渋沢栄一の成功を支えた
気が強い聡明な妻たち
最初の妻、千代は1つ年下のいとこ。とても気丈で誇り高き典型的な幕末の女だったようです。同じ農民とはいえ名主(村長)の娘。学問にも通じ信念を曲げない烈婦。
幕末って志士の奮闘が目立つけれど、実は女性にもかっこいい人が多いですよね…!
そんな千代は渋沢の女遍歴に対しても「あの人は何でもできて情に厚いから慕われるんでしょう」と達観した対応だったとか。
離れ離れが多かった維新前後の結婚生活でも渋沢からの手紙にも「女の情愛や執着でやるべき務めを邪魔してはならぬ」と自戒してあまり返事を書かなかったというほどの女性。本心を周囲に知らせることなく、41歳でコレラによって亡くなりました。
そして迎えられた後妻の兼子は、零落した豪商の娘で芸妓でした。これまたプライドが高く、多くの男性から妾の誘いがあっても乗らず、渋沢が正式な妻としてもらい受けると言ってくれたことで決意。
兼子もまた、先妻の子たちとその世話をしていた先住の妾もいる渋沢家で苦難の日々を送ったことでしょう。
「あの人も『論語』とはうまいものを見つけなさったよ。『聖書』だったらきっと守れまい』
と渋沢の女好きを揶揄した言葉が有名です。キリスト教には姦淫を禁ずる戒律があるが儒教には無いということのようです。
妾(愛人)を『友人』と呼んでいた
でもね?いくら一夫多妻が認められていた時代とはいえ、さすがに妻と妾を同居させるのは倫理的に御法度でしょー。ただ、ゴシップ誌にスクープを打たれたこともあったようですが進退に影響はせず。(今だったら狂気の沙汰で大炎上必至)
それって男の女遊びに甘かった時代背景もあるけど、他にも理由がありそうなんです。
社会的、庶民目線から見ても立派というか…素晴らしいんですよね。儒教の思想をもとに経済を回し生活インフラを整え、医療や福祉、教育にも手広く携わる。そもそも一人でこれだけのことに力を求められ期待に応えられるってことが超人的にすごいわけなんだけど、世のため人のためになることを成し遂げています。
あとは他にもっと酷かった伊藤博文などが同時代にいたことで、相対的に目立たなかったということもあったようです笑。
そしてもう一つ、やはり正妻たちの気丈さ、聡明さに助けられた面はあるのではないかと。妾が大きい顔をしたり悪婦、毒婦として渋沢自身を仕事もままならないほど骨抜きにするようなことにならなかったのは妻の威厳と管理の目が行き渡っていたからかもしれません。
でもしっかり者の妻が許しても、現代の私たちの感覚で見ちゃうといろんな女性たちが内心苦しんだだろうなぁと思ってしまいますよね。「英雄色を好む」ってことでしょうがないよね!とは同じ女性としては言えません…。
でもちょっとだけ渋沢の密かな孤独が、垣間見えたような気がするエピソードがありました。
こちらは息子、秀雄の言葉です。
「父は打ち解けた親友がいなかった。代わりに妾を『友人』と呼んでいた」
「はぁぁ?」と思いつつも、少し胸がチクリとしませんか?
調整力に優れ、謙虚な態度で様々な立場の人々との関係を円滑に保つことができ、多方面から信頼され偉大な業績を打ち立てた渋沢。同時に、非常に多忙で責任ある立場…プレッシャーも物凄かったに違いありません。
渋沢にとって妾(女性)は、単なる性的パートナーというよりも、社会的なプレッシャーから解放され気軽に話せて心の支えを得る貴重な存在だったのかもしれません。
妾(愛人)を人間として尊重しているのも好感度高い…?同じ人間としてちょっと理解できるだけに…女性としてはより複雑な気持ちになります…けどね。
そして、生涯「女好き」がなおることはなかったけれど、自分の過ちを素直に改められる謙虚なところも好感度が高いんです!
女性をこれだけとっかえひっかえしていることを、女子教育を推進していた教育者から指摘され反省し(?)女子教育にも力を入れた…なんて話もあります。当時の女性教育は困難を極めるものだったけれど、それでも今の日本女子大学設立を成し遂げたわけです。
やっぱり…どれもこれもスケールが大き過ぎる!
女グセが悪いのを知っても「人間らしいところもあるんだな」と妙に納得させられてしまう日本円の新しい顔、渋沢栄一なのでした。
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