「島cafeとぅんからや」「南国雑貨TIDA(ティダ)」を展開する宮古島市の株式会社TIDA CREATION(本社:沖縄県宮古島市、代表取締役:佐渡山 亮太)は、宮古島産シークヮサーと島唐辛子を素材にしたクラフトソース「KARASCO」を開発いたしました。今年も記録的な猛暑と予想されている夏本番に向け、この度、販売促進を実施いたします。カフェのメニューで培ってきた開発力を活かし、素材の調合や無添加などの製造方法にもこだわり抜き完成しました。宮古島産シークヮサーと島唐辛子の最強コンボが、どんな料理もアップデート!宮古島で、人気のカフェを運営してきたTIDA CREATIONが満を持して開発したクラフトホットソース「KARASCO」が登場!!宮古島産シークヮサーと島唐辛子を素材にした爽やかな酸味を含んだ辛みは、どんなお料理もさらに美味しくします!南国宮古島の自然の恵みと共にお楽しみください!KARASCO 01▲島cafeとぅんからやのホットドッグにKARASCOをたっぷりと!KARASCO 02▲もちろん、フライ物やカラアゲとの相性はバッチリKARASCO 03▲KARASCOは、素材のおいしさを引き立ててくれるので、味変にピッタリ!!いろんな料理にお試しください。サラダ、刺身、麺類や汁物にも。KARASCO 04▲TIDA CREATIONが自信を持ってお届けする熱いクラフトホットソースなのです!!【商品概要】商品名 : 「KARASCO」発売日 : 2024年2月3日価格 : 1,026円(税込)販売ルート: 店頭販売URL : 【エシカルで、地産地消を意識したフード類をご提供するカフェ「島cafeとぅんからや」】KARASCO 05島cafeとぅんからやでは、宮古島産の生もずくが入った沖縄県産豚(きびまる豚)使用のハンバーグや、希少な宮古島産小豆を100%使用した氷ぜんざいなど、地元産の素材をふんだんに使用したフードメニューをご提供し、早くから、エシカルで地産地消を意識したメニュー作りに取り組んでいます。また、無添加の素材にもこだわり、人にも環境にもやさしいメニューとなっています。【お土産物もここで!南国雑貨TIDA(ティダ)】TIDA公式サイト▲お土産物やビーチをテーマとしたオリジナルブランドを展開する南国雑貨TIDA公式サイト敷地内にある南国雑貨TIDAではショッピングも楽しめます。お土産物はもちろん、The Beach & Sustainableをテーマとしてオリジナルブランドを展開しており、好評を博しています。特にサステナブルな商品作りを目指し、リサイクルやサーキュラー・エコノミーを導入した商品ラインナップの充実を図っており注目のブランドです。【株式会社TIDA CREATIONについて】株式会社TIDA CREATIONは宮古島市に本社があり、飲食業「島cafeとぅんからや」、物販「南国雑貨TIDA(ティダ)」を展開しております。南国雑貨TIDA(ティダ)については、沖縄本島に北谷店がございます。本プレスリリースのお問い合わせは以下までお願い致します。【会社概要】社名 : 株式会社TIDA CREATION本社所在地 : 〒906-0202 沖縄県宮古島市上野字新里1212代表取締役 : 佐渡山 亮太事業内容 : 飲食業、物販島cafeとぅんからや: 南国雑貨TIDA : 詳細はこちら プレスリリース提供元:@Press
2024年04月25日大阪・難波宮跡公園北部ブロックが再整備され、商業施設やホテルなどが誕生。2025年4月に開業予定だ。難波宮跡公園北部ブロック整備、街の“にわ”へ難波宮跡公園は、飛鳥時代から奈良時代に存在した宮殿である難波宮の遺構を守り続ける歴史公園。今回、難波宮跡公園「みんなのにわ」プロジェクトによる「難波宮跡公園(北部ブロック)整備運営事業および難波宮跡(南部ブロック)管理運営事業」の一環として、北部ブロックにおける再整備を進めていく。歴史公園・都市公園として目指すのは、歴史公園と都市公園としての機能を持つ公園に生まれ変わること。まず前期・後期回廊の表示、後期内裏正殿の復元、各歴史遺構の解説板の設置等により、来園者へ向けて歴史性の魅力を発信する。次に都市公園として、大阪城を臨む芝生広場、その芝生広場に面した商業施設を整備。居心地がよく、利便性の高い公園として、市民によって守り育てていく街の“にわ”となることを目指す。カフェ・レストランを内包する商業施設商業施設には、カフェやレストランが出店。目の前に芝生が広がる中、のんびりとした時間を過ごせそうだ。東側隣地にはホテルが開業また、難波宮跡公園の東側で、大阪城公園と難波宮跡公園の間に位置し、大阪城や大阪都心部を一望できる立地には「パティーナ大阪」が誕生予定。カペラホテルグループの新しいライフスタイルブランドとなり、国際会議やパーティーに利用できる多目的ホールをはじめ、高層階には大阪城や難波宮跡を眺望できるレストランがオープンする。計画概要「難波宮跡公園(北部ブロック)整備運営事業および難波宮跡(南部ブロック)」所在地:大阪市中央区法円坂1丁目、馬場町および大手前4丁目地内開業時期:2025年4月(予定)事業面積:約2.3ha整備内容:遺構表示、芝生広場、商業施設、駐車場(約101台)、駐輪場(約75台)建物規模:1,817.22㎡(予定)、地上1階、4棟※画像はイメージ。■「パティーナホテルズ&リゾーツ」開業時期:2025年春(予定)所在地:大阪府大阪市中央区馬場町6番30号(地番)客室:約220室規模:地上20階、地下3階
2024年03月25日俳優の小関裕太が、14日に都内で行われた映画『恋わずらいのエリー』(3月15日公開)の前夜祭イベントに宮世琉弥、原菜乃華、白宮みずほ、綱啓永、NiziU、三木康一郎監督とともに登壇した。同作は、藤もも氏による同名コミックの映画化作。学校イチのさわやか王子・オミくん(宮世琉弥)を眺めつつ、“恋わずらいのエリー”の名で妄想をつぶやくのが日課の妄想大好き女子・エリー(原菜乃華)。ところが、パーフェクトだと思っていたオミくんは、実は口が悪いウラオモテ男子で、自分の超恥ずかしい妄想も彼にバレてしまう。絶体絶命のピンチかと思いきや、2人だけの秘密をきっかけにまさかの急接近となる。○■小関裕太、宮世琉弥とオフショット撮り合うオミくん(宮世)の叔父でエリー(原)の担任教師・塩田を演じ、自身初の先生役に挑戦した小関。「今までこういうラブストーリーの中ではキュンキュンさせたり、かっこいいセリフを言わせてもらったりする役が多かったんですけど、初めて見守る役をやらせていただいて。現場でも映画を観たときもすごく不思議な気分でした」と話した。また、イベントでは「○○バンザイ」をテーマにしたトークコーナーを実施。「カメラ バンザイ」と回答した小関は「琉弥くんもカメラの知識があってフィルムカメラを持っていたりして、現場でカメラ話をよくしていました」と話す。さらに「現場ではインスタントカメラがあったり、写真を撮り合う現場だったなと思います」と振り返った。宮世も「お互いのカメラとかカメラマンさんのおもしろいカメラでオフショットを撮り合っていました!」と明かしていた。
2024年03月14日俳優の綱啓永が、14日に都内で行われた映画『恋わずらいのエリー』(3月15日公開)の前夜祭イベントに宮世琉弥、原菜乃華、白宮みずほ、小関裕太、NiziU、三木康一郎監督とともに登壇した。同作は、藤もも氏による同名コミックの映画化作。学校イチのさわやか王子・オミくん(宮世琉弥)を眺めつつ、“恋わずらいのエリー”の名で妄想をつぶやくのが日課の妄想大好き女子・エリー(原菜乃華)。ところが、パーフェクトだと思っていたオミくんは、実は口が悪いウラオモテ男子で、自分の超恥ずかしい妄想も彼にバレてしまう。絶体絶命のピンチかと思いきや、2人だけの秘密をきっかけにまさかの急接近となる。○■“つなりゅび”綱啓永&宮世琉弥、『恋わずらいのエリー』舞台挨拶に登場イベントでは「○○バンザイ」をテーマにしたトークコーナーを実施。綱は「サウナ バンザイ」と回答し、「僕は週3、4ぐらいでサウナに行っていて。昨日もとても仲の良い友達とサウナに行ってきました! “整う”ことが大好きです!」と話す。サウナの魅力について聞かれると「やっぱり水風呂に入って上がった後の昇天しちゃう感じが……言葉があっているかわかんないですけど(笑) 白目になっちゃうというか、あの感じがすごく気持ちよくて癖になりますね!」と語る。ここまでの話を聞いていた宮世が「昨日楽しかったねっ!」と匂わせるも、すかさず綱が「お前と行ってねぇわ(笑)」とツッコミを入れ、笑いを誘っていた。また、最後の挨拶でも宮世が「今観てくださったと思うんですが、観足りないですよね? なので明日から映画館で朝昼夜観に行ってください! ってさっき綱くんが(言ってました)(笑)」とコメント。綱も「言ってないよ!(笑)」と返し、終始仲の良い掛け合いで会場を盛り上げた。
2024年03月14日女優の原菜乃華と白宮みずほが、13日に都内で行われた映画『恋わずらいのエリー』(3月15日公開)のバレンタインスペシャルイベントに宮世琉弥、西村拓哉、藤本洸大、綱啓永、三木康一郎監督とともに登壇した。同作は、藤もも氏による同名コミックの映画化作。学校イチのさわやか王子・オミくん(宮世琉弥)を眺めつつ、“恋わずらいのエリー”の名で妄想をつぶやくのが日課の妄想大好き女子・エリー(原菜乃華)。ところが、パーフェクトだと思っていたオミくんは、実は口が悪いウラオモテ男子で、自分の超恥ずかしい妄想も彼にバレてしまう。絶体絶命のピンチかと思いきや、2人だけの秘密をきっかけにまさかの急接近となる。○■映画『恋わずらいのエリー』バレンタインスペシャルイベントイベントでは今回登壇することができなかった小関裕太から、ビデオメッセージで「バレンタインに好きな子に告白するときの妄想シチュエーションを再現しなさい」という課題が。キャストが順番に告白シチュエーションを実演していくなか、藤本はMCの日本テレビ 川畑一志アナウンサーを巻き込んで見事な演技を披露。ハードルが上がるなかで指名された白宮は「この後はきついですよ……」といいつつも、腹をくくり「(シチュエーションは)放課後の帰り道でお願いします」と告白シチュエーションに挑戦。「あのさ、急かもしれないんだけど好き……です。生チョコ好きって言ってたから、一応バレンタインだし……受け取ってくれる?」とかわいらしい告白を実演。会場からは「かわいい~」という声が上がり、宮世・原らキャスト陣も「すごい! ドラマの1シーンみたい。かわいすぎる!」と絶賛した。そして、自身の順番を前に頭を抱えていた原は「やったことない! こういう胸キュンセリフみたいの……」とつぶやくも、気合をいれて「シチュエーションは、じゃあ『部活終わりに先輩に』」と切り出す。そして「先輩、部活お疲れさまです。今日バレンタインなのでチョコあげます。なにチョコだと思います? ずっと前から好きでした。これからはただ後輩じゃなくて、1人の女の子として見てもらえませんか? 付き合ってください」と胸キュンシチュエーションを披露し、会場からは「キャ~」という歓声が上がっていた。
2024年02月14日俳優の綱啓永が、13日に都内で行われた映画『恋わずらいのエリー』(3月15日公開)のバレンタインスペシャルイベントに宮世琉弥、原菜乃華、西村拓哉、白宮みずほ、藤本洸大、三木康一郎監督とともに登壇した。同作は、藤もも氏による同名コミックの映画化作。学校イチのさわやか王子・オミくん(宮世琉弥)を眺めつつ、“恋わずらいのエリー”の名で妄想をつぶやくのが日課の妄想大好き女子・エリー(原菜乃華)。ところが、パーフェクトだと思っていたオミくんは、実は口が悪いウラオモテ男子で、自分の超恥ずかしい妄想も彼にバレてしまう。絶体絶命のピンチかと思いきや、2人だけの秘密をきっかけにまさかの急接近となる。○■“つなりゅび”綱啓永&宮世琉弥、2度目の共演で仲睦まじいやり取り宮世とはTBS系ドラマ『君の花になる』(22)以来、2度目の共演となる綱。「琉弥と共演と聞いてめっちゃ嬉しかった」と喜びを表現する。「実際に共演してみると、大人になっていて。10代から20代になるこの1、2年ってめちゃめちゃ大きい。落ち着きがすごいし、今回主演として現場をまとめてくれているなというのを、近くで見て感じました」と宮世の成長に頼もしさを覚えたことを明かした。また、イベントでは今回登壇することができなかった小関裕太から、ビデオメッセージで「バレンタインに好きな子に告白するときの妄想シチュエーションを再現しなさい」という課題が。トップバッターに綱が指名されると、宮世と顔を見合わせ「うぃ~い」と声を上げる。「ガチきついじゃん……」とこぼしながらも綱は「はいっ!」と返事をし、「放課後の教室のシチュエーションで!」と準備を整える。そして「今日バレンタインだね。今日チョコを持ってきたから。はい。あともう1個……好き」と告白シチュエーションを披露し、追加で客席に投げキス。これを見た宮世は「せこい! せこい! せこい!(笑)」とリアクションし、耐えきれない様子の綱も「あぶねぇ(笑)」と赤面していた。
2024年02月13日俳優の宮世琉弥が、13日に都内で行われた映画『恋わずらいのエリー』(3月15日公開)のバレンタインスペシャルイベントに、原菜乃華、西村拓哉、白宮みずほ、藤本洸大、綱啓永、三木康一郎監督とともに登壇した。同作は、藤もも氏による同名コミックの映画化作。学校イチのさわやか王子・オミくん(宮世琉弥)を眺めつつ、“恋わずらいのエリー”の名で妄想をつぶやくのが日課の妄想大好き女子・エリー(原菜乃華)。ところが、パーフェクトだと思っていたオミくんは、実は口が悪いウラオモテ男子で、自分の超恥ずかしい妄想も彼にバレてしまう。絶体絶命のピンチかと思いきや、2人だけの秘密をきっかけにまさかの急接近となる。○■宮世琉弥、胸キュンシーンは“スポーツ”「安心して観れそうですか?」同作にはこれまでのラブストーリーにはない胸キュンシーンがあるそうで、原が「オミくんがエリーに自分のジャージを被せてジャージ越しにキスをするという“ジャージキス”が売りとなっております!」とアピール。一方、宮世は胸キュンシーンに関してファンに伝えたいことがあるそうで、「僕、エゴサしていて『(胸キュンシーン観たら)死んじゃう』とか『無理無理! 観れない!』と言っている人がいるんですけど、胸キュンシーンって一種のスポーツなんです!」と力説する。「“ジャージキス”に関しては運次第みたいなところもあるから、何回も撮り直しました。ロケだったので陽も暗くなっちゃうから『次は失敗できないぞ』と超焦りながら撮影している」と撮影の裏側を明かした。説明をし終えた宮世は「これでだいぶ嫉妬も和らいだんじゃないですか……? ちょっとは安心して観れそうですか?」とファンに語り掛けていた。また、イベントでは今回登壇することができなかった小関裕太から、ビデオメッセージで「バレンタインに好きな子に告白するときの妄想シチュエーションを再現しなさい」という課題が。トリを飾ることになった宮世は「シチュエーションは学校の下駄箱のところ」と切り出す。そして「さっきはチョコくれてありがとう。みんなが周りにいたから言えなかったんだけど……ずっと前から……好きだったんだよ。あんたさ、俺に愛される覚悟ある?」と劇中のセリフを引用して、会場のファンを虜にしていた。
2024年02月13日映画『恋わずらいのエリー』(3月15日公開)のバレンタインスペシャルイベントが13日に都内で行われ、宮世琉弥、原菜乃華、西村拓哉、白宮みずほ、藤本洸大、綱啓永、三木康一郎監督が登壇した。同作は、藤もも氏による同名コミックの映画化作。学校イチのさわやか王子・オミくん(宮世琉弥)を眺めつつ、“恋わずらいのエリー”の名で妄想をつぶやくのが日課の妄想大好き女子・エリー(原菜乃華)。ところが、パーフェクトだと思っていたオミくんは、実は口が悪いウラオモテ男子で、自分の超恥ずかしい妄想も彼にバレてしまう。絶体絶命のピンチかと思いきや、2人だけの秘密をきっかけにまさかの急接近となる。○■宮世琉弥・原菜乃華ら、『恋わずらいのエリー』バレンタインイベントに登場!キャラクター紹介ムービーがモニターに映し出された後に、客席中央に設置されたランウェイを歩きながら登場したキャスト陣。宮世は集まったファンからの黄色い声援に応えながら壇上へ向かうも、ステージ前で待ち構えていたカメラをスルーしてしまい、慌てて戻るお茶目な姿も見せていた。ランウェイでのウォーキングを振り返った宮世は「本当に黄色い歓声がすごくて! びっくりしました! でもちょっとだけ! もうちょっと声聞きたかったですけど……」と観客をあおる。MCが客席に「皆さん、声を聞かせていただけますか?」と投げかけ歓声が上がるも、宮世は「足りないっすね!(笑)」とさらなる盛り上がりを求め、笑いを誘っていた。イベントの最後には、宮世と原の「恋わずらいの……」という掛け声に対して、観客が「エリー!」と返すコール&レスポンスに挑戦。練習での観客の声量に「ダメダメダメ! もう1回練習ね!」とスパルタぶりを見せた宮世は、本番を前に「本番に本領発揮ですもんね? 皆さんね?」と語り掛け、会場を盛り上げる。本番では練習以上の大きさの声が上がり、無事に成功。イベントの幕を閉じた。
2024年02月13日Lil かんさいの西村拓哉が、13日に都内で行われた映画『恋わずらいのエリー』(3月15日公開)のバレンタインスペシャルイベントに宮世琉弥、原菜乃華、白宮みずほ、藤本洸大、綱啓永、三木康一郎監督とともに登壇した。同作は、藤もも氏による同名コミックの映画化作。学校イチのさわやか王子・オミくん(宮世琉弥)を眺めつつ、“恋わずらいのエリー”の名で妄想をつぶやくのが日課の妄想大好き女子・エリー(原菜乃華)。ところが、パーフェクトだと思っていたオミくんは、実は口が悪いウラオモテ男子で、自分の超恥ずかしい妄想も彼にバレてしまう。絶体絶命のピンチかと思いきや、2人だけの秘密をきっかけにまさかの急接近となる。○■Lil かんさい 西村拓哉、『恋わずらいのエリー』ランウェイに登場!客席の間に設置されたランウェイを歩きながら登場し、集まったファンの歓声に応えた西村。撮影現場の雰囲気を聞かれると「僕が撮影に入らせてもらった日は、菜乃華ちゃんと琉弥くんがよくいらっしゃったんですけど、実は3人とも同い年。なので一緒にご飯食べたり、琉弥くんと2人で菜乃華ちゃんをいじったり……」と振り返る。宮世も西村からイタズラを仕掛けられたそうで、宮世が「寝ている俺の口に……」と話すと、西村も思い出したように「あ、あったね!!」と笑顔。「僕が琉弥くんの寝ている口にお弁当に出てきた苦手なピーマンを突っ込んで起こすということをやってました(笑)」と笑いを誘っていた。また、イベントでは今回登壇することができなかった小関から、ビデオメッセージで「バレンタインに好きな子に告白するときの妄想シチュエーションを再現しなさい」という課題が。西村は「じゃあ、『僕が(チョコを)手作りをしました』ということで……」と設定を説明し、「はい、チョコレート! 手作りで初めて作ってみました。生チョコです。ちなみに義理チョコじゃないです。3月のお返し……本命は他の男じゃなくて、俺じゃダメ?」と甘い告白で会場を沸かせた。
2024年02月13日装飾の施された輿が乗る和風霊柩車「宮型」、維持管理が難しく減少傾向に。葬送文化を伝える宮型霊柩車を民俗文化財に登録し、助成を実施することに賛成?反対?正覚寺住職の鵜飼秀徳氏がSurfvoteで提起。SNSとテクノロジーで社会課題の発見・解決をサポートするPolimill株式会社(ポリミル、本社:東京都港区、代表取締役:横田えり、以下Polimill社)はこのたび、イシュー「宮型霊柩車を民俗文化財に登録することに賛成ですか?反対ですか?」について、1月26日にSurfvoteに掲載、ユーザーの意見投票が始まりました。宮型霊柩車を民俗文化財に登録することに賛成ですか?反対ですか?最近、霊柩車を見かけましたか?2022年の死者数は157万人に上り、過去最多を更新しました。霊柩車は日本の伝統的な「宮型霊柩車」と、その後を継いだ「洋型霊柩車」。前者は車の上に装飾が施された輿が載っており、近年都会では見かけなくなってきています。主な理由はメンテナンスコストが高いこと。また都市部では火葬場や葬儀場の近くまで宅地開発が進んだことや、簡素な葬式が一般化したことも挙げられます。その一方、霊柩車は「葬送文化」を伝える貴重な民俗遺産と考え、民俗文化財に登録して助成を実施することに賛成する意見もあります。日本の伝統的な宮型霊柩車を民俗文化財に登録すべきか?Surfvoteでひろく意見を募集しています。イシューはこちら: このイシューを書いた鵜飼秀徳氏作家、ジャーナリスト/正覚寺住職 京都・嵯峨の正覚寺に生まれる。新聞記者、雑誌編集者を経て独立。主に、宗教と社会の関係性について取材と発信を続ける。ニュースコメンテーターとしてテレビ・ラジオ出演も多い。 著書に『寺院消滅』(日経BP)『ビジネスに活かす教養としての仏教』(PHP)『仏教抹殺なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』『仏教の大東亜戦争』(いずれも文春新書)など多数。 大正大学招聘教授、東京農業大学・佛教大学非常勤講師。全日本仏教会広報委員(有識者)など。あなたの意見・投票を社会のために活用しますSurfvoteでは社会におけるさまざまな課題や困りごとを「イシュー」として掲載し、どなたでもすべてのイシューを読むことができますが、アカウント登録をすると各イシューに投票したりコメントを書いたりできるようになります。私たちは、みんながさまざまな社会課題を知り、安心して自分の意見を言える場を提供したいと考えています。また、そこで集められた意見は、イシューの内容に応じて提言書に纏め関係省庁や政治家へ提出することもあります。 Polimill株式会社Polimill株式会社は社会デザインプラットフォーム【Surfvote】を運営・提供するICTスタートアップ企業です。Surfvoteは現在、一般社会についての社会課題と各地方自治体の抱える社会課題(Surfvoteローカル)を掲載。ひろくみんなが意見を言える場を提供しています。あらゆる人がルール作りに参加し、価値観の変化やテクノロジーの進化に合わせた柔軟でスピーディーな制度改革ができるような社会を、SNSとテクノロジーで実現させたいと考えています。 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2024年01月26日宮世琉弥&原菜乃華のW主演映画『恋わずらいのエリー』より、二十歳の誕生日を迎えた宮世さんが演じる“ウラオモテ王子”オミくんの場面写真が公開された。「君の花になる」では期間限定グループ「8LOOM」のメンバーとして活躍し、「パリピ孔明」では天才ラッパーを演じた宮世さんが、本作で演じるオミくんは、表の顔は学校イチのさわやか王子だが、実は口の悪いウラオモテ男子。今回の場面写真では、真剣な眼差しでテニスプレーに挑むシーンや女子たちに囲まれる様子といった、“オモテ側”の姿、からかうように見つめたり、アンニュイな表情をうかべたり、妄想大好き女子・エリー(原さん)だけにしか見せない“ウラ側”が切り取られている。『恋わずらいのエリー』は3月15日(金)より全国にて公開。(シネマカフェ編集部)■関連作品:恋わずらいのエリー 2024年3⽉15⽇より全国にて公開©2024「恋わずらいのエリー」製作委員会 ©藤もも/講談社
2024年01月22日名古屋名物として全国的に知られている「きしめん」。口当たりなめらかな平打ち麺で子どもでも食べやすく、いろんなアレンジで味わえます。うどんの代わりに使って、いつもと違う風味や食感を楽しんでみませんか?今回は、きしめんについて徹底解説! 特徴や歴史のほか、人気のアレンジレシピ・鍋レシピ【6選】をご紹介します。温かいきしめんは寒い季節にもぴったりなので、ぜひ試してみてくださいね。■きしめんとは?きしめんとは小麦粉と塩水で作られた平たい形状の麺です。通常のうどんと比べるとコシはそれほど強くなく、つるつるとした食感で、のど越しは非常になめらか。火の通りが早く、茹で時間が短いのも特徴です。濃いめのつゆを使った「かけ」でいただくのが一般的ですが、「ザルきしめん」や「焼きうどん」もあり、多彩な具材と味つけでアレンジできます。■きしめんの歴史・ルーツを辿るきしめんの歴史は古く、江戸時代にはすでに食べられていました。江戸時代前期の文芸作品『東海道名所期』には、きしめんは三河芋川(現在の愛知県刈谷市)の名物とされており、当時の名古屋では「きしめん」、江戸では芋川(いもかわ)が訛って「ひもかわ」と呼んでいたと記録されています。また、きしめんの起源や由来は尾張藩主にキジ肉を入れて提供した「きじめん」、紀州の人から尾張に伝わった「紀州麺」、中国のお菓子「碁石麺(きしめん)」など諸説あります。■栄養満点! きしめんの人気アレンジレシピ酸味と辛味が効いた「サンラースープ」をきしめんでいただきます。ミネラル豊富なもずくとリコピンたっぷりなトマトを組み合わせて栄養面もバッチリです。さっぱりとした味つけとつるんと食感が融合し、一度試すとやみつきになる美味しさ。ランチや夜食にぜひ。■飽きずに楽しめる! きしめんのアレンジレシピ3選・具だくさんのつけきしめん茹でた熱々のきしめんをしょう油ベースのつけダレでいただくスタイル。タレは昆布やかつお節で出汁を取り、鶏もも肉を入れてコクのある奥深い味わいに仕上げます。別皿にきんぴら、ホウレン草、モヤシ、薬味などを盛り合わせたら、好きなタイミングでつけダレに加えて楽しみましょう。・カルグクス~韓国風アサリうどん~韓国で人気の麺料理「カルグクス」をきしめんで再現! あさりの旨みが効いた出汁がきしめんにからみ合い、寒い日に食べると心も体も温まる至福の味わいです。辛味はないので、お好みでキムチを添えて味の変化を楽しんでも◎。・煮とかしカボチャのほうとう風きしめん豚汁のようなコクとカボチャの甘みが堪能できる、山形の郷土料理「ほうとう」をきしめんでアレンジします。煮込んだきしめんに甘じょっぱいスープがよくなじみ、最後まで飲み干したくなる美味しさです。野菜もたっぷり食べられるのがうれしいですね。■〆にも大活躍! きしめんの鍋レシピ2選・みそ煮込みうどん鍋名古屋名物、みそ煮込みうどんは寒い季節にこそ食べたいメニュー。旬の白菜やネギが美味しく食べられるのはもちろん、煮汁がしみたきしめんが絶品です。薄味仕立てですので、お好みでおろしショウガや一味をたっぷり入れてどうぞ。・カキの土手鍋冬の味覚、カキを楽しむ土手鍋は鍋のフチにみそを塗って土手を作り、みそを溶かしながらいただきます。濃厚な味わいなので、〆はきしめんを加えてみそ煮込み風に楽しむのがイチオシ! 卵を落とすとまろやかさがアップしますよ。歴史を辿ると、江戸時代から名古屋めしの代表格だった「きしめん」。名古屋を訪れた際にはもちろん、スーパーや通販でも購入できるので自宅でも気軽に味わえます。ぜひ今回ご紹介したレシピを参考にして、いろんなバリエーションをお楽しみください。▼名古屋めしと言えばこちら! 味噌煮込みうどんレシピ
2024年01月17日青春スポ根ミュージカル漫画を原作とする舞台『かげきしょうじょ!!』が、10月18日(水) に東京・こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロで開幕。同日のゲネプロ前には囲み取材が行われ、志田音々、二瓶有加、佐藤日向、佐々木李子の4名が意気込みを語った。原作は、斉木久美子が白泉社「MELODY」にて連載中で、2021年にはTVアニメ化も果たした青春スポ根ミュージカル漫画。女性のみで構成される“紅華歌劇団”の人材育成を目的とした紅華歌劇音楽学校を舞台に、“第100期生”である10代の少女たちが未来のスターを目指してひたむきに奮闘・葛藤する姿を描く。今回の舞台では、天真爛漫な長身の少女・渡辺さらさ役を志田、周囲に関心のない“元”国民的アイドル・奈良田愛役を二瓶、“第100期生”の委員長・杉本紗和役を佐藤、紅華歌劇団家系のサラブレッド・星野薫役を新谷姫加、高い歌唱力を持ちながらも自分に自信がない内気な少女・山田彩子役を佐々木、姉妹揃って入学した双子の姉・沢田千夏役を髙橋果鈴、双子の妹・沢田千秋役を和泉風花、愛の指導を担当する“第99期生”の先輩・野島聖役を青山なぎさ、さらさの指導を担当する先輩・中山リサ役を石井陽菜、第99期生の委員長・竹井朋美役を深沢萌華が演じる。開幕後に繰り広げられるのは、紅華歌劇音楽学校の合格発表シーンだ。狭き門を通過した100期生の少女たちが登場すると、アニメ版でも使用されている楽曲「星のオーケストラ」にあわせて、それぞれの特徴を印象付ける様なダンスでオープニングを飾った。本作では、『かげきしょうじょ!!』のテーマである“ミュージカル”のエッセンスが要所に盛り込まれており、99期生の指導のもと100期生が掃除に励むシーンでは、まるでニューヨーク・オフ・ブロードウェイのロングラン公演『STOMP』を彷彿とさせるような、ホウキやバケツといった掃除道具を使ったパフォーマンスを見せる。また、予行練習期間の最終日の場面では、声優・若本規夫がアニメ版と同じく自衛官の穴井一尉役として声の出演。講師陣からメタな台詞も飛び出し、客席から笑い声が上がる。本舞台では、このシーンのほかにも、さらさの“アニメ好き”という設定を強めて、アニメパロディネタが随所に取り込まれているのも印象的だ。そして、漫画を原作とするいわゆる“2.5次元舞台”でもっとも重視されるのが「いかにキャラクターに寄せられているか」だが、その点でも抜かりはない。本作で最も“2.5次元”的なキャラクターは、“オスカル様に憧れる天真爛漫な長身少女”のさらさだが、演じる志田は共演者から「ナチュラルボーンさらさ」と評されるほど。実際の志田はさらさよりも身長が低いが、スラリと伸びた手足から受ける印象はさらさそのもの。そして大きな瞳と、その身に纏ったオーラが天真爛漫さを体現しており、学校生活で一喜一憂する彼女を見ているだけで観客を飽きさせない、目が離せない存在となっていた。愛役の二瓶は、囲み取材で「今まで人に見せてこなかった“陰の部分”を、愛ちゃんを通じて出せるようになった」と語っていたが、“能面”と揶揄されるほどの無表情に隠された感情を見事に表現。特に“負の感情”での愛とのシンクロを強く感じ、怒りや悲しみを爆発させるシーンが印象深い。委員長・紗和は、演じる佐藤自身が囲み取材で「優等生なんですが、作中で先生から指摘されることは一度もなく、一方で褒められる描写も一度もない」と語ったように、アニメ版と同じく、今回大きくスポットが当たるシーンは無い。しかし、舞台経験豊富な佐藤だからこそ醸し出せる安定感が、100期生達の頼れる存在であることに説得力を持たせており、全編を通して彼女たちをリードする働きを見せていた。時折見せる“紅華オタク”な一面も非常に愛らしい。そして彩子役は、アニメ版でも同キャラクターを演じた佐々木。アニメでも、学校生活で自信を無くしてしまった彩子と小野寺先生のシーン、そして彩子が歌う「My Sunset」のシーンが佐々木の生の芝居と歌声で表現され、客席から拍手が巻き起こった。このほか、ステージのみならず客席通路も使って芝居やパフォーマンスが繰り広げられ、紅華乙女達の物語は、約2時間30分の2部制で展開。最後には、エンディング「星の旅人」が流れてキャスト総出で華麗にパフォーマンスし、幕は下りた。舞台『かげきしょうじょ!!』は、10月22日(日) まで同所で上演される。志田音々、二瓶有加、佐藤日向、佐々木李子のコメント■渡辺さらさ役:志田音々初日を迎えることができて、大変嬉しいです。私は4年ぶりとなる2回目の舞台出演で、初めての座長だったのですが、みんなに支えてもらって、本当に紅華歌劇音楽学校の少女たちのようにお互い切磋琢磨して過ごした、長い長い1カ月間の稽古でした。この1カ月、原作漫画とアニメをリスペクトしつつ、自分なりの感性で、舞台ならではの“生きている人間らしさ”を突き詰めてお稽古してきました。いざ本番を迎えて、お客様の前で、稽古通りにできるだろうかという不安もありますが、そのリアルな感情も乗せてお芝居していきたいと思っています。稽古期間で培われた私たちカンパニーの絆や空気感を、皆様と一緒に共有できたら嬉しいです。劇場でお待ちしております。■奈良田愛役:二瓶有加今日が初日ですが、稽古期間に本当に色々なことがあったんで、早かったような長かったような……という気持ちです。音々ちゃんは「みんなに助けられた」って言ってますけど、私自身は音々ちゃんの“ナチュラルボーンさらさ”な明るさにいつも救われていました。自分と愛ちゃんは最初一致するところが全然なくてすごく不安に感じていましたが、稽古を続けているうちに、今まで人に見せてこなかった“陰の部分”を、愛ちゃんを通じて出せるようになりました。今回私の新たな一面をお見せできるんじゃないかと思っています。千秋楽までカンパニーみんなで力を合わせて突っ走っていきますので、よろしくお願いします。■杉本紗和役:佐藤日向『かげきしょうじょ!!』が、アニメに続いて舞台化され、遂に紅華歌劇音楽学校の世界をリアルに体験できる日が来ました。紗和ちゃんは委員長を務める優等生なんですが、作中で先生から何か指摘されることは一度もなく、一方で褒められる描写も一度もなくて。首席合格だからできて当然だと思われているんでしょうけど、私もあまり褒められない人生だったので、そういう部分を共感しながら「一緒に頑張ろうね!」という気持ちです。あと、今回の髪型はウィッグではなく自分で地毛を結んでいるんですが、メイクのときにいつも「紗和も毎朝こうやって髪を結んでいるのかな」と、彼女とのリンクを感じています。舞台という形で立体的に表現された紅華の世界を、皆さんも先生や生徒になった気持ちで見てもらえたらと思います。よろしくお願いします。■山田彩子役:佐々木李子キャストとスタッフの全員が力を合わせて、お稽古をして、初日迎えることができました。私は彩子ちゃんと同じで歌も大好きなんですが、心を開くのが苦手で外から見守る側になってしまうところも似ていて。実際、お稽古始まってからもちょっと緊張しながらみんなの輪を眺めていたのですが、みんながすごく優しく迎えてくれたので、よりリアルに彩子ちゃんの気持ちを感じることができました。お稽古の時も、毎回すごく役に感情移入していたので、本番でも彩子ちゃんの気持ちになって大切に演じていきたいです。これで完成じゃなく、毎日毎日進化し続ける舞台『かげきしょうじょ!!』にしていきたいと思っております。<公演情報>舞台『かげきしょうじょ!!』10月18日(水)~22日(日) 東京・こくみん共済 coop ホール/スペース・ゼロ【キャスト】渡辺さらさ:志田音々奈良田 愛:二瓶有加杉本紗和:佐藤日向星野 薫:新谷姫加山田彩子:佐々木李子沢田千夏:髙橋果鈴沢田千秋:和泉風花野島 聖:青山なぎさ中山リサ:石井陽菜竹井朋美:深沢萌華奈良田太一:芹沢尚哉橘直美:桃菜小野寺保:鷲尾昇安道 守:佐野瑞樹奈良田君子:斉藤レイ穴井一尉(声):若本規夫チケット情報:公式サイト:
2023年10月19日2022年~2023年にかけて立て続けに話題の連続ドラマにレギュラー出演しているなど活躍が続く俳優の宮世琉弥。そんな宮世が、世界中で人気を誇る「ミュータント・タートルズ」を劇場アニメーション化した映画『ミュータント・タートルズ:ミュータント・パニック!』(公開中)で、タートルズのリーダー・レオナルド役の日本語吹替え声優を務めた。初となる声の芝居は一つの表現方法として「すごく刺激的だった」と語ると、自身の目標と掲げているクリエイティブな活動についても「確実に前に進んでいます」と力強く語った。○■慣れ親しんでいた「ミュータント・タートルズ」の世界で声優初挑戦宮世が演じる「タートルズ」のリーダー・レオナルドはリーダーでありながら、ちょっと頼りないところもある愛すべきキャラクター。台本を読んだとき「“一応”しっかりとしていて、リーダーシップをとろうとするのですが、ちょっと空回りしてしまう部分もある。でも他のラファエロ、ミケランジェロ、ドナテロと比べても正義感が強い」と感じたという。もともと「タートルズ」は好きだったという宮世。「僕の親が『ミュータント・タートルズ』を知っていて、人形が家にあったんです。僕も実写作品を観に行ってなじみがありました。今回はアニメーションでしたが、絵のタッチが独特で、とても新しいものを作っているな」と知的好奇心がくすぐられたという。自身初となる声の仕事。しかも、昔から慣れ親しんでいた作品ということで、気合十分で臨んだが難しさもあった。「普段のお芝居では、すでにそこにある表情に合わせてセリフを言うということはないじゃないですか。でもアニメーションなので一つ一つの行動や表情に合わせてセリフを言うのが難しかったです。でも演じているうちに、レオナルドが笑う時は笑って、怒るときは怒った表情になっている自分に気づいて、しっかりキャラクターと対話しているような意識で演じました」一方で、アニメーションならではの面白さも発見できた。宮世は「やっぱり実写ではできないことができるというのは大きな魅力です。今回もタートルズになれたわけですから。子供っぽいかもしれませんが、アニメーションのキャラクターが、自分の声で動いているのを見ると、すごいなって思っちゃいました。ロマンがありますよね。飛ぶことだってできるんです!」と笑う。○■先輩俳優たちをリスペクト 『パリピ孔明』で共演の向井理は「完璧」本作では、ミュータントたちと人間の関係性もシニカルに描かれる部分もある。立場が変われば見え方も変わる。宮世自身、業界に入る前と後では、世の中の見え方は変わってきているのだろうか。「僕はこの活動を始めたときから同世代よりも圧倒的に大人の方と話す機会が多かったので、どうしても早く大人にならなければ……という意識はありました。その経験は、いまとなってはとても良かったなという実感はあります」特に感じたのが、いわゆる“すごい人”がたくさんいるということ。宮世は「とんでもない方ばかり」と苦笑いを浮かべると「俳優の先輩方はみんなモンスターのようにすごい」と舌を巻く。特に9月27日から放送がスタートするフジテレビ系連続ドラマ『パリピ孔明』で主演を務める向井理は、直近で「すごい」と思った先輩だという。「孔明はセリフ量もすごいのですが、完璧で一切NGを出さないんです。現場でもすごく全体が見えているし、それでいてお子さんともお会いしたのですが、すごく素敵なお父さんでもある。本当に学ぶところが多いです」○■映画監督への道は「しっかり踏み出しています」偉大なる先輩たちに囲まれて日々を過ごしている宮世。来年1月には20歳を迎える。「新しいものには触れつつも、いままで培ってきたものは大切にして一つ一つ丁寧に全力で取り組んでいきたい」と意気込むと「新たにクリエイティブなことも自分なりに進めていきたい」と抱負を述べる。以前のインタビューで、「東日本大震災を経験しているので、震災を題材にした映画を作りたい」と話していた宮世。その野望に向かって進んでいるのかを問うと「しっかり踏み出しています」と力強い回答が。「現場には衣装部さんや照明部さん、録音部さんなど、プロフェッショナルな方がたくさんいらっしゃいます。撮影の合間のお昼ご飯などを食べるときも、積極的にコミュニケーションをとらせていただいて、いろいろなことを学んでいます」ただですら多忙ななか、脚本の勉強などもしている。「24時間じゃ足りないですね」と笑うが、挑戦し続けることが、一番大切なことだという。「もちろん失敗したら落ち込みますが、それは挑戦しているからと前向きに捉えて進みます。そうすればきっと成長できると思うので」そんな宮世の思いは、本作にもリンクしているという。「タートルズたちは、不可能かも……と思っても、みんな夢に向かって走っている。『やってみなければ分からない』ということを教えてくれる作品。老若男女みんなが共感できる作品だと思うので、多くの人に観てほしいです」と見どころをアピールしていた。■宮世琉弥2004年1月22日生まれ、宮城県出身。2019年にドラマ『パーフェクトワールド』で役者デビュー。2020年、ドラマ『恋する母たち』で注目を集める。近年の主な出演作は、ドラマ『村井の恋』(22)、『闇金ウシジマくん外伝 闇金サイハラさん』(22)、『君の花になる』(22)など。9月27日スタートのドラマ『パリピ孔明』への出演が決定している。(C)2023 PARAMOUNT PICTURES.TEENAGE MUTANT NINJA TURTLES IS A TRADEM ARK OF VIACOM INTERNATIONAL INC.
2023年09月23日米津玄師が、宮﨑駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』の主題歌として「地球儀」を書き下ろしたことをSNSを通じて発表した。米津は、小学生の時に『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』を映画館で見た時に衝撃を受け、漫画版『風の谷のナウシカ』を創作の指針としていることなど、宮﨑監督からは自身の幼少期から現在に至るまで大きな影響を受け育ってきたという。SNSに投稿されたコメントでは「お話を頂いたのはもう4年ほど前のことです。一番最初は驚愕すると同時に“何故自分なのか”と困惑しました」と明かし、「『地球儀』は『君たちはどう生きるか』の為の曲であり、わたしが今まで宮﨑さんから受けとったものをお返しする為の曲でもあります。今まで映画を作り続けてくれてありがとうございました。そしてこれからもずっと作り続けてください」と綴っている。「地球儀」は、7月17日(月・祝) にデジタル配信、7月26日(水) にシングルCDとして発売される。シングルは「地球儀」のCDに写真集160ページを同梱したパッケージとなり、初回版・通常版の2形態でのリリースとなる。映画『君たちはどう生きるか』は、宮﨑監督オリジナルストーリーによる“冒険活劇ファンタジー”。『風立ちぬ』から10年ぶりとなる宮﨑監督の長編作品に期待が高まる中、公開まで内容・キャスト・スタッフなどの情報が伏せられていることが大きな話題となり、本日7月14日(金) に公開日を迎えた。■米津玄師 コメント(7月14日(金) SNS投稿文)『君たちはどう生きるか』の主題歌として「地球儀」という曲を作らせてもらいました。お話を頂いたのはもう4年ほど前のことです。一番最初は驚愕すると同時に「何故自分なのか」と困惑しました。曰く、宮﨑さんがFoorinのパプリカをラジオで耳にしたのをきっかけにわたしに白羽の矢が立ったようです。5冊分にもなる重たい絵コンテを頂き、宮﨑さんから説明を受け、恐る恐る作曲に取り掛かりました。今や遥か遠い昔の出来事のように感じています。この4年間のあいだ、幾度か小金井のスタジオへと足を運び、宮﨑さんや鈴木さんとお話をさせて頂いたのですが、その殆どが不思議なくらい気持ちよく晴れた日でした。近所にいる園児の声を聞きながら、黒々と落ちた木陰の中を歩いたのをおぼえています。常日ごろ狭い部屋で独り過去の記憶を辿りながら作曲をしている身からすると、それは豊かと呼ぶ他ない体験でした。小さな子どもの頃から宮﨑さんの映画を見て育ちました。いつしかわたしは大人になり、音楽を作る人間になりました。その音楽を沢山の人に受け取ってもらえるようにもなりました。まだ至らぬ部分も数え切れないほどありますが、至らなさも含めて確かにここまで生きてきたのだと思えます。「地球儀」は『君たちはどう生きるか』の為の曲であり、わたしが今まで宮﨑さんから受けとったものをお返しする為の曲でもあります。今まで映画を作り続けてくれてありがとうございました。そしてこれからもずっと作り続けてください。<作品情報>映画『君たちはどう生きるか』公開中映画『君たちはどう生きるか』ポスタービジュアル (C)2023 Studio Ghibli公開劇場一覧:<配信情報>米津玄師「地球儀」7月17日(月・祝) 配信リリース配信リンク:※配信日より有効<リリース情報>米津玄師 ニューシングル『地球儀』7月26日(水) リリース●初回版(CD+写真集 160ページ):4,800円(税込)●通常版(CD+写真集 160ページ):2,200円(税込)関連リンク米津玄師 オフィシャルHP米津玄師 YouTube米津玄師 Twitter米津玄師 Instagram米津玄師 TikTok
2023年07月14日6月17日、デビュー10周年を迎えた宮﨑薫が弦楽アンサンブルとの初共演に挑む。舞台は世界的な音響評価を誇る浜離宮朝日ホール(東京・築地)。2012年デビュー以来、国内外のステージ&メディアで独自の音楽活動を展開中の宮﨑薫。3月の『ASKA&DAVID FOSTER PREMIUM CONCERT 2023』(横浜・東京・西宮)のステージでは、1万人超の音楽ファンの前で世界的音楽家デイヴィッド・フォスター(ピアノ)との共演を果たした。アジアを代表するヴォーカリストとしてデイヴィッド・フォスターの代表曲『To Love You More』をダイナミックにそして華麗に歌い上げた。デイヴィッドから「情熱と気品に溢れたヴォーカリスト」と評された宮﨑。現在、ASKA全国ツアー(4月~8月主要都市公演)にゲストヴォーカルとして出演中。早くも、デイヴィッド仕込みの進化のパフォーマンスを全国のステージで魅せている。そして、続く10周年記念『宮﨑薫Strings Ensemble Premium Concert in 浜離宮』では、ジャズ&クラシック界(京都フィルハーモニー室内合奏団)の名手たちとの共演が実現する。「10周年というタイミングで、素晴らしい音楽家の方達と新しい形で音楽を届けられる事が楽しみです。暫く会えていなかった方も、初めて会える方も。会場でお会いしましょう!お待ちしています」と意欲を語る。祝祭の舞台では、宮﨑薫の音楽活動の軌跡を示す『Karma』『The Light』他のオリジナル作品を選曲。そして、デイヴィッドの推薦楽曲と、宮﨑自身の選曲によるASKA作品を披露。弦楽アンサンブルの多彩なサウンドに導かれ、新しい宮﨑薫の世界が誕生する。◆公演オフィシャルサイト: 10th Anniversary Celebration 『宮﨑薫 Strings Ensemble Premium Concert in 浜離宮』◇主催:RENAISSANCE CLASSICS◇後援:TOKYO FM◇協力:DISK GARAGE◇開催日時:2023年6月17日(土)開演14時(開場13時30分)◇開催会場:浜離宮朝日ホール◇出演:宮﨑薫宮本貴奈(ピアノ)、小川晋平(ベース)、片山士駿(フルート)、京都フィルハーモニー室内合奏団◇音楽監督:宮本貴奈◇編曲:宮本貴奈、中川就登◇チケット情報:価格:4,000円、ペアチケット:7,000円(税込・全席指定)ローソン: ぴあ: イープラス: ◇お問い合わせDISK GARAGE 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2023年05月19日平城宮いざない館では、令和5年3月25日(土)から5月14 日(日)の期間で、開園5周年記念特別展「よろしく都邑を建つべし-飛鳥・藤原・平城の宮都-」を開催いたします。平城宮跡歴史公園は、平成30年3月24日の開園から、おかげさまで、今年で5周年を迎えることができました。本企画展では、長年にわたり飛鳥宮・藤原宮・平城宮にかかわる発掘・調査研究をしている奈良文化財研究所所蔵の出土資料を中心に、各期を代表する金剛仏の複製も展示します。また仏教美術にもフォーカスし、出土遺物と仏教美術の観点から、この3つの宮都のつながりに、思いを巡らせていただける展示となっています。日 時令和 5 年 3 月 25 日(土)~5 月 14 日(日)※4/10(月)の休館日を除く9:00~17:00(入館は 16:30 迄)場 所平城宮いざない館 企画展示室観 覧無料主 催平城宮跡歴史公園共 催独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所協 力奈良県立図書情報館、法相宗大本山薬師寺、株式会社京都科学関連講演会時 間10:00~11:30場 所平城宮いざない館 多目的室定 員各回 50 名(事前申込制)※参加無料■3 月 25 日(土)平城宮いざない館開館にあたり-イラスト制作秘話-【講師】早川和子氏(復元画家)【聞き手】杉山洋氏(龍谷大学教授)■4 月 15 日(土)大極殿院の構造-難波から藤原、そして平城へ-【講師】廣瀬覚氏(奈良文化財研究所都城発掘調査部考古第一研究室)■5 月 7 日(日)富本銭の数奇な旅-飛鳥から、藤原、平城-【講師】杉山洋氏(龍谷大学教授)お問い合わせ平城宮跡歴史公園 平城宮跡管理センター 広報担当 小田・河井・吉田TEL 0742-36-8780FAX 0742-36-8781国営平城宮跡歴史公園 : 詳細はこちら プレスリリース提供元:NEWSCAST
2023年03月23日俳優の宮世琉弥が12日、都内で「宮世琉弥カレンダー2023.4-2024.3」(発売中 2,750円税込 発売元:SDP)の発売記念イベントを行った。2022年はTBS系火曜ドラマ『君の花になる』でボーイズグループ「8LOOM」のメンバー・成瀬大二郎役として注目を集め、テレビ朝日系『もしも、イケメンだけの高校があったら』など計4本の連続ドラマにメインキャストとして出演した宮世琉弥。その勢いは2023年になってもとどまることを知らず、カンテレ・フジテレビ系の4月期連続ドラマ『ホスト相続しちゃいました』に夜空流星役で出演することが発表されるなど、大きな飛躍が期待される。その彼が新年度のカレンダーを発売。春の桜、夏のひまわり、秋の紅葉など"季節のアイコン"になりきり、昨年度のカレンダーの"オール制服"コンセプトから打って変わって大人っぽい雰囲気から少年っぽい無邪気な姿などが楽しめる1冊となっている。カレンダーについて宮世は「今回は季節のアイコンになりきり、4月だったら桜なので桜の花びらを散らして髪をピンクでまとめたりとか、季節で2023年を表現しているところがポイントです」と解説。お気に入りは2月に掲載された写真だといい、「これを見た時に過去イチビジュ(ビジュアル)がイイなと思ったんです。手と顔の角度と衣装の垂れ具合が過去イチ良かったんです。このページは奇跡のページですね」と自画自賛して、「2022年のカレンダーとは違った雰囲気を楽しめると思います。皆さんの日々が鮮やかに彩ることを願っています」とアピールした。4期連続でドラマに出演した2022年は「1月から12月までドラマの撮影をしていたのであっという間でしたね。作品のジャンルも違ったので振り幅も増えました。色んな経験をさせていただいた2022年だったと思います」と振り返り、ドラマ『君の花になる』で共演した夏木マリに刺激を受けたという。「本田翼さんが夏木さんに『推しは誰?』と聞いたら、夏木さんが僕を選んでくれたんです。昔からテレビで見ていた方から推しと言われて感動でしたよ。深夜の銭湯で撮影していましたが、疲れが吹き飛ぶぐらい嬉しかったです。僕は夏木マリさんの推し(笑)」と満足げ。今年に入ってMusic Projectの始動も発表され、アーティストとしての活動も期待される。「今はギターレッスンやボイトレ、ダンスレッスンを日々やっています。まだまだですが、僕のベースとしては皆さんに幸せを届けて笑顔にしたいという気持ちがあるので、新しい一面をお見せしたいと思います」と貪欲で、「Music Projectも始動して新しい仕事が増え、(俳優としても)新しい挑戦が待っています。2023年は色んな方向を見せていきたいですし、宮城から世界へという思いがあるので、その部分でも東北を元気にしてきたいですね」と意欲を見せていた。
2023年03月13日宮﨑駿が監督を務めるスタジオジブリ新作映画『君たちはどう生きるか』が、2023年7月14日(金)に公開される。『風立ちぬ』から10年ぶり、宮﨑駿の映画最新作大正から昭和にかけての日本を背景に、実在の人物である堀越二郎の半生を描いたアニメーション映画『風立ちぬ』から10年ぶりとなる、宮﨑駿の長編映画『君たちはどう生きるか』が公開へ。宮﨑駿が原作・脚本・監督を手がけ、スタジオジブリが製作を担う。吉野源三郎の児童向け小説『君たちはどう生きるか』とは?映画のタイトルは、吉野源三郎が1937年に発表した児童向け小説と同じもの。小説『君たちはどう生きるか』では、15歳の主人公であるコペル君こと本田潤一が、学校生活を送る中で経験する様々な出来事に対して、叔父さんがコペル君に書いたノートを読みながら“どう生きるか”を考え、成長していく物語が描かれている。同様のタイトルにした理由について、宮﨑駿は「子供の頃にこの本を読んで大変感銘を受け、それで今回、自作のタイトルに借用させてもらった」という。音楽は久石譲音楽は、『風の谷のナウシカ』から『風立ちぬ』まで、宮﨑駿が監督を務めたスタジオジブリの長編作品において、映画音楽を手掛けてきた久石譲が担当。主題歌を含めた37曲の収録を予定している『君たちはどう生きるか』のサウンドトラックは、8月9日(水)より発売される予定だ。作画監督は本田雄作画監督は、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の総作画監督などを務めてきた本田雄(ほんだたけし)が務める。IMAXなどでも同時上映なお、映画『君たちはどう生きるか』は、大スクリーンに映し出される鮮明な映像と、高精度なサウンドで“まるで映画の中にいるかのような臨場感”をもって体験できるIMAXでも上映。スタジオジブリ作品でのIMAX上映は、『君たちはどう生きるか』が初となる。さらに、立体的な音響を体感できるドルビーアトモス(Dolby Atmos)、ハイクラスな音響に加えてドルビービジョン(Dolby Vision)による鮮やかなHDR映像で楽しめるドルビーシネマ(Dolby Cinema)、邦画作品初のIAB DCP対応作品として、没入感抜群のイマーシブサウンドで堪能できるDTS:Xスクリーンでも公開初日より上映。宮﨑駿の10年ぶりとなる作品『君たちはどう生きるか』をぜひ劇場で鑑賞してみてほしい。【作品詳細】映画『君たちはどう生きるか』公開日:2023年7月14日(金)監督・脚本:宮﨑駿原作:宮﨑駿製作:スタジオジブリ音楽:久石譲作画監督:本田雄■映画『君たちはどう生きるか』サウンドトラック発売日:2023年8月9日(水)価格:3,300円レーベル:徳間ジャパンコミュニケーションズ
2022年12月16日2022年6月4日、三笠宮妃百合子さまが、白寿となる99歳の誕生日を迎えられました。百合子さまは1923年6月4日生まれであり、現代の皇室で最高齢。2016年に100歳で薨去(こうきょ)した三笠宮崇仁親王さまに次ぐご長寿であり、また、明治時代以降の女性皇族としても最高齢です。百合子さまは、健康維持のため、宮邸で体操やストレッチを日課にしているといいます。宮内庁によると、百合子さまは近年、健康維持のため宮邸で体操やストレッチを日課とし、車いすで日光浴や庭の散策を楽しまれることも。新聞や雑誌に目を通し、新型コロナウイルス禍の影響を受ける人々を案じられている。産経ニュースーより引用また、百合子さまは7人のひ孫の成長を喜び、テレビの野球中継も楽しまれているのだとか。【ネットの声】・気品があって素晴らしい方。これからも健やかにお過ごしください。・お誕生日おめでとうございます!・いつまでもお若く、素敵です。お元気そうで嬉しいです。同日、新型コロナウイルス感染症のため、公的な祝賀行事は行われませんでした。100歳の誕生日には、祝賀行事が行える状況になり、多くの人が百合子さまにお祝いの言葉を直接届けられるといいですね。[文・構成/grape編集部]
2022年06月04日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。なんらかの理由があって不満そうにする子供。大人がその気持ちを理解し、解決に導くにはどうすればいいでしょうか。第18回『あなたごととわたしごと』外食をしていると、少し離れた席で子どもの泣き叫ぶ声が聞こえた。姿は見えないけれど、保護者らしき人がどうにか静かにさせようとしているのが伝わってくる。なかなか泣き止まない声を聴きながら「周りの目も気になるだろうし大変そうだな」「自分ならどんな風に声をかけるだろうか」と思い見ていた。僕が泣き声を気にしていることを察したのか、一緒にいた友人が声の聞こえる方を一瞥しながら「なんや不満なんやろなあ」とつぶやいた。呑気なセリフに笑ってしまう。そりゃ何か不満なことがあるから泣いているのだ。なにを当たり前のことを、と思いながら、当たり前であるのになにか大事なことを言ったように感じる。さっき僕は、大人の目線で「泣きやますことが大変そうだなあ」と思っていた。当然に子どもには子どもの泣いている理由があるけれど、なぜ泣くのかを考えるときに具体的になにが嫌なんだろうかと想像することはあっても、漠然と「不満なんやなあ」と思うことはあまりない。「不満なんやろなあ」という言葉は他人事に見えながらも(実際に他人のことではあるけれど)、実はその子の気持ちにそのまま寄り添う言葉なのではないか。子どもが泣いてしまったり癇癪(かんしゃく)を起こしたりした時に真っ先にそれを鎮めようとする。何が嫌なんだろう、どうやったら泣き止んでくれるんだろう、と焦ってしまう。そんな時に一旦、無責任に「不満なんやなあ」と呟いてみるのもいいかもしれない。それで何かが分かったり解決の糸口を見つけたりするわけではないかもしれないけど、その一言で少し肩の力が抜けて向き合い方が変わるかもしれない。ある時、小学校からの帰り道に急に「学童に行きたくない」と言い出した子がいた。無理に連れて行くわけにはいかないため、休めるかどうかを確認するために保護者に連絡してみたが都合がつかず、渋々学童に向かうことになった。話を聞くと学校で嫌なことがあったらしい。施設に着くまでに気分を切り替えられるように、愚痴を聞いたりくだらない話をしたりして笑いながら到着できた。けれど、いざ室内に入ろうというところでその子は足を止めてしまった。説得しても動こうとはせず、他の子が室内で活動しているのを放っておくわけにはいかないため、別の支援員にその子を見守るようお願いして、僕は一度室内に入り用事を済ませることにした。室内から様子を見ていると、支援員はずっとその子の愚痴を聞いているようだった。埒があかないのでタイミングを見て再度室内に入るように声をかけようかと思っていると、しばらくして何事もなかったかのように部屋に入ってきた。相変わらず不貞腐れてはいるけれど、少しスッキリしているようにも見える。相手をしてくれていた支援員にありがとうございますと声をかけると、「いえ、どうしていいか分からなくて、ただ話を聞いていただけでなにもしていないです」と返ってきた。「なにもしてない」という言葉で、自分が見落としていたものに気づく。僕は玄関先で過ごされるのも困るため、その子を室内に入れることしか考えてなかった。楽しくなるようにと話したことも、その子が学童を嫌がらないようにと思ってやっていた。けれど、それは僕の思いをただ押し付けているだけだったんじゃないかと。なにもせずただ話を聞く。それはすなわちその子の話に耳を傾けるということだ。なにもしていないように見えるけれど、そのなにもしないということがその子に寄り添っているということなんだ。そうやってうまくいったから、子どもに言うことを聞いてほしいときにはまずその子の言葉を聞こう。という話ではなく、知らぬ間に自分ばかりになってしまっているかもしれないから気をつけていたいという話。「こちらの思い通りに動いてもらう」ためにその子の言葉に耳を傾けるのではないもんね。こちらがしてほしいと思っていることは、その子がしんどくならないための数あるうちの一つだ。僕にできるのは、僕が思うその“いい方法”を押し付けることではなく、その子のしんどさに目を向け耳を傾け、そのしんどさを解消できる色んな方法を一緒に見つけていくことだよね。こないだ、掌の中(たなごころのうち)という言葉を知った。文字通り「手のひらの中」のことなんだけど、転じて「手のひらの中にあるように、思いのままになること」の例えとして使われるらしい。そういえば相手を思い通りに動かそうとすることを「手のひらの上で踊らせる」と表現するな、とか、子どもの頃に読んだ西遊記という本でそんなエピソードがあったような気がするな、とか曖昧ながら思い出す。相手を思い通りに動かしたいという欲求は人類の普遍的なテーマなのかもしれないな、と大層なことを考えながら、「けれど」と思う自分もいる。そんな傲慢な思いばかりではないよなあ、と。純粋に、本当に心の底から相手のことが大切だからこそ、という思いは間違いなくあるはずなんだ。その思いを表現する方法を間違うことがあっても。本心として「その子のために」と思ったことが自分の傲慢なのかもしれないことを知ると、自分のその子を思う気持ちさえも否定されたように感じてしまう。全部が間違っている気がして前に進めなくなってしまう。そんなことを思いながらその言葉について調べていると「思いのままになることのたとえ」だけでなく「大切に育て、取り扱うことのたとえ」としても使われることがあるらしいことを知る。同じ言葉なのに反対にも捉えられる意味を持っていて、その言葉が僕と同じように葛藤しているように見えた。大切だからこそ掌の中で育ってほしい、そんな葛藤を子どもとの関わりの中では多く感じる。「その子のために」と思えば思うほど、自分があれもこれも世話をしてあげたくなるけれど、「その子のために」と思うこと自体は悪い事ではないんじゃないか。もし「思い通りにさせたい」という“傲慢な僕”が顔を出したら、そんな僕を否定したり無理に失くしたりしようとせずに「それだけ大切に思っているんだ」って思うことにしよう。そして「大切にする方法を間違えないようにね」って自分に言い聞かせながら、“傲慢な僕”を横に置いておいてあげるのだ。別の方法を見つけてみるから、君はそばにいてもいいけれど大人しくしておいてね、って優しく諭しながら。余談ですが「お腹が痛い」と訴えてきたので「大丈夫?」と声をかけると「大丈夫じゃないけど大丈夫」と返ってきた。心配するほどではないけれど痛いものは痛いということだろう。痛みが落ち着いたと思ったらまた痛みが押し返してくるようで、その度に「いたた」とこぼしている。何度も「大丈夫?」と聞くのもしつこいような気がして、なんて声をかけようかと悩んだ挙句、棒読みで「かわいそう」という言葉が出た。他人事な感じがすごい。全然心配しているように聞こえない。なんかごめん、と思っていたら案の定「ひとごとか!」と笑いながら突っ込まれた。「ほんまに心配してんねんで」と弁解しながら、その人の痛みはその人のもので、どうしたって他人事だよな、とも思ったりする。同じように、自分のことはどこまでいっても自分ごとだ、と“傲慢な僕”を思い浮かべる。そんな中でわずかにある、相手のことを思ったり心配したりする気持ちはどっちなんだろう。と考える。どちらか一方だけとは限らないか。自分ごとと他人事が重なる部分があって、その部分を自分ごとにし過ぎたら相手の領域にまで踏み込んでしまうけれど、自分ごとでなくなったなら心配することもなくなってしまうもの。突き放すでも寄せすぎるでも混ぜるでもなく、その重なったところを重ねたまま大切にする。それが寄り添うってことなのかもしれないな。それからは、僕が例えば「二日酔いか気圧のせいか、朝から頭が痛くて」と嘆いたりするたびに、棒読みで「かわいそう」と返ってくるようになった。気持ちのこもった心配ではないけれど、二人にだけ分かる符号のようなものだから、労ってくれていることが伝わってくる…なんてことはない。全然心配してもらっているようには感じない。もっと心配してくれよ!と少し寂しくなる。けれど、それでいいのだと思ったりもする。その少し素っ気なく感じるお決まりのやりとりが、お互いに踏み入れない部分があることを尊重するためのやりとりな気がして心地よかったりするのだ。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2022年03月10日2021年の7月から9月にかけて放送されたTVアニメ『かげきしょうじょ!!』のスペシャルイベントが12月12日、東京・一ツ橋ホールにて開催された。『かげきしょうじょ!!』は大正時代に創設された「紅華歌劇団」に入団する人材を育成する「紅華歌劇音楽学校」を舞台に切磋琢磨する少女たちの姿を描いた作品だ。この日のイベントには、主人公・渡辺さらさ役の千本木彩花、奈良田愛役の花守ゆみりをはじめ、杉本紗和役の上坂すみれ、星野薫役の大地葉、山田彩子役の佐々木李子、沢田千夏役の松田利冴、沢田千秋役の松田颯水、里美星役の七海ひろきと、メインキャスト陣が勢揃い。それぞれ役を彷彿とさせるヘアスタイル、かつ役柄でも双子役ながら本人たちも双子という松田姉妹はお揃いのワンピースで登場!実はアフレコは分散収録だったため、これまで全員が一緒に顔を合わせることは一度もなかったようで、この日の対面にキャスト陣がまず感無量の様子。イベントはまず、キャストが選ぶ名場面紹介からスタート。昼の部では千本木、上坂、佐々木、利冴の4人が思い入れのあるシーンをそれぞれ選んだが、佐々木が選んだ山田彩子が退学を決意するものの教師・小野寺に説得されるという名場面で、登壇者の多くがまさかの大号泣。司会の天津・向の計らいで涙を拭う「タオルタイム」がもうけられるというハプニングが発生。宝塚音楽学校出身の七海ひろきがひときわ涙を流していた姿も印象的だった。クリスマスにちなんだシチュエーションに合わせて“幸甚指数が上がるような”男役のセリフを披露するという「クリスマス男役オーディション」では、上坂が「モスクワから緊急帰国した謎の職業の彼」という設定を繰り出しロシア語を披露、会場を沸かせる。制限された表現でアニメの場面を再現する「五感で感じ取れ!全力表現カリキュラム!」ではキャスト陣が普段見ることのできないマイムや限られた言葉での表現に奮闘するものの、千本木や花守ら出演者が見事なスピードで場面を当てていき、作品への思い入れの深さを感じさせる結果に。最後のコーナーは通常と違うキャストでのシャッフル生アフレコ。しかしさらさと里美の運動会シーンで七海はそのまま、さらさは一時期は宝塚の男役を目指していたという佐々木で演じられ、佐々木の七海への思いが爆発(!?)する様に客席が大盛りあがりする場面も。イベントの最後、挨拶で千本木が「『かげきしょうじょ!!』という作品を知れたことも人生の中で大きなポイントだったし、たくさんのことを教えてもらった座組であり作品」と語った『かげきしょうじょ!!』。その言葉に現れているように登場人物全員の“作品愛”が伝わってくる、終始笑顔に溢れたクリスマスイベントとなった。アーカイブ視聴が可能なオンライン配信チケットは、12月18日(土)21:00までぴあにて発売中。取材・文:川口有紀
2021年12月15日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。親なら一度は直面する「静かにしないといけない場所で子供が騒いでしまう」という悩み。子供と触れ合ううちに、きしもとさんはあることを感じたといいます。第17回『今できなくても、ずっとでも。』「子どもに注意するときに笑いながら怒るやつ、よくしてたでしょう?僕もあれ最近やるんです」と、同僚から言われた。「真面目な顔して言うんじゃなくて、あえてミステリアスに笑いながら注意するんです」と、丁寧に説明してくれるけれど、意味がわからない。まったくピンときていない僕をよそに、「宿題してる子の横で騒いでいる子に厳しく注意しても、またしばらくしたら騒いじゃうでしょう。で、こっちも疲れるじゃないですか。ていうか、そもそもなんでやかましくしたらあかんねんって話なんですよ」と、誰に向けているのかわからない愚痴を漏らしている。「子どもにとっては、あんな狭い部屋で静かにするってことの方が無理なんですよ」と、急に話の核心が現れた。なるほど、たしかにそうだな、と納得する。子どもがやかましいこと自体は別段悪いことではない。良く言えば快活で元気な子とも言える。その部屋が狭いから元気なことが困るだけで、べつにその子に「静かな人」に育ってほしいわけではないのだ。ただ今、その場所でそうしてほしいだけなのに、「それができない子は悪い」として怒ってしまうことって、色んな場面で起きている。もちろんルールを守れるっていうのは大事だけれど、ルールってのはお互いに気持ちよく過ごすためにあるものやもんね。静かにしなきゃいけない環境がその子にとってはしんどいことだってある。静かにできない子が悪いのではなく、「静かにしなきゃいけない環境」と「元気なその子」とが噛み合っていないのだと見ると少し見え方は変わってくる。いい気づきだなと思っていると、「だから最近は、“今だけ静かにしてほしいねん”って伝えるようにしているんです」と言うので「笑いながら怒った顔で?」と尋ねると、「そんな変なことしませんよ」と返ってきた。いや、自分が言うたんやん。通勤途中の電車で、赤ちゃんが泣いていた。抱かれて座っているうちはご機嫌だったけれど、ベビーカーに乗せようとすると泣いてしまうようだった。荷物が多いのでどうしてもベビーカーに乗ってもらわないと次の駅で降りられないらしい。泣き声が車内に響くこともあり居た堪れないようで、嘆くように「お願いだから」とこぼしながら困ったようになだめていた。もしそんな時があったら、と想定していたその時が来たと思い、勇気を出して「ベビーカー押すので抱っこしててあげてください」と声をかけた。警戒して当然なのに「お願いします」と言ってもらえたので、緊張しながらもホームに降ろした。エレベーターの近くに辿り着く前に「ここで大丈夫です」と言われて、たどたどしくベビーカーを手渡すとすぐに去っていった。出過ぎたマネだったかな、怖がらせたなら逆に申し訳なかったな、とその日は一日反省会だった。助けになりたかったけどうまくできなかった。ずいぶん前に発達支援の仕事をしていたころ、障害がある子に付き添って電車やバスに乗って出かけることがあった。小学生から中高生までそれぞれが行きたい場所へ、例えば科学館や映画館やファストフード店など、その子の“お出かけ”に付き添う。その子の特性によって、電車やバスの中で独り言を呟いていたり、急に大きな声を出してしまったりすることがあった。その度に僕は周りの目を気にして言い訳するように「静かにしようね」と声をかけた。本当はその子のことを怒る必要なんてないのに、周りの目を気にして怒らなきゃいけないように感じて半ばアピールのように怒ってしまっていた。その子は悪くないのに、静かにしなきゃいけない場所とその子とがただ噛み合わないだけなのに、もし大きな声を出してしまうにしても、出さないように工夫するにしても、その子がしんどくないようにできたかもしれないのに。電車に乗って、赤ちゃんが泣き止まなくて周りに謝っていたり、飲食店で癇癪(かんしゃく)を起こして叫んでいる子に静かにするよう怒っていたりする場面を見るたびに、その時の後悔を思い出す。本当は怒らなくていいのに怒ってしまうことって、お互いにとてもしんどいんだよね。誰も悪くないもん。迷惑かもしれないけれど、変なやつだと思われたかもしれないけれど。「大丈夫ですよ、気にしないで大丈夫だから」と伝えたかったんだよな。下手だったけど。幼児や小学生と電車に乗るとき、「静かにしていようね、大事なことだからね」と教育や躾の上で大切なことのように話していた。静かにじっとできてえらいね、と褒めてあげることもあった。けれど、よく考えたら電車のなかでは静かにすることを、その子の力による必要ってあるんだろうか。じっとしていられることって、大事なんだろうか。そもそも「静かにする力」ってなんなんだと聞かれたら答えられない。もちろん、静かにしなきゃいけない場面もあるけれど、それならどんな方法であっても「その場で静かにする」ができればいい。じっと座っていなきゃいけないのなら、どんな方法であっても「その場でじっと座っている」ができればいいんじゃないか。その時、その環境でそれをする必要があるだけなら、その子がしんどくないようにスマホで動画を見たりお菓子を食べたりして気を紛らわせたっていいんじゃないか。その環境で、自分がしんどくない方法で適応できるならそれでいいはずなのに、なにか、物に頼らずにその子の力でそれを克服することが大切なことのように思っている節があった。「その子がそれをできるようになること」ばかりを大事にしなくていいのかもしれないな。たとえば子どもがガラス窓に向けておもちゃを投げたとして、当然投げちゃいけないよと伝えるけれど、今その子が「窓に向かって物を投げない」を身に付けないといけないか、身に付けられるか、といったら、その子の発達によっても性格によっても変わってくるんだよね。ダメなことをまだ理解できなかったり、理解できても衝動を抑えられなかったりするのなら、その子に繰り返し注意して怒って怒られてを繰り返すのはとてもしんどい。それなら、「その子の力で我慢できること」にこだわらずに、投げても大丈夫な環境に変えたり、投げてもいいものを与えたりすれば、怒ることも怒られることも減ってお互いのしんどさが軽くなる。「しないでって言ったことを何回言ってもする」と悩んだ時には、今その子が身に付けなくてもいいことを、身に付けることが難しいことを、その子に求めているのかもしれないと思ってみれたら。僕たち大人は、子どもに「やらないでほしいこと」もたくさんある。「きちんとさせなきゃ」と思っている。あいさつができるようになってほしいし、ありがとうが言えるようになってほしい。廊下は走らないでほしいし、道路には飛び出さないでほしい。ガラス窓に物を投げないでほしいし、公共の場では静かにしてほしい。けれど、それは「いまできなきゃいけないこと」なんだろうか。「ちゃんとさせなきゃ」と思っていたことが、もしかしたら「いまだけ」できたらいいことかもしれないし、「いつか」できるようになってほしいことかもしれない。「やらないで」と言ったことをやって、その度に注意して、また同じことを繰り返してまた怒って、そうやってお互いにしんどくなっていくのなら、できなきゃいけないと思っていることの中から、できなくてもいいことを見つけてみたい。「できなくていいこと」は「怒らないでいいこと」だ。それを少しずつ増やしていけたら、しんどさは少しずつ減っていくんじゃないか。それは「怒っちゃいけない」と自分を責めるためのものではなく、「怒らなくて大丈夫だよ」と余裕を持つために。あわよくば、笑って見過ごせるように。高学年にもなると、「おかえり」と声をかけても無視をされることがある。お年頃、と言ったらその子に失礼だろうけれど、いわゆるそういう時期だ。無視されるのはなかなか辛いんだけれど、かといって無理にあいさつをするように怒ることはしないようにしている。子どもが言うことを聞いてくれなかったり、約束を守ってくれなかったりすると、残念な気持ちになる。それは、裏切られた悲しさというよりは、思ったように育っていないように見えて抱く不安のようなものだ。なんで言うことを聞いてくれないんだろう、なんで思ったように育ってくれないんだろう、と自分や子どもを責めてしまう。けれど、言うことを聞かなかったり思ったように育ってくれなかったりするのって、よく考えたら、その子がその子として育っているということだ。期待を裏切られたら裏切られた分だけ、その子はその子として生きていて僕の想像の外側で育っている。あいさつしないのも、ごめんねを言わないのも、ピーマンを食べないのも、その子がその子として生きている証だ。そんなふうに思えたら、返事が返ってこなくてこっそり傷つきながらも、その子の小さな意志を感じて少しだけ嬉しい気持ちになれるんだ。余談ですが電車に乗ったらおじいさんからジャズが流れていた。もちろんおじいさんから音楽が鳴るわけがないので、繋いだはずのイヤホンが外れているのだろう。おじいさんは気づいていないようだ。車内は空いているとはいえ、少し離れて座る僕にも聞こえる大音量で漏れているので誰かが指摘するかと思ったけれど、みんな気づいていないのだろうか声をかける人はいなかった。気づいたぼくが声をかけるのが親切かとも思ったけれど、そうはしなかった。そのジュークボックスおじいさんに気を遣ったというよりは店内BGMのように流れている音楽が心地よかったからだ。お裾分けしてもらう気分でそのままにした。これが、YouTube動画の音が若者のイヤホンから漏れていたらまた心境は違うのかもなと考えて、自分の身勝手さに苦笑いする。目的の駅に着く少し前でジャズの演奏は聞こえなくなった。おじいさんが自分でイヤホンのコードが繋がっていないことに気付いたようだった。最後まで聞けなかった残念さと、おじいさんが音漏れに気づいた安堵を感じながら電車を降りた。子どもたちと生活をともにしていると、子どもたちが自分の人生の一部に感じることがある。けれど、その子はその子の、僕は僕の人生を生きていて、たまたま重なり合った時間を過ごしているだけなんだよね。その子が聴く曲を僕が選べはしないけれど、漏れた音をお裾分けしてもらうような、たまにイヤホンを片方貸してもらうような、そんな関係であれたらいいなと思う。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年12月03日カウンタースタイルの劇場型レストランが一躍注目を浴び、ジャンルを超えてもてはやされている昨今、また一つ、ラグジュアリーなカウンターチャイニーズが誕生した。この10月4日にオープンしたばかりの【西麻布 香宮】がそれ。あの【シノワ】の篠原裕幸シェフを輩出しした名店といえば、あゝと思い当たるフーディも多いことだろう。以前の星旗通りから、外苑西通りの笄公園そばに移転。それを機に、店内もオープンキッチンのカウンタースタイルとなり、メニューもコースのみと一新。ベテランシェフを新たに招き、全く違う店に生まれ変わった。アフリカンチークの一枚板も見事なカウンターは、席と席の間隔もゆったりとした贅沢な設え。厨房との間に空間があり、ここで有島料理長が出来立ての料理をすぐさまサーブする。扉を開け、エントランスを抜けると、まず目に入るのは、堂々たるオープンキッチンのカウンター席。長さ7mに及ぶ一枚板の、アフリカンチークでできたカウンターが存在感を放つ店内は、いわば空間全体がシェフズテーブル。8席全てから、活気みなぎる厨房を目の当たりにすることができ、臨場感もたっぷりだ。軽快に鍋を振る音、ゴォーと燃え上がる炎と共に立ち込める芳ばしい香り等々、シズル感あふれるシチュエーションもご馳走の一つだろう。そして、厨房を任されたのは経験豊富な有島一郎料理長。京王プラザホテル【南園】を皮切りに、ホテル畑で修業を積み、ザ・ペニンシュラホテル東京【ヘイフンテラス】の副料理長を経て、マンダリン オリエンタル東京【センス】では料理長に就任。ミシュラン一つ星を獲得した実力派だ。「【香宮】は、私の料理人人生40年の集大成ともいうべき店でもあり、(自分が)今まで経験したことのないオープンキッチンスタイルにしてみたんですが、これが楽しい。お客様の反応がダイレクトに伝わってきますから。現在は、お客様の目の前で鍋を振り、出きたての料理を私自身が直接お渡ししています。」と笑顔を見せるのは、有島シェフ。有島浩昭料理長。59歳。ザ・ペニンシュラホテル東京やマンダリン オリエンタル東京など、名だたるホテルのチャイニーズで活躍してきた手練れ。パリで腕を振るった経験もある。そのベテランシェフの脇を、しっかり固める若手スタッフの面々も頼もしい。フレンチで言えばスーシェフに当たる二番鍋は【楽記】出身の榎本和裕さん。一方、前菜と焼き物担当はペニンシュラ時代から有島シェフに師事してきた石井聡さんの両名。加えて、デザートは、銀座の老舗パティスリー【ピエスモンテ】出身のパティシェ露木 昭さんが意匠を凝らすという充実ぷりだ。スタッフの見事なチームワークから生まれる料理は、1コース10皿で構成。“一帆風順”(物事が順調にいく)、“ニ龍騰飛”(龍のように飛躍する)など、中国のお正月に良く用いられる賀詞を引用したメニューのネーミングもユニーク。縁起を担ぎたいお祝いの席や絶対に成功させたい接待の席にはピッタリだろう。『黒鮑・葱 山椒ソース・キャビア』千葉房総産の黒鮑を蒸してぶつ切り。口にした時のむっちりとしたおいしさは、厚みのあるカットなればこそ。たっぷりトッピングしたキャビアも気分を盛り上げる。さて、コースに並ぶは、揚げパイなどの点心から焼味、清蒸魚といった伝統的な広東料理の数々。だが、軸足は広東をべースにしながらも、トリュフやキャビアを所々にあしらい、和洋のエッセンスをプラス。黒鮑や松茸など旬の素材を巧みに取りいれ、季節感を大切にしている。それゆえ、料理内容は、時々で少しづつ変わるそうだが、年間を通して登場するのは『稀少青ザメ・プレミアム琥珀ソース』と名付けられた一皿。肉厚な青鮫のフカヒレを、【香宮】特製の上湯で仕上げた、有島シェフの自信作だ。曰く「日本では、姿煮でよく見かける吉切鮫のフカヒレがおなじみですが、香港では青鮫の方が高級品。中でも、うちでは数少ない400g前後のものを使っています。」とのこと。だが、フカヒレだけでは片落ちだろう。それに伴うスープー広東でいう極上スープの上湯の出来不出来が、味を大きく左右するからだ。【香宮】では、豚赤身肉に老鶏に加え、金華ハムを通常よりもたっぷりめに用い、8時間じっくり蒸すことで濃厚かつクリアな旨味を抽出している。ご覧の青ザメのフカヒレで約400g。これをニ湯と紹興酒を合わせたスープに入れて一度蒸し、下味をつける。この一手間が、肉厚のフカヒレの芯にまで味が染み渡るのだ。『稀少青ザメ・プレミアム琥珀ソース』は、コースの半ばに登場。琥珀色の上湯は、調味料は隠し味に加えるごく少量のグラニューのみ。金華ハムの塩分と肉の旨味のみから生まれる深みが素晴らしい。一本一本の繊維が太く、黄金色に輝くフカヒレはまさに“金糸”と呼ぶにふさわしい存在感。琥珀色のソースを纏ったそれを口にすれば、ザクリと歯が入る食感も美味。と同時に、その繊維の隙間からじわりと滲み出る旨味のエキスが秀逸。味わうほどに、淡麗でいながら深みある上湯の滋味がじわじわと味蕾を潤していく。思わず無口になり、溜息をつく瞬間だ。『廣東名物・仔鳩のクリスピー丸揚げ』は、焼き物専門の石井シェフの担当。レア気味に仕上げた鳩は、鉄分の旨味豊か。コースは、28000円(税込み・サ別)。一方、廣東名物の仔鳩のクリスピー揚げも【香宮】流にアレンジ。通常は滷水で火を完全に入れるところを、ここでは、煮込まずに沸騰した滷水に入れて火を止め、そのまま余熱で火を通している。フレンチのようにややレア気味に仕上げた仔鳩は、肉本来の風味を感じさせる。他にも、秋トリュフと共にクレープで巻いた北京ダックや和牛サーロインの塩竈焼きetc.次々と繰り出される機知に飛んだ料理の流れも見事。パティシェ特製のデザートまで舌と目を飽きさせない。食後、デザートの後に出される小菓子。手前から『シナモンの香りのフランボワーズのマカロン』、『紫芋のタピオカ蒸し団子』『紹興酒レーズンのバタークリームサンド』。アルコールの方も、もちろん潤沢に揃う。おすすめは、料理に合わせ、シャンパーニュから始まるペアリングを用意。途中、日本酒や紹興酒、古酒を挟みつつ、シチリアのデザートワインまで10種類程度がお目見え。華やかな気分を盛り上げてくれそうだ。坪庭のような植栽を臨む落ち着いたラウンジ。一部目のゲストは、食後のデザートと小菓子はこちらで楽しむ演出も心憎い配慮。「ゆっくりして頂いて、小腹が減ったら炒飯でもなんでもリクエストにお応えしますよ。」とは有島料理長。
2021年12月02日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。生きていると、後悔をするような出来事が起こることも。子供と接する上で、きしもとさんが悔やんだ出来事とは…。第16回『まっくろイヤや、まっしろがいいの。』「明日早起きをして、おいしい朝ご飯を食べに行こう」と言われて「きっと朝寝坊するよ」と、僕は答えた。夜更かしをしているからきっと早起きはできないだろうし、早起きできないままダラダラとしてしまう、いつもそうでしょうと。案の定、次の日は朝寝坊して朝食兼ねた昼食、あえておしゃれに言うならばブランチを食べることになった。食べながら「ほらやっぱり言った通りでしょう」と僕が言う前に「早起きできなかったなあ」と残念そうにしている姿を見て、昨晩のことを少し後悔した。それが叶わないと思っても、その時はただ楽しみだねって返せばよかったな。先回りなんかせずに、今の楽しみとして“明日を一緒に楽しみにすること”はできたんじゃないかなって。そして、一緒に「早起きできなかったなあ」と悔やめばよかった。学童の施設で、お泊まり会をしてみたいと言い出した子がいた。何年か前に企画した子がいたことを知って興味を持ったらしい。子どもの「今やりたい」という気持ちを尊重して、前向きに実現していくのが僕の役目だ。なんでもかんでもできるわけではないけれど、やりたいなって思った気持ちを逃さずに、大事に育ててあげたいと思っている。けれど、その時は別のことで手がいっぱいになっていて「いいね、どうやったらできるか考えてみようか」と促したまま、そのあとなにも言ってこなかったのでそのまま放ったらかしにしていた。数日後、「そういえばあの話」と切り出すと、「もういいねん」と素っ気なく返事をされた。ただ興味が薄らいだというだけでなく、友達関係も思うようにいかない時期でそんな気分じゃなくなったらしい。本当にやる気があるのなら諦めずにやり遂げるし、それができないのは本当にやりたかったわけではない…なんてことはなくて、やりたいと思ったことをやり始めて自分で走り出すためには助走が必要で、その助走をつけるための環境や支援がさらに必要だ。できるかできないかの主導権をその子が持っていないならなおさら、その子のやる気のせいにしてはいけない。その子がやめてしまったのは、単に興味が薄らいだのではなく、僕がうまく拾えなかったからかもしれない。タイミングを逸してしまったことを悔やみながら、けれど無理に引き戻すのも違う気がして、「また思いついたら言ってね」とだけ声をかけた。数ヶ月経って、友人関係も良好になっていき、学童での活動も充実してきた頃にまた、その子から「冬休みを使ってお泊まり会がしたい」と提案があった。一度失くなったチャンスがまた来たことはありがたかった。このタイミングは逃さないぞ、と張り切って企画を進めることにした。その子が友達たちと色々な案を出し合い練っている間に、僕は組織上層部に掛け合って施設利用などについての手回しをする。しかしながら、なかなか組織からはゴーサインが出なかった。過去に何度も開催しているのに、その時は色んな事情が重なり一筋縄ではいかなかった。冬休みには間に合わず、僕はその子に春休みに向けて交渉していくことを伝えた。もちろん嘘をつくわけにはいかないので、できるか分からないけれど相談しているということを伝えて、その子は「それでもいい」と楽しみにしてくれていた。そしてその春、結局お泊まり会は開催されなかった。大規模な感染症流行が原因だとその子には伝えたけれど、それは表向きの理由で、本当は“大人の事情”がクリアできないままパンデミックが起きて、そのまま有耶無耶になったのだった。多くの子どもたちが通う場所だから、すべての子どもたちの思いに応えたりやりたいことを叶えたりすることは難しいし、安全が第一なのでどちらにしてもできなかったと言えばそうだ。そうやってじぶんで自分に言い聞かせるけれど、後悔は消えない。その時にしか咲かないのに、水をやるのを怠って、目を離したすきに姿を消している。そんな風に育たなかった芽が数え切れないほどある。また新たな芽が出てきたのを見て安心してしまいそうになるけれど、気づかれずにそのまま閉じてしまった芽は間違いなくあった。すぐに気づいていたらグングンと育っていたかもしれないものさえも後回しにして枯らしてしまっていたんじゃないかと、いつも過ぎてから後悔する。その全てを拾えるわけないし、悔やんだってしょうがないのは分かっている。けれど、あの時拾えていたら、その子はワクワクできたしその楽しそうな顔を僕は見ることができたのにと思うことが数え切れないくらいある。7歳の友人が、先日「アスレチックに行ってみたい!」と言い出した。YouTubeで見て興味を持ったらしい。楽しそうだね、と話をしてネットで調べたりしたけれど、その日は時間がないからアスレチックはまた今度にして近くの公園で遊ぶことにした。たっぷり遊んで満足げに帰っていったのに、夜になってひとりビールを飲みながら、「アスレチック行きたい!」と言ったその子の姿を思い出して、「ああ、なんでちょっと無理してでも行かなかったんだろう」って後悔している自分がいる。何年か前にはアンパンマンミュージアムに行きたい!と言っていたのを思い出す。何度か行ってはこれで最後かなあ、まだ楽しめるんやなあ、と思っていたらいつの間にか言わなくなった。いつまで行きたい気持ちがあったのかな。最後に行きたいなって思った時に連れていってあげれたかなと考えてしまう。数週間後に会った時に「さあ、アスレチック行こっか!」と決定事項のように言ってくれた姿を見て、「なんで決まってるねん」と笑ってツッコミながらホッとする。まだ失くなっていなかった、間に合ったと安心する。おもちゃコーナーで大好きなアンパンマンのおもちゃをねだられたときに「また今度ね」って言って、次に行った時には「もういらない」って言われてしまう。「これ好きって言ってたよね」と、変身して戦うプリティな癒しキャラの人形を手に取ると、「もうお姉ちゃんやから好きちゃうし!」と怒られる。そんな時に、ああ過ぎてしまったのか、と大事なものを取り逃してしまった気持ちになる。その子にはその時しかないのに、「また今度ね」って言うたびに色んなものを取りこぼしてそのまま気づかずに過ぎていくのかもしれない。なんでもかんでも拾えるわけないし、その興味の移り変わりがすべて僕のせいなんて、おこがましいことを言うつもりもない。成長の中で変わっていくことも逃したことで偶然生まれる新たな関心もあるだろう。ただ何度も同じような後悔をしてしまうのは、半分はそのワクワクを拾えなかったことを申し訳なく思う気持ちと、もう半分は僕が寂しいからなんだろう。その時にしかない、その子の姿を、もしかしたら見られたかもしれないその子の姿を、もう二度と見られないんだろうなと思うと、後悔のような残念なような寂しいような切ないような、うまく言い表せられないけれど、そんな気持ちになる。ついこないだも、後悔するのを分かっているはずなのに、キックボードが欲しいと言い出したその子に「危ないからな、気をつけなあかんからな」と買う前から言ってしまった。次会った時に一緒に買いに行こう。一緒に練習して、一緒に楽しみながら、一緒に危ないから気をつけることを確認しよう。そうやって大事なものを逃さないように心の準備をしておくことにする。余談ですが何年か前、当時3歳のその友人が泊まりに来た時のことを思い出す。朝から一日中遊んでいたのに、日が落ち始めて窓の外が暗くなってくると「まっくろイヤやの!まっしろがいいの!」と、泣きながら天に向かって怒っていた。この楽しい時間が終わってほしくない!もっと遊びたい!と、つたない言葉で表す姿が、「いまを生きているんだ」と全身で語っているようで、とても愛おしかった。遊びたくて遊びたくて仕方がないのだろう、夜中になっても全然寝ずに、電気を消しても布団の中で延々としゃべり続けていた。「はよ寝えな」と半ばうんざりしながら、終わって欲しくないほど楽しい時間だと思ってくれていることを嬉しく感じた。大きくなったいまはもう、“まっくろ”になっても、寝て起きればまた“まっしろ”が来ることを知っているんだろう。夜になることを「まっくろ」なんて表現しないんだろうなって寂しくなりながら、「まっしろがいいの!」と泣いていたその姿を何度も思い出す。ずっとずっと「まっしろがいいの!」と、言えるような人生でありますように。「楽しい今日が終わってほしくない!」って、そんな毎日を送っていてほしいな。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年10月21日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第15回は、『素直な子供』について。また、誰もが持っている劣等感について、きしもとさんが持論を展開します。第15回『気休めだけど、持ってってや。』レジャーシートを広げてごっこ遊びをしているところに、フリスビーが飛んできた。遊んでいた女の子たちは突然飛んできたフリスビーに驚きはしたものの、特に迷惑そうにすることはなく、不安定に転がるフリスビーの行く先を見つめていた。レジャーシートから少し離れた、手を伸ばしても絶妙に届かない辺りでフリスビーが止まる。拾ってあげようかそのままにしていようか迷っている。一人の子が立ち上がりフリスビーの方へ歩いて行ったが、案の定というか、拾おうとした女の子と取りに来た見知らぬ男の子とほぼ同時にフリスビーの元に辿り着いた。お互いに気まずそうにしながらも「せっかくだから」という雰囲気で、女の子が拾って渡してあげた。男の子が「ありがとう!」と思いのほか大きな声でお礼を言ったので、素直な子だなと感心する。女の子は返事をせずに戻っていった。素っ気ないなと思う。普段はおちゃらけて僕たちを笑わせてくれるような、天真爛漫を絵に描いたような子なので不思議に思う。それでも、知らない子に親切にしてあげているのを見て嬉しかったので、僕はその子の側に行き「ありがとうって言ってもらえたなあ」と声をかけた。褒められるためにやったわけではないだろうから、偉いとかすごいとかではなく、喜んでもらえて嬉しかったねという気持ちをただ共有するつもりで、話しかけた。少し照れながら、まんざらでもない顔をする。返事をしなかったのは照れ臭かっただけなのだと思い「答えてあげたらよかったのに~」と、助言をするいうよりはどちらかというと調子付かせる感じで言った。するとその子は笑いながら「わたしの声へんやから」と答えた。思いもしない言葉だったので「ん?なんで?変じゃないで?」と間の抜けた返答をしてしまう。「こないだ友達に、笑い声が変やって言われたから声聞かれたくないねん」言う。そんな一言で声を出すことを躊躇するようになるなんて悲しすぎる。けれど、その場で「誰やそんなこと言ったん!許せへん!」と息まくことができないのは、僕自身もその一端を担っていたかもしれないと思ってしまったからだ。いつも変な顔をしながらみんなを笑わせていたその子が、笑われることに本当は傷ついていたのかもしれない。なにも知らずになにも考えずに笑っていた僕は、大きな間違いを犯していたんじゃないか。「まったく変なんかじゃないし、君の楽しく話す声も元気に笑う声も好きやで」と伝えたけれど、その言葉は不安を打ち消す魔法の言葉ではなく、ただの気休めにしかなっていないような気がした。気の弱い、控えめな女の子がいた。その子には仲のいい友達が2人いて、その日も、その2人に付いて遊んでいた。自分の意見をあまり言わずに2人の言いなりになっているように見えて、その子がひとりになったときに「嫌なら嫌って正直に言っていいんだよ」と、声をかけた。「僕はあなたの気持ちに気づいているからね」という風に、救いの言葉として伝えた。するとその子はしばらく黙ってから涙を流した。残念ながらその涙は、理解者が現れた感動からではない。「怒られた」と思って泣いていた。「嫌って言っていいんだよ」という言葉が、嫌だと言えない自分が悪いのだと思わせてしまっていた。そんなつもりじゃないんだよ、と言っても遅い。自分の思いに正直になっていいよっていう言葉で僕は、嫌と言えないその子自身を否定しまっていたのだ。その子は、仲良しの2人に付いて遊ぶことを嫌とは思わず、もしくは自分で嫌だという気持ちに気づいていない中で、外側から「嫌って言えない自分はダメなのだ」と、元々は持っていなかった不安を持たされたことになる。素直な子と聞いてどんな子を思い浮かべるだろう。気持ちよく「ありがとう!」と言えたり、悪いことをして「ごめんなさい」と言える子を見て素直だなと感じる。なにかお願いをして「うん!」とか気持ちよく返事してくれると素直ないい子だなあと思う。けれどそれは、子どもに素直になることを求めているんじゃなくて、聞き分けが良くて可愛げがあることを求めているのかもしれない。僕が求めている姿や正しいような姿だから素直だと感じているのかもしれない。以前、ある保育士さんが「子どもに注意した時、すぐにケロっとしていると馬鹿にされている気になったり、もっとしょんぼりしろよ…と思ってしまう自分がいる」と言っていたのを思い出す。言い返してきたり、嫌がったりしても、それがその子の率直な思いなら「素直」ということのはずなのに、「素直じゃない」と思ってしまう。そんな風に思ってしまう自分に気づいて、自分はダメだなあって落ち込む。じゃあ、「嫌だ」とはっきり言えることが素直なんだろうか、と考えてみる。いや、自分の気持ちを表せられたらいいけれど、表さないのもその子の表現であるなら否定しちゃいけない。自分の気持ちを真っ直ぐ表すことが素直であることならば、恥ずかしくて黙ってしまうことも、嫌って言えないのも、その子のそのままの気持ちでそのままの姿だ。その子の「素直な姿」を僕が勝手に、「自分の思いが言える子に」と理由をつけてひねくれさせているだけだ。もちろんうまく自分を表せられなくてしんどい思いをしている場合もあるだろうから、ほっとけばいいわけじゃない。素直であることを大切にしたいなら、その子の素直な気持ちを「自分の気持ちを素直に表そうよ」なんて矛盾した言葉で否定してしまわないようにしたいということ。その保育士さんは「自分が言っていた素直な子って、自分が保育しやすい子どもなんじゃないか、そこからズレた素直さが受け入れられないんだろうな」と葛藤を見せながら言った。そして「その子の素直さって「価値」ではなくて、ただ守られるべきもののはずなのに」と続けた。本当だな。素直であるかどうかを測っている時点で、その子の本当の気持ちなんて見ることができていないのかもしれない。それでも、僕は子どもに本当の意味で素直な気持ちでいてほしいから、間違えて傷つけてしまわないように向き合っていたいんだ。そのためにできることはなんだろうって考えたら、その子がどう感じているんだろうって思いを巡らせることしかないのかもしれないけれど。小学生のときに「笑い方気持ち悪いな」と言われたことがある。たったその一言だけで、それから20年以上経った今でも、自分が笑っている顔を写真で見たり、ビデオ通話をしていて視線の端に入ったりするのも嫌だ。きっと言った子は覚えてないだろうから、同じようなことを僕も誰かに言っていて、同じように僕も覚えていないんだろう。あからさまに意地悪で言っていることもあれば、全く悪気がなく言っていることもある。自分にそんなつもりがないのに相手を傷つけてしまうことも、相手にそんなつもりがないって分かっているのに自分が傷ついてしまうこともある。自分の笑顔をまじまじと観察して嫌いになったわけじゃないのに、なんとも思っていないそいつに言われたその一言で、なんで自分で自分を嫌いにならなきゃいけないんだろう。「お前に言われたないわ」と一言返せばよかったのに、と思いながら、一言返したとしてもきっと傷ついていただろうし、ずっと心に残っている。それは、人格を揺るがすような大袈裟なものだけでなく、例えば好きなお菓子なんかを「そんな味が好きなの?」と馬鹿にされたりしても、「大きなお世話じゃ」とは言えず、言えたとしても心のどこかでは「自分は変なんだろうか、劣っているんだろうか」って思ってしまうだろう。いま抱いている不安や劣等感はどこからやってきたんだろうって改めて考えてみると、もしかしたら自分で見つけたものではなく、僕じゃない誰かが作ったものを持たされているだけかもしれない。僕は頭髪が薄くおデコが後退している。いわゆるハゲだ。ただ僕がハゲていることを喜べないのは髪型でオシャレができないからではない。なぜか劣っているように感じるからだ。ただ、冷静になってみたら髪の毛が少ないだけでなんで劣ってるってことになるんだ。ならないだろう。悪口で「ハゲ!」とか言われるけど、誰が言い出したんだ。あれ悪口じゃなくてただの事実やからな。事実を言うだけやったらこっちだって言ったるわ!イケメン!ハンサム!いかん、取り乱してしまった。劣等感を刺激して、さも正しい姿があるように見せて、そうでなければ劣っている、と感じさせる物を社会の中では多く目にする。戦略的な商業広告から、普段の生活の会話まで、なにかしら「こうあるべきなんじゃない?」という感情を持たされている。小学生のまだ低学年の子でも「太ってるからおやつ食べない」とか「足の毛が濃いから見せたくない」と言う子がいる。周りと自分との違いに気づいて自分の身なりなどが気になっていくことは発達の過程で見られる育ちのひとつだ。だけどこの場合は違うだろう。その子が自分とほかの子を見て気づいた違いではなく、自分ではない誰かから持たされた劣等感だ。そしてそれはとても悲しくてしんどいことだ。「素直になろう」とか「元気でいよう」という言葉も、もしかしたらそうなっているのかもしれない。子育てでしんどいことや不安に思うことも、自分で考えて生まれた不安ではなく、周りから持たされた劣等感ということも多くあるんじゃないか。「子どもがかわいそう」「親として」「愛情が」そんな言葉なんか「大きなお世話じゃ!」と一蹴すればいいのかもしれないけれど、そう思おうとしても心の奥底では「自分はできていない」と思ってしまう。子どもたちと楽しく過ごしたいと思っていても、行儀良くさせなきゃ、好き嫌いさせない、手抜きしちゃいけない、そんなことを考えてしまうと、なぜだか楽しく過ごしているだけではダメな気がしてしまう。逆に「心の余裕があることが大切です」「楽しんだほうがいいです」なんて言葉を聞いても、楽しめていない自分がよくない気がするし、さらに余裕がなくなっていく。そのしんどさは、もしかしたら誰かに持たされているのもかもしれない。その子の姿を見て不安になっていると思っていても、どこかで聞いた正しい姿ではないから不安なのかもしれない。自分とその子の関係が苦しいように見えて、誰かが言っていた形にならないから苦しいのかもしれない。その子と自分との関係は、ふたりにしか分からないのに。色んなしんどさがあるけれど、その子と自分との関りだけで両手はいっぱいなんだから、誰かに持たされた不安はその辺に置いとけたらいいな。いや、この言葉もまた僕が誰かに不安を持たせているかもしれないから、置いておけなくてもいいなとも思えたらいいなって書き足しておこう。余談ですが「笑い声が変だと言われたから」と言っていたその子が、その後声を出さなくなったり話さなくなったりすることは、少なくとも一緒に過ごした一年程の間には、なかった。相変わらずおちゃらけている姿を見てそんな大げさに考える事ではなかった、と思いたいけれど、それはできない。もしかしたら、あれからずっと気にしているかもしれないし、忘れていたとしても何かのきっかけで思い出すかもしれない。みんな何かしら誰かから持たされた不安を抱えているのだと思う。「そんなことないよ」って言われても、きっと残念ながら、その呪いみたいなものはずっと無くならない。けれど、そのたびに「そんなことないよ」って言ってもらえたことも思い出して、どうにかやっていけるのかもしれない。「大丈夫やで」「そんなことないで」そんな言葉は気休めのように聞こえるかもしれないけれど、僕もその気休めの言葉に救われていたりする。誰かに言われたしんどい言葉を捨てられないなら、ついでに別の誰かが言った気休めもカバンにぶち込んでおくのはどうだろう。なんとなく取り出してしまったしんどい言葉に絡まって「そんなことないで〜」と出てきてくれ。僕がかけた言葉も「でも、あいつはそんなことないでって言ってくれてたよな」って、しんどい言葉に釣られて思い出してくれたらいいな。「なんて言ってたか覚えてないけど、そんなことないでって言ってくれてたような気がするな」って。「どこの誰やったか覚えてないけど」って。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年08月14日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。第14回は、つい他人と比べてしまうことについて、きしもとさんが持論を展開します。第14回『みんな頑張ってて、みんな怠けてる。』梅雨なのに何日か気持ちのいい晴れた日が続くことを梅雨の中休みというらしい。カラッといい天気だったので、7歳の友人を誘って少し遠い普段行かない公園に行くことにした。宿題を持ってきたので公園へ行く前に済ませることに。二桁の足し算をする横で応援しながら、学校楽しい?なんの授業が好き?と、邪魔もしていた。邪魔されているのに律儀に「国語と道徳が嫌いかなー」と答えてくれたので理由を聞いてみると、道徳の授業で聞いたらしい物語を話してくれた。サルくんがロボットを作って学校に持ってきました。みんなが「すごーい」と言ってサルくんの周りに集まってるのを見て、クマくんは「僕も作ったことがあるよ」と言いました。そしたら、みんなから「持ってきて見せてよ」と言われました。クマくんは急にお腹が痛いと言ってどっかに行ってしまいました。クマくんの気持ちはどんなだったでしょうか?伝聞調ではあるけれど、しっかり話を聞いて理解しているのが分かる。伝わるように話をしてくれたのを聞いて、むしろ国語得意なんじゃないかと思ったが、得意だからといって好きだとは限らないか、と思い直す。ほんでほんで?って続きを聞くと、「どう思うか聞かれてんけど、うまく答えれへんかってん」と、その時のことを思い出すのかしょんぼりしている。「どう思ったの?」と尋ねると「ズルイと思ったって思ってん」と小さな声で自信なさげに応えてくれた。的外れな答えとは思わない。「みんなにすごいなーって言われてるサルくんをクマくんはズルいって思ったんか」と、言葉を補足しながらその「ズルい」の意味を汲み取ろうとしてみる。自身が友達をみて「ズルい」と思うことがあるのかもしれないな、と学校生活を想像する。その「ズルい」が、羨ましいなのか妬ましいなのかは分からないけれど、自分にとって知っている感情で、それがその言葉なのだろう。「あの子だけズルいなーって思うことあるもんなあ。クマくんもサルくんみたいにみんなからすごいって思ってもらいたかったんかもしれへんなあ」と、何かの答えに誘導するわけではなく、例えば映画を観ながらヒロインの心情を考察するくらいの気軽さで、話してみた。「うんうん、そやろそやろ」と頷いてくれる。「けど、みんなの答えは違っててな」と、また急にトーンが下がる。「自分だけ間違えてると思って泣きそうになってん」と。発表してみんなから非難を浴びたんだろうか。発表する前にみんなの答えを聞いて自分は間違っていると思って自信をなくしたんだろうか。「それは辛いなあ、けど間違ってないと思うで」と伝えると、「あ、泣きそうになったってのは言い過ぎやったわ!」と急にケロっとするので、思わず吹き出してしまった。泣きそうになってないんかい!とツッコミながら、けれど、と思う。具体的な辛さは分からないけれど、その泣きそうになるっていう気持ちは分かるような気がする。僕も同じような思いになったことが、いつかあったかもしれない。自分の感じたことや考えたことは間違っているかもしれない。みんなとは違うかもしれない。みんなは分かっているはずなのに自分は分かってないかもしれない。そんな漠然とした不安で苦しくなることがある。答えのないものを答えられるか試されているような、自分の考えがあるのか試されているような。正解がないというのなら答えさせないでおくれよ、と愚痴りたくなる。夕方18時前に電話がなる。僕が体調を崩してから、ドイツにいる友人がほぼ毎日同じ時間に電話をかけてきてくれる。少しだけ世間話をした後で将棋のネット対戦を3局だけ楽しんで、ではまたと電話を切る。だいたい僕がうっかり飛車を取られてそのまま負ける。心配してくれているのと、息抜きなのと、将棋で僕をぶちのめしたいのと3:3:3くらいの割合だろう。残りの1割はなんだろうな。その日電話に出ると、開口一番「よくない話があったんだけど聞いてくれる?」と、尋ねられた。海外映画では「いい話と悪い話どっちが先に聞きたい?」というような台詞を聞くけれど、日本では先に断ることってあまりないよなあと、どうでもいいことを思いながら「聞こうか」とそれっぽい返事をする。「ドラッグストアに石鹸とスマホ用のプリペイドカードを買いに行ったんだけど、買うもの2つだけだからメモせずに行ったのね」ドイツのドラッグストアはコンビニみたいな感じなのかな、と想像する。「で、プリペイドカードはすぐ見つかって、あと、最近おじさんになってきたからか肌荒れひどいしYouTubeでビタミン入りの美容液がいいって見たのを思い出して、せっかくドラッグストアに来たからと思って買ったんだよね」急におじさんのお肌事情の話に飛ぶ。お肌にはビタミンがいいのか。ビタミンてのは何にでも効くんだな、YouTubeはなんでも教えてくれるんだなと、またどうでもいいことを考える。「買うもの2つだから満足して帰ってきたんだけど、家に着いて手を洗おうとした時にさ」と話したところで、「あ、石鹸」と、思わずオチを言い当ててしまった。これもまた映画っぽいやりとりだなとくだらないことを考えていると「ほんま自分が嫌になるわ〜」と、オチを横取りされたことを気に留めずに自身の失態に落ち込んでいる。「あるよなあ」と共感する。「あるんや」と意外そうだったので、そんなきっちりしてるように見えるのかな?と思いながら「うん、毎日のようにあるで。毎日というか、1日に何度も」と返すと、「俺はたまにでこれだけ落ち込んでるのに、それが毎日なんて、生きてるの嫌になれへん?」と心配された。ものすごい勢いで失礼なことを言うな。「けど安心したわ」と続けたので、失礼には目を瞑ることにした。ダメな自分と同じような姿を他の人にも見えたら安心する、その気持ちはとても分かる。それは、蔑んだり見下したりするという意味ではなくて、この人も完璧じゃないんだと思えて、同じ人間なんだと思えるからだ。自分は人と比べてできていないなあ、と思うことはよくある。僕はとくに、よく忘れ物をするし、優柔不断だし、うっかりミスもする。大人になってもできないことだらけだ。だから、きっちりしてる人と話す時はいつも心なしか緊張する。ズボラだとか雑だとかダメなやつだとか思われてるんじゃないかと不安になる。逆に、きっちりしている人からすれば、ゆるい人と話すときには、「柔軟で臨機応変に対応できる人との会話は緊張する」と思っているかもしれない。いや、それは都合よく考えすぎか。僕はいつもどこかで、自分はダメだなあと思っている気がする。ただ人と比べてダメだなあと思うだけならいいんだけど、しんどいのは自分が頑張りたいのに頑張れない時だ。これじゃダメだと分かっているのにできなくて情けなくて、でもどうしたらいいか分からなくて頑張れない自分を責めてしまう。こんな風にできたらいいなって前向きに思えたらいいけれど、それじゃダメだぞ、としっかり後ろ向きに考えてしまう。几帳面できっちりしているのと、ズボラで優柔不断なのとだったら、どっちがいいだろう。感情的な人と理性的な人とどっちがいいだろう。自分がなれない「それ」になろうとすることはいいことかもしれないけれど、その前に「それになれない自分」を責めてしまって潰れてしまいそうになる。「自分を責めちゃダメだよ、自分はそのままでいいって思おうよ」って言葉で、さらに自分を責めて抜け出せなくなっていく。どちらが善くて、どちらが悪いって思ってしまうけど、きっと本当はどちらも悪くない。その人はたまたまきっちりしていて、僕はたまたま忘れっぽいだけ。ズボラなことで誰かに迷惑をかけることもあれば、きっちりしていることで誰かを傷つけることもあるかもしれない。几帳面なことで助かる人がいるかもしれないし、ゆるいからこそ救われる人もいるかもしれない。都合よく考えすぎかもしれないけれど、そういうことにしようと思う。できている人とできていない人を分けて「できている人が正しくて、できていない人が間違ってる」ってしてしまうのは、とってもしんどいもの。こんな人間でいたいな、と思うことがある。子どもと関わる時にこんなことに気をつけたいな。と思うことがある。けれどできなくて、自分はできないなあって思ってしまう。もしかしたら、みんなが「自分はダメだなあ」と思っているかもしれない。そんなふうに思ってみると、少し気持ちが楽になる。みんな頑張ってて、みんな怠けてて、みんな自分はこんなんじゃダメだって思ってて、頑張りたいけど頑張れなくて、みんな怠けてて、みんな頑張ってる。やっぱりそれも都合よく考えすぎかもしれないけれど、そういうことにする。余談ですが無事宿題を終わらせて、少し離れた広い公園へ来た。芝が傾斜になっていて、その芝を上下に挟むように細い歩道がある。子ども連れが数組レジャーシートを広げている。「そういえば小さい頃ここで転けたことあるねんで」と、芝を指差し、スマホに保存されている動画を見せてあげる。当時2歳の友人の手を握って芝の坂道を登っているときに、僕の方が足を滑らせて転んでしまい、その勢いで一緒に転んで大泣きしてしまったのだ。大の大人がひっくり返る動画を見て声を出して笑ってくれたので、どさくさに紛れて「ごめんね泣かして」と7歳になった本人に改めて謝罪した。「悪くないよ!」と返ってきた。「でも、巻き込んじゃったからさ、悪いのは悪いねん」と説明しても、「悪くないってば!」と強めに返してくる。気を遣わせてしまったかなと思いながら、身軽に大型遊具を登るのを離されないように追いかける。なんて言えばいいか分からないから「許してくれてありがとね」と伝えた。すると「好きな人のこと悪いって言いたくないし、自分が悪いんやって思ってほしくないもん」と小さな声で言うのが聞こえた。大事な人のことを悪いって言いたくないし、大事な人には自分が悪いって思ってほしくない。こんなにシンプルなことを、僕は言葉にされてようやくなにより大切なことだと気づく。優しさとか慈しみとか凡庸な言葉しか浮かばない。分かっているのに、僕はあなたに自分が悪いって思わせているかもしれない。分かっているのに、僕は自分で自分のことを悪いって思ってしまっているかもしれない。また自分はダメだなあって思いそうになっている。けれど、君がそう言ってくれるなら、自分で自分のことを悪いって思わないことにするよ。長いローラーすべり台を滑り降りながらそんなことを思って泣きそうになった。いや、泣きそうになったってのは言い過ぎやったわ。きしもとたかひろ連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年06月27日最近SNSで話題の「茶ノ宮高貴(ちゃのみやこうき)」を知っていますか? 「めっちゃ好き」「ツボすぎる」「ずっと気になってた」といった投稿が続出している茶ノ宮高貴。どんなイケメン俳優?と思いきや、なんとセブン-イレブン限定のアイスなんです。人気の秘密を探っていきます! 「茶ノ宮高貴」の正体はミルクティーアイス! 「茶ノ宮高貴」は、香り高いミルクティー味のソースとパリパリ食感のホワイトチョコチップが入ったミルクティーアイス。とてもアイスとは思えない商品名、そしてパッケージのインパクトが強すぎます。明らかにアイスコーナーの他の商品と比べても異彩を放っていました。 製造は「ガリガリ君」などでおなじみのヒットメーカー・赤城乳業が担当しています。「なんだかちょっと濃いアイツ」というコピーでピンと来た方もいるかもしれませんが、今年3月にセブン-イレブン限定で販売された「チョコ沢ゴリ蔵」と同シリーズでもあるんです。「チョコ沢ゴリ蔵」もパッケージ・おいしさが話題になったので、今回も期待できそうです! 3種類のパッケージを要チェック! パッケージは全部で3種類あり、茶ノ宮高貴の日常を垣間見ることができます。入社2年目、品行方正、成績優秀、おまけにイケメン(ティーポットみたいな髪型ですが)……。スペックは完璧なのですが、大概のことが大惨事になるというギャップもたまりません。 パッケージ裏のバーコードでも「すてーん」と派手に転ぶシルエットが。どんどん茶ノ宮高貴のことが気になってしまいます。 まさに高貴♡香り高い紅茶の味わいにウットリ 開封すると、ミルクティー色のアイスバーがお目見え。大きさはアイス部分が9.5cm×5.5cmとやや小ぶりなサイズで、見た目も至ってシンプルです。 ひと口食べると、紅茶の上品な風味が口いっぱい広がります。アイス自体はなめらかなのですが、ホワイトチョコチップがたっぷり混ざっていて良いアクセントに♡ かむたびパリパリした食感が楽しめます。中にはミルクティー味のソースが入っていて、より濃厚な紅茶の香りを味わえます。 これまでに食べたミルクティー味のアイスと比べても、紅茶の味わいがしっかりしていて贅沢感がありました。それなのに後味はさっぱりとして、まさに上品な紅茶を飲んだ後のようなさわやかさがあります。まさに名前のとおり、高貴なアイスです! ・価格:138円・カロリー:124kcal パッケージはかなりぶっ飛んでいますが、正統派なおいしさでSNSで話題になるのも納得です。1本あたり124kcalと低カロリーなのも魅力です。ぜひセブン-イレブンで「茶ノ宮高貴」をチェックしてみてください! ※本記事の内容は公開時に確認した情報のため、商品によっては変更となっている場合があります。記事の内容は個人の感想を含みます。※記事内の価格とカロリー表記は、商品パッケージに表記されていたカロリーを記載しています。価格表記は消費税込みの価格です。※新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、一部店舗では臨時休業や営業時間の変更などを実施している可能性があります。商品購入の際には自分だけではなく周りの方、スタッフの方への感染防止対策を十分におこない、安全性に配慮していただくなどご注意ください。外出を楽しめる日が1日も早く訪れますように! ベビーカレンダーでは家事や収納、ファッションなど、ママたちの暮らしに寄り添った【ライフスタイル記事】を強化配信中! 毎日がもっと楽しく、ラクになりますように。
2021年05月15日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。子供の成長は、とても喜ばしいもの。ですが結果だけに目がいってしまい、大切なものを見落としてしまっているかもしれません。第13回『すこしずつ、変わっていくだけ。』こないだ、ピーマンを生で食べた。7歳になった友人と食事をしている時に、学校の給食でピーマンが出るとテンションが下がるという話になった。面白半分で「そういえば、こないだピーマンを生で食べてんけど、意外とこれが美味しくて」と話をすると「食べてみたい!」と言い出した。間違いなく好奇心だけで言っている。その好奇心を取りこぼさないように冷蔵庫からピーマンを取り出し、手渡して種をとる方法を教えてあげた。流水で洗って塩をかけると、嫌いだと言っていたのに好奇心の方が勝ったのか勢いよくかぶりついた。パリッと“美味しそうな”音が鳴る。もぐもぐと味わいながら笑顔になったので「おいしい?」と尋ねると、表情を歪ませてお皿に吐き出した。美味しいのは音だけだったらしい。苦い後味を紛らわすために白米を口いっぱいに含む。「出しちゃったけどさ、学校のみんなには食べたって言おう」と笑っていた。「味はどうでしたか?」という質問には「まずかったです!」と元気に答えたのに、しばらくしてから「もう一回食べてみる」と言い出した。クセになるのだろうか。せっかくなので次はマヨネーズをかけてみることにした。すると、さっきより苦味が少ないのか、一口食べて「これはイケる」とばかりに追いマヨネーズ。二口三口と食べ進め、「食べてみて?美味しいわ」と嬉しそうに勧めてきた。それから面白くなって、ケチャップやソースでも試してみた。「ケチャップが美味しいって思ったけど、やっぱりマヨネーズが一番やわ。そのままで食べるのは苦いので0点です!」と、ゲラゲラと笑いながら、結局1人でまるまる一個食べてしまった。僕はピーマンを見るたびにその時のことを思い出しては、パリパリッという心地いい音とゲラゲラと笑う声が耳に蘇ってつい口元が緩む。ピーマンは子どもの嫌いな食べ物の代表格だ。子どもの舌は苦味を感じやすいから無理に食べさせることはないと聞いたことがある。好き嫌いが多くて不安だという子育て中の悩みはよく聞くけれど、ピーマンに限らず嫌いなものを無理に食べることはない。好き嫌いはよくない、という価値観は根強いけれど、無理に食べさせようとすることで、逆に食べること自体が嫌いになっては元も子もない。まず食べることを楽しむことができたら、いつか食べられるようになるかもしれない。もちろん食べられるようにならないかもしれないけれど、ピーマンを食べられなくても生きてはいける。嫌いなものを克服できた。それはきっと本人にとって喜びだろうし、大人にとっても何か成長の瞬間に立ち会ったようで嬉しく感じる。だけどなぜだか、この生ピーマンを食べた話を「苦手を克服した話」にすると、違和感がある。なんでだろうと考えて出た答えは単純明快で、僕が伝えたいと思ったのはその子が苦手を克服したことではなくて、まずそうな顔をしたり美味しそうな顔をしたりして笑い合ったその時間なのだ。ただ楽しく食事をした。いろんな調味料を出してきて、半分遊びみたいだから行儀が悪いかもしれないけれど、とにかく楽しかった。それを伝えたいのに「苦手を克服した」というレンズ越しに見ると、途端にそのおもしろさが見えなくなる。できなかったことができるようになった。それがとてもいいことのように感じる。もちろん、いいことなんだろうけれど、そればかりに目がいってしまって大切なものを見落としてしまっている。そんなことって意外と多くあるかもしれない。同僚が「去年やんちゃだった子が、今年に入ってから落ち着いて過ごしているんです」と話していた。何気なく「成長ですね」と答えた。すると「本当にそれが成長なんですかね」と返ってきた。僕の言葉への批判という感じではなかった。自問するように「大人しく過ごせるようになった、トラブルを起こさなくなったということが成長なんですかね」と考えを巡らせているようだった。何年か前に訪問した保育園での出来事を思い出す。子どもたちが整列して朝の会をしていた。その横で、ひとり、でんぐり返りをしている子がいた。僕が笑って見ていると、それに気づいて嬉しそうにまたでんぐり返しを見せてくれた。周りの子どもたちがその子に「ちゃんと並びや!」と注意をしているのを聞いて、僕も空気を読んで、みんなと一緒に並ぶよう促した。その後も何度かそんな場面があり、その子はじっとしていたりみんなと同じ行動をすることが苦手なんだろうということが見て取れた。別の日に、体育館のようなところで音楽会の予行演習があった。本番を想定して舞台に上がって演奏していて、緊迫した雰囲気が漂っていた。その子はというと、でんぐり返しはしていなかった。普段の姿とは別人のように、かしこまって楽器を演奏していた。その時の僕は、どんなことを感じたんだっけ。「やればできる子なんだ」とか、その子の良い姿を見たような気がしたのだと思う。演奏の途中でその子がトイレに行きたいと言ったので僕が付き添った。手を洗うその子に、僕は「上手に演奏してたね、楽しかった?」と尋ねた。するとその子は、少しムッとしたような顔で「楽しいとかちゃうねん」と答えた。予想もしない返事で戸惑ってしまった。「頑張ってんねんから、楽しいとか言わんといて」と言われた。この言葉を聞いて、「協調性が育まれている」とか「責任感を持っている」なんて的外れなことを思いたくなったけれど、それはさすがに自分のエゴだと思い直す。僕は「やればできる子」なんて言葉を使って、その子のしんどさを見ようとすらしていなかった。自由奔放に見えていたその子は、みんなの中で普通になるために頑張っていたのだ。やればできるのではなく、やるしかなかったのだ。成長したように見えるその姿は、追い込まれて苦しみながらギリギリで頑張っていることなのかもしれない。逃げ道を無くして克服することは成長ではない。ましてやその頑張りを求めて喜ぶなんて、なんだかおかしいような気がしたのだった。毎日わがままを言っていた子が、ある日を境に何も要求をしなくなったとして、そんな時に僕は、聞き分けが良くなったとか自制が効くようになったとか、勝手に成長だと思ってしまう。けれど、その実は「言っても無駄だと悟ったから」かもしれない。自分の思いを伝えるエネルギーがなくなったからかもしれない。社会では、言っても無駄だからと諦めて黙ることを、「大人になる」と表現する。けれど、それは成長して大人になったのではなくて、身を守る術を身につけただけだ。僕は子どもの何を見ているんだろう。できているように見えるその姿は、みんなから外れないように、こぼれないように、少しでも普通になるために必死にしがみついているのかもしれない。僕自身がまさにそれで苦しんでいるのに、子どもの姿となると、みんなと同じようにできて、トラブルを起こさないでいられるようになったそれを、成長だと感じてしまう。学校に行けるようになった。ピーマンが食べられるようになった。友達と仲良く過ごせるようになった。落ち着いて話が聞けるようになった。聞き分けが良くなった。じゃあそれで、その子は生きやすくなったんだろうか。それで一つ問題が解決したように感じるけれど、その子のしんどさは「できなかったことができるようになった」という姿に隠れただけで、ずっと深くに残ったままかもしれない。子どもの育ちを見守って、その育ちに喜びを感じる立場だからこそ、その成長した姿に喜びを感じる。それは悪いことではないけれど、それと同時に、無理していないだろうか、しんどさを抱えさせていないだろうかと、見えない部分にも目を向けていられたらと思う。できなかったことができるようになって生きやすくなることもあれば、しんどくなることもきっとある。僕がほんとうに大切にしたいことは、できなかったことができるようになることではない、もっとほかの何かだ。見栄えのするものに覆われてしまってその大切にしたいことが見えなくなる前に、ちゃんとそれに気づけるようにしていたいな。去年と今年を比べて、先月と今月を比べて、昨日と今日を比べて、子どもができるようになったことは、きっとたくさんある。その分、サボるようになったとか片付けをしなくなったとか、やらなくなったこともきっとある。その度に、一喜一憂する。「成長というよりも、変化しているだけなんですよね」とその同僚は言った。昨日と比べてしまうけれど、日々の姿がその子の姿で、それは成長でもなく後退でもない。ただ、移り変わっているだけなのだと。僕はどこかで、子どもの育ちは右肩上がりで、多少の浮き沈みがあったとしても、伸びていくもの。そんな風に思っていたのかもしれない。できるようになることも、できなくなることもある。その変化の中で、その時のその子が生きやすくなる方法を、その都度見つけていけたら。それは、見栄えしなくて不安になるかもしれないけれど、そうやってとどまることなく心配事が見えている方が、いいのかもしれない。子どものしんどさに気づけなくなるよりかは、もしかしたらその方がいいのかもしれない、なんて思う。余談ですが手巻き寿司の正解ってなんだろう。シンプルに刺身だけを巻くのもいいし、胡瓜や大根を添えて巻くのも飽きない。何も考えずに目についたものを乗せて、巻ききれず溢れそうになったのにかぶりつくのも、何味かわからないけれど美味しい。大葉なんか入れると最高だ。そういえば、僕は子どもの頃から、シソ(いわゆる大葉)が嫌いだった。独特の香りが苦手で、素麺つゆに間違え入れて勢いよくすすってしまい、勢いよく吐き出したことがある。シソはシソでも、ばあちゃんが作るシソジュースだけ飲めた。原液を水で薄めて飲むんだけれど、きれいな薄い紫色でシソ独特の香りがしない。大人になっても嫌いだったんだけれど、いつからか食べられるようになっていて、気づいたら好物になっていた。今では素麺にも手巻き寿司にも欠かせない。僕はシソのことを好きになってよかったって思うけど、だからと言ってシソが苦手な人に勧めたりはきっとしない。苦手なものは、苦手なままでいい。もし、いつかそれを好きになったなら、それは「克服した」のではなくて、ただ「きらい」が「すき」に変わっただけなんだろうなって思う。苦手なままなら、それは成長していないのではなくて、ただ、そのままなだけ。克服するのではなくて、おもしろそうだから試してみる、そんな感じで楽しめるのなら、嫌いなものも試してみようかなって思えるのかもしれない。例えばやったことない組み合わせで手巻き寿司にしてみて、色んな味を試してみるように、あんまり美味しくなくても食べられるようにならなくても、それでもいいかって思えるような気がする。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年04月09日Twitterやnoteで子育てに関する『気付き』を発信している、保育者のきしもとたかひろさん。連載コラム『大人になってもできないことだらけです。』では、子育てにまつわる悩みや子供の温かいエピソードなど、親や保育者をはじめ多くの人の心を癒します。「つらい環境でも耐え忍べば報われる」という意味を持つ『石の上にも三年』という、ことわざ。ですが、長く続けることよりも難しいのは…。第12回『石の上にも、三日坊主。』始めることと続けることって、どちらが難しいんだろう。興味を示したけれど輪に入らずに、あそびに参加しない子がいる。そのあそびに興味がないのかといえばそうではなく、観戦しながら一緒に楽しんでいるので仲が悪いというわけでもない。むしろやりたそうにはしているけれど、誘ってみると「やったことないから」と断られる。「教えるよ」と声をかけても頑(かたく)なで、あまりしつこく誘うと逆に離れてしまうので、一歩を踏み出すきっかけを見逃さないように見守るくらいしかできない。保護者の方にお話しすると、家では興味深げにそのあそびについて話しているらしい。やってみたい気持ちはあるようだ。じゃあ、なんでやらないんだろう。やってみたいのにやらない。どうしてだろうって考えてみる。無理にそのあそびをさせたいわけではない。したいならしたらいいし、したくないならしなくていい。「見ているだけ」も、その人の楽しみ方だ。サッカーをしたことがなくても観戦は楽しめるし、経験者よりも劣っているということもない。実際にプレーしている人と見ている人、そこに優劣はないのだから。ただ、なにかが足枷になっていて一歩を踏み出せないのであれば、その足枷を外してあげたいなと思う。もちろん、その子と自分は違う人間だし場面も違うから、正しい答えが出るとは限らない。けれど、分かるわけないからといって開き直ってしまったら、分からないままだ。想像したり思いを馳せたりしていれば、すこしでもなにかのヒントが見つかるかもしれない。5年くらい前、友人に誘われてボルダリングを始めた。室内の壁に打ち付けられた、岩のでっぱりやくぼみを模した“ホールド”というものを登っていくスポーツクライミングと呼ばれるものだ。初日はペットボトルの蓋も開けられないくらい腕がパンパンになったんだけど、何度か通っていると筋肉痛も心地よく感じるようになり、日ごとに登れるようになっていった。競技自体も楽しいんだけれど、目に見えて自分の成長が感じられるのも嬉しかった。大人になってのびしろを感じる機会って少ないもんね。ある程度技術がついてきたあたりから、初めは見えなかった面白さを感じるようになってきて、一層楽しめるようになった。そのものの本質的な面白さがわかるまでには時間かかる。あそびもスポーツも仕事も同様だろう。時間をかけてこそ見えてくるものは確かにあるよね。三日坊主という言葉がある。物事が続かないことを揶揄(やゆ)する言葉だ。逆に、辛抱強くいればうまくいくかもしれないという意味として、石の上にも三年ということわざがある。初めは冷たい石の上でも、長く座り続ければいずれ温かくなるということだ。継続は力なりというように、三日で辞めるより続けられた方がきっといい。途中で投げ出さずに粘り強くやり抜くことって、何かを成し遂げるためだけではなく、楽しむためにもとても大切なことだろう。子どもたちにも、やり始めたことは途中で投げ出さずにやり抜いてほしいと思う。今は面白さを感じなくても、続けていれば楽しくなってくるよって。根気強く続けた先に見える面白さや追求することの楽しさを知ってほしい。壁にぶち当たっても乗り越えてほしい。そのときに味わう達成感は格別だ。けれど、と少し考えてみる。何気なく腰掛けて、なんとなく座っていただけなら三年座っていられるかもしれない。けれど、あらかじめ石が温かくなるまでは何年もかかりますよ、と言われていたら、そんな石には座らないんじゃないだろうか。どうしても座らなきゃいけない状況はあるかもしれない。そんな人にとっては、「いつか温かくなるかもしれない」という見通しがあれば安心する。だけど、それは座り続けるための理由ではなく、あくまでも我慢を続けるための慰めだ。そうやってやっとのことで温まったお尻に感じるのは、きっと達成感ではなく、辛かったことから解放された安堵だろう。少し走ってみようかなと思ったときに、遠くにあるゴールにたどり着くまで走り続けないといけないとしたら、ましてや、周りのみんなはその道のりを悠々と走っているのを見たら「今回はやめておこうかな」と、スタートを切ることさえしないんじゃないか。そうしたら、そのまま「興味はあるけれどやっていないリスト」に追加されることになる。続けたら花が咲き、実がなるかもしれないけれど、そもそも始めなかったら芽さえも出ない。なんとなく始めてみて、一歩ずつ進んで、気づいたら遠くまで来ていた。座っていたらいつの間にか温くなっていた。それくらいでいいのなら、最初の一歩も気軽に踏み出せそうな気がする。どうして僕はその面白さを知れるくらい続けられたんだろう、と考えた時に思うのは、同じように下手くそな友人がいたからではないだろうか、ということ。もちろん、上手い人に憧れて鍛錬して上達する人もいるだろうけれど、自尊心の低い僕の場合は、周りの人たちが板チョコのような薄さのホールドを掴んで身軽に登っているのを見て、憧れよりも惨めさを感じた。僕だけが、バナナみたいなデカいホールドに不格好にしがみ付いている。身軽さなんて微塵もなく、ナマケモノのように壁にへばりついて腕をプルプルさせたあげく引力に負けてマットの上に落下する。初心者なんだから当たり前だし、恥ずかしがって楽しめないのはもったいない。そんなこと分かっているけれど、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。だから僕は、慣れるまではひとりで行けなかった。一緒に通う、同じタイミングで始めた同じように下手くそな友人がいたから、その恥ずかしさが紛れていた。自分より下手だから安心できるのではない。「失敗しても大丈夫だ」と思えるから安心できるのだ。持つべきものは偉そうに教えてくれる熟練の友ではなく、共に失敗する未熟な友だった。そんなことを思い出しながら思う。興味を持ったあそびに参加しないその子は、新しいことに挑戦することが嫌というよりは、「みんなができていて自分だけできない」のが嫌なんじゃないだろうか。「失敗するかもしれない」という気持ちが足枷となっているんじゃないだろうか。なんとなく始めて、なんとなく覚えて楽しんでいる間に上達することってある。特に幼少期はそういうことが多いだろう。自分が人よりも劣っているかも、そんなことを思うとはじめの一歩は踏み出せない。大人なら子どもよりも上手にこなして「やってみなよ、教えてあげるよ」って、色んなことを教えてあげたい。けれど、未熟な友として共に失敗しながら成長していくのも良いのかもしれない。簡単に投げ出したり、逃げ出したりしないでほしい。けれど、途中で辞めることを「悪いこと」にしてしまっては、その経験はきっと「あの時も投げ出してしまったし、今回もどうせ続かないからやめておこう」になる。投げ出さないように嫌なことに耐えて育つのは、根気強さではなく我慢強さだ。根気強さや粘り強さはきっと、「もう少し続けたら面白くなるんじゃないかな」という期待のもとにあるんじゃないかな。それはきっと、与えられるものではなく、気軽に始めてたまたま続いた、そんな経験の積み重ねから生まれるんだろう。だから、途中で投げ出さずに続けてほしいなら、途中で辞めても大丈夫って思いたい。いつ立ってもいいからこそ、気負わずに安心して座り続けられるのだ。身になりかけたものを途中でやめそうになったときに「もったいないな」って思ったりもする。こんなに勉強してきたのに生かせないのはもったいないな。この資格取ったのに、別の仕事するなんてもったいないな。ここまで原稿書いたのに、ボツにするのはもったいないな。そんなことを大人になっても、いや、大人になったからこそ思ったりする。きっと、これまでそれに注いできた時間が無駄になるようで嫌なんだと思う。けれど、これまでの時間はこれまでの時間で、これからの時間はこれからの時間だ。ちなみに、これまで注ぎ込んだものを無駄にしたくない!という思いで損をすることが分かっていてもそれを続けてしまうことを、コンコルド効果っていうらしい。博打好きの同僚が教えてくれた。博打と一緒にするなよ、と思うけれど、同時に納得もしてしまう。未来のためにやってきたことを間違いにしないために、これからを犠牲にしているならそれは、未来ではなく過去のために生きているということになる。きっと誰だって、失敗するのは嫌だ。けれど、それが失敗じゃないとしたらどうだろう。「やるなら途中で投げ出しちゃダメだよ」「どうせ続かないんだからやめときなよ」って言葉は減るかもしれない。飽きたなら途中で辞めればいい。しんどければ逃げればいい。簡単に投げ出せばいい。そんなことを言葉にするのは憚られるけれど、それが許されるなら、大人も子どもも、少し肩の荷が降りるような気がする。甘いんじゃないだろうか。その子のためにならないんじゃないだろうか、と思ってしまうかもしれない。途中で辞めてしまう子を見て、歯痒い気持ちになるかもしれない。けれどそれは失敗じゃないし、無駄なんかじゃないとすれば、育んでいるものに目を向けられる。新しいことに挑戦できた。別のことに興味を持てた。できない自分を受け入れられた。全部大成功だ。何にも見つからなくても、自分の気持ちに正直になれた、無理しなかった、だけでも十分だ。それを失敗にしなければ、次の挑戦ができるかもしれない。気軽に、なんとなく興味を持って、なんとなく始められるかもしれない。そんな一歩が積み重なって、気づいた頃にどこか遠くまで来ているかもしれない。もちろん、どこにも辿り着かないかもしれないけれど、それはそれでいいじゃない。活発な子に育ってほしいなら、元気がなくてもいいよって言ってみる。なんでも食べる子に育ってほしいなら、無理して食べなくてもいいよって言ってみる。強い子になって欲しいなら、泣いてもいいよって言ってみる。今と未来は地続きだけれど、今のこの時間を、未来の何かにつなげるために無理しなくていい。「こんなんじゃダメだ」ではなく、「できなくても大丈夫」って安心できたなら、どこかの何かのきっかけでなんとなく「もう一歩踏み込んでみようかな」って思えるのかもしれない。余談ですがこの連載コラムは、月2本くらい書くつもりでスタートした。次第に月1本くらいのペースになっていった。1月から始まり12月にちょうど第12回の原稿を書き始めた。三日坊主の自分が月一を継続したと喜んでいたら、八割方書けたくらいで手が止まってしまい、結局予定より2ヶ月遅れた。初めは、「続けられるか分からないけれどとりあえずこの一本を」と書いていたのに、過去に積み上げたものや達成しそうな何かを見た途端、身動きが取れなくなったのだ。けれど、書いた。今までのものなんて忘れて、次のことも考えないで、目の前のことだけ考えて、ちゃんとできた。えらいな、自分。結局、ボルダリングは2年ほど続けたけれど、引っ越してアクセスが悪くなったことで足が遠のき、そのまま辞めることになった。せっかく鍛えたのだから衰えないようにと通い始めたフィットネスジムは、2、3回通って飽きてしまった。かと言って一度始めたのに途中で辞めるのもなんだかやはりダメな気がして「今月は月謝も払ったし…」と先延ばしにし続けていたら、結局1年間ほとんど通わないのに毎月月謝が引き落とされていた。これがコンコルド効果か、と無表情で納得した。始めたいけれどきっかけがない、ということもあれば、続けたいけれど途切れてしまうこともある。やめたいのにダラダラと続けていることもある。三日坊主が石の上に座っているのを想像してみる。ただの坊主なら修行っぽいけれど、三日坊主が座り続けているのならば、よほど居心地のいい石だろう。そんな石が見つかればいいなって思う。いつか見つかるかもしれないから、そんな石が見つかるまでは、少し冷たいお尻ももう少し我慢してみようかな、なんて誤魔化してみたりする。座っているのがしんどいならば、寝転んででもへばりついてでも居心地いい姿勢を見つけてやろうか。きしもとさんの記事やこれまでの連載コラムはこちら[文・構成/きしもとたかひろ]きしもとたかひろ兵庫県在住の保育者。保育論や保育業界の改善について実践・研究し、文章と絵で解説。Twitterやnoteに投稿している。⇒きしもとたかひろnote⇒きしもとたかひろTwitter
2021年02月06日