GADHA代表。自身の夫婦関係において、離婚の危機を迎えたDV・モラハラ加害当事者。自ら加害性を自覚し、多数の文献に触れ、哲学を基盤とした加害者変容理論を構築することで、夫婦関係が劇的に改善された経験をもとに、「人は学び変わると信じられる社会」を目指し「学び変わりたい」と願うモラハラDV加害者向け、毒親向け、職場での加害者向け支援を運営。 『99%離婚』原作、『孤独になることば、人と生きることば』『ケアリング・ワークプレイス入門』著者。
書籍『99%離婚』原作者で、加害者向け支援プログラムを運営するGADHA代表の中川瑛氏が、自身がDV・モラハラ加害者から支援する側になった経験をもとに、「悪意のない加害者たち」からの質問に答えます。
悪意なき加害者からの質問 「不倫の償いはいつ終わるのでしょうか?」 42歳男性です。妻(38歳)と息子(10歳)と娘(4歳)がいます。 娘が1歳の時に友人の女性と不倫をしてしまいました。その女性が離婚をしたため、話を聞いているうちに不倫関係となったのですが、半年ぐらいで妻にバレてしまい修羅場となりその後女性とは会っていません。 妻には誠心誠意謝り、許してもらったのですが…。その後の3年間、家庭での私の人権はなく奴隷のような生活をしています。 給料とスマホは管理され、GPSも付けられておりプライバシーはほとんどありません。平日も妻から連絡があれば10分以内に返信すること、休日の子育てと家事は私がやることを続けています。 さすがにこの生活に疲れてきました。妻を傷つけたのは私なのですが、もう自分が何のために生きているのかわからなくなりました。妻と話し合おうとしても、妻は 私からお金と時間の余裕を無くさないと不安 だからという理由で許してくれません。 自分が蒔いた種だと言われたら終わりなのですが、このままだと自分が壊れそうです。 過ちはいつ許されるのでしょうか? どうすれば妻にこの気持ちをわかってもらえるでしょうか? 中川瑛からの回答 「過ちを犯した人はいつ許されるのか」を紐解くと… 加害者の目線から、ご質問ありがとうございます。 私は「変わりたい」と願うモラハラ・DVなどの加害者が集まるコミュニティGADHAを主催しているのですが、そこには不倫によってパートナーを傷つけた人も参加しています。 関係を修復していけた人もいますし、関係が悪化し続けて終了してしまう人もいますし、なんとか自分の苦しみや悲しみを吐露しながらケアに取り組み続けている人もいます。 その中で、 「過ちを犯した人は、いつ許されるのか?」という問いを考えなかった人はいない と思います。 「それはお前が悪いんだから、そんなふうに考えるのがおかしいよ」とか「どれだけ相手を傷つけたと思ってんの?」とか言う人もいるかもしれませんが、私はそう考えません。 苦しいと感じたり、疲れてしまう、壊れてしまうと思うことは、自然なこと です。 実際、その苦しみに耐えられずに離婚を選ぶ方もいます。それは「逃げ」「無責任」と言われることもあるかもしれませんが、仕方のないことだと思います。誰も、関係を強制することはできないからです(ただし、慰謝料や養育費など法的な責任が無くなるわけではありません)。 被害者にとって許しとは? 2つの意味を考える 被害者の目線からこのような前提を共有しつつ、次はパートナーの方の目線も想像してみたいと思います。 私はGADHAに取り組む中で、不倫に限らず、精神的・経済的DVなど、傷つけられ方はさまざまですが、多くの被害者の方の声も伺ってきました。 その中で、10人ほどの方と 「被害者にとって、ゆるしとはなんなのか」 と連続的に対話をさせていただいたことがありました。とても興味深かったのは、人によって「ゆるし」という言葉に持つイメージは広がりがあり、一つに定まるものではなかったことでした。 ですから、これからここに書くことも、質問者のパートナーの方が考えていることを正確に捉えられているかは分かりません。しかし、何かヒントになることを願っています。 まずわかったのは、 ゆるしには大きく2つの意味、「許し」と「赦し」がある ということです(漢字は便宜的に振っているものです)。 最初の「許し」とは、関係を継続するか否かということ です。「私は許さない」という時、その意味は「関係を終了する」という意味になります。別居や離婚、連絡も取らないなどの幅はあれ、とにかく「もう関わりたくない」という意味です。 このような意味では、不倫によって関係が終わる人もいることを考えると、質問者さんはすでに許されています。子どもとの時間を持つこともできていて、パートナーの方との生活も続いているからです。 もう1つの「赦し」とは 、「傷つけられた痛みや苦しみについて考えたり、相手を憎んだり、相手に苦しみ抜いて欲しいといった感情に頭や心や体が支配される時間が減り、 自分は幸せになってもいいんだとか、誰かを信じてもいいんだと思える時間が増えること 」でした。 「私はあの人を赦せません」というとき、そこで言っていることは「私の傷つきや痛み、怒りは和らぐことなく、いまも苦しく、幸せになれるとか、なっていいとか、思えない」という苦しみの吐露なのです。 裏を返せば、この意味での「赦す」に至ることとは、穏やかで安心できる状況の中で、傷つけられたことが無くなったことには決してならないけれども、それでももう一度自分や周りの人を信じてみたい、幸せになっていいと思える、自分を大切にしたい、そんな感情を持てる時間が少しずつ増えていくことです。 質問をパラフレーズして回答すると…? このように考えてみると、いただいた質問を言い換えると、以下のように言えるかと思います。 私は不倫をした。関係を続けることは許されたが、奴隷のような生活が続いていてこのままだと苦しい。許されるだけではなく、赦される日は来るのだろうか? それまでの苦しみを相手はわかってくれるだろうか?」 この質問に対し、大きく3つのことを述べて回答としたいと思います。 1つ目は、赦される日は来るかもしれないということです。しかし、それがいつになるのかは、実は被害者もわかりません。被害者の方からこんなことを聞いたことがあります。 「私だって、赦したくないから赦していないのではない。むしろ赦せるものなら赦したい。けれど、怖くてそれができない。そういう被害者の気持ちを知っておいて欲しい」 と。 上述の整理を踏まえれば、非常に理解できることです。つまり赦すことは自らが幸せになっていいと思えること、人をまた信じられるようになることです。そうなりたくない人などいるでしょうか。 2つ目は、質問者の方ができること、した方が良いことは、 罰を受けて苦しむことではないことを理解すること です。加害者が罰を受けて苦しむことは、究極的には(少なくとも許した被害者にとっては)目的ではありません。 このような局面で被害者が加害者に求めることは 「赦せるような、安心できるような、もう一度信じてもいいと思えるような」関わりを、もう一度作ること です。 一度裏切られた人をもう一度信じるより、他の人と0から関係を作った方が、簡単かもしれません。それでも、パートナーの方は、あなたとの関係をもう一度作りたいと思っています。 それは、苦しみです。質問者にとってではなく、信じようとする被害者の方にとっての苦しみです。裏切られた痛みに加え、今度は「それでもと信じた時間が丸ごと無駄になるかもしれない」苦しみの中にいるからです。 質問者の方は、いまパートナーが感じている苦しみが二重三重にもなっていること、そして質問者が苦しむこと自体ではそれが解決することはないこと、大事なことはパートナーや家族を幸せにしようとすることだと認識を転換することが必要かもしれません。 不倫によって傷ついた前後で、パートナーの方はどんなふうに変わってしまいましたか? 質問者に対する態度ではありません。例えば趣味のことを楽しむ時間、笑ったり幸せそうにしている時間、そんな時間はどう変わってしまったでしょうか。 そして、それらの時間を増やすために質問者さんは活動できていたでしょうか? ただ怒られ、責められ、叱られ、罰を与えられた気持ちになっているとき、その心は自分に向いています。 でも、パートナーの方の喜びや安心に目を向けてみれば、実はもっとできることが見つかるかもしれません。「怒られないためにやる」のではなく、「安心してもらえるようにする」ことがきっとたくさんあるはずです。 その先に、パートナーの方の赦しが、初めてあり得るのだと思います。 最後に3つ目です。それは、償いというのは、とても苦しく、大変なことでありながら、それを被害者の方にわかってもらおうとすることは、更なる加害になることを理解することです。 自分がやっていることが相手にとって伝わっているかわからなくて怖い。自分のこの努力が、苦痛が、苦しみが、結局良い関係につなががらないなら、やってられない……。 そんなふうに思うことは、冒頭で書いた通り、本当に本当に自然なことです。同時に、それを被害者の方に伝えることは「赦すのか赦さないのかはっきりしてほしい。赦されないなら、こんなことはもうやめてしまいたい」と言っていることと同じなのだと理解する必要があります。 「赦されないなら、こんなことはもうやめてしまいたい(別れたい)」と言ってくる人を、一度裏切られた上に、さらに信じることができるでしょうか。 むしろ、そのように考えていること、それを自分に伝えてもいいんだと思っていること自体が、不信を生むことは想像できると思います。 ですから、もしも質問者の方が家族との幸せな関係をもう一度築いていきたいと願うなら、自らの手によって不信と苦しみの中に陥れた人に、その贖罪(しょくざい)の苦しみを伝えるのはやめた方が良いと思います。 でもその悲しみも苦しみも、全て誰にも否定されるものではありません。そう感じてはいけないということもないし、そんなのは反省していない証拠だと思う人がいるかもしれないけれど、僕はそう思いません。 どうか、GADHAのような場所で、ご自身と似た状況にいる人に、今の苦しみを吐露してみてください。弱音を吐いてみてください。こんなのもう無理だ、このままだともう本当に続けられないです、と。 GADHAの集まりでは、声が震える人もいます。涙を流す人もいます。同時に「自分だけじゃなかったんだ」と安堵したり、「もう少し頑張ってみます」とケアするエネルギーが湧いてくる人もいます。 人を傷つけてしまった人、加害者も、ひとりの人間です。人間は誰もが不完全で過ちも犯します。 許されるとも、赦されるとも限りません。それでも、それを引き受けて生きていこうと思う人たちがいます。ぜひそんな場に、質問者の方がつなががって欲しいと心から願っています。 参考リンク 特定非営利活動法人 ASK GADHA
2023年12月22日