八百屋の夫婦の話【新米ママ歴14年 紫原明子の家族日記 第26話】
実家を離れてからというもの、優に10回を越える引っ越しをしてきた。
引っ越したくなるときというのは当然ながら、生活を新しくしたいと思うときで、このままここで、より深く根を生やし続けると腐ってしまいそうだな、と思うとき。
私の場合は、それがわりと短いスパンでやってくるということがわかっているので、先回りして、あまり地域に深く根を生やさないように気をつけようと思っているけれど、意に反して、引っ越した先々では必ずといっていいほど誰かしら、私たち家族を見つけて、親戚のようにかわいがってくれる年長者との出会いが訪れる。
13年前、私がまだ20代前半だったころ。それまで家族で住んでいた福岡から、まるで土地勘のない東京に出てきてすぐに知り合ったのは、新しく借りたマンションの向かいで、ちいさな古い八百屋を営む50代の夫婦だった。何度か店で買い物をすると、夫婦はすぐに私の顔を覚えてくれ、近所の病院や幼稚園、学校のことなどを色々と教えてくれた。
そもそもその辺りには若い母という存在がめずらしく、若いし、あかぬけてもいない母というのはもっとめずらしかったので、夫婦の関心を引いたのだろう。ふたりはすぐに、私たち家族にとてもよくしてくれるようになった。
あるとき、夫婦と私たち家族とで、江ノ島へ小旅行に出かけた。今のような梅雨の季節で、江ノ島の紫陽花はきれいだから、と夫婦が強く誘ってくれたのだ。ふたりは前日に、周到にコースを考えてくれていたものの、当日はあいにくの土砂降り。それでもせっかく来たんだからと、傘とレインコートで強引に予定を敢行することとなった。江ノ島駅で江ノ電を降り、歩いて大きな橋を渡る。
東京に越してきたばかりの初々しい家族に江ノ島の絶景を見せてやりたい、と夫婦は思ってくれたのだろうが、現実にそれは大変な苦行だった。気を抜けばすぐにとんでもない方向に駆け出していく3歳のモーの手を引き、生まれたばかりの夢見を抱っこ紐で抱っこして、バケツをひっくり返したような雨の中を、とぼとぼと八百屋の夫婦について歩く。
私たち夫婦だけなら間違いなく駅のホームを出る前に引き返していたところだが、八百屋の夫婦は良かれと思ってやってくれているだけに、何を言うこともできない。
私も、そして恐らく当時の夫も、その橋を渡りきった先にあるというしらす丼の名店に、ただ一心に気持ちを集中させていた。そうまでして食べたしらす丼が美味しかったのか、しらす丼を食べた後に何をしたのかなどは、もはや全く覚えていない。小旅行の記憶は、後にも先にも気の遠くなるような橋の上でのひと時で止まっている。
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