ウーマンエキサイトをご覧のみなさん、こんにちは。tomekkoです。
『文豪クズ男列伝』と称して、ちょっと現代人からしたら受け入れられないわ…な文豪の裏の顔を見てみようシリーズですが、前回の谷崎潤一郎編はいかがでしたか?
歴史でも文学でも、モノクロの生真面目そうな写真や難しげな活字の並びだけでは興味を持ちにくいですよね。
ワタシは歴史学者でも日本文学研究者でもないただの歴史好き、文学好きなだけのいちファンですが、教科書に載ってる遠い存在の人々の人間臭い一面を紹介すれば、ちょっと読んでみようかなと興味を持ってもらえるんじゃないかな…と。
そんな気持ちで伝えていきたいと思います!
遊び狂って借金まみれ!
天才歌人・石川啄木の激しい人生
今回の主人公はわずか26歳で夭折した明治の天才歌人、石川啄木(1886ー1912)。
この人に限らずですが、若くして亡くなった文豪や芸術家には儚さや、芸術のために人生を捧げたようなクリーンなイメージがありませんか?
特に石川啄木の代表作である『一握の砂』なんてもうタイトルからしてもの悲しいし、とにかくずっと生活に困窮していかにも『清貧』という人生を送っているかのような印象でした。
しかし…?
こんな苦労と悲しみばかりを背負ったような啄木さんにどんな裏の顔が…?
ウズウズしてきたので今回もたぬ君、おこんさんと調べに行ってみようと思います!
さてさて、石川啄木の一番有名な歌と言えばこちらではないでしょうか。
はたらけど はたらけど
猶 わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る
引用:「一握の砂」石川啄木
高度経済成長期並みに働いても税金取られて物価は上がって生活レベルが全然上がらない…まるで現代、ワタシたちのこと言ってます? と思うほど時代を越えて庶民の共感を呼ぶ名歌。
……なんですが。
知ってました?
啄木の死後残されていた大量の借金メモ。
それも、生活のためと言いつつ実はほとんどが遊興費に消えていた…なんて。
友人たちにお金を借りては寿司や天ぷらを食べたり芸者や娼妓遊びに入れあげていた、とんでもない『たかり屋』だったなんて!
あれあれ? 急に作品が薄っぺらく見えてきちゃう…!
雪深い東北でアカギレをいっぱい作って働いたのに暮らしが楽にならないとじっと手を見つめている青年のイメージだったのに‼︎
でもね、返すあてもないのに見えすいた嘘をついては金をたかる啄木に愛想を尽かして去っていく友人もいる中で、彼が亡くなるまで見返りを求めず金を用立て生活を支え続けた友もいたわけで、ついつい助けてあげたくなるような人柄でもあったのでしょうね。
更に啄木さん、ローマ字日記なるものもつけていたそうです…なぜか?
それは学生時代から愛を育んできた妻節子に読まれたくないことを書いていたから。
どんな内容だったかはお察しください(汗)。
でもこれで思い出しました。
中学生の頃、授業中に友達と手紙を回しあったりしませんでした?
ワタシは手紙を中継してくれる人に中身を読まれないように、ローマ字で書いてたこと、あったあった!(笑)
中学生の自分と発想が同じで笑ってしまいました。
でもちょっと笑い事では済まされないこともやってしまいます。
長年の仲であった節子と両家の反対を押し切ってついに結婚することになったというのに、なんと結婚式当日にバックれたんですって…‼︎
ドラマとかでたまにある、結婚式に新郎が現れないってヤツ…これ現実にやる奴おるんかい!
新郎不在のまま執り行われた結婚式、当の妻節子は夫を庇ったそうですが、なかにはこれを機に絶交した友人もいたとか。そりゃそうなるわ…。
自分の結婚式に出なかった理由は、責任や重圧からの逃避だったのではないかと言われています。
(※この時の啄木の行動の理由には後述する父の仕事復帰のため宗教上の謹慎をしていたとする説もあり、真相は不明です。)
ここまでの行動を見て、ちょっと変わった人〜とかお騒がせな人〜では済まされないレベルの人だったんだ…ということに気付きますよね。
ところで、そんな彼の幼少期、育った環境はというと…。