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SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2024年1月スタートのテレビドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。物語の最後に、恒例の不適切なお詫びテロップが2024年と表記されて出てきたとき、「やられた!」と思わず唸ってしまった。柔らかく、ねっちりと細かく、時に目詰まりを起こす令和の対人関係。ドラマの序盤から「話し合いましょう」と歌いあげ、SNSとの向き合い方を何度も考え、そして「寛容になりましょう」と歌い、息苦しさを横に広げて風通しをよくする方法を今作は提示してきた。そして最後に、今この2024年さえも変化していく時代のごく一部にすぎないと、縦の広がりを見せる。鮮やかで、目からうろこが落ちるようだった。いかにも昭和的な価値観の男が令和にタイムスリップする。そこで経験する騒動を通して、令和と昭和の対比をコメディとして描き、大好評を博した『不適切にもほどがある!』(TBS系金曜日22時)。最終回では小川市郎(阿部サダヲ)は昭和に、向坂サカエ(吉田羊)とキヨシ(坂元愛登)は令和にとそれぞれの時代に帰った。純子(河合優実)は大学に合格し、パワハラの冤罪で休職していた渚(仲里依紗)は昭和で元気を取り戻して復職し、失恋で落ち込んでいた秋津真彦(磯村勇斗)と新しい恋をする。元の場所に戻りながら、皆それぞれにアップデートして少しだけ幸せになった。同時に、小川市郎が知ってしまった自分と娘の寿命については、解決も変化もしない。回収しなかった部分は、脚本家・宮藤官九郎と作り手が、人の生死とりわけ災害死を描くにあたって尽くした誠意なのだろうと思う。一方で、最終回の回収は、キヨシが昭和で仲良くしていた不登校の友人・佐高(昭和パート榎本司・令和パート成田昭次)のその後である。令和の少年らしい柔らかさでキヨシは佐高に寄り添って、いつも部屋でゆるゆるとゲームをしていた。別れ際、キヨシは「学校なんてさ。自分と気の合わないやつがこの世界には存在するってことを勉強する場所だけどさ…」と、佐高に淡々と話し始める。1人か2人、友達が見つかれば、他は死ぬまで会わなくていい奴らなんだから。俺は佐高くんにあえて良かったし。それは学校のおかげだし。気が合う奴とは繋がれて、合わない奴とは関わらなくてすむ…便利なもの、もうちょっと辛抱すれば沢山出来るからさ。キヨシが令和に帰った後、佐高はキヨシのいない学校に登校するようになり、中学を卒業する。ただ1人でも、真心で思ってくれる誰かがいて言葉が届けば、小さくても一歩を踏み出せる。若い日の母親と出会い、人間関係の悩みを聞いてもらって、子供のように唇についたナポリタンを拭いてもらった渚が、それで元気を取り戻して仕事に戻っていったように。佐高や井上(昭和パート中田理智・令和パート三宅弘城)の卒業式、小川は「お前らの未来は面白いから!」と言って、ヒップホップとともに生徒を送り出す。本ドラマの主題歌『二度寝』を担当する、『Creepy Nuts』の二人が昭和に来て居残りしているという粋な展開であった。爆笑して『二度寝』を聞きながら、胸が熱くなった。旅立ちにあたって、未来は楽しいぞ、良いものだぞと灯火のように明言してくれる誰かがいるというのは本当に幸せなことだ。一見万事に細やかで配慮の行き届いた令和の世の中だけれども、いま、若い世代に未来はいいものになると確信と共に語れる大人は少ないように思う。改めて自分もまた、昔話よりも未来を語れる大人でありたいと思う最終回だった。笑いと悲しみ、華やかな騒々しさと沁みるような感動。様々な混沌を包み込んだこの作品において、阿部サダヲはまさにクドカン作品そのものを体現するような見事な演技を見せてくれた。そして、娘の純子を演じた河合優実は、しなやかな自我と思春期の淡い揺らぎを鮮やかに演じきって、私たちを魅了した。これからのキャリアが非常に楽しみな俳優である。最後に、いつか10年・20年が過ぎた後に、2020年代はどんな時代として語られるんだろうかと思う。あんな面倒くさい社会なのか、あんな効率の悪い社会なのか、あの頃は良かったなのか。そうして遠く俯瞰できるようになった頃に、このドラマをふと思い出すだろうし、その未来でも宮藤官九郎が辺境に立ち続けて書く作品を見て、笑ったり泣いたり出来ていたらいいなと思う。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2024年04月01日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2024年1月スタートのテレビドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。ムッチ先輩(磯村勇斗)と並ぶ『不適切にもほどがある!』(TBS系金曜22時)の癒し枠・秋津くん(磯村勇斗)が何気にアプリ婚活を始めて、その入力条件のあまりの細かさに笑ってしまったけれども、そこまで分類したいのは失敗したくない、いや、できないからなんだろうなと思う。令和のこのご時世、現役世代はトライアンドエラーする余裕がない。そして昭和と令和を繋ぐ、平成の30年間という時間は、ITやSNSの普及で他人の成功も失敗も沢山『見える』のが当たり前になる過程でもあった。恐ろしい失敗例を沢山見てしまう我々は、どこかしら大成功とはいえずとも失敗はしない選択肢に傾いてしまう。そのために分類して要素を細かく分析する。65点あれば上等、当たって砕けられない時代なのである。昭和61年を生きている小川市郎(阿部サダヲ)は中学校の体育教師。情に厚いし面倒見も良いが、多様性にも弱者への配慮にも意識は低く、ガサツだ。その小川市郎が昭和から令和にタイムスリップして、騒動を起こしながらも様々な人たちと関わっていく。そんな中で小川は令和に生きる自分の孫・渚(仲里依紗)と出会い、自分と娘の純子(河合優実)が阪神淡路大震災で死ぬことを知る。知ってしまった娘の寿命に心を痛めながらも、どうすべきかの結論は出ない。一方、小川とは逆に令和から昭和にやってきた向坂サカエ(吉田羊)と息子のキヨシ(坂元愛登)は、それぞれ恋に友情にと昭和の暮らしを満喫していたが、それにも異変が起きようとしていた。前回の『失敗したらダメですか』も相当に突き刺さる内容だったが、今回の『分類しなきゃダメですか』もまた、社会に投げかけられた鋭い問いかけの槍だと思う。そしてラベルを貼って、分かりやすく見える部分だけをやたらと持ち上げたり、やたらと叩くという現代の世論の極端さにおいて、分かちがたい要素でもある。9話で、個人的に心に残る好きなシーンがある。純子の墓を囲んで、小川・渚・ゆずる(古田新太)・サカエ・井上(三宅弘城)がそれぞれに純子を想う場面である。父、娘、夫、後輩、それぞれの立場で彼らは純子の人生を想う。それぞれの目線だけれど、そこに体温のある一人の魅力的な女性が浮かび上がる。何もかも上手くいった恵まれた人、パワハラした人、Z世代、老害。それは『そんなんだから』という無責任な言葉と、一面的なレッテルで分類され評価される薄っぺらさとは対になるものだ。それにしても、娘を傷つけられた怒りにまかせて父・ゆずるが歌い出すのはミュージカル『コーラスライン』の名曲『ONE』風の何かだし、歌詞にあろうことか『ワンチャン』などとぶっ込むし、途中で心臓病のゆずるは倒れ込む。倒れ込む背中に渚がかけたガウンを跳ね飛ばして更にキレキレに踊るゆずる、痛々しくも救急車に収容されてもなお歌うゆずるに、小川がかけた言葉は…。「ゆずるくん…ジェームス・ブラウンみたいになってる!(おそらくソウルの帝王・ジェームス・ブラウンのマントプレイを指しているものと思われる)」これこそ宮藤官九郎の『わかるやつだけわかればいい』名場面の一つだと思う。いつにもまして、怒るところか笑うところか泣くところか爆笑するところか、よく分からない混沌としたこの最高の一幕に、クドカンのドラマもまた安易な分類なんか受け付けない無二のものだと痛感するのだった。頑張っているから頑張れと言ってはならないのか、一人で頑張ったら逆に迷惑になるのか、異性への褒め言葉は全て地雷なのか、SNSの人間関係にどう対するか、老害の『害』って何なのか、視聴者としてエンタテインメントの楽しみ方はどこにあるのか、一度失敗したら二度と許されないのか、そして今回、安易に人を分類していいのか。今作の作り手は、決して単に『昭和は良かった』ではなく、令和で多くの個人が持つ配慮や優しさはそのままに、集団心理として過敏になりすぎる息苦しさに何らかの落とし所はないのかと問いかけているように思う。次回はいよいよ最終回である。きっと膝を打つような見事な着地が見られるだろう。切なくて毒が効いていて笑えて愛おしい。このドラマの面白さを分かりやすく説明するのはやっぱり難しい。けれども、見た者にとって忘れがたいドラマになるのは間違いない。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2024年03月26日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2024年1月スタートのテレビドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。決して多数派ではないSNSでの意見が、ネットの記事がきっかけで不自然にクローズアップされ、それがSNSにフィードバックされて本格的に火の手が上がる。一度燃えたら、不自然な着火かどうかはもう関係がない。焼け野原になるまで悪評は燃え続けるし、何なら燃え尽きても数年後にまた火がつくこともある。そんな現代の悪意の錬金術を、毒とブラックコメディを散りばめて見事に描きだした『不適切にもほどがある!』第8話だった。時は昭和61年。中学の体育教師、小川市郎(阿部サダヲ)は妻と早くに死に別れ、娘と二人で暮らしている。お節介で心根は熱いが、いかにも昭和の男らしく、配慮やリテラシーはない。そんな小川が偶然令和にタイムスリップしてしまう。昭和とは価値観の違う社会で騒動を起こしつつ、その明快な言動が面白がられたりもしている。しかし小川は、令和で知り合った犬島渚(仲里依紗)が自分の孫であること、そして自分と愛娘の純子(河合優実)が、阪神淡路大震災で死ぬことを知ってしまう。一方、小川とは逆に令和から昭和にやってきた向坂サカエ(吉田羊)と息子のキヨシ(坂元愛登)もまた、昭和に居場所を得つつあった。今回のエピソードは、スキャンダルと世間について。一度でも反社会的なスキャンダルで糾弾されたタレントは、二度と元の場所で働くことは許されないのかという問いかけである。一度だけの「魔が差した」不倫で、地位を失った7年目のアナウンサー・倉持を小関裕太が好演している。「なるほどこれは魔が差して流されたなー」という優しい風情で、過去を悔やみ、悩み、詫び続ける普通の感覚の男性である。倉持の表舞台への復帰に最後まで反対する栗田(山本耕史)が、実は自身も不倫の経験者で、妻の知人達から17年も過去の不倫を糾弾され続けていると明かされる。その場面の薄ら寒さ、気味悪さと、そして小川の絶妙なタイミングの「気持ち悪っ」の一言で、全てに合点がいく感覚は何とも言いがたい。その衝撃の食事会の後、倉持は迷いを捨てて表舞台に復帰する。誰に何を償って、どう家族としての時間を生きるか。倉持のようにイバラの道を選んでタフになるか、栗田のように時折攻撃されるのを甘んじて受けて生きるか、それぞれの道なのだろうと思う。ただ、他人からの糾弾にどう向き合うかはそれぞれとして、これは不倫そのものを肯定するエピソードではない。たとえ20年近く経っても、家族にも、属するコミュニティにも噂と傷は残る。おそらくその先も、数十年も残り続ける。なかなかにゾッとする描き方ではあった。過去の宮藤官九郎による作品を演じた名優たちが、ゲストとして次から次に登場するのも今作の大きな楽しみだが、今回ついに『クドカン作品のミューズ』、キョンキョンこと小泉今日子が本人役で登場している。昭和のシーンでは衣装のみ。ちらりと映る赤いチェックのワンピースに、『木枯しに抱かれて』を歌っていた頃かなと懐かしく思った。令和では58歳の小泉今日子として、年齢を重ねた美しさと、茶目っ気をもっての登場だった。思えばキョンキョンはどの年齢の時も、彼女自身を誤魔化そうとしなかった。58歳の今も、ちゃんと年相応に美しくて、素敵だ。おそらく若い世代が見て、年齢を重ねていくのが怖くならない、人生が楽しみになる生き方のお手本のひとりだと思う。そして最後に、ドラマの癒し枠・ムッチ先輩(磯村勇斗)は、依然無垢でおバカな癒し枠のまま令和から昭和に帰っていった。昭和に青春の輝きを放っていたムッチ先輩は令和の今、随分と恰幅のいいおっさん(彦摩呂)になっていた。キョンキョンが素敵なおばさんになって、錦戸亮が古田新太になって、磯村勇斗が彦摩呂になるらしい38年間という時間だけれど、でも生きていたらとりあえずそれでいいよね、と笑い泣きしながら思ってしまう。よくタイムリープの物語では、悪い未来を変えるために過去で奮闘するけれど、小川市郎は過去の自分達の人生が報われる未来であってほしいと願って未来で闘っている。昭和生まれとして時に理解できない今の時代を嘆くより前に、次の世代の為に、そして自分たちの為に、よりよい社会になるようもっと足掻かなくちゃなと、ふと思った。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2024年03月18日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2024年1月スタートのテレビドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。勿体ないと思うこと。宮藤官九郎の連続ドラマは、視聴者の評価が高まれば高まるほど、完結に向けて視聴者の輪が閉じる。もちろん作り手としてそんなことは決して意図していないはずだが、緻密な構成が知られているために、未見の視聴者の間に「後から見てもちゃんと分からないでしょ」という空気が醸成されてしまう。面白いと言えば言うほど輪が広がらないもどかしさはファンにもあるが、何より一番もどかしいのは作り手だろう。『不適切にもほどがある!』7話はそんなもどかしさと、視聴者にとっての面白さとは何かについて深く考えさせられる回だった。小川市郎(阿部サダヲ)は昭和の中学の体育教師。『地獄のオガワ』というあだ名の通り、デリカシーも配慮もないが、情に厚い男である。妻とは早くに死に別れ、娘の純子(河合優実)と二人で暮らしている。その小川が偶然、令和にタイムスリップしてしまい、その明快かつ大胆な言動が意外と有り難がられてテレビ局のアドバイザーに。しかし、令和で知り合った犬島渚(仲里依紗)が純子の娘、つまり自身の孫だと知り、更に小川は9年後に自分と純子が阪神大震災で死ぬことを知ってしまう。その事実を純子に言えないまま、小川は純子を令和に連れてきて渚と純子の夫・ゆずる(古田新太)に会わせる。小川の中でも、知ってしまった娘の寿命をどう捉えたらいいのか答えはまだ出ない。一方、令和から昭和へやってきた、向坂サカエ(吉田羊)と息子のキヨシ(坂元愛登)はマイペースに昭和での生活を楽しんでいる。キヨシは不登校の同級生、佐高(榎本司)とラジオを通した縁でようやく会えるようになっていた。先週に引き続き、小川は大御所とオワコンの境界線上のベテラン脚本家・エモケン(池田成志)の、新作ドラマの立ち上げに絡んでいる。始まる前から制作側が前評判に神経を尖らせる様子は、いかにも令和のドラマの現場という感じである。SNSでリアルタイムにドラマの感想をポストする人々に対する小川の「そいつら見てねえな!」というツッコミや、「大事なお客さんだし。この人達の承認欲求はここで満たされてるわけですから」という羽村由喜(ファーストサマーウイカ)のセリフが、非常に耳が痛い。SNSと切っても切り離せぬ令和のテレビ制作・視聴を描くこのエピソードで、とりわけ印象深かったのは、純子をデートに連れ出したナオキ(岡田将生)が淡々と語った『好きなドラマ』の評価だった。「ぼく、ドラマって全部通して見たことないんですよね。たまたまテレビつけたらやってて。6話とか7話だけ見て。その回が好きならぼくにとってそれは、好きなドラマです」おそらく今この国で一番巧妙に伏線を張り、ストーリーの美しい多面体を構築する脚本家・宮藤官九郎が書き上げたこのセリフ、複雑な余韻の言葉を噛みしめてみる。本来は一つのフィクションを楽しむのに、初回から画面の隅から隅まで注視してSNSで語りあう楽しみ方も、あるいは言葉として語らず胸の中で噛みしめる楽しみ方も、ナオキのような偶然の断片的な楽しみ方も、正誤も上下もないはずである。楽しみ方に『べき』はない、好きに見てくれればいいというなんとも風通しのいい、力の抜けたセリフ。同時に、どこから入ってもらっても構わないという意味で、プロとしての矜持を感じさせる言葉でもあった。今後、テレビで放送されるドラマがどんな流行を辿るかはともかく、当面はSNSで多くの人々が感想を共有しあう流れは変わらないだろうし、作り手もそれを前提にしてドラマ制作やプロモーションをすることになるのだろう。まるでクドカン本人が来し方行く末を棚卸したかのような今回のエピソードを見て、ドラマのファンとしては語る言葉の有無に関係なく、作品を好きだと思う純度は大切にしたいと思うのだった。そして、この20年、毀誉褒貶(きよほうへん)と視聴率の容赦ない荒波をもがきながら泳ぎ続けるクドカンという脚本家が、やっぱり好きだと思った。令和で純子とナオキは何を見つけに行ったのか、不登校が結んだ少年二人の縁はどこに着地するのか、昭和で始まってしまいそうなサカエの恋愛はどうなるのか、そして知ってしまった娘の寿命を小川はどう見届けるのか。伏線を回収してほしいというより、笑顔と希望のあるラストだといいなと願う。さて、次回はここまでどんなシリアスな展開にも、その天真爛漫さで我々視聴者の笑いの癒し枠だったムッチ先輩がついに令和に降り立つ。その無垢さゆえに、小川市郎以上に危険な不適切の嵐が吹き荒れるかもしれない。楽しみで仕方がない。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2024年03月12日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2024年1月スタートのテレビドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。本人にはとても話せない、さしさわりだらけの未来の話題で、小川市郎(阿部サダヲ)が娘に語ったのは、三原じゅん子が国会議員になった話と、加藤茶が年の差婚をしたことと、萩本欽一が老齢で大学に入ったこと。浮き足立つその場が、それで一旦落ち着いた。現実にも気まずい会話の場で時々そういうことはあるから、改めて芸能というものが人々の人生に果たす機能について考えた。このドラマで、クドカンは昭和と令和のテレビを描きながら、時代を超える芸能そのものの役割についても描こうとしているように見える。昭和61年を生きる小川は『地獄のオガワ』とあだ名をつけられる中学の体育教師。妻を早くに亡くし、高校生の娘の純子(河合優実)と暮らしている。昭和の男の典型のごとく、心根は熱いがデリカシーもリテラシーもない。その小川が偶然令和にタイムスリップしてしまう。不適切な言動で騒動を起こしつつ、その明快さが逆に受けてテレビ局でアドバイザーを務めることになる。そんな中で、小川は自身の孫にあたる犬島渚(仲里依紗)と出会い、自分と純子が9年後、阪神淡路大震災で死亡していることを知ってしまうのだった。一方、小川とは逆に、令和の社会学者・向坂サカエ(吉田羊)と息子のキヨシ(坂元愛登)は、昭和にやってきて小川の部屋に滞在している。キヨシは不登校でまだ出会ったことのない同級生・佐高を気に掛けていた。前回、小川本人と純子の寿命が明らかになってしまうという衝撃の展開とともにドラマは折り返しを迎えた。それを受けて、6話ではいずれ来ることが分かっている悲しみにどう向き合うか、解決できない問題をどう受け止めるかということが、悲喜こもごも交えながら描かれていた。とりわけ印象深いのは、「どうなるか分かってる人生なんて、やる意味あるのか」と、娘の運命を嘆いた小川の言葉と、それに応えた「今考えてもその時考えても分からないなら、今の日々を楽しく、好きなように生きたらどうだろう?」というサカエの言葉だった。そこにはなぜ生きていくのかという、人生そのものへの問いかけがあり、解決できない不条理や痛みを抱えて生きる人に対し、極力誠実であろうとする返答がある。それにしても、小川とサカエのひそひそ話の最中に寝ぼけて現れた純子は何も聞かなかったのだろうか。純子は、令和で娘の天命を知ってもしばらく知らないふりを通した、小川市郎の娘である。気っぷのよさも愛情深さも、それを素直に言えないところも、小川から受け継いだ娘である。本当に小川とサカエの態度から何も察しなかったのかは、この先に向けて気になるところだ。知ってしまった娘の寿命に親としてどう向き合うか。胸に迫る展開ではあったが、宮藤官九郎らしく容赦ない笑いと心が緩むような優しいエピソードも随所に散りばめられている。令和で制服姿の純子を見て「あばずれてる!」と感極まって泣くゆずる(古田新太)の姿にはもう錦戸亮が重なって見えるし、半ばオワコン化しつつあるベテラン脚本家の代表作に、ギャングが暗躍する公園が舞台のドラマを自虐気味に挙げるところも容赦ない。そして、自分が母の寿命を縮めたのではないかという不安と、シングルマザーの道を選んだのは正しかったのかという迷いに揺れる孫の渚が、純子の率直な言葉に救いを得るラストの3分は、思わず目頭が熱くなった。張りめぐらした伏線の鮮やかな回収もクドカンだけれども、不意打ちでこういう優しさを仕掛けてくるのもまた、クドカン作品の魅力である。目下、このドラマでは柔らかいがどこか息苦しい令和の世を、昭和の明快さで解決する展開が目立つ。けれども令和の柔らかさが、昭和の野蛮さで傷つく誰かを包んで救うことだってあるはずだと思う。見た目は昭和のヤンキーだけど、心は令和の柔軟さを持ったままのキヨシは、学校から弾かれた同級生とどんなやりとりを交わすのか。チェーンロックを外した向こうには、何があるだろうか。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2024年03月04日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2024年1月スタートのテレビドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。最初に小さなひっかかりがあった。2話の最後、「今日、正人くんどうしたの」という質問に「お父さんが見ててくれるから大丈夫」と答えた犬島渚(仲里依紗)の言葉。渚の親の世代で、一人で乳幼児をきちんと預かることが出来る老父は珍しいんじゃないかと思った。その小さなひっかかりの答えを、今回知ることになった。1986年に生きる小川市郎(阿部サダヲ)は、生徒に『地獄のオガワ』とあだ名される中学の体育教師。あだ名の通りハートは熱いがガサツ。ジェンダー、パワハラ配慮なし。そんな小川市郎が、令和の現代にタイムスリップしてしまう。令和の世にはあり得ない雑な言動で騒ぎを引き起こすものの、その破天荒さがうけてしまい、テレビ局でアドバイザーを務めることに。小川はテレビ局で働くシングルマザーの渚と意気投合し、いい雰囲気になりかけるが、小川の娘・純子(河合優実)の名前から、渚は小川の孫だと判明する。しかし渚が会ってほしいと連れてきたのは、渚の父親で『ゆずる』と名乗る男(令和・古田新太昭和・錦戸亮)だけだった。二人の話によると純子は離婚して海外に行ったというが、どうも様子が怪しい。そして小川と逆に、令和から昭和へタイムスリップしている向坂サカエ(吉田羊)と息子のキヨシ(坂元愛登)は、不登校でまだ出会ったことのない同級生の存在を知る。クドカンドラマの中に潜むのは…ドラマ全体の折り返しに、宮藤官九郎がアクセルを踏み込んできた。怒濤の笑いと胸にせまる悲しみがごちゃ混ぜになって、それをエピソードとしてまとめあげる。その腕は宮藤官九郎ならではだ。そもそも古田新太の若い頃が錦戸亮という無理筋を、前半は『覇者』『肩パッド』『許しを請うダンス』で大笑いさせておいて、それでも最後には見る者を思わず泣かせてしまうのである。クドカンの頭の中では、笑いと哀しみの境界線でどんな化学変化が起きているのかと改めて不思議に思う。軽薄に見えて実は誠実で愛情深かった婿が、最初に作りたいと願ったのが義父の背広なのも、純子が父を東京まで迎えに行ったのも、採寸が上手くいかなかったのも、飲食店で朝まで語り明かしたのも、何もかもそれぞれの愛情ゆえだった。その互いの愛情のベクトルが父と娘をこの世から連れて行ってしまう残酷さに、ただただ胸が詰まる。『あまちゃん』(NHK)『いだてん』(NHK)『俺の家の話』(TBS系)そして今作。クドカンが描くドラマには、ありふれた愛おしい日々の中に影のように災害や死の不条理が潜んでいる。だがその理不尽と同じくらい、そこから日常に立ち戻る人々の営みも丁寧に描かれる。真実を告げ、深々と詫びて頭を下げたゆずるに、小川が「で?背広は?」と力強く促した言葉は、それでもきっとお前はあの背広を縫い上げただろう、絶望の中で仕事を全うしただろうという確信あってのものだった。そして、最後に背広姿の小川を見て、渚が誇らしげに「当たり前だよ!父さんが仕立てたんだから!」と言ったその言葉一つで、父と娘で寄り添って生きた年月が分かって胸が熱くなる。ゆずるが縫い上げたそれは、まさしく『父の背広』であった。スーツでもジャケットでもなく背広。裏地に漢字で名前が縫われた背広。背広を着てタバコを取り出し、火をつける小川市郎は実に格好よかった。タフな昭和のお父さんの格好よさだった。そして、それは令和の今は通用しない失われた格好よさであるからこそ、尚更素敵に見えた。ちなみに宮藤官九郎は、その作品の中で美形を美形に見せなくする名人である。数多くの時代をときめくイケメンたちがクドカンの手にかかると「残念な愛すべきポンコツ」になってしまうのである。錦戸亮は、そんなクドカンの魔力で大いに輝く俳優である。今回も顔は良いのに何だかなあ、な男に見事にハマっていた。やっぱりクドカン作品の錦戸亮は、とてもいい。今回は切ない令和パートではあったが、昭和ではキヨシが見知らぬ不登校の同級生と繋がろうとするエピソードが始まった。このドラマの中で、マスメディアの主流として描かれるテレビとは対照的な魅力を持つメディアとして、ラジオがピックアップされようとしている。そして、仮に自分自身の天命を受け入れたとしても、果たして小川は愛娘の死を黙認できるのだろうか。少しでも光がさす展開になるといいなと思う。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2024年02月27日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2024年1月スタートのテレビドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。確かに昭和歌謡は強烈だった。歌姫テレサ・テンの歌の多くは婚外恋愛を前提にした歌詞だし、黒沢年雄の名曲『時には娼婦のように』を子供の頃に歌番組で聴いて、親に「娼婦ってなに?」と無邪気に聞いてしまった昭和世代も多いことだろう。『不適切にもほどがある!』(TBS系金曜22時)の4話の中では、秋元康プロデュースの代表曲として『セーラー服を脱がさないで』が出ていたけれども、同じ時期の他の秋元康プロデュースのヒット曲のタイトルは『バナナの涙』『象さんのすきゃんてぃ』などである。タイトルからパンチが効きすぎである。現代の感覚だとこれはないなと感じるけれども、そう感じる変化の一線がどこかに明確にあったわけではない。徐々に徐々に、昭和から令和へと私たちの感じる基準は変わっていったのである。1986年、中学の体育教師・小川市郎(阿部サダヲ)は『地獄のオガワ』と呼ばれるゴリゴリの昭和の教師である。ハートは熱いが、体罰ありセクハラあり配慮なし。妻を早くに亡くし、娘の純子と暮らしている。その小川が、偶然令和の現代にタイムスリップしてしまう。昭和の価値観で令和の世で騒動を引き起こすが、その破天荒さが逆に令和では受けたりもしている。好青年の秋津真彦(磯村勇斗)や、テレビ局で働くシングルマザー犬島渚(仲里依紗)といった、小川を助けてくれる人もいる。そして渚とは妙にいい雰囲気になっている。一方、小川とは反対に令和から昭和に、ひと組の親子がタイムスリップしていた。社会学者の向坂サカエ(吉田羊)と息子のキヨシ(坂元愛登)である。フィールドワークとしてやってきたサカエは昭和で小川の家に居候しているが、息子のキヨシと中学生の頃の夫・井上昌和(中田理智・三宅弘城)が気づかずに仲良くなることに困惑していた。今回のメインは、SNSとの距離感。昭和のオヤジならずとも耳の痛いテーマである。令和でスマートフォンの使い方に慣れてきた小川は、仕事のグループチャットで同僚に絡みまくった挙げ句に既読スルーされて怒りだしてしまう。その様子と対照的に、昭和ではキヨシが授業中に飛び交う折りたたまれたメモに翻弄され、純子との待ち合わせを忘れて会えないままになってしまう。どんな時代であっても、行き交うメモなりSNSなりで小さなコミュニケーションが人を夢中にさせるのは変わらないのと同時に、モバイルがない時代の『人が外で会う』ということの心許なさを描く巧みさが印象に残った。モバイルがない時代の恋愛は、相手と連絡が取りづらいその分、現実にその場に居合わせたかどうか、偶然の要素が今よりもずっと大きく、その分だけ危うかった。モバイルの普及は、恋にせよ仕事にせよそういう『人と会う』ことの不確定要素を小さくしてきたけれども、その分現代の私たちを息苦しくしているのは言うまでもない。だからこそ、純子を部屋から連れ出したキヨシが言った「スマホないのに、純子見つけられた!雨の夜、スマホ使わずに純子に会えた!」という、言葉に詰め込まれた驚きと喜びがストレートに胸に響く。結局のところ、SNSで交わされる小さなやりとりの大半は、昭和の授業中に飛び交ったメモと同じように、楽しかったり気をもんだり悲しかったりもするけれど、後で考えたら漫然として覚えていないようなものかもしれないと思うのだった。そして、現代の私たちはSNSを通じた人間関係の難しさに時折ため息をつくけれども、もしかしたら30年、50年後には「なんであんな息苦しい関係性をみんな我慢していたのだろう?」と不思議に思う日が来るかもしれない。パンチの効いた昭和の歌の歌詞を、「どうしてこれで大丈夫だったんだろう」と今、不思議に思うのと同じように。ここまでに小川市郎と渚が良い雰囲気になりつつも、どうやら血縁なのではないかと匂わせる描写はいくつもあったが、今回のラストで少しだけその答えが提示された。クドカン作品のキーマンを演じてきた古田新太の登場とともに。明らかに闘病中の姿で現れた古田新太演じる男は、渚の父と名乗り、更に小川市郎を『おとうさん』と呼ぶ。あまり幸せそうには見えない様子と、なぜこの場に純子は来ないのかという疑問が不穏に渦巻く。楽天的な昭和の終わりから、バブルの終焉を経て、長い停滞の平成へ。昭和を生きた人々が何を背負ってきたか、何を捨ててきたか、宮藤官九郎は描こうとしている。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2024年02月19日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2024年1月スタートのテレビドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。遠い遠い昭和の時代、ドラマもバラエティも歌番組も、そこに出ている人たちは人ではあるけれど、なんだか生身の人ではないように感じていた。それは私自身が幼く、人生経験が希薄だというのもあったけれど、同時にその頃はテレビに出ている人たちが、本当はどんな人でどんな生活をしているかを知る機会は今より極めて少なかった。そしてあの頃、随一の巨大なメディアだったテレビに出ている人たちは、画面に映る自分達の『役割』とイメージを良くも悪くも堅固に守っていたのである。昭和を生きるゴリゴリの体育教師・小川市郎(阿部サダヲ)。妻と死別し、高校生の娘・純子(河合優実)と昭和の父娘らしく衝突したりお互いを思いあったりしながら暮らしている。そんな小川が、偶然令和にタイムスリップしてしまう。昭和らしいコンプライアンスも配慮もない言動で騒動を起こしながらも、小川の言葉は令和の複雑なトラブルを解きほぐしていく。一方、小川とは逆に令和から昭和にタイムトラベルしてきた親子がいた。社会学者の向坂サカエ(吉田羊)と、その息子のキヨシ(坂元愛登)である。フィールドワークとしてやってきたサカエだが、純子に一目惚れしたキヨシの熱望で昭和に滞在することになる。昭和と令和を行き来する小川と、昭和に滞在している向坂親子。それぞれの価値観を通した過去と未来はどんなふうに見えるか。爆笑とときめきと、時々涙と、そしてなぜか歌とダンスでそれを描き出す『不適切にもほどがある!』(TBS系金曜22時)。3話で描かれるのは、セクシュアルハラスメントに明確な判断基準はあるのかという、極めて、デリケートな内容である。それは現代の火薬庫である。このエピソードにあたり配役されたのは、善人悪人どんな人物にでも変化する万能の名優・山本耕史。そして『いると場がまとまる』スパイスのようなバイプレーヤー八嶋智人。さらに、ヤバいキャラも不思議な可愛げで『あり』に見せてしまう異能のコメディアン・ロバートの秋山竜次。くせの強さがロイヤルストレートフラッシュのような組み合わせで、脚本含め制作はこのデリケートな回を組み上げた。昭和のエロ全開な深夜番組と、令和の配慮でがんじがらめの情報番組を交互に配し、見る側の『不謹慎』を揺さぶってくる。もちろん、エロ全開の昭和の深夜番組を全肯定するわけでもないし(自分が十代で見ていた頃にも居心地の悪さはあった)、どちらもデフォルメされた描写だと理解しながらも、今のバラエティ番組がなぜ没個性になるのか、今のテレビの萎縮具合が痛感できるエピソードだった。今回興味深く感じたのは、サカエが深夜番組の収録でぽつりと呟いたこの言葉である。「偉いよね、あの子たち。なぜ自分がここに呼ばれ、どう振る舞うべきかちゃんと心得てる。求められる役目を、誇りをもって果たしてる」サカエはフェミニズムの研究者である。だが昭和の露骨で野蛮な性差別に呆れはするものの、その価値観でリアルタイムに生きている昭和の人々を全否定はしない。性的な衝動を想起させる、昭和のバラエティとしての仕掛けを『役割』と見抜きつつ、同時にサカエは女性に対する価値観に混乱を起こす小川に「どんな女性も娘だと思って」と助言を送る。「娘に対するように」というエピソードとしての解答は、もちろん全ての人にアドバイスとして届くわけではないし、女性としては「今まだそこ?」と感じる向きもあるだろう。だが、この言葉は脚本の宮藤官九郎が初歩の初歩として、なるべく多くの人に、とりわけ小川市郎のように戸惑う人に初手として届くように選んだ言葉なのだと思う。エンターテインメントを見る際には、それを担い、演じている人々の役割を全うしている姿を没入して楽しむ。同時に、そうやって演じている人々もまた、その役割の外では誰かの家族であり、誰かに大切に思われている、人として『個の存在』であることを認識する。一見矛盾しているように見えるが、その二つのベクトルが我々にとって令和のテレビ視聴の鍵となるのではないかと、もはや心待ちにしつつあるミュージカルを見ながら思うわけなのだった。さて、セクシュアルハラスメントのガイドラインという、価値観は千差万別、コメディドラマとして難エピソードを描ききったかと思えば、次話ではドラマの濡れ場で問題発生らしい。まだいくかクドカン。そして出演の情報のみ発表されて、未だ何の役か出てこない古田新太。まだ全く油断は出来ないのである。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2024年02月13日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2024年1月スタートのテレビドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。幼児二人を育児中の知人が、「あのドラマを見ていたら、子供たちがチョメチョメとかニャンニャンとか覚えてしまって。意味も分からず面白がって連呼するの。あれはチビたちのいないところで見なきゃ」とため息をつくのであった。「なるほどねえ」と頷きつつ、幼児の心を捉える昭和の流行語が持つ破壊力や生命力に感心する。そして、その生命力をあのドラマは鮮やかに映し出している。言うまでもなく、あのドラマとは昭和と令和の世を描くタイムスリップコメディ『不適切にもほどがある!』(TBS系金曜22時)である。昭和61年を生きる中学校の体育教師・小川市郎(阿部サダヲ)。生徒からつけられたあだ名は『地獄のオガワ』。そのあだ名そのままにガサツで粗暴な男である。性別・マイノリティへの配慮は皆無、だが男気と昔気質の優しさはある。妻と5年前に死別し、高校生の一人娘・純子(河合優実)を育てている。そんな小川市郎が偶然現代にタイムスリップしてしまう。配慮のない小川の言動は現代で騒動を引き起こすが、時に膠着(こうちゃく)している現代の問題を解決する。一方、小川とは逆に令和から昭和にタイムスリップしている親子がいた。社会学者の向坂サカエ(吉田羊)とその息子のキヨシ(坂元愛登)である。研究の一環でやってきたらしいサカエだが、親子が現代に帰る間際、純子に一目惚れしたキヨシが帰りたくないと熱望して残ることになってしまう。それぞれの時代で違う価値観に困惑しつつ、小川と向坂親子は様々な人々に出会う。今週のメインテーマは、働き方改革は本当に人々を幸福にしているのか、である。令和で小川が出会ったのはシングルマザーの犬島渚(仲里依紗)。テレビのバラエティ番組のアシスタントプロデューサーで育休から復帰したばかりである。育児は大変だが、仕事への意欲は高い。そんな彼女を働き方改革による上司・部下との断絶と、その分の仕事のしわ寄せが悩ませる。配慮されているはずなのに、なぜか苦しさばかりが増える。意欲を持って仕事をしたくても、意欲を受け止めてくれる相手がいない。脚本家・宮藤官九郎の鋭い聴覚は、働き方改革の狭間に落ちた人たちの、言葉にならない深いため息を捉えたのだと思う。象徴的なのが「独りで抱え込まないでね」「出来ることがあったらなんでも言ってね」といった、よくある親切かつ配慮に満ちた言葉である。そう、親切だしありがたいが、現実にはあまり問題を解決しない不思議な言葉である。その「役に立たない」言葉を、クドカンは小川の一つのセリフできちんと機能させる。「あんたが今、してほしいことが俺に出来ることだよ!」独りで抱え込む人は希望をうまく言葉に出来ないのだとしたら、それを言葉にさせる為にスイッチを切り替える。そして他人に配慮のない、距離感の近すぎる昭和の男がそのスイッチになった。最終的に「働き方なんて自分で決めさせろ」という結論、排すべきは同調圧力という展開は実に鮮やかで胸熱だった。初回で驚かされたミュージカルの場面も、2話目になって、不思議と「きたきた!」という感じで楽しみになってきた。今回は渚の元夫・谷口を演じた柿澤勇人がメインで朗々と歌い踊り、突然ミュージカルが始まる違和感も粉々に吹き飛ばす豪華さだった。このミュージカルのシーンは、公式HPにまとめてアップしてあり、作り手の力の入れようが伝わってくる。おそらくこの調子で、回を追うごとにミュージカルの場面は楽しみになっていくだろう。もう一つ、2話目で興味深く思ったのが、令和から昭和にやってきた少年・キヨシが意外なほどに昭和を楽しんでいる描写である。純子への想いを賭けてムッチ先輩(磯村勇斗)とタイマンを張り、ダチとして認められ、短ランを譲り受けてイケてるヤンキーにクラスチェンジ。愉快なムッチ先輩を演じる磯村勇斗は、こんなにコメディにハマるのかと驚くほどの快演である。それは、SNSなんかまだどこにもない、人の悪意も善意も単純で野蛮な昭和時代。でもその単純で野蛮な時代が変わっていく必要があったから、今の社会があるはずである。そして昭和よりずっと柔らかで優しいはずの令和でも、人々の多くは幸福に見えない。宮藤官九郎の優しいけれども容赦ない目は、笑いと涙の物語の中でその一端を暴くだろう。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2024年02月05日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2024年1月スタートのテレビドラマ『不適切にもほどがある!』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。おそらく全国あちこちで、2024年1月26日の22時10分あたり、「昭和生まれの中年がメンタル瀕死になっていたのではないか」と思う。「こんなに野蛮な時代だったか?」「こんなにひどい日常だったか?」と思っただろう。だが記憶をぼんやりと辿るに、ドラマとして詰め込んではいたけれど、全部確かに現実にあったことだった。配慮のない会話も、職場で女性の容姿をからかうのも、教育現場での暴力も、残念なほどに全部あった。少しでも品質の良いカセットテープで音楽を録音しようと必死だった。大体、安売りのテープが『のびて』音が悪くなった時の悲しみといったら、非常に切ないものだった。ついうっかりそんなことまで思い出してしまった。そんな人生に疲弊した中年の心をこてんぱんにする怪作『不適切にもほどがある!』(TBS系金曜日22時)。脚本は、四半世紀近くこの国のエンタテインメントの辺境を開拓してきた宮藤官九郎である。始まりは1986年(昭和61年)、主人公は中学の体育教師で、妻と死別後ひとりで娘を育ててきた小川市郎(阿部サダヲ)。昭和の体育教師という設定を裏切ることなく、周囲への言動は粗雑かつ生徒への指導はスパルタである。その小川市郎が、突如2024年へとタイムスリップしてしまう。現代に張り巡らされたコンプライアンスと配慮の網をことごとくぶち破り、小川の言動はあちこちで騒動を巻き起こす。一方、同時にひと組の親子が逆に2024年から1986年にタイムスリップしてきていた。社会学者の向坂サカエ(吉田羊)と、その息子の中学生のキヨシ(坂元愛登)である。キヨシは小川の娘・純子(河合優実)に一目惚れしてしまい、未来への帰還を拒む。果たして小川は元の時代に戻れるのか、そして向坂親子はどうやって過去にやってきたのか。抱腹絶倒のジェネレーションギャップドラマが始まる。近年、宮藤官九郎は『得体の知れないもの』や『閉じられたもの』に向き合って、それらを見つめるように作品を描いてきた。テレビドラマ『ゆとりですがなにか』(2016年日本テレビ系)では、ゆとり世代とひとくくりにされる世代の複雑さと苦悩を、『監獄のお姫さま』(2017年TBS系)では怒れる女たちの痛みと連帯を、『俺の家の話』(2021年TBS系)では老親の介護という悲しみと困難を。そして今作で宮藤官九郎が掴もうとしているのは、コミュニケーションにおける配慮という、目に見えない『空気』である。それは人と人の間に必要不可欠だけれども、無さすぎれば関係を壊し、有りすぎれば対話を硬直化して錆びつかせる。その、安易に言語化できないものをエンタテインメントとして描きだすために、粗忽(そこつ)さすらも魅力に変えてみせる阿部サダヲの存在は必須である。唯一無二の身体表現で鬱陶しい昭和の中年男に一匙ぶんのかわいげを加味している。居酒屋の一幕、配膳ロボットが延々と炙りシメサバを運ぶ。タッチパネルの誤入力がそのままノーチェックで通ってしまう不条理、さらにロボットが運んだ後で炙りにくるのはアルバイトという、不条理に不条理をたたみかける展開は、宮藤官九郎らしい怒濤の笑いと毒に満ちていて素晴らしかった。さらにクライマックスのミュージカル仕立てのシーンに仰天しつつ、『木更津キャッツアイ』(2002年TBS系)で、時間を逆戻りさせて再度見せる展開に驚いたことを思い出した。他にも篠原涼子を古田新太に変身させてしまう『ぼくの魔法使い』(2003年日本テレビ系)といった「ありなの?」を「面白い!」に昇華させてきたその剛腕で、このミュージカルのシーンも見せ場に磨き上げていくのだろう。そして1986年と2024年を繋ぐゲートを守るのが、40年の芸能人としてのキャリアを信念を持って走り続け、宮藤官九郎作品でも数々の重要な役柄を演じてきた小泉今日子のポスターだというのが、何ともエモい。それにしても、なぜ中学生のキヨシは尾美としのりの名前どころか、生年月日まで知っていたのだろう。昭和のムッチ先輩(磯村勇斗)とそっくりな令和の秋津(磯村勇斗)の関係、小川の娘・純子は令和でどうしているのか、向坂親子はどんな経緯で過去にやってきたのか、そして喫茶『すきゃんだる』に居たシングルマザー(仲里依紗)は何者なのか。何せ物語が進むにつれて点と点が線になり、線と線が面になり、面が立体になる宮藤官九郎のドラマである。これから春まで、昭和パートに悶えつつ、令和になっても決して守りに入らない、名手が描く物語の妙に唸る週末になりそうである。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2024年01月29日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2024年1月スタートのテレビドラマ『グレイトギフト』(テレビ朝日系)の見どころを紹介します。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。以下、ネタバレが含まれます。これは医療ドラマではあるけれども、いわゆる『医者が難病や重傷の患者を治す』という解決のインターバルをくり返すヒーローの作品ではない。主人公は冴えない病理医で、その上倫理観も中途半端だ。人生の限界が見え始めた中年の男が、今にも手のひらからこぼれ落ちようとしている日常を守ろうとする、泥沼のような綱渡りの物語だと思う。初回の『グレイトギフト』(テレビ朝日系木曜21時)は、ここ最近のサスペンスドラマの主流であるスピード感というよりは、主人公が危うく善悪を揺れながら渡るじりじりした展開に、最後まで目が離せないドラマだった。巨大な大学病院内で元総理大臣の大物政治家が急性心不全で急死。一見何の不審もないその死に、うだつの上がらない病理医・藤巻達臣(反町隆史)が小さな疑問を抱いた。通常では見つけづらい新種の球菌が急性心不全を引き起こしていること、そして元総理の不審死が意図的な殺人だと確信した藤巻は、球菌の危険性を病院の理事長・奥野(坂東彌十郎)に報告する。警察に届けるべきだと訴える藤巻を相手に、奥野の対応は鈍い。一方、藤巻の妻・麻帆(明日海りお)は重い心臓病で同病院に入院しており、新しい治療法を使えなければ命の危機が迫っていた。藤巻は球菌の情報と引き換えに、奥野に新しい治療法の実施を厚労省に働きかけるように迫り成功する。だが藤巻が信頼する妻の主治医で、心臓外科の教授・白鳥稔(佐々木蔵之介)に、この球菌の情報を伝えたことから事態は思いもよらぬ方向に進み、藤巻は大学内の権力闘争に球菌の存在とともに巻き込まれる。白鳥は正義感と共に強烈な権力志向を持った男で、権力を得るために球菌を使って邪魔な人間を排除する共犯を藤巻に持ちかける。それは実質、妻の命と引き換えの脅迫だった。これまで反町隆史が演じてきた数々の名作から浮かぶ彼の印象は、まごうことなく『男らしさ』『明朗さ』『行動力』といったアクティブなものだと思う。だが、今作『グレイトギフト』ではそれらをピタリと封印し、社会になじめない孤独な中年男として登場する。まず人と視線が合わない。会話のタイミングも微妙にずれる。気が弱い上に空気も読めない。既視感のある『忙しい時にはイラッとくる人』の要素がてんこ盛りである。球菌の存在を発表せねばならないと奥野に再三訴えかけるのも、正義感や倫理というよりも、大事になるまえに自分の手から責任を手放したい気持ちのほうが強いように見える。そんな哀れな凡人である藤巻だが、家族への愛はゆるぎなく、妻や娘から冷え切った対応を受けながらも報われない愛を注ぐ。妻の命の為なら、おどおどしながら駆け引きも汚れ仕事も呑み込む姿がなんとも切なく、いじらしい。その藤巻と対照的な存在がふたり。波瑠が演じる検査技師・久留米穂希と、佐々木蔵之介が演じる白鳥である。穂希は藤巻同様にコミュニケーション能力が低くマイペースだが、そんな自分に居心地の悪さや劣等感を感じることはない。殺人球菌に強い興味を持ち、迷うことなく解明したいと思っている。波瑠はどんな役を演じる時も主演級の華やかさを放つ稀有な俳優だが、今作のようなどこか体温を感じさせない、理知的な女性を演じる時にとりわけハマって輝くように思う。そして白鳥は藤巻とは正反対に、明確な理想と医師としての使命感、そして権力を得るためには邪魔な存在を迷わず排除する冷酷さを持った男として立ちはだかる。自分は正しい側の人間であるという自信に満ちた白鳥の微笑にぞくぞくさせられる。善人も悪人も等しく魅力的に演じられる円熟期の佐々木蔵之介、本領発揮の役である。他にも、彼らを取り巻く病院の面々、警察、高級ラウンジと、一癖ある手練れの俳優ぞろいで、果たしてこの殺人球菌をめぐる謎がどこに転んでいくか、人間関係がどう変化するのかは全く予想がつかない。オリジナルストーリーならではの愉しみを堪能できることだろう。今作の脚本をオリジナルストーリーで手がけるのは、黒岩勉。黒岩勉脚本といえば、過去に映画化にもなったヒット作を生み出してきている。コロナ禍を経て、今最も筆の乗った脚本家が描く生と死の物語が、どのような軌道を描くのか楽しみでならない。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2024年01月22日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年10月スタートのテレビドラマ『大奥 Season2』(NHK)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。記録された書物が無惨に燃やされたあと、その物語をかつて天璋院と呼ばれた青年が少女に昔語りとして語りはじめたその瞬間、物語はフィクションとして見事に閉じられた。軌道が真円となって、ぴたりと始点に繋がるような美しさで。幕が降りるように暗転する画面を見つめて、思わず深いため息が出た。劇場ならスタンディングオベーションだっただろう。※写真はイメージ男だけがかかる伝染病で、男性の人口が激減した架空の江戸時代。労働と政治の担い手は女性だった。将軍も女性が世襲で継ぎ、そのために大奥に集められるのは男性となった。しかし世代を超えた苦闘により伝染病は克服され男子の人口は増え、開国そして大政奉還とともに男女が逆転した社会は終わりを告げようとしている。天璋院(福士蒼汰)、和宮(岸井ゆきの)、そして三代の将軍に仕え大奥総取締を務めた瀧山(古川雄大)らはそれぞれに新しい人生を模索するのだった。この男女が逆転した『大奥』という物語は、権力を持つ、あるいは持たされた者の生き様と、同時に彼らが世代を無事に繋いでいくために、生殖行為すら管理・評価される残酷さの両面を描く作品である。大奥という場が作られるきっかけになった家光(堀田真由)も、そして大奥の終焉に立ち会うことになる和宮も、ともに本来の性別である女性の姿を失って大奥で生きている。だが家光が自らの半生で深く傷つき、その反動で周囲をも傷つけてきたのとは対照的に、和宮が自分の性に向き合う様子はどこか軽やかだ。伴侶である有功(福士蒼汰)から打掛を掛けられて泣きじゃくった家光の涙と、舅の天璋院から晴れ姿の美しさを褒められて「何いうてはんの。私はいつだって私です」とさらりと答えた和宮のしなやかな魂に、長い時間と価値観の変容を感じ、救われたような気持ちになった。※写真はイメージ今回、春と秋の2クールをかけて描かれたNHKドラマ10『大奥』だが、原作は更にボリュームのある超大作である。今作の脚本家・森下佳子も、尺の都合上割愛せねばならないエピソードが非常に多く、自身も原作のファンであるだけに、それが心苦しかったと語っていた。それでも、「これぞよしなが大奥」と原作のファンが愛する作品のエッセンスは、常にこぼすことなく盛り込まれていたと思う。とりわけ歴代の女将軍たちの個性色とりどりの魅力は、脚本で描きだした輪郭と、俳優陣の熱演で映像化ならではの素晴らしいものになった。吉宗(冨永愛)の凜々しさ、家光の情熱、綱吉(仲里依紗)の退廃的な美、家重(三浦透子)の哀しさ、家定(愛希れいか)の健気さ、そして家茂(志田彩良)の清冽さ。彼女たちの輝きが、支える御台たちや忠臣たちの魅力を更に明るく照らす。いずれも忘れがたい名演だった。※写真はイメージそれぞれの女将軍たちと同じくらい、今回のドラマ化において印象深かったのは、やはり大奥の始まりと終焉それぞれに立ち会う二役を見事に演じきった福士蒼汰だろう。最終話の家光と有功二人きりの御鈴廊下のシーンは、体の関係を終えた二人ではあるけれども、それでも夫婦としての確かな愛があり、同じ方向を向いて歩いていたのだと感じさせる、切なく美しいものだった。そして船上のラストシーン、胤篤(たねあつ)は日本初の女子留学生となる6歳の少女と出会う。梅と名乗るその少女はのちの津田梅子、津田塾大学の創設者である。※写真はイメージ女将軍たちの愛と生きざまと並行するように、今作ではどんな苦境や閉塞の中にあっても学びの喜びは誰にもあると描いてきた。大奥に学びの場を設けた有功、右衛門佐、青沼の教える蘭学で救われる人々、そして平賀源内。学問の幸福というバトンが、女将軍たちの物語という口伝とともに新しい時代を生きる少女に手渡される。心揺さぶられる見事な終幕である。※写真はイメージこの『大奥』という大作を見届けて、記録に残される偉業や歴史の背後には、世代を越えて受け継がれ、記録にも残らなかった誰かの願いや業績が膨大にあるのだということに思いを馳せた。同時に、自分の生きる日々もまた、きわめて小さな欠片であったとしても、何かに繋がるのかもしれないと思う。流れる水は長大な川のごく一部ではあるけれど、そのごく一部の水の無数の集積が海にそそぐ。物語はいわゆる『作りもの』ではあるけれども、時にその作りものは受け取った人の人生に風を通し、明るくする。それは本当に優れた一握りの作品が持つ力であり、このこのドラマ10『大奥』は、間違いなくその一つであったと思う。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年12月15日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年10月スタートのテレビドラマ『大奥 Season2』(NHK)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。もしも自分が思いもよらない場所で死ぬとしたら、大切な人に、どんな言葉で自分の最期を伝えてほしいだろうか。自分が死んでからも、いつまでも悲しませたくないなら、なるべく相手に執着を残さない言葉を残すかもしれない。逆に同じくらい、愛する人の死に目に会えなかったなら、どんな言葉でその人の最期の様子をききたいだろうか。どんなに思いやりからくる言葉だとしても、それが嘘だとわかるなら、傷ついてでも真実を知りたいのではないか。和宮(岸井ゆきの)を前に、一度は家茂(志田彩良)の望みどおりに嘘を語り、ためらいの後、家茂と和宮ふたりの為に真実を語りだす側近の能登(中村アン)の気持ちを想った。告げた真実は、嘘をついてでも和宮を守りたかった家茂の最期の愛を和宮に届けたのである。※写真はイメージ男女の役割が逆転した江戸時代を描くNHKドラマ10『大奥』(火曜22時)。物語は幕末、歴史上名高い皇女和宮の降嫁まできている。弱体化しつつある幕府の権威を取り戻すべく女将軍・家茂の夫として皇族の和宮が大奥に降嫁するが、やってきたのは男の和宮ではなく、身代わりの姉だった。身代わりであることを周囲にはひた隠しにしつつ、家茂はその優しさと聡明さで和宮と次第に心を通わせていく。しかし家族としての二人の穏やかな日々は続かず、開国をめぐる激動の中で家茂は病身を押して上洛することになるのだった。※写真はイメージやはり今回は岸井ゆきのが演じた和宮の、見るものを一気に引き込む強烈な引力に尽きるだろう。天璋院(福士蒼汰)と同じように、家茂は人の中にある善を信じている。真摯に腹を割って語り合えば、理解し合えると信じている。裏切られたら、それは寛容で包み込む。対して、和宮は人の醜さや残酷さを常に見据えている。他者に期待はしないが、ごく一部の近しいものには愛情や感謝を持って応じるのは、前将軍の家定(愛希れいか)に似ている。天璋院と家定、家茂と和宮。それぞれ陰陽の印のように、互いに欠けた部分を補い合い、一つの円となる夫婦なのである。慶喜(大東駿介)の狡さを「すかんタコ」とバッサリ斬る毒舌の場面も、大阪での家茂の死を知らせに来た瀧山(古川雄大)に対する毅然とした言葉も素晴らしかったが、やはり忘れがたい名場面は、形見の袿と打掛を前にした慟哭だろう。「まあ、やれ言うんやったらやるけれども」呟く和宮の目には、そこにいる家茂の姿が見えている。これは彼女にとって愛する人との『会話』なのである。「前から言おう言おう思てんけど。徳川とか、この国とかそんなん、どうでもようない?そんなんは争うことが大好きな腐れ男どもにやらして。私ら、きれいなもん着てお茶飲んで。カステラ食べてたらそれでようない?」※写真はイメージ泣きながら囁いた言葉は、家茂が生きている間は言えなかったのかもしれない。「上さん」は自分の命よりも国や民衆を大切に想い、苦しむ人を決して見捨てない人だとよくわかっていて、そんな彼女を深く愛していたから、どうでもいいとは決して言えなかった。「あほやなあ」と和宮らしい憎まれ口は、それが恋愛か、友情か、あるいは家族愛か、そんなカテゴリそのものを溶かしてしまうような、深い愛情に満ちていた。今回、原作にはない部分でもっとも印象に残ったのは、京に帰ろうかと迷う和宮に、家茂が宸翰(しんかん)を取り出して一緒にいたいと怒る場面である。原作では、この宸翰は家茂の死後に届けられている。※写真はイメージ今回のドラマではその順番を変えることで、家茂の和宮への愛情がよりはっきりとした輪郭をもって、家茂の主体的なものとして描かれている。更に、互いに相手の服を着て甘い物を食べて楽しもうという家茂の提案もドラマのオリジナルである。互いの服を交換する思いつきが、まだ年若い家茂の少女らしさの希有な発露でもあるし、同時に私はあなたであり、あなたもまた私であるという一心同体を示唆するかのようでもある。※写真はイメージそして、家茂が能登に語る最後の言葉が「大奥に帰りたい」。これも原作では「江戸城に帰りたい」であり、その小さな違いが、私人としての家茂の魂が帰る場所を示していて、更に胸が締め付けられた。ドラマでは原作に加えて、家茂を人間としてより魅力的に見せる工夫があちこちに散りばめられている。200年の時を描き通してきた豪華絢爛な物語も、ついに次回で幕をおろす。映像化にあたって、常に原作のエッセンスを余さず汲み上げ、更に『今』に応じたエピソードを加えてきた今作が、最後に私たちの心に何を残すのか。寂しくもあるが、しっかりと受け止めたい。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年12月08日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年10月スタートのテレビドラマ『大奥 Season2』(NHK)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。異質な存在に触れるとき、人の本質が垣間見えるのだとしたら、若くして将軍になった彼女は、真っ先に相手の身体そのものを案じた。得体のしれない相手だとしても寒いのはいけないと上着を差し出して、その次に出た言葉は、裸を他人に見られたのは苦痛であったろうといういたわりだった。血筋と願いを世代を超えて繋いでいくことがNHKドラマ10『大奥』の縦糸ならば、人の上に立つ器とはどのようなものかは、横糸に違いない。様々な女将軍たちが、希望と苦悩を抱えながら世代を繋いだ物語の中で、最後の『女』である将軍・徳川家茂(志田彩良)と、そのパートナーである和宮の物語が始まろうとしている。※写真はイメージ男だけがかかる伝染病で、男性の人口が極端に減った架空の江戸時代。世の中を動かしたのは女たちだった。政治を行う将軍もまた女で、大奥は将軍の夫となる男達が集められた。苦闘の末に伝染病は克服され、人口比が戻って再び男性中心の世の中となりつつある幕末、家茂はその聡明さと人格を見込まれ、女でありながら十四代将軍となった。幕末の難局を乗り越えるため、公家から夫となる和宮を迎え入れるものの、やってきたのは和宮を名乗る男装した女(岸井ゆきの)であった。シーズン1から続いた長い男女逆転の物語も、いよいよ最後のクライマックスに入ろうとしている。やはり今回の見所は、年若く将軍となった家茂の太陽のような愛情と包容力だろう。このドラマの家茂は広い視野と素直な愛情を持ち合わせた人物である。前将軍の家定(愛希れいか)から、開国について問われた時にも「外国とて武力を振るうのは犠牲の多いことだろう」と意見を述べ、外国人とて同じく人であるというバランス感覚を感じさせた。早逝した家定もまた、同様に聡明で愛情深い女将軍だが、彼女の複雑で過酷な生い立ちが、愛情表現をどうしても抑制されたものにせざるをえなかった。また、そういう分かりづらさが家定の魅力でもあった。一方、家茂の愛情はエネルギーの尽きない太陽のようだ。万人にふりそそぎ、心を温め自然に開かせる。今回、原作になくドラマで加えられた要素で特に印象的だったのは、上洛前、寝室で家茂が和宮に語りかける言葉だった。「民にとっても宮様は光だからです」「そのお方がそこにいらっしゃる、ただそれだけで図らずも救われる人間が山のようにいる。そのようなお方を、世の光と呼ぶのだと私は思います」この場面の会話自体は原作に沿っているが、『光』という単語はドラマの脚本特有のものである。それは和宮の孤独な魂が、家茂の放つ不滅の光に呼応して月のように美しく輝きはじめる瞬間を捉えた言葉だったと思う。※写真はイメージ美しいものに触れることで、初めてその実体を知り、自分もまたそうありたいと自然に願うように、和宮は家茂とのやりとりの中で、初めて将軍の配偶者としての自分の運命と義務に思いを馳せる。総触れに供を連れずに一人で現れ、家茂に付き従う和宮の姿は清々しく美しかった。そして互いに視線を見交わす家茂と和宮の微笑みは年相応の少女めいて、どこか悪戯っぽく、その愛おしさに胸つかれる思いだった。万人を照らす太陽のような女将軍を志田彩良が初々しく真っ直ぐに演じ、そして中性的で、厭世的で、孤独で、しかし心に愛情深さを秘めた和宮という難役を、岸井ゆきのが見事に演じている。口を開けば皮肉ばかりを言うけれど、どこか妖精のような和宮の立ち居振る舞いには嫌な苦みが残らない。※写真はイメージ岸井ゆきのと言えば、NHKの連続テレビ小説『まんぷく』(2018年)でヒロインの姪を、同じくNHKの『恋せぬふたり』(2022年)ではアセクシュアルのヒロインをと、どちらかと言えば無垢で明るい役柄が印象にあったが、今回は陰のある役も見事に演じている。改めて今作の、俳優の既存のイメージを塗り替え、新しい魅力を次々と引き出していく脚本と演出の腕に拍手を贈りたい。心が通じ合い、穏やかな日々を送るかに見えた家茂と和宮だが、家茂の上洛が二人に暗い影を落とそうとしている。幕末から明治維新に向かう激流は、二人の女と大奥の面々をどこに連れていくのだろうか。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年11月30日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年10月スタートのテレビドラマ『大奥 Season2』(NHK)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。これ以上はないような幸福を経験した後に、それを突然奪われるとしたら、最初から幸福を得ない方がまだましか、あるいは奪われて絶望するとしても、それでも一度は得る方がましか。NHKドラマ10『大奥』の8話を見ながら、そんなことを考えていた。たとえ奪われても幸福を得たことに後悔はないという人は少なからずいるはずだと思う。それでも、幸福を失った理由がわからないままだとしたら。そして、その一因に自身が関わっているかもしれないという疑いが晴れなかったとしたら。それは化膿した傷口のように、長く治りづらい悲しみに違いない。※写真はイメージ男だけがかかる伝染病により、男子の人口が極端に減った架空の江戸時代。労働も政治も女が担っていた。鎖国による奇妙な安定の時代を経て、国力の低下を憂えた八代将軍吉宗(冨永愛)の悲願と世代をまたぐ研究者の苦闘によって伝染病は克服される。人口比は半々に戻り、社会も徐々に男中心になっていく一方で、依然男に交じって家督を継いだり、政治に携わる女達もいた。おりしも時は幕末。過渡期の社会にアメリカの黒船がやってきて開国を迫る。時の将軍は徳川家定(愛希れいか)。女性であり、幕府の体制維持のために薩摩藩から御台所・胤篤(福士蒼汰)を迎えていた。この男女逆転の『大奥』で屈指の愛の場面といえば、一つは序盤、家光と有功が最初に心を通わせて抱擁するシーンだと思う。そして右衛門佐(山本耕史)が綱吉(仲里依紗)に男女のありようを説く場面。さらにもう一つ、今回の家定が胤篤に「そなたが好きなのだ」と涙とともに告白する場面である。※写真はイメージこの原作でも胸迫るシーンに、脚本は「しかし実のところ、私にはしかとわからぬことであったのだ。何をもってこの男を好き嫌いだと人は言うのか」という家定の言葉を付け加えた。自身では愛が何なのかを知らない過酷な人生で、それでも部下や周囲を優しく思いやってきた女の高潔な魂がさらに実感できる一言である。そして愛する家定を突然失った胤篤の悲痛は、ドラマでは映像として見るぶん、一層深く苦しい。描き方も、原作以上にドラマの胤篤は絶望し、泣き、怒っている。その描き方に、福士蒼汰は炎のような熱量をもって応えた。※写真はイメージ薩摩の隠密である中澤(木村了)との火花が散るやりとりも、井伊直弼(津田健次郎)に激しく詰め寄る場面も、福士が発散する荒んだ怒りに圧倒される。そして次の将軍となる家茂(志田彩良)と生前の家定が願った世の中を語るうちに心の鎖が緩み、義父上と呼ばれた瞬間に荒んでいた瞳に灯りがともる様は見応えがあった。同時に、絶望にのたうつ胤篤を静かに見守り、形にならない思いやりで支える瀧山を演じた古川雄大の佇まいも素晴らしく、二人の俳優の動と静が悲しみの場面を一層味わい深いものにしていた。※写真はイメージ愛が通じ合った幸福の後の死別は、五代将軍・綱吉と右衛門佐で、そして父親と娘の関係性は同じく綱吉と桂昌院(竜雷太)、そして家定と家慶(高嶋政伸)で描かれている。だが、作中で時代を変えて繰り返し描かれるそれらは、少しずつ救いと解決が示されながら繰り返される。胤篤は愛する人と突然死別する悲しみに沈みながらも、周囲の支えを得てその遺志を実現するべく立ち上がる。義父と義理の娘である胤篤と家茂は、互いを尊重してよりよい幕府のありようを探ろうとしている。そして、吉宗と久通(貫地谷しほり)、綱吉と柳沢吉保(倉科カナ)、茂姫(蓮佛美沙子)とお志賀(佐津川愛美)といった女二人の固い絆を描いてきた本作に、最後に主従ではない、将軍と御台という形で二人の女が登場する。国の舵取りに希望を抱く家茂と、男と偽って降嫁してきた和宮。※写真はイメージ考え方も育ち方も全く違う二人の女は、どんな物語を見せてくれるだろうか。性愛と血筋、そして統治を描いてきた壮大な物語は、最後の山場を迎える。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年11月24日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年10月スタートのテレビドラマ『大奥 Season2』(NHK)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。NHKドラマ10『大奥』は、つくづく『めでたしめでたし』のない物語である。物語としては将軍と配偶者が次々と登場し、婚姻関係を結び、政治を行うものの、誰かの一つの幸福は次の不幸を呼び、しかしその不幸は次の世代の発展に繋がっていく。まさにねじりあう縄のように、悲しみと喜びが不可分に絡み合う。どこまでも単純ではない、視聴者としては一筋縄ではいかないドラマだと思う。男だけがかかる伝染病で、男の人口比が極端に減少した架空の江戸時代。労働の担い手は女性になり、政治の頂点も女将軍だった。大奥に集められるのは数多の美男。社会は鎖国の上で奇妙に安定していたが、八代将軍吉宗(冨永愛)は国力の衰退を憂えて伝染病の撲滅に乗り出す。多くの犠牲と苦難の果てに伝染病は克服され、社会は男中心に戻るが、男女逆転時代の名残もまだ所々に残されていた。黒船来航の混乱の中、女将軍・家定(愛希れいか)と、同じく女性にして老中職の阿部正弘(瀧内公美)は国の舵取りに奔走することになる。※写真はイメージ三代将軍の家光(堀田真由)と十三代将軍の家定。どちらも幼いころに自分の尊厳を傷つけられる過酷な体験をして、絶望とともに生きてきた女である。その二人にそれぞれ寄り添う夫として、福士蒼汰が二役で登場する。前シーズンに登場した有功は僧籍から還俗させられた青年であり、自身の中にも叶わなかった人生の哀しみを秘めながら、思いやり深く家光に寄り添っていた。いわば『慈悲の人』である。そして、今回登場する胤篤(たねあつ)は、未来の天璋院で、薩摩藩から政治工作を含められて大奥にやってきた青年。ドラマにはなかったが、原作では胤篤が女性に優しいために、男尊女卑の激しい薩摩では異端の存在だった過去が描かれている。※写真はイメージ政治工作の密命を帯びながらも、胤篤には悲壮感や下心めいたものは感じられず、その温和さや理知的な会話で傷ついた家定の心を癒やす。現実に即して一つ一つ問題を解決すれば、自ずと万事良い方向に進むと信じている胤篤は『希望の人』である。その二人を声や笑顔、絶妙な立ち居振る舞いで福士蒼汰は演じ分けている。福士蒼汰の魅力の一つに声の良さがあるが、有功では柔らかく潤んでいた声が胤篤の時にはからりとした張りがあり、品の良さは残しつつも来し方の違う二人の青年を表現していた。家定と胤篤が心を通わせる一方で、アメリカとの通商条約を巡って幕政が揺れる最中、家定を支えてきた正弘は不治の病に倒れてしまう。瀧山(古川雄大)が見舞いに持参したカステラを泣き笑いながら押し頂く正弘の姿は、かつての家定との切なく愛おしい日々を大事に抱きしめるようで、ただただ切ない。そして病弱だった家定が胤篤との日々で健康になった姿を見届け、正弘は遺言のように「どうかこれよりは誰よりもお幸せになって下さいませ」と言い残して幕府を去る。それは、実父からの性暴力や毒殺が蔓延する将軍家の有り様に絶望し、自分の幸福を諦めて生きてきた、大切な主君であり愛する友人でもある家定に、諦めないでほしい、掴み取ってほしいと背中を押す言葉だったのだと思う。正弘の言葉を受けとめた家定は、献身よりも生きていてほしかったと怒り嘆きながらも、過去を乗り越えて胤篤との愛に踏み出す。愛おしく大切なものを得るということは、いつか失う恐れと表裏でもある。※写真はイメージそれでも、固く寄り合わされた縄は次の世代に何かを繋ぐだろう。吉宗(冨永愛)が赤面疱瘡の撲滅を願い、その時代には糸口すら得られずとも、田沼意次(松下奈緒)がその遺志を引き継いで、研究の果てに糸口を見つけた。その糸口は一度は切れてしまうが、次の世代で熊痘として蘇り、多くの人々を救った。国としての滅びを回避する道は、まだ途上にあるが、それもまた世代を継いでバトンが渡されていくはずだ。本人にとって「何もなしえぬ人生」と思えたとしても、その情熱や願いは誰かに受け継がれていく。瀧内公美が一気に駆け抜けるように演じた阿部正弘の生き様はそれを見せてくれたと思う。※写真はイメージちなみに7話の後、同じくNHKのドキュメンタリー番組『100カメ』で、今作『大奥』の美術担当の様子が紹介され、衣装や照明・セットの驚くほどの細やかさや高い技術を垣間見ることが出来た。私たちが漠然と「素晴らしいな」「美しいな」と感じるバックボーンに、高度な技術と熱が込められているということに、改めて頭が下がる思いである。物語は終盤にかかっている。この素晴らしいドラマの幕が近いと思うと寂しさは否めないが、疫病禍を経て描かれるこの人間賛歌が、今、私たちに何を残してくれるのか、しっかりと見つめたい。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年11月17日死の伝染病を克服し男女の人口比が戻った江戸の町には、多様性がもたらす揺らぎがあった。現代社会にも相通じるその揺らぎの中を、瀧内公美演じる阿部正弘が、笑ったり落ち込んだりしながら駆けていく。その明るい景色は滅びの覚悟に沈んでいた暗い家光の時代とも、滅びの克服を決意した悲壮な吉宗の時代とも違っていて、そこには選択肢があり、だからこその悩みがあった。男子だけが罹る伝染病・赤面疱瘡(あかづらほうそう)により男の数が激減した架空の江戸時代。将軍は女だった。労働も女たちが担った。だが世代を超えた研究者や医師らの苦闘により赤面疱瘡は克服され、再び社会は男性優位に戻ろうとしていた。そんな時代の流れの中、徳川に代々仕えた名門・阿部家では長男が気弱のため隠居を選び、娘が正弘と名乗り家督を継ぐことになる。そして奇しくも同じ頃、将軍として即位したのもまた、女子であった。※写真はイメージ医療編という仄暗い夜明け前のようなエピソードに続き、華やかなフィナーレの幕末編が始まろうとしている。その物語は遊郭、しかも男のみが集められた遊郭から始まる。幕閣として頭角を現しながらも男ばかりの中で何かと気を遣う、しかしかつての女達のようにがむしゃらに仕事するのも少し違う。とかく気持ちがすり減る阿部正弘のため息は、まるで現代に生きる若い女性のようだ。前回のラストに将軍家斉(中村蒼)と交わした「赤面疱瘡の頃には、才能ある男がそれを発揮せずに終わることもあったでしょう」という言葉でも分かる通り、正弘は視野の広い、フェアな考えの人物である。その視野の広さで、ますます気を遣って疲れてしまう。しかし困惑気味の笑顔を貼り付けて、時に思わずため息をついてしまう瀧内公美が演じる阿部正弘は、まるで大切な女友達の一人のようでとてもキュートである。そして、そんな正弘を男がもてなす遊郭に誘うのは遠山金四郎(高島豪志)、つまり『遠山の金さん』である。さしずめ期待の若手社員が生真面目で悩んでいるのを、さばけた上司が新宿二丁目やホストクラブに気晴らしに連れて行くようなものだろうか。そこで正弘が偶然出会う美しく聡明な陰間・瀧山を演じるのは古川雄大。舞台で磨きぬいた美しい所作と、優雅な声で語る廓詞(くるわことば)で私たちを魅了する。瀧山が自身の花魁姿の由来を説明し、正弘が感心するシーンは有能な者が同じく有能な者を鋭い嗅覚で嗅ぎ当てるかのようで見ていてわくわくする。※写真はイメージまた、原作にないドラマオリジナルの場面として、一度は身請けを辞退した瀧山を、正弘が遠山金四郎を連れて再び説得に訪れる場面も胸が躍った。ちなみに原作でも遠山金四郎は登場しているが、瀧山との接点はない。組織には様々な出自・由来の人物が必要だという正弘の説得は、まさに現代にも通じている。今回のドラマ化にあたっては、吉宗(冨永愛)が馬で疾走する場面は『暴れん坊将軍』を、大岡忠相(MEGUMI)の描写が多くなったのは『大岡越前』を、そして今回の『遠山の金さん』と、歴代の名作時代劇へのオマージュがあちこちに見られることも楽しい。同時に、こういった時代劇の面白さを世代で繋いでいくことの必要性にも改めて思いを馳せた。※写真はイメージもう一つ、ドラマ化にあたってのオリジナルの描写は将軍・家定(愛希れいか)の、将軍としての資質である。原作でも家定は聡明な女性として描かれるが、ドラマでは更にそのリーダーとしての資質が強調されて描かれている。※写真はイメージ実父から性加害を受け傷ついた家定を案じ、薩摩からの御台輿入れの申し出を断ろうとする正弘に、家定は薩摩を引き入れれば正弘の政治の役に立つはずと、自身の意志で薩摩の男を伴侶にすると決心する。この一連はドラマのオリジナルだ。「そなたの為に将軍になった。そなたが自在に空を飛ぶためにここに座っておるのだ、私は」仕える身として、これ以上に心を揺さぶる信頼の言葉は無いのではないかと思う。そして親からの理不尽な暴力にも、長く誰も救ってくれなかった孤独にも、損なわれなかった高貴な魂を体現するのに、愛希れいかの真っ直ぐな瞳の輝き以上に相応しいものも無いだろう。そして今回のラストでは胤篤(天璋院)が登場する。シーズン1で家光(堀田真由)の夫・有功を好演した福士蒼汰が、再び「運命の夫」を演じる。大奥の始まりと終焉。その二つを見届ける人物として、福士蒼汰は今回の映像化を象徴する存在になるだろう。シーズン2でも、どんな心震える演技を見せてくれるか、楽しみだ。※写真はイメージSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年10月スタートのテレビドラマ『大奥 Season2』(NHK)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年11月10日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年10月スタートのテレビドラマ『大奥 Season2』(NHK)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。吉宗を演じる冨永愛の毅然とした姿は見惚れるほどだった。家光を演じる堀田真由の激流のような情熱には圧倒された。綱吉を演じる仲里依紗が表現する虚ろな哀しみには胸をつかれた。家重を演じる三浦透子に滲む悔しさと諦めは切なかった。田沼意次を演じる松下奈緒の知性と艶やかさ、松平定信を演じる安達祐実の危うい潔癖さ。そして平賀源内を演じる鈴木杏の伸びやかな生命力。このNHKドラマ10『大奥』は、多くの俳優たちの未知の魅力を引き出し、さらなる高みに押し上げてきた。※写真はイメージ原作に淀みなく流れる人間愛と、演出・美術の素晴らしさはもちろんのこと、これには脚本家・森下佳子の絶妙なタクトを抜きに語ることは出来ない。実写化という縛りのもとで描けない部分を用心深く切り落とし、人物像に深みを持たせるためにセリフと説明を加え、演者たちの魅力を際立たせた。NHK連続ドラマ小説『ごちそうさん』(2013年)、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』(2017年)、『義母と娘のブルース』(TBS系 2018年)といった作品群からもわかるように、森下佳子はカリスマ性を持ったヒロインと、その関わりで変化していく周囲を描くのに長けた作家である。彼女のその筆は、今作で恐ろしく、それと同じくらい魅惑的な悪役を描き出した。ひんやりと甘い声で、息子に毒入りの菓子を勧める一橋治済(仲間由紀恵)の「召し上がりゃ」と囁くセリフは当面忘れられそうにない。男だけが罹る赤面疱瘡という伝染病で、男性の人口が極端に減少した架空の江戸時代。労働や政治の担い手が女性となる中、名君と謳われた八代将軍・吉宗は国の存続の為に赤面疱瘡の克服を決意する。吉宗の遺志を託された田沼意次は大奥に蘭学者を集めて研究を始めるが、その成果は権力を得た一橋治済に握りつぶされてしまう。赤面疱瘡の撲滅という希望が消えた後、幕府では150年ぶりに男子の将軍・家斉(中村蒼)が即位する。そして同じ頃、大奥では幼児の不審死が続いていた。※写真はイメージ医療編、堂々の完結である。権力者の横暴という閉ざされた闇を切り開いたのは、我が子を殺された母親二人の怒りと執念だった。治済を仕留める機会を得るために、狂ったふりをした御台・茂姫、そして治済にすり寄るふりをしたお志賀。それぞれ蓮佛美沙子、佐津川愛美という硬軟自在の演技派二人が、治済役の仲間由紀恵と堂々渡り合った。原作にない、ドラマ化で加えられた部分でとりわけ印象に残ったのは、倒れ苦しむ治済に医師を呼んでほしいと、「たとえ化け物でも母は母」と伏す家斉の懇願と、それに茂姫が痛切な表情で呟いた「あなた様は、そういうお方ですものね」という二つのセリフである。※写真はイメージここに、母親と息子たるものの切ろうとしても切れぬ愛憎と、夫と妻たるものの結んだようで結びあえない縁が交錯している。息子を毒殺で失った茂姫は、妻であり同時に母でもある。その彼女の中に吹き荒れただろう感情の嵐を思うと、言葉にならないものがあった。もう一つ、映像化にあたって付け加えられた印象的な場面は、公儀の施策として熊痘接種所が設けられ、その看板を前に黒木(玉置玲央)、伊兵衛(岡本圭人)らが感無量になるシーンである。看板を見つめながら黒木は今は亡き平賀源内との最後の会話を思い出す。それは、死の淵の源内を悲しませまいと実直な黒木が優しい嘘をつき通した会話だった。奇しくもその嘘は長い悲喜の果てに真実になり、優しく悲しい嘘は竹とんぼが飛ぶ空に昇華する。源内も、青沼(村雨辰剛)も、田沼も、想い出の中にいる死んでいった人たちはみな笑顔である。それは重苦しい展開の続いた医療編の最後におとずれた、抜けるように美しい空だった。※写真はイメージそして美しいモンスター・治済の退場と入れ替わりに、更なる悪辣な権力者が登場する。実の娘への性加害という鬼畜の所業を繰り返す将軍・家慶を演じるのは、今や屈指の怪優・高嶋政伸。見るに堪えないようなおぞましい場面から始まったが、幕末編はこの壮大な人間賛歌の締めくくりに相応しい華やかさと躍動感のあるパートである。脚本・森下佳子のタクトがどんなフィナーレを描き出すのか、楽しみにしている。※写真はイメージドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年11月02日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年10月スタートのテレビドラマ『大奥 Season2』(NHK)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。人間の尊厳と業を描くこのNHKドラマ10『大奥』(NHK火曜22時)の中でも、権力と性差をめぐる描写はこの医療編の後半が最も秀逸で、だからこそ恐ろしい。今回の映像化の前から、作品中最大の悪役・一橋治済を誰が演じるかは原作ファンの中でも大きな話題になっていた。ちなみに原作の治済は、凡庸な容姿の女である。その凡庸さゆえに、凶行の数々は衝撃的だった。映像化の治済役が仲間由紀恵だと発表されたとき、これは中途半端はないだろうと背筋がざわついた。その制作の賭けの結果はどう出たか。治済の出番はまだ途中であるけれども、もう答えは出ている。この役は、仲間由紀恵という俳優が持つこれまでの輝かしいキャリアを、更に高みに押し上げる大きなターニングポイントになるに違いない。※写真はイメージ男子のみが罹る伝染病・赤面疱瘡で、男性の人口が著しく減少した架空の江戸時代。主な労働の担い手は女性になり、政治もまた女性を中心に行われていた。人口減少と国防の弱体化を憂う八代将軍・吉宗(冨永愛)は、再び男子の人口を増やすべく赤面疱瘡の克服を腹心の田沼意次(松下奈緒)に託す。大奥に蘭学者を集め、一度は人痘接種という大きな成果を得るも、田沼を後押ししていた将軍・家治(高田夏帆)の死とともに研究は中止となり、研究をしていた面々は死罪や追放といった境遇に追いやられた。だが一度踏みつぶされた伝染病克服の希望の芽は、まだ枯れてはいなかったのである。※写真はイメージ前回、欲が生み出す権力争いが国の未来を左右する発見を平気でもみ消してしまう、その絶望感はすさまじかったが、引き続き4話目も重苦しい。見ていて息苦しさすら感じるのは、罪のない幼児が毒殺されていくという衝撃的な展開に加えて、その悪事が見逃されていく様子が現代にも通じるものだからだ。母・治済の操り人形として将軍になった家斉(中村蒼)は、老中の松平定信(安達祐実)に力なく言う。「母上を怒らせてもよいことは何もない」と。そして治済当人もまた、これほどに異常な人数の人間が死んでも誰も疑いの声をあげないと悪びれることなく呟く。権力者の悪事は、滅多に暴かれない。安全と効率を求めて人は集団を作り、集団を指導する者に権力を預ける。だが権力者がその能力を持たない上に更に悪辣であった時、それを糾弾することが難しいのは、時代も性別も集団の規模も越えて変わらない事実である。そんな現実にも通じるやるせなさを、脚本の森下佳子は巧みに物語の中に仕込んでいく。この医療編の後半、原作に加えて映像化でオリジナルとして加えられたのは、治済の性格についての描写だった。敵対関係でもない孫を殺す動機が理解できないと言う家斉に、定信は「世には人のもだえ苦しむさまを楽しむ趣味の者もいる」と、家斉を哀れむように返す。ここは原作では動機の分からないサイコパスのように描かれていた治済について、更に一歩踏み込んだ表現である。そして「人の苦しみを楽しむ者もいる」というその表現が、治済という人物の輪郭を更に明確にする。※写真はイメージそれは例えばいじめであったり、性加害であったり、顔の見えない誹謗中傷であったり、相手を痛めつけることを目的とした卑劣な行為と根で繋がっている。私たちがどこかで見て思わず目を逸らしてきたそれらの嫌悪感と、仲間由紀恵がどこまでも美しく艶やかに演じきった凶悪が重なって、未知の恐ろしさを創りだしたのである。重苦しい展開の中、黒木(玉置玲央)と伊兵衛(岡本圭人)、そして黒木の妻になったるい(中村映里子)、そして黒木の息子・青史郎(塚尾桜雅)の場面でかろうじて和んだ。ドラマでは息子の出生の場面は描かれなかったが、黒木が息子につけた青史郎という名は、青沼(村雨辰剛)にちなんでいる。家斉が幼い頃に出会った青沼の姿、どこに飛ぶか分からないから不評だと源内が笑った竹とんぼ、そして対価など期待せずに文字の読めない村の女に源内が残した人痘接種の書き付け。※写真はイメージ家斉や黒木、伊兵衛が人痘接種という希望の灯火を再びともそうとする道のりの中で、目印のように出会う、今は亡き人の慈愛と献身の欠片が胸を熱くする。闇のような悪意と閉ざされた権力に、真に抗えるものは何か。その答えが描かれるのは次回である。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年10月27日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年10月スタートのテレビドラマ『大奥 Season2』(NHK)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。『大奥』と銘打たれた作品を徳川幕府の将軍とそのパートナーたちの物語だと括ったら、この医療編は特殊な位置づけにあることになる。ここで謎の業病を克服しようと研究を重ねる人々は早逝する御台の五十宮(趙珉和)以外、将軍のパートナーではなく、医療編を通して性愛の描写はほとんどない。一つの成果を追い求める青年たちの日々と、その終焉が中心だ。だが、結末も哀しく読者に苦い読後感を残すこのパートに格別の愛着を持つ原作のファンは多い。そしてこの医療編があって、原作著者・よしながふみが描く男女逆転の大奥という先鋭的な設定の物語は、無二の人間賛歌として輝くのである。※写真はイメージ男子のみが罹る謎の伝染病、赤面疱瘡によって男子の人口が激減した架空の江戸時代。労働力の担い手は女性となり将軍もまた女となった世界、跡取りの確保のために江戸城・大奥に集められたのは男だった。男子の人口減という国難を憂い、八代将軍・吉宗(冨永愛)は腹心の部下である田沼意次(松下奈緒)に赤面疱瘡の撲滅を託し、田沼は平賀源内(鈴木杏)の紹介で長崎から混血の蘭学者・青沼(村雨辰剛)を呼び寄せ、密かに大奥で研究を開始する。病を治療するよりも病に罹らないようにすればより効果的なのではないかと、青沼や源内が気づき始めたその時、田沼と彼らには大奥の権力争いの影が忍び寄っていた。※写真はイメージ原作そしてこのNHKドラマ10『大奥』というドラマを見て、最初は男女逆転の世界観が新鮮で、性別が逆転するだけで様々なことが不条理に感じられるのかと感心する。しかしこの世界に没頭するにつれ、もし自分が社会的に強者の立場になったなら、あるいは逆に弱者として死と隣り合わせに生まれついたなら、どんな生き方をするだろうかと考え込んでしまう。果たして自分は強者であったとき、弱者に対する想像力を持って生きられるだろうか。あるいは「今が良ければそれでいい」「多少の不都合には目を瞑ればいいと」と事なかれ主義に陥らずに生きる責任を果たせるだろうか。この医療編で描かれる人々は、人間としての気高さも、死に向き合う恐怖や迷いも、事なかれの卑劣さも、権力を求める強欲さも、その生き様には男女の違いも身分差もない。権力の周辺で生きる人々の醜さや悲しさがしっかり描かれるからこそ、敬愛する人や仲間からの感謝の言葉だけで、自らの死を受け入れることが出来る青沼の高潔さが私たちの胸に深く響く。金も名誉も求めなかった男がただ一つ、崇拝する女に請うた「いま一度」の言葉。感謝だけあれば命と引き換えに十分だと逆説的に伝わってくる。胸ふるえる名場面だった。※写真はイメージ映像化にあたり、脚本では分かりやすくするために細心の解釈で所々に変更があるが、今回のラスト、土砂降りの中で叫ぶ黒木(玉置玲央)のシーンは、ほぼ原作そのままだった。圧巻の再現度に息をのんだ原作ファンも多いと思う。原作から10年の時を超え、名バイプレーヤー・玉置玲央が全力で演じたこの場面は、強者つまり失わない人々が、失い続ける弱者の人生への想像力を忘れ、その痛みを見て見ぬふりすることへの絶望と怒りに満ちている。その怒りを、黒木は神仏ではなく生身の人間である江戸城の権力者達にぶつける。そしてフィクションを越え、時代を超え、その言葉は現代に生きる私たちの心に深く突き刺さるのである。※写真はイメージ原作通りといえば、平賀源内が命を落とす原因となった梅毒への感染もまた、原作に沿った。奇しくもここ数年、感染症としての梅毒は増加傾向だという(原作が描かれた2013年より、2022年の梅毒の報告数は9倍近くになっている)。ドラマの中で描かれる梅毒としては、今作の脚本・森下佳子が手がけた、同じくコミックから映像化された『JINー仁』(2009年・TBS系)を記憶している方も多いかと思う。その縁のごとく、青沼が田沼に対して自らの生き方を『仁の道』と表現した言葉には胸が熱くなった。気がふれてしまっては自分ではないと泣いて訴えた源内が、黒木の見舞いに最後まで饒舌に希望を語り、更に盲目ゆえに黒木の優しい嘘を見抜けなかったのは、ささやかな、この悲しいエピソードの中で本当にささやかな救いだと思う。そして物語の救いのなさと対照的に、江戸城に巣食う権力者・一橋治済(仲間由紀恵)は、震えるほどに美しい。優雅な所作、無垢を装った怪訝そうな表情、そして「将軍になるのは私ではないのよ」と甘い声で微笑む姿は、吉宗を演じた冨永愛と同じく、この役が彼女のキャリアを更に高みに押し上げるだろうと確信に足るものだ。一度は花が咲きかけた、赤面疱瘡撲滅の希望はついえてしまった。しかしタンポポの種のように、知識と経験は小さな希望となって大奥の外に飛び立った。これから何処にそれはたどり着き、どんなふうに芽吹くだろうか。※写真はイメージドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年10月20日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年10月スタートのテレビドラマ『大奥 Season2』(NHK)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。伝説のようにカリスマを持ち合わせた人物も、30年程度の経過でその実像がぶれてくる。ましてや100年近く経てば体制が作られた当時の社会情勢や、その時の切迫感も否応なく失われていく。それでも生身の人の喜怒哀楽は、螺旋のように似たものを繰り返していく。※写真はイメージ名将軍・吉宗を慕う孫の代は、既に名君の本質を捉えていない。そして将軍の夫として京から来た皇族の青年は、妻との間に子を得られない寂しさを学問や仲間たちとの友情で癒やす。同じように、かつて京から来て僧から還俗(げんぞく)し、将軍の夫として生きた哀しい青年のように。絶妙な配役、映像化にあたって編集しながらも原作の本質をとらえた脚本、NHKならではの豪華な美術といった魅力でSeason1から大好評のNHKドラマ10『大奥 Season2』(火曜22時)。男子ばかりが罹患する架空の伝染病・赤面疱瘡で、男女の人口比が崩れた江戸時代。労働を担うのは女性となり、一国の主の将軍もまた女が務め、世継ぎを作るために大奥に集められるのは男子であった。名君と謳われた八代将軍吉宗(冨永愛)は、赤面疱瘡の撲滅を願い、蘭学の研究を始めるよう側用人の田沼意次(松下奈緒)に命ずる。田沼がその為に呼び寄せたのは、旧知の本草学者・平賀源内(鈴木杏)と、長崎で蘭学を学んだ混血の青年・青沼(村雨辰剛)だった。※写真はイメージ赤面疱瘡の研究が更に深まる2話は、学問への真剣さが生み出す楽園のような展開だった。将軍家治(高田夏帆)と御台所・五十宮(趙珉和)からの支援を受け、当初閑古鳥だった青沼の蘭学教室は軌道に乗る。生真面目な御右筆助の黒木(玉置玲央)、やんちゃで陽気な伊兵衛(岡本圭人)、お人好しで優しい僖助(新名基浩)といった面々に、源内そして五十宮を加えた教室は身分も才能の有無も、分け隔てのない空間だ。そこに飛び交う言葉は青沼の長崎弁であり、源内の江戸言葉であり、そして五十宮の京ことばであり、真にボーダーレスな集団であることをよく表している。原作の紙面でぼんやりと受け取っていたことを音で改めて実感できるのは、映像化ならではだと思う。だが続くかにみえたその楽園は、五十宮の病死という悲しみを経ることになる。蘭学の教室を守るために病気を隠し続けた五十宮は、将軍の夫として抱え続けた寂しさを学問と仲間たちが埋めてくれたと青沼に礼を述べる。※写真はイメージその姿は、万里小路有功(福士蒼汰)が家光(堀田真由)との愛に苦しみ抜きながらも、総取締として大奥への献身や、春日局(斉藤由貴)の看病で自らの存在意義を見いだしていった姿と重なる。そして自らは子をなせなかったと語る五十宮は、その寂しさゆえに先々まで―いずれ赤面疱瘡を防ぐ人痘接種が完成するまで、間接的に蘭学研究を守り、後の世に大きな財産を残すのである。そして2話では、名君・吉宗の流れを受け継ぐ三人の女が揃う。一人は生前の吉宗の姿を心に刻み、その政治の志を継ぐ田沼意次。鷹揚だが闘争心の薄い女を松下奈緒が上品に演じている。一人は孫として吉宗の正義感や清冽さに憧れる松平定信(安達祐実)。潔癖な優等生を安達祐実が張りつめた糸のような緊張感で演じる。そしてもう一人、同じく吉宗の孫であり、人心を操るモンスター、一橋治済(仲間由紀恵)。優しく語り口も穏やかだが、のっぺりとして見ている者をどこか不安にさせる美しい女を、仲間由紀恵が緻密に演じる。※写真はイメージ根回しに長け政策の実行能力も高い田沼だが、その理性と高い能力ゆえに、理由のない悪意を見抜くことが出来ない。正義感も理想も高い松平定信は、その高さに反比例して視野が狭く、清濁あわせもった判断が出来ない。そして人の悪意や弱みを増幅して味方に引き込む一橋治済の恐ろしい能力、理想も信念もなく、ただ自分の権力を増大させることを目的にした策略が、二人に忍び寄ろうとしている。この三人のもつれ合う運命を、いずれも主演級かつ実力派の女優達が華やかな火花とともに演じる場面はさすがの見応えであり、まさに眼福だった。よしながふみの『大奥』という大作を通して見ても、平賀源内というキャラクターの魅力は際立っているし、その源内に降りかかる運命もまた作中屈指の過酷さである。※写真はイメージその残酷さゆえにドラマは原作通りに描けるだろうかと、ある意味マイルドになっていたらそれはそれでいいのかもしれないと思っていたが、2話のラストを見るかぎり原作通りのようだ。作り手の覚悟に大きな拍手を送りたい。そしてその覚悟に応えるべく、私たちもこのドラマの行方をしっかり目に焼き付けようと思う。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年10月12日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年10月スタートのテレビドラマ『大奥 Season2』(NHK)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。NHKドラマ10『大奥』の原作、よしながふみのコミックにおいて医療編が始まる単行本(八巻)が刊行されたのは2012年。その年、日本では東日本大震災の傷跡がまだ生々しく、一方ロンドンでオリンピックが開催されて開会式では女王がスパイとともに空を飛ぶ映像が流れ、年末には第二次安倍内閣が成立している。深い傷跡と未来からぼんやりと差し込む光。それらの境界線にあったようなその年、世界を覆いつくす疫病の影はまだどこにもなかった。どこまでも架空の出来事として、自分含め読者は原作に出てくる業病『赤面疱瘡』のことを捉えていた。それから十年も待たず、私たちは優れた作家の筆がまるで予言のように薬のない疫病と人々の混乱を正確に描き出していたと知ることになる。※写真はイメージ江戸時代、三代将軍家光の時代。男子のみが罹患する伝染病により、男子の人口が女子の四分の一にまで減ったこの国で労働と政治の担い手は女性となった。将軍もまた女性が務める中で、女将軍が跡継ぎを生むための大奥は男ばかりが集められるようになるが、男女が逆転したとしても、いや逆転しているからこそ、そこには悲哀が満ちているのだった。シーズン1で、原作のエッセンスを余すことなく表現した緻密な脚本と、圧倒的な映像美、俳優陣の熱演で好評を博したNHKドラマ10『大奥』。シーズン2は八代将軍吉宗(冨永愛)の死からおよそ20年、いわゆる田沼時代と呼ばれる時代から始まる。吉宗から赤面疱瘡の撲滅を託された将軍の側用人・田沼意次(松下奈緒)は、大奥での医学研究のために平賀源内(鈴木杏)に命じて長崎・出島で蘭学者を探させる。源内がこれと見込んで連れてきたのは、長崎で外国人と遊女の間に生まれた金髪碧眼の吾作(村雨辰剛)という名の青年だった。その容姿で差別を受け続け、苦難の多い半生にもかかわらず、吾作は「人の役に立ちたい」と大奥に入り、新たに『青沼』という名で蘭学の講義を始める。※写真はイメージ医療編と呼ばれるこのパートは、男女逆転の大奥の物語の中でもやや異質な光を放っている。ここで描き出されるのは、男女の役割が逆転した世界ではなく、男女の役割の境界線そのものがない世界である。いや、武家の身分を捨てた平賀源内が連れてきた金髪碧眼の青沼の講義に、御半下から将軍、御台所まで集う。性別だけではなく人種・身分の境界線も越えようとする、それは小さなユートピアである。医療編の要ともいうべき、女でありながら男装し、せわしくなく喋り、美女に目がない陽気な平賀源内を鈴木杏が演じる。源内はよしながふみ作品の魅力を凝縮したような、原作でも屈指の人気キャラである。果たして誰が演じられるのか、演じるとしたら男女どちらになるのかとファンの気をもませた妖精のような人物を、鈴木杏は見事に体現した。会話に常に被せ気味の早口と、好奇心溢れる身振りがたまらなくチャーミングだ。そして、鈴木杏が同じくNHKドラマ『今ここにある危機とぼくの好感度について』(2021年)で演じた研究者・木嶋みのりと同じように、その目の奥には揺るがぬ知性と反骨が息づいている。源内に連れられて大奥に参じる蘭学者を演じるのは、2021年度放送のNHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』で進駐軍の将校を好演した村雨辰剛。2022年放送のNHKドラマ『わげもん ~長崎通訳異聞~』にも出演し、今やNHK作品の外国人役として地歩を固めつつある村雨だが、やはり純粋で透明感のある青年を演じると一際輝く。二人を軸に、松下奈緒、玉置玲央、趙珉和といった実力派が脇を固める。※写真はイメージさらに原作でもファンを震撼させた一橋治済を演じる仲間由紀恵の存在感は、初回はわずかな出演ながら格別のものがあった。ドラマで、原作にない部分で一つ印象に残った部分がある。それは、源内と青沼がそれぞれ共鳴しあう「他者にありがとうと言われたくて生きている」という二人の動機である。このくだりは原作ではずっと後に源内の言葉として出てくるが、ドラマでは医療編の冒頭で二人の願いとして語られる。さらに御半下の風熱(インフルエンザ)を看護する黒木と青沼との会話でも、他人に感謝されたいという願いは浅ましいのかという問いかけが描かれる。シーズン1で繰り返し描かれたのは、尊厳を剥ぎ取られるような境遇にありながらも、人が懸命に生きる姿の崇高さだった。シーズン2の医療編では、人を獣ではなく人たらしめるもの、人間の利他や博愛について、更にクローズアップして描かれるのだろう。再び観る者の心を揺さぶる二ヶ月あまりが始まる。じっくりと腰を据えて向き合いたい。SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年10月スタートのテレビドラマ『大奥 Season2』(NHK)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。
2023年10月06日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年7月スタートのテレビドラマ『VIVANT』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。別班の乃木憂助(堺雅人)と公安の野崎守(阿部寛)が所属する組織を超えて力を合わせたように、組織という境界線は超えられる。そして乃木と黒須駿(松坂桃李)の別班の二人と、テントの面々がフローライトの採掘権を得るために力を合わせたように、イデオロギーという境界線も超えられる。野崎とドラム(富栄ドラム)の二人が、国を超えて深い信頼で結ばれているように、もちろん人種や国も超えられる。人が最も超えられないものは、克服しがたいものは何か。愛する人を理不尽に奪われた憎悪の火だけは、長い時間が過ぎても、あるいは他の幸せをもってしても、消しさることが出来ないのかもしれない。この名作ドラマの最終回に、そんなことを考えていた。壮大なロケ映像、豪華な配役、そして毎回ジェットコースターのような先の読めないストーリーで、視聴者の熱い考察を社会現象にまで押し上げた『VIVANT』(TBS系日曜21時)。17日の最終話で、激動の物語はテロ組織テントの解体と父子の別離という結末に着地した。最終回まで俯瞰しても、物語の大半で誰が味方で誰が敵か分からない、登場人物それぞれがどんな信念で行動しているのか分からない、独特の混沌とした物語だったが、それがこのドラマの良さそのものだったように思う。内通者は容赦なく処刑するダーティな部分を持つ主人公、無差別に人を殺傷するテロリストでありながら多くの戦災孤児を養ってきた主人公の父。偶然知りあった男が法の支配を無視した危険な存在だと知りながらも魅せられて追う公安の刑事、汚職や賄賂の横行するバルカで清濁を併せ持ちながら警察官として生き抜く男。いわば完全に白い善もなければ、完全に黒い悪もまた存在しないという物語だった。誰かの悪が誰かの善になり、その逆もあるという世界だからこそ、それならばせめて己の信念を貫け、ブレるな、一度信じたものを裏切るなというメッセージがより鮮やかに、随所に発信されていた。今作は、公安・別班といった組織を舞台にスパイアクションを基調にしながらも、同時に経済ドラマとしての側面も色濃く持っている。最終話もテントとバルカ政府のフローライトの採掘権を巡る契約の攻防戦がじっくりと描かれ、それがテロ組織解体への道筋となった。単純なアクションドラマに収まらないそのテイストは、テレビドラマ『半沢直樹』(2013年・2020年)、『下町ロケット』(2015年・2018年)、『ノーサイド・ゲーム』(2019年)といった、日曜劇場で数多の大勝負と金勘定を描いてきた福澤克雄作品らしいダイナミックな味わいだった。最終話でとりわけ記憶に残るシーンがある。日本に移送された後ノゴーン・ベキ(役所広司)が脱走し、動揺して問い詰める乃木にノコル(二宮和也)が呟くように言った言葉である。「憎しみは喜びで消えるほど簡単なことではなかった」と、愛する父が抱えたままの憎悪をノコルは「寂しいことだよ」と評して言う。彼にとって、それは悲しいことではなくて寂しいことなのである。失った本当の家族の写真を横目に、自分が義父の憎しみを消せるだけの喜びになりたいと願い続け、それが最後まで叶わなかった青年の孤独な長い年月が透けてみえる言葉である。血の繋がった実の息子は父の愛を確かめたのち、再びその存在すら認められない闇の組織で生きる道に戻っていく。日焼けすらかなわぬほどに大切に育てられたもう一人の息子は父と別れ、国を背負う大企業のトップとして陽のあたる道で生きていく。その鮮やかな交錯は、柔和な笑顔の奥に毅然とした覚悟を秘めた堺雅人と、頑なな孤独の中に繊細な愛情を秘めた二宮和也、二人の緻密な演技があってこそ描きだせたものだと思う。今作では、親しみの持てる容姿や表情が可愛らしくも頼りがいのある相棒・ドラムを演じた富栄ドラムや、登場時は憎々しい敵でありながら、次第にそのコワモテぶりが素敵に見えてくる警察官チンギスを演じたバルサラハガバ・バトボルドといった新しい魅力的な俳優を見られたことも大きな楽しみの一つになった。とりわけチンギスは、少年漫画の熱血ライバルのように、その兄貴然とした魅力に筆者も含め多くの視聴者が魅了された。まだまだ世界には、沢山の『格好いい』があるのだと思うと、それだけでも楽しい。物語は、乃木がノゴーン・ベキと彼に付き従うバトラカ(林泰文)、ピヨ(吉原光夫)の三人を銃で撃ち、ベキの死を弟のノコルに報告し、そして乃木が薫(二階堂ふみ)とジャミーン(ナンディン・エルデネ・ホンゴルズラ)の元に帰ってくるところで終わる。ただし、乃木からノコルに伝えられた、「徳のある人物は報いられる」という意味深な書経の一節、そして「花を手向けるのはもう少し先」という乃木の不自然な言葉、更には火事で確かめられない遺体。これらはどうやら一つの仮定を指していると思うが、今それを確かめるすべはない。ぜひ今後その真意を知ることのできる機会があることを願う。幸い製作サイドから続編への前向きな言葉が出ているが、決め手は視聴者からの要望次第とのこと。改めて、「超希望!超希望!」という続編への熱烈なエールで締めたいと思う。再び視聴者が、乃木憂助とF、野崎、薫、ジャミーン、ドラム、ノコル、そして偉大なるベキに会える日が来ますように。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年09月20日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年7月スタートのテレビドラマ『VIVANT』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。その『もう一人の彼』は、孤独な幼児が社会や人々の仕打ちに絶望して、「もう消えてしまいたい」と願った瞬間に現れた。そして死の危機にある砂漠、片思いの女性とうまく話せない病院の待合室、テロリストの父を殺すという運命に悩むホテルの一室、それぞれで現れて彼を強く励ました。いつも口調は荒っぽいが、乃木憂助(堺雅人)の心にあるもう一人の人格Fは、無意識の生への執念そのものなのかもしれない。乃木はFに手を焼きながら、最後にはFの言いたいことを言わせ、あるいは二人で対話してきた。その乃木が最後までFを抑え込んで同意しなかったのは、父に自分の嘘を告白した瞬間だった。思えばFは「消えたい」と願った幼い乃木に、「もっと強くなろう、強くなりたいならミリタリースクールに行くんだ」と言った。幼い二人の間で強くなるということが、強靱な体を持つこと、銃や武器を使い他者の暴力を凌駕する力を得ることだとしたら、それは幼心に残る残酷な経験がそう発想させたのだろうか。それを思うと切なくなる。もうこれは社会現象と言ってもいいだろう。日曜の放送直後から一週間、途切れることなく考察がSNSを賑わせ、次回が待ち遠しいと多くの人が日曜を待ち望む『VIVANT』(TBS系日曜21時)。最終回を一週間後に控え、9話では乃木憂助の父にしてテロリストの指導者、ノゴーン・ベキ(役所広司・回想シーンは林遣都)の過去とテロ組織テントの最終的な目的が明らかになる。父の晩餐に訪れた憂助に語られたのは、祖国に捨てられ、大切な息子を奪われ、愛する妻を拷問の果てに死なせた男の、絶望という言葉でも表せない凄惨な日々だった。だが、全て失い一度は魂が死んだ男は、一人の赤子との出会いで生きる理由を得る。自分を救ってくれた仲間と、託された赤子、つまりノコル(二宮和也)のために、ノゴーン・ベキはテロ集団テントの指導者として武装と暴力の世界に身を投じたのだった。若き日のノゴーン・ベキ、乃木卓を演じるのは林遣都。妻の乃木明美は高梨臨が演じ、祖国から遠く離れた地で国に見捨てられた若い夫婦の悲しい運命を描きだす。とりわけ、殺さねば殺されるだけなのだと強盗団相手に迷いなく銃を撃ち続ける林遣都の、覚悟の表情は鳥肌がたつほどに美しかった。それにしても、なぜノゴーン・ベキは乃木の重さを正確に当てる能力を知ったその時に、黒須の殺害未遂時の銃弾の残数で、別班としての任務を放棄していない息子の真意に気づきながら乃木を息子として組織に迎え入れたのか。そして乃木自身も、父に勘付かれていると察しつつ、なぜテントのために巨額の資金調達を申し出たのか。あくまで推測ではあるけれども、ベキは愛する息子に祖国への恨みも水に流し、子供達に飢えのない安全な居場所を作ろうとしている父としての一時がほしかったのかもしれない。そして乃木もまた、ただ立派な父を慕い、父のためにその優れた能力を発揮する孝行息子として生きる一時が欲しかったのかもしれない。息子が別班、つまり敵としてここに来たと気づき、息子は父に気づかれたことを気づき、タイムリミットは遠くないと察した二人が、それぞれに「そうありたかった人生」を演じたのではないかと思うのだ。父が失った息子を想い、全ての子が脅かされずに生きられる楽園を作ろうと決めたとき、その失われた息子は、力と武器がなければこの世界を生き抜けないと決意していた。なんと皮肉なことかと思う。乃木が「美しき我が国」と呼ぶ日本を、ノゴーン・ベキは「私の知る日本は、友人隣人を大切にし、助け合いのこころを持つ慈しみ深い国だった」と語る。その過去形の言葉の影に、「もはや私の知らない日本」を感じ取るのは、うがち過ぎた見方だろうか。そして今はその名を捨てた乃木卓という男は、はたして苦悶と共に死んだ妻の最期の一息となった「復讐して」という言葉をなかったことにできる男だろうか。全ての謎と人々の運命を巻き込み、まるで滝に落ちる直前の川のように物語は激流となる。希代の名作テレビドラマは、次週ついに決着する。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年09月13日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年7月スタートのテレビドラマ『VIVANT』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。主人公・乃木憂助(堺雅人)が言う『美しき我が国』が内包する、非合法で暴力的組織の別班と、憂助の父・ノゴーン・ベキ(役所広司)率いるテロの請負組織テントが作り上げる子供たちのための清らかな楽園。かたや美しいものを守るために自らは汚れ、かたや汚れた社会から吸い上げた富で楽園を生む。互いの清濁が照らしあうそのさまは対称的だ。後半に入っても中だるみなどどこふく風で、話題性も視聴者の考察も熱を増す一方の『VIVANT』(TBS系日曜21時)。8話、ついに乃木は生き別れの父が率いる謎のテロ組織テントの本拠地にたどり着く。しかし、そこにたどり着くために彼が差し出したものはあまりにも大きかった。別班の同僚たちを裏切り、祖国を捨ててたどり着いた父のもとで虜囚として扱われる乃木だが、工作員として鍛え上げた能力が父との対話の道を開く。そこで乃木が見たのは、無差別にテロや暗殺を繰り返すテントという組織の、驚くべき実態と目的だった。ここまでに恐るべきは、そもそも主人公・乃木憂助の行動原理が分からない。その上多くの主要人物の正体もよく分からない。いまだ幾つかの伏線も回収されていない、これだけないない尽くしでありながら、圧倒的にこのドラマは分かりやすいのである。考察をしないでストーリーの流れに沿って楽しみたい視聴者も、繰り返し見て考察を楽しみたい視聴者も、それぞれのアプローチで十分に楽しめる作りになっている。8話もテントというテロ組織の暴力性と奇妙な潔癖さ、その二面性を描き出すのに、損益計算書や施設の経費といった数字と、工作員である乃木の突出した分析力を組み合わせて分かりやすく見せていた。米を横領する養護施設長に、『TEAM NACS』の音尾琢真を配するという、つくづく豪華な布陣だ。これぞ伝統のTBS日曜劇場が積み上げてきたノウハウといった趣きである。今回、指導者ノゴーン・ベキの右腕として寄り添う息子のノコル(二宮和也)が、本格的に登場して乃木と相対する。血の繋がらない息子と、突如現れた死んだはずの実の息子。二宮和也と堺雅人という、まさに今が円熟の俳優二人が、その複雑な距離感を隅々まで神経の行き届いた演技で表現している。DNA鑑定の結果を知り、鉄格子を挟んで向かい合い絶句する父と息子、それを心許なげな表情で凝視するノコルの場面は、冷たい水が溢れるような哀しい情感に満ちていた。主人公が追う敵の幹部が親であるというストーリー自体は定石とも言えるが、今作は、その父親であるノゴーン・ベキの複雑な潔癖さが印象に残る。オマージュとして共通項が指摘されている『スター・ウォーズトリロジー』はその最たる作品である。どんなに組織に役立つ人物でも、横領をはたらき私腹を肥やす者には非情な処分を下す。一方で情報漏洩という重大な裏切りを犯した者でも、そこに至るまでに組織への誠意が感じられるなら許す。乃木に対しても、同僚を裏切ってでも息子が会いに来た喜びよりも、息子が自分を用心深く欺きながらも根底では信念を貫いていることを評価しているかのようだ。遠い過去に母国から捨てられ、妻子を失った男は何を恨み、何を理想としているのか。それは残り少ない物語の中で、きっと明らかになるのだろう。常に不安定で見通しのきかないストーリーの中で、一つだけ、これは確かだと感じることがある。それは、乃木がジャミーン(ナンディン-エルデネ・ホンゴルズラ)と柚木薫(二階堂ふみ)に向ける温かな愛情だ。その愛情の帰結として、もう会わない覚悟とともに乃木が薫に自宅を託したのなら、それは大切な人たちが暮らすその場所を、自分が守るという強い願いではないかと思うのだ。乃木は、きっとぎりぎりの境界線の上でたった一人で戦っている、そう思いたい。次回は特番含めて怒濤の4時間弱の放送が決定している。滅多に見られない、エンターテイメントが生み出す祭りの熱狂を最後まで存分に楽しみ尽くしたいと思う。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年09月06日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年7月スタートのテレビドラマ『VIVANT』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。またしてもやられた。呆然と天を仰ぐ、そんなラストの10分だった。この作品の主人公・乃木憂助(堺雅人)が自分の出自をめぐり揺らいでいる人物だということは分かっていたし、テロ組織の指導者である父親を敵視する一方で、子供のように会いたがっているということも分かっていた。それでも、まさかここまで残酷な方法で同僚を裏切るとは予想できなかった。何となく『そう』だとわかっていたけれども、手段が想定外に過激だったというのは、山本(迫田孝也)を処刑した衝撃と同じものだった。そんな、一つ飛び越えた安堵の直後に深い穴に視聴者を落とすような、このドラマの巧みさには本当にうなるばかりである。ドラマ後半に入り、話題性もドラマ放送後の考察も熱く盛り上がっている『VIVANT』(TBS系日曜21時)。7話、ついに乃木憂助と別班の面々は、バルカで謎のテロ組織・テントに接触する。別班としての命がけの作戦を前に、乃木は手術後のジャミーン(ナンディン-エルデネ・ホンゴルズラ)を見舞い、愛する柚木薫(二階堂ふみ)と一時の逢瀬を果たす。それは切なくも微笑ましいシーンなのだが、どこかしら不可解さも見え隠れする。大切な恋人の姿を手元に残したい気持ちは理解出来る一方で、なぜ唐突に目玉焼きを焼いている横顔を撮るのか引っかかりが残る。さらに穿った目で見れば、「抱きしめてもいいですか」と尋ね、乃木が薫を抱きしめた時も、キスの後に初めてなんですとしみじみ呟いた時も、それは初めての恋に感極まった男の表情といえばそうなのだが、微妙な間はまるで何かに気づいてしまった表情にも見える。それでもジャミーンと薫は、国家が家族だと思いながら任務を遂行してきた乃木にとって、初めて具体的に守りたいと願った対象であり、帰る場所でもある。見え隠れしている薫に関する疑念が、どうかミスリードで杞憂であってほしいと願う。そして今回、これまでは名前も明かされず、登場場面も少なかったノゴーン・ベキの息子、ノコル(二宮和也)が本格的に登場する。取引に出発する前、「何があってもノコルに犯罪歴をつけさせるな」というテント幹部の言葉が印象に残った。その一言で、彼が組織にとって大切な御曹司なのだとわかる。まだセリフは少ないノコルだが、眉間にシワを寄せた表情や神経質な振る舞いから、どこか満たされていない、憂いをまとった青年を二宮和也がその演技力で繊細に表現している。血縁の有無はまだ分からないが、ベキが家族の写真を見る横顔を黙って見つめている表情からも、そして乃木が「自分はベキの息子だ」と叫んだ瞬間に咄嗟に銃を弾いた判断からも、ノコルがベキの『本当の息子』に複雑で少なくない感情を抱いているのは間違いない。遙か過去に生き別れた本当の息子と組織を継ぐべく運命づけられたもう一人の息子。その対峙がどんなものになるか、そこにあるのは協力関係か敵対か、それは来週明らかになるだろう。今回のラスト、乃木は別班の同僚四人を射殺し、黒須(松坂桃李)には重傷を負わせ、テント側に寝返る。乃木の最終的な目的は何なのか、どこまでの覚悟で国を裏切っているのか、それともその裏切り自体が別班としてフェイクなのか、憎らしいほどに先は読めない。しかし、相手の言動を互いに信じられないと熟知した上で、乃木は公安の野崎(阿部寛)に何かを託し、野崎は乃木の人生の幸福を守ろうとしている。信じられない立場の相手でも自らの信念に従い、託し守ろうとする互いの思いと、乃木が機内で野崎に託した「あなたは鶏群の一鶴、眼光紙背に徹す」という熱い言葉が、暗転した物語を照らす微かな灯火である。何もかもが怪しく、登場人物の誰も信用できないという、とてつもないドラマではあるけれども、確実に信じていいことが少なくとも一つはある。このドラマに賭ける私たちの期待はきっと裏切られない。物語はクライマックスに駆け上がっていく。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年08月30日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年7月スタートのテレビドラマ『VIVANT』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。「そんな人でも僕の父親だ」「息子だとわかれば愛してくれるかもしれない」と乃木憂助(堺雅人)が叫んだ表情は、出世に縁のない冴えない男とも、別班としての冷徹な顔とも違って、傷ついた少年のようだった。その叫びに対するもう一人の乃木、Fもまたいつも以上に感情的だった。工作員として他人の心理を操るスキルとはまた別に、乃木の中にある情動は、Fという分身を生み出した孤独な少年の頃のまま止まっているのかもしれないと思った。ドラマ全体の折り返しを回って、更に視聴率を上げ、ネットでの考察も熱を増している『VIVANT』(TBS系日曜21時)。6話ではテントと名乗る謎のテロ組織の内部と、厳密に隠されているテントの本拠地を突き止めようと奔走する別班の乃木と黒須(松坂桃李)、それを監視し情報を得ようとする野崎(阿部寛)ら公安の三つ巴の様子が描かれた。先週から徐々に、テントと呼ばれるテロ組織の内情が明らかになりつつある。偉大なる父と構成員に呼ばれ、恐れられている指導者の名はノゴーン・ベキ(役所広司)。組織の資金に大きな貢献をもたらしたとしても、横領していた幹部を容赦なく追い詰め処刑する潔癖さは、バルカという国全体を覆う拝金主義や、賄賂が前提の国家体制とは対照的だ。そして、常にノゴーン・ベキに寄り添い、腹心のような青年を演じる二宮和也の存在感が目をひく。まだ名前も明かされずセリフも殆どないが、何かに倦んだような、感情の読み取れない表情で任務を遂行する。幹部の横領を暴くために部下が拷問をしている横で、それを見もせずに淡々とスマートフォンをいじっている姿は、なまじ拷問や処刑を実行する以上に冷酷に見えた。堺雅人が演じる多くのエキセントリックな役柄が、饒舌や収拾のつかない優しさといった『騒がしさ』の中で過激を表現するのに対し、二宮和也が演じるそれは、諦めであったり、それでも情を捨てられない苛立ちであったり、沈黙や静寂の中に潜む過激さである。偉大なる父ベキを巡って二人の青年、二人の名俳優が相対する展開がこの先待っているのだろうと思うと、今からゾクゾクする。もう一つ、今回の大きな見所はアリ(山中崇)から託された暗号を巡る別班のハッキングの一連である。飯沼愛演じる太田梨歩の、一度は死の危険に晒されて怯えた目の女が、暗号を手にした途端に玩具を貰った子供のように目をぎらつかせて食いつく様は見ごたえがあった。ぎりぎりのハッキングの成功から、乃木と黒須に技量を証明しろと太田が促し、それに応えて二人が鮮やかなナイフ投げを見せる展開は躍動感があった。思いもよらぬキャラクターにときめくことが出来るのは視聴者として嬉しい誤算だと思う。頼りになる上司、本人、その相棒、そして優秀なハッカーと、乃木と野崎をめぐる陣容は互いに合わせ鏡のように整いつつある。一方、野崎自身はハッキングの現場に踏み込むタイミングにしても、直接乃木と出会った時の様子にしても、乃木の正体を追及して突き詰めることをためらっているように見える。乃木の経歴に迫りながらも、事実を突きつけて抜き差しならない敵対関係になってしまうのを避けるのは国益のためか、あるいは乃木という男に対する情なのか。そしてFが乃木相手に揶揄したように、聖母マリアみたいな慈愛の権化のように見える医師の柚木薫(二階堂ふみ)だが、「乃木のことをもっと知りたい」と語る言葉に比して、薫自身の出自の話は語られない。ただ、遠い国からきた身寄りのない少女が生死を賭けて手術に向かうとき、乃木、野崎、薫、ドラム(富栄ドラム)の4人がジャミーンの無事を祈る気持ちは純粋に同じ方向を向いたような熱量のものには違いない。あくまで法にのっとった存在である公安と、法を逸脱した存在の別班。乃木と野崎が再び協力しあう時がくるのか、それともあくまで追い追われる関係なのか。何もかもが疑わしく、目まぐるしい物語だが、その緊張感は心地よい。張りつめた糸のまま、我々視聴者をを引っ張って、ドラマは終盤に向かおうとしている。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年08月23日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年7月スタートのテレビドラマ『VIVANT』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。能ある鷹は爪を隠すというけれど、無防備なほどに無能をぎりぎりまで演じきって、数日間生死を共にした相手にも有能さの気配すら感じさせないというのは、相当なことだと思う。その二面性にリアリティを持たせるのは、柔和な物腰と切れ味鋭い知性、その両方を持ち合わせた堺雅人という役者ならではだろう。中だるみなど皆無、回を追うごとに評価も視聴率も上がっていく『VIVANT(ヴィヴァン)』(TBS系日曜21時)。衝撃の誤送金事件の決着後、舞台は再び中央アジア・バルカへ、そして謎のテロ組織テントを追う展開となった。丸菱商事からテロ組織へ誤送金を仕組んだ山本(迫田孝也)の死に不審を感じる野崎(阿部寛)は、これが乃木憂助(堺雅人)の仕業だと直感する一方で、凡人にしか見えない乃木が別班の一員であるとは信じかねていた。一方でいずれ野崎から自分の正体を見抜かれると確信した乃木は、公安より先にテントの幹部・アリ(山中崇)の身柄を押さえるべく相棒の黒須(松坂桃李)とともにバルカへと飛ぶ。乃木の正体を確かめるためにバルカと日本を往復する野崎と、バルカでアリから組織の情報を得ようと暗躍する乃木、二人の追跡劇が交錯する。今回、新たに別班の司令・櫻井としてキムラ緑子が登場する。言葉一つひとつは丁寧だが、やや早口、切り口上で有無を言わせない圧を感じさせるあたり、秘密情報部の幹部として静かな迫力を感じさせる。そして序盤で執念深く手強い敵として視聴者を震え上がらせたバルカ警察のチンギス(バルサラハガバ・バトボルド)が、野崎の要請で公安に助力することになる。最初は厳しい表情を見せながらも、野崎の男気やドラム(富栄ドラム)の愛嬌にほだされて尽力する様子は、強敵が味方についてくれる少年漫画の趣きで、見ていて胸が躍った。このあたりのわくわくする見せ方の匙加減は、やはり日曜劇場の十八番だと思う。あらゆる証拠を自身の目で確かめた上で、野崎は乃木が別班だと確信する。一つひとつ、乃木という男が隠していた高い能力を知る度に、野崎は騙された悔しさよりむしろ楽しげな表情を見せていた。そんな野崎の変わらぬ好漢ぶりが、騙し騙されの緊張の中で一服の清涼剤である。そして乃木はアリの居場所を突き止め、アリの家族を人質にして容赦ない尋問を始める。その苛烈な尋問で聞き出したテントのリーダーの正体は、驚くべきものだった。今回、野崎は乃木の履歴を追って舞鶴、島根と訪ねていく。行く先々の人々はみな穏やかで、垣間見える景色は静謐で美しい。乃木が日々訪れる神社の佇まいも含めて、湿度と鮮やかさを感じさせる景色は、乃木が言う『美しき我が国』そのものなのだろう。今回、乃木憂助の出自とテントのリーダーが憂助の父・乃木卓(回想パートは林遣都、現在パートは役所広司)だという重大な事実が二つ判明してもなお、物語の上で謎はまだいくつか残っている。最たるものの一つは、憂助の父、乃木卓の過去。たたら製鉄で財をなした名家、産業、文化、武器たる『鉄の一族』から警視庁に入り、警察官になった男がなぜ突然農業支援で中央アジアの小国に向かったのか。それは果たして純粋な善意であったのかどうか。そしてバルカに向かった先で何が起き、両親と息子は離散したのか、そして何が乃木卓をテロ組織に向かわせたのか。そしてもう一つは、別班司令の櫻井がジャミーン(ナンディン・エルデネ・ホンゴルズラ)を『奇跡の少女』と称した言葉。ここまでに幾つかの場面でジャミーンの父親・アディエルがテントの関係者だったと示唆されているが、ジャミーン自身にも重病を抱えた孤児という以上の何かがあるのかもしれない。更に今回のラストには初回以来再びテントの指導者ノゴーン・ベキとしての乃木卓と、彼に付き従う青年(二宮和也)が登場する。青年はノゴーン・ベキを「父さん」と呼び、どこかしら淡々とした佇まいである。会議らしきその場面は、意外にも収支報告から始まる。それはテントという組織の堅固さ、規律の厳しさ、規模の大きさを暗喩するものだろう。乃木の正体を知った野崎はこの先どう動くか、乃木と野崎の共闘は再びあるのか、そしてジャミーンと薫(二階堂ふみ)に平穏はあるのか。激しい渦のようなドラマ後半が始まろうとしている。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなSNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年08月16日SNSを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年7月スタートのテレビドラマ『VIVANT』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。ラストの10分で自分含めて視聴者が衝撃を受けたのは、乃木憂助(堺雅人)が『別班』だったからではない。それは初回からある程度予想されていたことで、何度もそれらしい目印が描かれていた。だが、私たちが予想している以上に彼が冷酷だったことが、私たちを驚かせたのである。主人公のその冷酷さは、日曜の21時台の民放ドラマで私たちが想定する決着の境界線を越えていた。壮大なロケーション映像、豪華な配役。更にストーリーの厳しさを加え、まさに破格のドラマだと改めて思った。中盤に入って、評価も視聴率も右肩上がりの『VIVANT(ヴィヴァン)』(TBS系日曜21時)。日本の大手商社の片隅で始まった誤送金事件は、中央アジアの小国バルカから砂漠を経て再び日本に戻った。誤送金を仕組んだ犯人は丸菱商事で経理を担当している太田(飯沼愛)だと判明するものの、公安の野崎(阿部寛)は他に太田に指示を出した黒幕がいるはずだと考えていた。野崎と乃木は協力してあぶり出し工作を試みるも、その黒幕は意外なところから判明する。薫(二階堂ふみ)がバルカから呼び寄せた少女・ジャミーンが持ってきた写真に写っていたのは、バルカに行ったことがないはずの乃木の同僚・山本(迫田孝也)だった。3話まで出ていないことで話題をさらっていた松坂桃李が、この回ついに別班の一員・黒須として登場する。NHK連続テレビ小説『梅ちゃん先生』(2012年)『わろてんか』(2017年)、『ゆとりですがなにか』(日本テレビ系・2016年)と、どちらかというと素直な好青年役の印象が強い松坂桃李だが、過去に『劇場版MOZU』(2015年)で見せた、狂気と暴力を煙のように纏わせた演技も印象深かった。今作では乃木を先輩と呼び、別班の一員として、他人を騙すことも暴力も、殺人までも、まるで遊びの延長のような醒めた目の青年を演じている。おそらく今作の黒須は、三十代半ばの松坂桃李にとって俳優として更なるキャリアを切り開く転機の役になるだろう。黒須と、別人格のFが出現した乃木が山本を尋問し裁くシーンは、山本を演じる迫田孝也の怪演も加わって鳥肌の立つような数分間だった。命乞いをする山本に、言葉では条件次第では助けると応じながらも、あっさりと時間がないと自白剤に切り替える。最初から尋問、自白剤、そして『排除』まで既定路線だったのだと思う。「美しいだろう?この美しき我が国を汚す者は何人たりとも許せない」山本の処刑の前にFが口にしたこの言葉。「迷いのない正義と信念」は、まるで精緻に研ぎすませて、実用するには人を過剰に傷つけてしまう長く鋭い刃物のようだ。それでも辛うじて、公安を入れずに直接連れてきた方がよかったという黒須に、太田の命を優先させたかったからこれでいいと語るFの言葉は、温かみとともにある種の救いのように思えた。乃木の経歴に疑念を持ち続けていた野崎にとって、この誤送金事件の決着は乃木の正体を確信する決め手になるだろう。そして新たに大きな疑問が生じる。山本がテロ組織『テント』の手先であると判明するきっかけのジャミーンの写真。なぜジャミーンの家族がテントの一員を写した写真を持っているのか、ジャミーンの父親であるアディエルはテントと何らかの関係があったのか。その疑念は、父娘と家族のように親しかった薫にも及ぶ。公安である野崎も、別班である乃木も、それを見過ごすことはないだろう。乃木、野崎、薫。三人の信頼と疑念が絡み合う関係がそれぞれどのように変化していくのか、この先も一瞬も見逃せない展開が続く。そして何度も差し挟まれる、両親にまつわる記憶。まだ乃木憂助という人物の全貌は見えてこない。冷酷さを露わにしてなお魅力が増す、その男の行程を最後まで見届けたい。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなTwitterを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年08月09日Twitterを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している、かな(@kanadorama)さん。2023年7月スタートのテレビドラマ『VIVANT』(TBS系)の見どころを連載していきます。かなさんがこれまでに書いたコラムは、こちらから読めます。騙すつもりはなくても本当のことは言えず、また隠されている側も何か隠されていると知りつつもそれ以上は口にせず、そういう曖昧な親しさというのも人の中には存在するのだろうなと思う。信頼と利害関係の間にある緩衝地帯。過酷な砂漠をゆく4人に、そして都内の片隅でもんじゃ焼きをつつく3人の姿に、そんなことを考えていた。初回から視聴者の度胆を抜く迫力のロケ映像と、主演級がずらりと名前を連ねる豪華な配役、そして何よりも一度見始めたらもう画面の前を動けないスリリングな展開が大好評の『VIVANT(ヴィヴァン)』(TBS系日曜21時)。大手商社丸菱商事勤務の乃木憂助(堺雅人)は、桁ひとつ間違えた100億円以上の誤送金の濡れ衣を着せられ、返金交渉のために中央アジアの某国・バルカ(ドラマ上の架空の国名である)を訪れる。金の行方を追ううちに自爆事件に巻き込まれ、テロリストとして現地の警察に追われることになった乃木は、日本の公安警察・外事第4課の刑事、野崎守(阿部寛)と、バルカで医療活動をしていた医師の柚木薫(二階堂ふみ)の3人で決死の逃避行を試みる。執拗に追いすがるバルカの警察を振り切るため、3人と野崎の仲間のドラム(富栄ドラム)を加えた一行は、生きては戻れないと言われる死の砂漠に足を踏み入れる。今回、3話で一旦バルカでの逃走劇は区切りがついて、舞台は日本へと移るのだが、陽炎が揺らめく砂漠の前半と、サーバールームの点滅の中を駆け抜ける後半それぞれに見所がいくつもあった。まず印象に残ったのは、途中行方不明になった薫を救助に向かった乃木が力尽きたラクダに語りかける場面である。砂漠の真ん中、死の淵、そこにいるのは自分と意識が朦朧としている薫、そして人の言葉を理解しないラクダ。しかもラクダはもう歩く気がないらしい。そんなラクダに、「こんな辛い思いをさせてごめんよ」と、自分の痛みのように話しかける乃木の姿は哀しみとともに心をうった。危機の淵にその人間の地金が見えるというのなら、悪態一つつかずにラクダに詫びる乃木憂助という男は、何かを隠しているとしても心の底から優しいのだろう。そして同様に、「8時間以上は待たない、先に行く」と宣言しながらも、結局2人を救いにやってきて「よく生きてたな」とねぎらう野崎という男も、捨てられない情を抱えて生きているのだろう。そういう男だからこそ、ドラムのような青年が危険を顧みず尽くすのだと思う。ド迫力のモンゴル国境のシーンでは、視聴者としては敵役ではあるけれども、自分の国を守るために心身を捧げているバルカ警察のチンギスと、異国の刑事への友情に生きて母国に居られなくなるドラムのそれぞれに想いを馳せた。砂が舞うバルカ編とは打って変わって、東京では緻密かつスピーディな誤送金問題をめぐる作戦行動が繰り広げられる。興味深いのは、初回から時折挟まれている乃木の二重人格が、はっきりと独立した二つの人格だと示唆するシーンが幾つか見られたことだ。もう一人の自分を、乃木は「エフ」と呼び対話する。口論したり、励ましたりもする。名前があるということは、他者と認識しているということだ。エフと呼ばれる男は、2話目では野崎が乃木に気があるんじゃないかと忠告したり、今は乃木が薫に片思いしていることを頻繁に気にしていて、乃木にちょっかいをかけている。一見切れ者のようだけれども、人の心の機微にはちょっとポンコツ気味のようだ。大人というより、その言動は少年めいている。だがエフの「いつだって俺を呼んでいるのはお前の方じゃないか」という言葉は、人格の分離と同時にエフと乃木の複雑な距離感も示唆していて耳に残る言葉だった。凄腕のハッカーだが何だか適当で飄々とした東条(濱田岳)そして野崎の作戦と、乃木の同期・山本(迫田孝也)の献身的な助力と、乃木の決死の疾走で誤送金を仕組んだ人物は明らかになった。しかし砂漠でエフが乃木に「俺たちにはやることがあるんじゃないのかよ」と叫んだ言葉、神社で意味ありげに一瞬映る祠(ほこら)。乃木は初回、イスラム教にも敬意を表して祈りを捧げようとしていた。信仰やそれに対する敬意は何かの意味を持つのかもしれない。謎はまだまだ尽きない。一方で誤送金問題は次回で一旦決着となるようで、メインだと思っていたごちそうがまだコースの一皿目に過ぎなかったというのは、いかにも日曜劇場らしい豪華さである。まだまだ後半を貪欲に味わえるよう、当方も心して待ちたい。ドラマコラムの一覧はこちら[文・構成/grape編集部]かなTwitterを中心に注目ドラマの感想を独自の視点でつづり人気を博している。⇒ かなさんのコラムはこちら
2023年08月02日