。僕はフロンターレで学んだ。それは地域密着、『川崎市のみなさんを笑顔に、元気にする』こと。自分がただサッカーをやっていればいいという発想の人間だったら、ここまでプレイヤーとして続けられなかったと思うし、フロンターレもここまで大きくなることはなかったと思っている。本当にそういった意味でフロンターレに拾ってもらって心からよかったと思っているし、この18年間、本当に感謝の気持ちしかない。頼もしい後輩たちにフロンターレは任せて、僕は先のステージに進みたい。今日の景色は一生忘れません。本当に感謝しています。フロンターレ、最高です」胴上げの回数はもちろん背番号にちなみ14回 (C)J.LEAGUE場内一周では神輿にものった (C)J.LEAGUEチームメイトたちによって背番号と同じ14回を2セット胴上げされた中村は場内を一周。ファン・サポーターとの別れを惜しんだ。セレモニーを終えた後、中村は記者会見に登場し、「もう何だろ。すごいことが起きたんだなと。感情が揺さぶられて、心地よい疲労感で気持ちよかった。一生忘れられない光景がまたひとつ増えました。本当に引退するんだなと」と率直な感想を語った。さらに「夢見心地。今もフワっとしている。本当に感謝しかない。本当に幸せ者だなと。入れてくれたのもそうだし、ここまで大きく育ててくれたのもそう。僕も還元していかないといけない」と続けた。泣いたことを指摘されると、「泣かない方がおかしい(笑)。感情を揺さぶられすぎて、わけがわからなくなかった。みんなの思いがありがたすぎて。基本泣き虫だから、案の定泣きました」と頬を緩めた。チームを代表してメッセージを送る小林悠(川崎フロンターレ) (C)J.LEAGUE小林からのメッセージについて質問されと、「いつ泣くかなと見ていたが、あいつにしか話せない話をしてくれたので、僕も感極まった。僕の方こそ感謝している。彼が優勝させてくれたんで」と言い、龍剛くんの手紙について問われると、「息子の文章力の高さにちょっと引いた(笑)。彼が息子であることを僕は誇りに思う。もちろん妻もふたりの娘もそう。4人がいなければ、僕はここまでがんばれなかった。心の底から感謝している」と振り返った。サッカーを志す子どもたちへメッセージも送った。「僕自身足が遅かったり、体が小さかったりと劣等感を持っていた。劣等感を武器に変えることで道が切り開けて、40歳までやれた。可能性に蓋をせずに、毎日毎日トレーニングしていけば誰でも必ず道は開ける。受け入れてくれる素晴らしいクラブが川崎にはあると伝えたかった」次なる夢の日本代表監督について、コメントを求められると、「過程を経て、タイミングが合って初めてなれるもの。そうなるには本当に勝たないといけないし、評価されないといけない。自分から目指しますなんて軽々しく口にできないが、目指すのは自由」と口にした。大いなる目標の前に、目の前に迫った目標がある。もうひとつのタイトル『天皇杯』である。次なる戦いに向けて、中村は「今日は感情を揺さぶられすぎたので、今日は切り替えられない。明日トレーニングがある。明日からしっかり切り替えていきたい。みんなとサッカーできるのもあと10日。まず準決勝に向けてしっかり準備をして全力で向かっていきたい。(国立での決勝については)正直そこまで考えていない。相手のあることなので、勝てる保証はどこにもない。準決勝、等々力でやるのは最後。そこで全力を尽くすことしか考えていない」とキッパリ。中村憲剛の勇姿が見られるのも最大あと2試合 (C)J.LEAGUE中村憲剛は、そして川崎フロンターレは12月27日(日)・等々力陸上競技場での『天皇杯』準決勝でブラウブリッツ秋田×福山シティFCの勝者と対峙し、1月1日(金・祝)・国立競技場での『天皇杯』決勝を目指す。準決勝のチケットは予定枚数終了、決勝のチケットは12月26日(土)午前10時より一般発売。取材・文:碧山緒里摩(ぴあ)チケット情報
2020年12月22日2020年10月31日放送の、バラエティ番組『アナザースカイⅡ』(日本テレビ系)では『世界の学校スペシャル』というテーマのもと、これまでの放送を振り返りました。留学経験のある著名人の1人として、同番組にゲスト出演した社会学者の古市憲寿さんは、20歳の時にノルウェーのオスロ大学へ留学。2019年1月には、同番組の企画で母校であるオスロ大学を訪問しました。オスロ大学では子育てをしながら学ぶ生徒のため、敷地内に保育園が併設されていることを紹介。日本とノルウェーとの保育環境の違いについて、古市さんはこのように持論を展開しました。やっぱり日本って待機児童がすごい問題だったりとか、「少子化」っていう割には全然子供のためにいろんなことを行政がしてないなって感じて。だったらいっそ、国が義務教育みたいに幼稚園とか保育園に関しても整備してもいいんじゃないかっていう。小学校に待機児童っていないじゃないですか。だから同じようなことが、保育園とか幼稚園とかでもできるんじゃないかっていう。ノルウェーは義務教育とかじゃないですけど、望んだら1歳を超えたら多くの子供たちは保育園に通えるわけで。それが多分、子供たちの発育にもいい影響を及ぼしている。アナザースカイⅡーより引用古市さんが訪問した当時オスロ大学内の保育園には76人の子供が預けられており、8人の先生と12人のアシスタントが働いていました。厚生労働省によると、日本では、保育現場における保育者の人数は、以下のように定められています。【保育園】1~2歳児6人につき1人以上3歳児20人につき1人以上4~5歳児30人につき1人以上【幼稚園】児童35人につき1人以上古市さんは、オスロ大学内の保育園の保育者が多いことに驚いたといいます。また、その園では、子供の主体性に任せて遊ばせている光景を目の当たりにした古市さん。「日本と違い、保育者の数が多いからできること」と、ノルウェーの保育園の体制に感心していました。日本だと、おままごととかお遊戯とか、「みんなでこれしましょう」っていうことが多いと思うんですけど。(ノルウェーの保育園では)子供の主体性に任せているなと思います。多分、先生の数が多いからできると思うんですけどね。ノルウェーって、そんなに詰め込み教育じゃないんですけど、大学ランキングが高いのは、子供の頃に主体性を、子供に持たせてあげている。「何やりたい」とか「何したい」ってことを、みんなが主張するようにちゃんと環境を作ってあげるから。これが大人になってからもいいように働いているんじゃないかなぁって。アナザースカイⅡーより引用スタジオで、過去の自分の発言をVTRで見ていた古市さんは「僕、これ、好感度上がりますかね?」と笑いながらひと言。同番組のMCを俳優の広瀬アリスさんは「めちゃめちゃ上がりますね」「世の母親たちが『うんうん!』ってうなずいてると思う」と答えました。同番組の視聴者からはさまざまな声が上がっています。・本当に、古市さんの好感度ものすごく上がりました!素敵な考え方だと思います。・「小学校に待機児童はいない」という発言、本当にその通りだと思います。保育園、幼稚園の環境の改善をもっと進めてほしい。・保育士の待遇をもっと改善していく必要があると思う。「保育士として働きたい」って思える環境を作っていくことも大切ですね。日本では2019年10月1日から、3~5歳の保育料無償化をスタート。保育料無償化だけにとどまらず、さまざまな国のいいところを取り入れながら、保育環境の改善がもっと進むことを祈ります。[文・構成/grape編集部]
2020年10月31日・母親らしい服装をしろ。・同じ子を持つ母親として恥ずかしい。・胸元を出す母親はありえないだろ。2018年に娘さんを出産した、タレントやパーソナルトレーナーとして活躍する紅蘭さん。紅蘭さんが、セクシーな服装の写真をSNSに投稿するたびに「紅蘭さんみたいなかっこいいママになりたい!」という声が寄せられる一方で、「母親らしい格好をしろ」という非難の声も多数寄せられるそうです。※画像は複数あります。左右にスライドしてご確認ください。 View this post on Instagram A post shared by 紅蘭 (@kurankusakari) on Sep 18, 2020 at 2:58am PDT紅蘭さんは非難の声に対し、自身のInstagramで反論。その内容に多くの人が共感し話題となりました。「母親らしい格好をしろ」の声を一蹴!紅蘭の投稿に「スカッとした」の声古市憲寿、紅蘭の服装に対する持論に称賛の声2020年9月24日放送の、情報番組『とくダネ!』(フジテレビ系)では、紅蘭さんの服装に対する賛否の声について特集。紅蘭さんへの非難の声について、コメンテーターとして出演している、社会学者の古市憲寿さんは…。日本のお母さんってとにかく周りにいろんなことをいわれるんですよ。働いただけで「子供がかわいそう」とか、遊んでると「子供がかわいそう」とか…。だから、これもその一環だと思うんですけど、本来は別にどんな服を着ようとどんな髪型をしようと完全に個人の自由なので。それを他人が、とやかくいう問題じゃないのかなと僕は思いますね。とくダネ!ーより引用また、古市さんは『母親らしさ』について、「『○○らしい』とか『○○らしくない』って、本当に呪いだなと思う」とコメント。古市さんの意見に、視聴者からは称賛の声が上がりました。・本当にそう!母親になったって、その前に1人の女性です。他人がとやかく口を出すことじゃない。・古市さんのいうように『○○らしさ』って呪いだと思います。「男らしく生きろ」とか「女らしくない」とか、そういう考えはもう古い。・よくぞいってくれました!個人の『母親像』を世の女性に押し付けないで。『母親』といってもそれぞれに個性があり、好きなファッションや選ぶ服が違うのは、当たり前のこと。古市さんや紅蘭さんのような、『らしさ』に囚われない自由な考え方がもっと広まってほしいものですね。[文・構成/grape編集部]
2020年09月25日社会学者で、情報番組のコメンテーターとしても活躍する古市憲寿さんは、小説家でもある。芥川賞に2期連続ノミネートされ一躍注目を集めた。第4作『アスク・ミー・ホワイ』はオランダのアムステルダムを舞台にした長編だ。マガジンハウスから刊行される。「これまで書いた3冊の小説とは、明らかに違うものができたと思ったんです。だったら、純文学からは一番遠い出版社に出してもらうのがいいかな、と(笑)」主人公のヤマトは、恋人のサクラに誘われてアムステルダムへ移住してきた青年だ。サクラに捨てられた今、とどまる理由も飛び出す理由も持てないまま、日本料理店で働き続けている。鬱屈した日々の中で出会ったのが、日本で国民的知名度を誇っていた芸能人の港くんだった。アムステルダムやオランダ郊外の街デルフト、ヨーロッパの様々な風景の中で、ふたりは共に時間を過ごし――。「オランダはエスケープルーム(脱出ゲーム)の聖地で、3年前に初めて足を運んで以来何度も旅行しています」作中の港くんという存在は、実際に海外へ移住した噂もある元有名俳優を想起させる。「『港くん』というキャラクターを書くにあたって、性格や佇まいなど特定のモデルがいたわけではないんです。ただ、表舞台から姿を消した人がどうか幸せであってほしいと思って書いた部分はありますね。そんなことを考えているうちに、アムステルダムで“彼”と出会い、“彼”との関係を通じて成長していく主人公のイメージができあがっていきました」相手は芸能人で、自分は一般人。相手は男で、自分も男だから、抱いている感情は恋愛と違う。主人公は港くんとの関係に常識に囚われた線引きをするが、境界線はグラグラ揺さぶられる。凝り固まった思考がほどけて、溶けていく。「人って何事も二項対立にしがちだけど、そんなにはっきり分けられるものではないよなって昔から疑問なんです。友情と愛情、とか。異性愛者にとって、性別って絶対に超えられない壁でもないんじゃないのかな、とか。今“溶けていく”と言っていただけたのは嬉しくて、もともとの僕の出自である社会学の本でも、基本的には社会の常識を溶かしたいというか、“こうも見られるんじゃないの?”ってことを書いてきたつもりなんですよ。テレビでコメンテーターをする時も、そこは意識しています」だが、小説だからできることがある。「例えばこの小説の書き出しの〈ニュースにはいつも続きがない〉という一文は、何年も前からメモしていたものなんですが、論文っぽいものやエッセイではうまくハマらなかった。そういうものが溜まってアウトプットできていないことが、小説を書く前まではちょっとストレスでした。日常の中で芽生えたふとした感情とかふとした気付きって、小説ならば自由に盛り込める。小説だから、フィクションだからこそ“本当のこと”が書けるって感覚があるんです」ちょっとだけの勇気でこれだけ人生が動く。「コロナが流行しはじめた頃、外に出られず家にいるしかない時間を使って一気に書き上げました。旅行した時のことを思い出しながら書いていったからこそ、想像も加味されて、実際よりも素敵なオランダとかドイツになったんじゃないかなと思います」物語の舞台が、東京から海外へと変わっただけじゃない。安楽死をテーマにした『平成くん、さようなら』に象徴されるように、過去3作には死の匂いが充満していた。しかし本作は、外国で暮らす主人公の孤独感や、過去のスキャンダルが一生つきまとう芸能人の理不尽なども活写されてはいるが、生の、希望の方向へと物語が展開していく。何よりその一点が、これまでと「明らかに違う」。「辛い話や暗い話は僕自身も読みたくなくなっていたし、書きたくもなかったんです。社会が暗くて不安な時代ほど、明るい話だったり、現実には叶わないことをフィクションで読者に届けることが、クリエイターに求められるものなんじゃないかなと思う。そうすると、死の匂いが消えて、あんまり純文学っぽくもなくなる(笑)」デビュー以来書き継いできた“記憶”というテーマも、ポジティブな感触で読者の胸に刺さる。「辛い時に何が今日の自分を助けてくれるかっていうと、楽しい思い出や記憶。それは誰にとっても絶対大事なもので、誰も奪うことはできないものじゃないですか。思い出したい記憶をどれだけ作れるかが重要で、逆に記憶さえあれば、大切な人とたとえ離れ離れになっても大丈夫だと僕は思うんです。だからインスタグラムは、あと100年ぐらいサービスが続いてほしいですね。老後にちゃんとインスタの写真を見返せるように。逆にツイッターはなくなったほうが、無駄な争いが減っていいかもしれないけど(笑)」作中で、幾度か現れるフレーズが印象的だった。「勇気」だ。「“人生つまんないな”とか“何も起こんないな”と言う人ほど、受動的な気がするんですね。ただ待つんじゃなくて、自分から動きだすことでしか、自分の人生って動いていかないなと思うんです。ヤマトはうじうじした面倒くさい奴ですけど(笑)、港くんに対してはちょっと勇気を出して近づいていった。ちょっとの勇気でいいんですよ。人から誘われたら断らないようにするとか、提案されたことをすぐ拒絶せずいったん考えてみるとか。僕自身が人生の中で感じてきた“ちょっとの勇気でこれだけ人生が動く”ってことを、物語にしたのが今回の小説なんです」主人公のヤマトは港くんとの交流を通じて、自由になった。幸せになった。そして、優しくなった。いや、彼本来の優しさが表に出せるようになった、と言うべきか。人間は、本当は優しい――。古市さんの小説は、身も蓋もない酷悪な現実を突きつけながらも、必ずそのことを描いている。「合理的に突き詰めて考えていくと、人って優しくなれるはずだと昔から思っているんです。世界中の人々がいがみ合うよりも一斉に仲よくしたほうが、警察もいらなくなるし、軍隊もいらなくなるし、経済もうまく回るじゃないですか。利他的であることが利己的である、誰かに優しくすることが巡り巡って自分のためになる。そういった僕自身の考え方が、一番色濃く出るのが小説なのかもしれません」コロナ禍で疑心暗鬼と隣人恐怖が渦巻く今だからこそ、優しさがより強く響く。ラブストーリーというジャンルでは括れない、深い読後感を持つ一冊が届けられた。ふるいち・のりとし1985年生まれ。社会学者。連続して芥川賞候補となった『平成くん、さようなら』『百の夜は跳ねて』ほか、著書多数。8月27日、最新作『アスク・ミー・ホワイ』が発売される。※『anan』2020年9月2日号より。写真・内田紘倫(The VOICE)ヘア&メイク・大野彰宏(ENISHI)取材、文・吉田大助(by anan編集部)
2020年08月26日2020年8月16日に放送された情報番組『ワイドナショー』(フジテレビ系)に、社会学者の古市憲寿さんが出演。新型コロナウイルス感染症(以下、コロナウイルス)にまつわる発言が話題になっています。古市憲寿「感染者0ではなくて、死者の数を減らす」番組では、島根県のサッカー強豪校の学生寮でコロナウイルスが流行し、選手らを中心に集団感染が起きた1件について特集。無症状や軽症を訴える感染者が多いことが危険視される中、古市さんは次のような持論を展開しました。一方ではやっぱり、原点に立ち返るべきだと思っていて。我々はコロナで何を目指すべきかっていうと、感染者0ではなくて、死者の数を減らす。重症の方の数を減らすと考えると、基本は重症化しやすい高齢者の方と、現役世代ができるだけ会う回数を減らしてくっていうのがコロナの基本じゃないですか。ワイドナショーーより引用コロナウイルスが身近に存在する以上、どれだけ気を付けて感染予防対策をしていても、感染してしまうことはあります。古市さんは、猛威を振るい続けるコロナウイルスについて「感染者数より死者数を減らすことを目指す」という視点を持つことが大切だと説いたのです。さらに「今回のクラスターは確かに防げたかもしれないけれど、日本中のニュースで大騒ぎする必要があるかというと、違うと思う」とキッパリ。古市さんの意見に対し、番組のMCを務める東野幸治さんは「クラスターが出たからといってやみくもに騒ぐのではなく、冷静な対処が必要ですね」とうなずきました。古市憲寿が接触確認アプリを推奨続けて、古市さんは厚生労働省が提供する『新型コロナウイルス接触確認アプリ』(通称:COCOA)について紹介。『COCOA』とは、濃厚接触の疑いのある同アプリ利用者間の接触を検知・記録し、接触者から陽性者が発生した際に通知される仕組みです。アプリを利用することで、検査の受診など保健所のサポートを早く受けられるというメリットがあります。また、利用者が増えることで感染拡大の防止につながることに期待の声も。氏名や電話番号などの個人情報を入力する必要はないため、プライバシーを確保した上で運用されているのも嬉しいポイントでしょう。古市さんは「日本が持っている唯一の武器だと思うし、アプリを入れてもデメリットはないので、積極的に入れてほしい」と訴えました。【ネットの声】・「目指すのは感染者0じゃない」って、本当にその通りだなと思った。・古市さんに完全同意。マスコミが何かあるとクラスターだといって、やや騒ぎすぎているように感じる。・ただ「気を付けてください」で終わらせるのではなく、接触確認アプリを薦める姿に好感を持った。同月現在、特効薬がないといわれている以上、コロナウイルスとの共存をはかっていかなくてはなりません。古市さんのいうように、感染者数の増減に一喜一憂するのではなく、死者数を減らすよう最大限注力していくことが大切でしょう。できる限り『3密(密閉・密集・密接)』の状態を避け、接触確認アプリを取り入れるなど、世の動きにあった対応が求められています。[文・構成/grape編集部]
2020年08月17日2020年7月21日に、俳優の横浜流星さんが新型コロナウイルス感染症(以下、コロナウイルス)に感染したことが明らかとなりました。所属事務所によると、横浜さんは同月20日にあった舞台稽古の帰宅途中に倦怠感を訴え、発熱症状が見られたことから、医療機関を受診。抗原検査で陽性の結果を受けました。本人は病院の指導に従い、入院と治療を行っているとのことです。医療機関受診後、当人は病院の指導に従い、入院・治療を行なっております。仕事関係者・共演者の皆様、いつも応援して下さっているファンの皆様に多大なるご迷惑とご心配をお掛けしていることを、心よりお詫び申し上げます。当人も病状の回復に全力で努めております。今後も医療機関、行政機関の指導の下、当人の体調管理を徹底してまいります。STARDUST - スターダストプロモーション制作2部 -ーより引用横浜流星の感染発表に、古市憲寿が持論同月22日に放送された情報番組『とくダネ!』(フジテレビ系)では、横浜さんの感染について報道。横浜さんは、ドラマの撮影や舞台の稽古を行っていたため、多くの共演者が濃厚接触の対象者となり、検査を受けています。共演者との濃厚接触は免れないという状況に対し、番組でスペシャルキャスターを務める古市憲寿さんは…。当然ドラマだからキスシーンもあるでしょうし、避けられないですよね。まあでも、ただどんな立場の人であっても、コロナ含め病気にかかったら、いえることは「お大事に」という言葉しかないわけで。ご本人も事務所もそんな「申し訳ない」とか、あんまり思わなくていいんじゃないのかなぁってことは思いますよね。とくダネ!ーより引用古市さんの発言に対し、スタジオでは「これだけ経路不明の感染者が出ている以上、誰しもが感染の可能性がある」といった意見も上がりました。ネット上では、横浜さんの容体を心配する声や、古市さんの意見に同意するコメントが寄せられています。・本当にその通り。今は自分を責めずに、治療に専念してほしいな。・古市さん、ありがとう。こんな風にいってくれることで、救われる人がいるはず。・どんなに気を付けていても感染する可能性はあるので、自分も謝罪は要らないと思う。厚生労働省によると、同月20日時点で日本のコロナウイルス陽性者数は400人を超えています。人によっては無症状な場合もあるため、感染経路が分からないことも少なくありません。どんなに感染予防対策をしていても、生活のために外出する以上、防ぎようがないこともあるでしょう。引き続き「感染しない・させない」という意識を持つとともに、万が一感染した際に備えることが大切ですね。[文・構成/grape編集部]
2020年07月22日サイドやえり足部分を短くカットするヘアデザイン『ツーブロック』。若者の間で人気のヘアデザインですが、一部の学校では校則でこのツーブロックが禁止されているといいます。ツーブロックを禁止する校則については、2020年3月に行われた都議会で話し合われ、東京都の教育委員長は「外見が原因で事件や事故に遭うケースがある。ツーブロックの禁止は生徒を守るため」と回答。この回答が同年7月中旬にネット上で注目を集め、各テレビ番組などでも特集が組まれるほど話題になっています。同月16日放送の情報番組『とくダネ!』(フジテレビ系)でも、同校則について特集。社会学者の古市憲寿さんは、ツーブロックを禁止する理由についてある問題点を指摘しました。問題なのは、教育に携わる方が、外見で人を差別してもいいってメッセージを堂々と発していることだと思うんですね。例えば、性被害にあった人に対して「ミニスカートが悪いんだ」とかってことをいう人がいるじゃないですか。でも実際、そんなの被害者側に責任を負わせる発言だと思うんですね。だからツーブロックだから犯罪に巻き込まれやすいというのは、外見差別の助長っていう意味で、非常に問題だなと僕は思います。とくダネ!ーより引用ツーブロックに限らず、髪の毛の長さやデザインについて、校則で細かく規則を定めている学校は多くあります。そうした現状を受け、古市さんが「バカな先生がたくさんいる」と吐き捨てる一幕も。髪形で子供を管理できると思っているバカな先生がたくさんいるってことですよね。だから本当に頭悪いと思うんですよ。髪形で、うまく人を導けるという発想自体が、すごい前時代的だなって思う。とくダネ!ーより引用厳しい言葉を並べ、髪形に関する校則を批判した古市さん。番組内でのこれらの発言は反響を呼び、放送終了後にさまざまなコメントが寄せられました。・髪型は個性。自由にしたらいい。禁止されるから、余計に反発するもんです。古い考えは捨てなさい!・「被害者側に責任を負わせる発言」に、強く共感!本当にその通り。・髪形すらも管理しないといけないバカな生徒が多いからでは?本来、校則は生徒を守るために存在するはずです。しかし、返ってその校則が生徒を傷付けることにつながっていないか、改めて見直す必要が出ているのではないでしょうか。[文・構成/grape編集部]
2020年07月18日4月4日、報道バラエティー番組「中居正広のニュースな会」(テレビ朝日系)に社会学者の古市憲寿氏(35)が出演。新型コロナウイルス感染時の対応について持論を展開し、話題を呼んでいる。阪神タイガースの藤浪晋太郎選手(25)や脚本家の宮藤官九郎氏(49)など、新型コロナウイルス感染を公表する著名人が続出している。公表の際に謝罪する著名人が多いことに対し、古市氏は「謝る必要はないと思っていて。病気ってその人も誰かからうつされたわけで、その人のせいではないわけですよね。病気ってお互い様だから、仮に僕はかかっても絶対に謝らないですよ」と述べた。これに対し、Twitter上では《謝る必要ないですね。行動さえ明らかにしてもらえれば》《それでいいんじゃないかと。日本は、もういつ何時何処で誰が感染してもおかしくないんだもの》《古市さんもたまにはいいこと言う》と、称賛の声が上がっている。いっぽう《かかったものは仕方ない ただ予防もマスクも手洗いうがいもしないでかかったのなら絶対に謝るべきだぜ?》《確かにそうなんだけど「3密空間」に行ったり、ましてやそこで濃厚接触なんてしてたら、話は別…あくまで謝らくていいのは、感染防止策&免疫力アップをしてたのにも関わらず、感染した場合…》と、自粛・予防せずに感染した者に対する厳しい意見も見られた。体調不良で新型コロナウイルス感染を疑い自宅待機していた元大阪府知事の橋下徹氏は2日、Twitterで「体調不良を名乗り出た者を、悪人扱いする風潮では、誰も名乗り出ない」と警鐘を鳴らしている。
2020年04月05日類まれなるセンスと、積み重ねた経験と努力により培われたテクニックで、観客はおろかピッチ上の相手選手をも魅了する川崎フロンターレ・中村憲剛選手の独占インタビューです。ピッチ外では子煩悩パパとしても知られることから、今回は中村選手の家族観に注目。全女性が思わず涙ぐむ!? 名言だらけのコメントを前編、後編にわけてご紹介します!写真・黒川ひろみ 文・伊藤順子思い通りになかなかいかない。だから、サッカーはおもしろい前日の大雨が嘘のように晴れた昼下がり、Tシャツ、デニムにサンダルというラフなスタイルでふらりと現れた中村憲剛選手。時間の都合上ご挨拶もそそくさに、いきなり撮影というこちらの無茶なお願いを快諾し、テンポよく決めポーズを披露してくれました。この時のカメラマンと中村選手のやり取りが、まさにボケとツッコミで抱腹絶倒レベル! 初対面とは思えないほどの即興かけあい漫才で、一気に現場の空気が和みました。中村選手 いや、カメラマンさんの連発するボケが、いちいちツッコまずにはいられなくて(笑)。それに僕は、何ごともやるからには楽しくやりたい人間なんですよね。性格は、楽天的でカラッっとしているけれど、直情型でもあります。サッカーを知っている人は、僕のことをよく「冷静」や「落ち着いている」と表現しますけれど、とはいえ勝負に全力をかけるサッカー選手ですから、全く違う側面も持ち合わせていますよ。熱くたぎることも往々にしてあります。ひと言でいえば、「人間臭い」と自分では思っています。ーー確かに、2位で終わることの多かった川崎フロンターレが2017年に初優勝を遂げたときに、中村選手が見せた涙は熱い魂を感じさせるものがありました。同クラブひと筋で16年、サッカー歴は30年以上にもなるそうですが、中村選手をそこまで惚れさせるサッカーの魅力って何なのでしょうか?中村選手 サッカーをする側の観点でいえば、自分の思い描いたプレーでゴールが決まったり、観客のみなさんが湧いてくれることがすごく魅力的だと思います。観ている人たちからしたら、ここにボールが出たらおもしろい、すごい、と思うことを選手がやってくれることで、一種の達成感を味わえると思うし、ゴールシーンは単純に盛り上がると思いますね。ーー思い描いた通りの展開になるのが魅力、というのは中村選手のような一流の選手だからこその楽しみ方ですよね。普通の人だったら、その通りにいかないことだらけのような気がします。中村選手 いやいや、僕だって全然イメージ通りにならないですよ。なかなかうまくいかないから、成功したときに強烈なおもしろさを感じられるんです。全てのことが思い通りにいったら、人生つまらないじゃないですか。ボールは丸いし、足でコントロールしなきゃいけないから、当然ミスは起きる。それを極力減らして、どれだけ自分の思い通りにできるかを僕はずっと追求し続けているんです。いまだすべてがうまくいった試合は訪れないし、天井はないと思っているので、だから38歳になるいまでもサッカーを続けているんですよ。これからも、もちろん頑張りたいですね。妻に育児を任せるなんて、誰と誰で作った子だ、という話ですーーこの取材でもそうですが、他メディアでのインタビューなどを拝見しても、中村選手はこちらの意図を瞬時に汲み取り、的確な言葉で返してくれる印象があります。クラブを問わず多くの選手やサポーターからリスペクトされる理由は、プレーの素晴らしさに加え、そのお人柄にあるのでしょう。ピッチの外では、ご家族思いの良きパパであることも広く知られていますね。中村選手 はい、子煩悩を公言していますね(笑)。小5、小3、年少と3人の子どもがいます。上ふたりは、2学年離れていますが、実際には1歳7か月しか差がないので、双子のよう。よくセットで行動していますね。練習が終わったら、少しでも家族と一緒にいたいので、どこにも寄らずに帰宅しています。家族といることが一番好きなんですよね。ーー素敵です! ではすみません、ここから、サッカー専門媒体ではない、ananwebならではの本題に入りますが、令和時代になってもまだ、家事育児は母親任せという男性が驚くほど多い現実を、中村選手はどうご覧になっていますか?中村選手 僕は育児はふたりでするものだと思っています。それに、ありがたいことにサッカー選手って、実は時間があるんですよ。お勤めしている方々に比べて子どもと接する時間が長いと思います。会社員の方だと、子どもが起きる前に出勤して帰宅も遅かったりしますよね。となると、子どものことは、妻から聞くことになるから、直接関わることが難しいんじゃないでしょうか。僕はその場にいることが多いから、子どもがいま何が好きなのか、何を考えているのか、ダイレクトに実態がわかるんですよ。だから自らの意思もあるけれど、必然的に面倒を見る。その差は大きいと思いますね。それでも、仕事が忙しいから妻に任せきりにするというのは少し違うかな、とは思います。僕の父親も朝早く仕事に出ていましたが、土日はサッカーの練習や試合を欠かさず見に来てくれました。自分に関心をもってくれるのって嬉しいですよね。無関心が一番辛いと思うので、子どもにはそんな思いをさせないようにしています。ーー働き方改革で帰宅がはやくなっても、「ママ―、泣いてるよ~、なんとかして」と他人ごとのように育児を傍観する父親もいるんですよ。中村選手 僕もそういうことはたまにはあります(笑)。でも、じゃあ、誰と誰でその子どもを作ったの? という話になりますよね。仕事をしているからいいってワケではないと思います。つくづく思うのですが、朝昼晩の食事作りに掃除、洗濯、家族ひとりひとりのスケジューリングと、お母さんたちの仕事というのは、本来もっと評価されていいと思っています。お金に換算したら、めちゃくちゃ稼げると思っているんですよ。だって、本当にマルチタスクじゃないですか。もちろん会社で働いていることも大変だとは思いますが、それが家事、育児をしない理由にはならないですよね。働いて稼いだお金で家族に不自由ない暮らしをさせることは父親の大きな役目のひとつだと思いますが、それ以外の分野に父親が参加することで、もっと家族が豊かになれる可能性がいくらでもあると思います。ほんの少し意識を変えるだけでいいから、もう少し興味を持っていただければと思いますね。僕は、引退したらいまよりも子どもと過ごせなくなると思うんです。だから、いまある時間を一緒に大切に過ごしたい。子どもが子どもでいる時期だって限られていますから、大人になるまでの貴重な時間こそ、そばにいたいと思います。本来、父親ってそうじゃなければいけないと思うんですよね。父親力とは、子どもと過ごす時間を確保する力ーークラブのHPのプロフィールに、「父親力を高めたい」とあります。この意味は?中村選手 (しばし悩みながら)子どもにもっと関心を持つことだったり、一緒に解決する力を高めたいということですかね。これまで言ってきたことを踏まえると、「子どもと過ごす時間を確保する力」とも言えるかもしれないですね。僕は、子どもたちの人生に興味があります。彼らはそれぞれの人生のレールを歩きだしていて、彼らがつまずいたときにサポートできる、フォローできる父親になろうと思っています。ーー中村選手のような人と結婚したい! したかった! という世の女性の声が聞こえてくるようです。もう少し、育児に対するお考えをお聞かせください。中村選手 特にしつけの面では、自分が親にされて良かったと思うことをしていますね。テーブルマナーや挨拶、目を見て話すことなど。これらは、両親が口を酸っぱくして僕に言ってきたことです。最初の段階で物事の良し悪しを教えるのは親でしかなく、それで人格というのは形成されていくと思っています。よく、学校の先生にそれを求める人がいるけれど、それでは先生の負担が重すぎると思いますね。そこは親が担うべき部分なのではないでしょうか。上のふたりは小学校といういわば社会に既に出ているわけで、そこでひとさまに迷惑をかけない。言われたことだけをやるのではなく、自分から考えて動く。自己主張ができて、人の話も聞けるようになってほしい。そういったことを伝えています。これらは、子どもたちが生まれた時から考えていました。妻とも、彼らの状況を見ながらその都度話し合っていて、子どもたちの大事な芯の部分は、そうやって妻とふたりで固めていきたいなと思っています。ーー夫、父親の鑑といえるような素晴らしい価値観をお持ちですが、そのような「家族を愛する男・中村憲剛」はどのような過程を経て形成されたのでしょう。中村選手の歴史を紐解いていくと、女性がキーワードとして浮かび上がってきました。はたして、中村選手と女性はどう結びつくのか。後編では、「僕を支えてくれた女性たち」と題し、中村選手に大きな影響を与えた女性のみなさんをご紹介します。日本代表や森保監督へのコメントもお伝えしますので、ぜひお楽しみに!
2019年06月28日元日本代表で川崎フロンターレの顔・中村憲剛選手の素顔を2回に渡ってお届けします。共感しまくりの育児論をお話してくれた前編に続き、後編は中村選手を取り巻く女性たちにフォーカス。ほかにライバルや日本代表への思いもご紹介! 多くの人々に愛される中村選手の秘密を公開します!写真・黒川ひろみ 文・伊藤順子僕には母親が3人いたようなもの川崎フロンターレ入団16年目を迎え、いまもなお高みを目指し続ける大ベテラン、MFの中村憲剛選手。プライベートでは3人のお子さんがいる、自他ともに認める「家族思いで子煩悩」パパでもあります。ananwebでは、その素顔を大解剖! 2回に渡りお送りする後編のスタートです!ーー前編では、「育児は夫婦ふたりでするもの」「夫は仕事を言い訳にしない」など、育児奮闘中の全女性をあと押ししてくれる、素晴らしい父親力を語っていただきました。そのような考え方はいつからお持ちになったのでしょうか。中村選手 子どもが生まれる前は、そんなこと全然考えられなかったですね。生まれて、徐々に実感が湧きはじめてから……でしょうか。ーーそのベースには、中村選手が育ってきた環境が深く関わっていそうです。お母さまにお姉さまふたりと、女性のほうが多いご家族ですよね。中村選手 それもひとつにありますね。前編の子どもへのしつけのことでも話していますが、親にされてよかったことを自分でもしています。母は、どんなときも僕が選んだ道をサポートしてくれ、常に味方でいてくれていました。それは親だから当たり前ともいえるし、当時もごく普通のことと捉えていましたが、親もとを離れて寮生活を始めてから、世の中そうじゃない親もいるということに気づきましたね。だから、いまはすごく感謝しているし、自分の子どもに対しても、やりたいことは応援するスタンスであり続けるつもりです。ーーふたりのお姉さまとのご関係は?中村選手 僕、女性のなかにいるほうが気が楽なんですよ。よく、女性と距離を作ってしまったり、女性は怖いと言う男性がいますけれど、僕は真逆ですね。それは、ふたりの姉のおかげだと思っています。年がそれぞれ10と12も離れているので、僕が物心をついたときには、すでにふたりとも大きくて、よく世話をしてくれたんです。優しかったですね。だから、僕にとっては、母親が3人いたようなもの。そんな環境だったから、女性は一緒にいて居心地のいいありがたい存在なんです。妻がいなければ、いまの僕はいませんーー女性に対していいイメージを抱いたまま、奥さまと出会われたわけですね。中村選手 はい。妻も優しくて芯があり強い人です。彼女と付き合いだして、大学で優勝できたり、プロになれたりと、人生が好転したと言っても過言ではありません。助言や叱咤激励など、彼女でしかできないような声のかけ方をしてくれるんですよ。例えば、他の人だったら優しく慰めてくれるところを、彼女は突き放したりする。「そんなのお前しかできねぇよ」といつも感心させられます(笑)。彼女がいなきゃいまの自分はないですよ。ーー奥さま、偉大な方ですね。(笑)中村選手 いつ何時も偉大と思っていて、本当に全幅の信頼を寄せていますね。これでも、表向き僕が主導権を握っているように見せているのですが、実際は妻がしっかり握っていて、僕は手のひらで踊らされているんですよ。家のことは、彼女がやりやすいようにすればうまく回ると思っているので、それがいいと思っています。でも、僕の意見も尊重してくれて、大事なことは一緒に決めてくれますね。ーー多くの夫婦が理想とする、互いを尊重しあう関係なんですね。奥さま、これを読んだら喜んでくれるでしょうね!中村選手 あまのじゃくで照れ屋なところもあるから、どうかな。ほくそ笑んでいるんじゃないでしょうか。(笑)ーーお母さま、ふたりのお姉さま、そして奥さま。中村選手に多大なる影響を与えた方々を通して、改めて中村選手にとっての女性とは?中村選手 これ考えたら深いですよ。世の中男と女しかいないし、男だけでも女だけでも社会は成り立たない。絶妙なバランスで世界は成り立っているのだと思います。だから、ベタですけど、なくてはならない存在ですよね。もっと詳しく言えば、母も姉も妻も、自分を形成するうえで欠かせない人たちだから「自分を豊かにしてくれる存在」という意味で、なくてはならない人々、いや方々ですね。スキマスイッチ・常田真太郎には負けたくない!ーー「方々」と言い直すところにも、中村選手のお人柄が表れていますね。中村選手と女性の密接な関係(!?)がわかったところで、そんな人格者・中村選手はどんな方をライバルとしているのでしょうか?中村選手 スキマスイッチのシンタさん(常田真太郎)です(とキッパリ)。ーー同じサッカー選手を挙げられるのかと思いました!中村選手 デビュー年がほぼ一緒でして、LINEをしあうくらい仲がいい同志でもあります。「全力少年」や「奏」で既に有名になっていた頃に知り合いました。そこから、自分がステップアップしていくごとに、スキマスイッチも活躍されていて、切磋琢磨しあう関係です。よくライブに呼んでもらうのですが、行くたびに「すっげぇ良いライブをやってくれるじゃねーか!」と悔しくなるんですよ。向こうも然りで、僕が優勝やMVPを取ったりすると、喜んでくれるのと同時に「悔しい」と言ってきます。僕が曲の感想を言えば、サッカー好きでも知られるシンタさんは、サッカー選手とは違った視点で意見を言ってくれる。お互い正直に気持ちを言い、高めあえる間柄ですね。ーー某webでは、おふたりでサッカー談義をされる企画もおやりになっていましたね。ではその延長で(笑)、評論家・中村憲剛として、いまの日本代表と森保一監督について、ひと言お願いします。中村選手 言える立場じゃないですが(笑)、日本代表というのは、日本サッカー界におけるピラミッドの頂点なので、子どもたちが憧れるような夢のある試合をしてもらいたいです。僕も代表だったときは、そう思っていたし、ヒーローであり続けなければいけない、と責任を感じていました。また、A代表と東京五輪を兼任している森保監督にかかるプレッシャーは、相当すごいと思います。僕の想像をはるかに超える激務だと思うので、頑張っていただきたいですが、体だけは気をつけてほしい。そんなところでしょうか。(笑)ーー続けて、Jリーグの現状はいかがですか?中村選手 幅広い年代の方に観ていただきたいですね。ピッチでのパフォーマンスも努力すべきですが、ピッチ外でもどれだけ露出できるかが広く知ってもらえるポイントになると思うので、僕としてはこういったインタビューはありがたいです。少しでもいいので興味が出た方は、スタジアムに足を運んでほしいですね。ーーこの記事を読んで中村選手を応援したくなる女性はいっぱいいると思います。これまであまり知らなかった方々のためにも、今一度中村選手のプレーのウリを教えてください。中村選手 パスとしておきましょうか。特にスルーパスです。相手のディフェンスの裏(背中側)にボールを出して、それを受け取る味方のフォワードが相手のゴールキーパーと1対1になるようなパスが得意です。ぜひ注目してください。ーー最後に、来る7月19日には、「明治安田生命Jリーグワールドチャレンジ2019」があり、日本の王者として、名門チェルシーとの対戦がありますね。中村選手 チェルシーはヨーロッパリーグで5月に優勝した、イングランド・プレミアリーグ1部の伝統的なチームです。そういうビッグクラブに対して、2018年のJ1リーグチャンピオンとして迎え撃つのですが、こんな機会はそう多くないので、超一流のスピード感や雰囲気を楽しんでいただけたらと思います。僕もスルーパスを存分に見せますので、期待していてください!ーー短い時間ではありましたが、ひとつの質問に対して、あれもこれもとさまざまな情報を加えてお話していただけたこともあり、中村選手の人となりに取材陣(オール女性)はみな魅せられてしまいました。川崎フロンターレの選手の方々がみな穏やかで優しく紳士的なのも、クラブの長ともいえる中村選手のその精神が、一端を担っているのではないかと思ったほどです。天井はないと言い切る38歳の中村選手を見習って、私たちも私たちなりの目標に果敢に挑戦していきたいですね。輝く姿をいつまでも応援し続けます!
2019年06月28日平成カルチャーにどっぷり浸かった古市憲寿さんと乃木坂46の高山一実さん。青春期に夢中になったものを振り返りながら、去りゆく平成を、愛をもって語ります。平成って、昭和のツケをずっと払い続けてきた時代なんですよ。社会学者でテレビのコメンテーターとしても活躍中の古市憲寿さんと、国民的アイドルグループ・乃木坂46の人気メンバー、高山一実さん。平成最後の冬、ふたりが小説家デビューを果たした。“死と恋愛”をテーマにした古市さんの『平成くん、さようなら』はなんと、デビュー作にして芥川賞にノミネート(発表は1月16日)。“アイドル”を題材にした高山さんの『トラペジウム』は初版即完売、発売から1週間で8万部超まで増刷が大決定!文芸シーンでもまたたく間に注目の的となったふたりが、「平成カルチャー」を振り返り、未来について語り合った。古市:僕は昭和60年生まれで、物心ついた頃がちょうど平成元年。高山さんは平成6年生まれだから…平成8年の「たまごっちブーム」は経験していないですよね。とにかく本物が入手困難で、偽物ばかりを集めてしまった記憶があるけど(笑)。高山:私が子供の頃も、手に入れづらかった記憶があります。ショッピングモールで、整理券をもらって並んで買っていた友達がいたような。古市:今、グーグルで調べてみたら、「たまごっちブーム」って平成で3回起きていた。第2期のブームが平成16年みたいです。確かに、ブームってリバイバルしますよね。平成8年は安室奈美恵ちゃんがきっかけで「厚底ブーム」もあったけど、最近はメンズファッションで「ダッドスニーカー」が流行っている。高山:なんですかそれ!?古市:BALENCIAGAとかGUCCIがここ最近出しているスニーカーって、全体的にゴツくてでかいし、厚底なんだよね。おしゃれで履いていることになってるけど、背が高く見えて、脚が長く見える。高山:そのやり方、賢い!(笑)古市:僕は‘90年代から‘00年代にかけての、平成前半のJポップが大好きなんです。安室ちゃん、あゆ(浜崎あゆみ)、TRF、globeあたりは聴いていました?高山:聴いていたのはあゆと、くぅちゃん(倖田來未)ですね。詳しい子が、おすすめの曲をガラケーの「着うた」に設定してくれたんです。古市:めっちゃ懐かしい。「着うた」だと30秒しか聴けないんですよね。その後、1曲200円で全編ダウンロードできる「着うたフル」ってサービスが出てきた。高山:音楽でいうと、私が最初にハマったのはモーニング娘。さんです。『LOVEマシーン』(平成11年)はリアルタイムで聴いていたかも。父親が好きだったんですよ。たくさんいる中から自分の推しを見つける、みたいなことは物心がついた頃からやっていました。古市:誰推しだったんですか?高山:加護(亜依)ちゃんと辻(希美)ちゃんが大好きでした。古市:ふたりの今を思うと、時の流れを感じますよね。高山:映画だと、『ハリー・ポッター』シリーズ(平成13~23年)が大好きです!1作目の『賢者の石』が公開されたのは、私が小学校1年生の時で。映画の台詞を暗記するっていうのがクラスで流行って、今でも覚えているくらいです。古市:ジェネレーションギャップだ。『賢者の石』の頃は高校生だったから、そんなに思い入れがない。じゃあ、テレビゲームはしましたか?僕はプレイステーション(平成6年)から始まって、家庭用ゲーム機は結構通ってきています。『ドラクエ』とか『FF』(『ファイナルファンタジー』)とか。高山:私は「NINTENDO64」(平成8年)にハマりました。対戦型のゲームをやることが多かったんですよ。『マリオパーティ』と『スマブラ』(『大乱闘スマッシュブラザーズ』)と。小学校の登校班が同級生4人組だったので、4つのコントローラーを使って遊んでいました。古市:仲良し4人組がいたんですね。高山:今でも仲良しです。古市:僕は大学以前に友達だった人と、ひとりも連絡を取ってない。高山:えっ!?古市:携帯電話を最初に持ったのって、何歳の時ですか?高山:中学1年生です。親が渡してくれたんですけど、端末を1円で買えることが信じられなくて、親に怒った記憶があります。「なんでそんな嘘つくの?1円で買えるものなんて世の中にないよ!」って(笑)。古市:家の電話かポケベルしかなかった時代から、ガラケーをみんなが持つようになって、今はスマートフォンの保有率が6割近く。平成の大きな変化の一つは、みんなが当たり前のようにインターネットを使えるようになったこと。高山:ネットで買い物も簡単にできるようになりました。昔はアイドルのグッズが欲しくなったら、地元の千葉から電車で東京へ出て、専門店に買いに行ってたんです。「109‐2」(現「109MEN’S」)の下が、ハロプロショップだったんですよ。古市:そんな高山さんが、乃木坂46の1期生になったのは……。高山:平成23年です。古市:なでしこジャパン、パンケーキブーム、『人生がときめく片づけの魔法』。一気に“現在”って感じがする。だってパンケーキってまだブームじゃないの?高山:そうですよね(笑)。私自身は、7年前のことはあんまり記憶がないんです。オーディションに受かってから1年ぐらいはバタバタでしたし、東京での生活に慣れることにも必死で。お金もなかったので、欲しいものがあっても買えなかったし、カルチャーを楽しむ余裕もなかった。古市:何が欲しかったんですか。高山:洋服と、あとはいい化粧水も欲しかったです。上京して、肌が一気に荒れちゃったんですよ。古市:千葉の水と東京の水って、そんなに違うの!?高山:違うんですよ!実家にいた頃は湧水を汲んで使っていたので。古市:湧水?世代の違いももちろんだけど、地域の違いによっても、生きてきた現実がぜんぜん違うんだね。そこを無視して一括りにしようとする議論がありますよね。平成の若者といえば「ゆとり世代」だ、とか。上の世代からのそういうラベリングって、ピンときてました?高山:悪く思われているなぁという意識はありました。でも、私は高校生の時に『高校生クイズ』にハマって、今も毎年録画して見ているんです。頭が良くて、頑張っている同世代の子たちの活躍を見ると、「この人たちになら日本を任せられる!」って希望が持てるんです。その人たちのことを知っているからか、同世代の悪いところに目を向けようという気にならないんです。古市:よく「ゆとり世代」は協調性がないとか言われるんですけど、見方を変えたら、自分で物事を判断して自分で動ける子たちが多いってことなんですよね。アイドルに関して言えば、平成は昭和に負けてないって思います。古市:高山さんの小説『トラペジウム』、面白かった。すごく好きな台詞があるんです。主人公が言う、「私たちってさ、未来のことばっかり話してるよね」。青春の本質だと思うんですよ。若いってことは未来の話ができるということ。今日は、平成の昔話ばかりさせちゃってごめんね(笑)。高山:私も、古市さんの小説『平成くん、さようなら』の主人公が大好きでした。常に社会を分析しているというか、俯瞰で見ているじゃないですか。「平成くん」に気になることをちょっと質問したら、ばばーっといっぱい返事をもらえる生活って楽しそうだな、と(笑)。古市:すぐに飽きるかもしれないけどね。「昔は良かった」って、下の世代に古い価値観を押し付けてくる大人ってどう思いますか?高山:あんまり共感できないです。私は、昭和のアイドルも好きなんですね。レジェンド感があるし、平成のアイドルは負けている気がしていたんです。でも、自分がアイドルになって、平成のアイドル事情を詳しく知っていくうちに、魅力に気づけたんですよね。今はもう、平成は昭和に負けてないなって思っています。古市:平成って、昭和のツケをずっと払い続けてきた時代なんですよね。5月に新しい元号に変わったら、今度は平成のツケを払わなきゃいけない。そう考えると、平成っていい意味でも悪い意味でも、ずっと終わらないのかなって思います。高山:どうせならいいイメージを持ちたいなって気がします。もっと平成のことを知っていいところを見つけて、「平成っていい時代だった」という気持ちで新しい元号を迎えたほうが、ハッピーじゃないですか。古市:すごい前向き(笑)。ふるいち・のりとし社会学者、作家。小誌連載「紙のラジオ」でおなじみ。平成の記号をちりばめた小説『平成くん、さようなら』が話題沸騰。たかやま・かずみ乃木坂46メンバー。雑誌『ダ・ヴィンチ』で連載した初めての小説『トラペジウム』(KADOKAWA)が大反響。※『anan』2019年1月16日号より。文・真島絵麻里(by anan編集部)
2019年01月17日三越伊勢丹の連結子会社がマレーシアで展開するクアラルンプールLOT10内に10月27日、日本の暮らしやこだわりを海外に届ける新たなスペシャリティストア「ISETAN The Japan Store Kuala Lumpur」がオープンした。同ショップでは、日本の歴史や文化、テクノロジー、多様性、暮らしの様式などを、海外の人々の日常に取り入れてもらえるように“本物の日本”を提案していく。店内は6層で構成され、約200を超える初進出ブランドを展開。高品質な日本発、地方発のアイテムが取りそろえられた。ストアの設計・デザインは、伊勢丹新宿本店の再開発において環境デザインを手がけた株式会社 丹下都市建築設計の代表取締役社長 丹下憲孝と、GLAMOROUS co.,ltd.代表取締役社長の森田恭通が担当。従来の百貨店型から脱却し、フロア全体を回遊式日本庭園に見立て東屋を配置する、海外店舗では初めてのストアデザインとなった。1階ではファッションカルチャーを提案し、アジアファッションピープル向けの情報発信スペースも設置。2階では美しく健康的な日本の生き方や暮らし方を紹介し、3階では「感じる」「知る」「創る」という3つのゾーンを設置し、心や体に刺激を与える日本文化を提案する。4階は“和食”を味わえるスペースとなっており、総合和食、寿司、焼鳥、とんかつ、焼肉などの約6店舗が出店する。なお、レストランフロアは2017年1月頃のオープンを予定している。11月末まではオープニング特別企画として、伝統と革新を続ける古都・京都を取りあげた伝統と革新を続ける古都・京都を取りあげた「trans-kyoto」を実施。伝統を重んじながらも次代をつくる人物と商品のコラボレーションやイベントを、独自の切り口・編集力より構成し、各フロアにて展開する。また、メインコンテンツとなる3階では、蜷川実花が今回のために撮り下ろした新作も発表された。
2016年10月28日