発達障害の息子を東大へ!“死を考えた”母子を救った医師の言葉
包み隠さず公にしたことで、大夢くんを取り巻く状況は、少しずつ好転していった。菊地さんの著書には、当時の担任教諭が次のようなコメントを寄せている。
《お母さんが大夢くんに診断を受けさせて、それを学校や保護者に報告、公表されたことで、私たち教師や学校は、大夢くんが学校生活を有意義に過ごせるよう配慮することが可能になりました》
子どもたちも彼の特性を変わった個性と認め、「大夢はああいうやつだから」とクラスの一員として受け入れるようになったのだという。
■「1人で生きていく術を教えるだけでいい」と主治医は言った
小学校2年生のとき、県立の療育センターを受診した大夢くんは、脳波測定などを経てADHDの診断が確定。
「といっても、大夢の状態が急によくなるわけもなくて。相変わらず授業はまともに受けられないし、落ち着きをなくすと、ところ構わずゴロゴロ寝そべるし……」
長男の将来を悲観ばかりしていた菊地さんは、’97年に神戸で発生した連続児童殺傷事件の犯人・少年Aの両親の手記を読み、彼もADHDだったと知り、絶望のどん底に突き落とされた気分になった。
「大夢を残して先に逝けない、ならば、2人で死んじゃったほうが……、そう、思い実行に移しそうになったこともありました」