元レインボーとディオのベーシストとして知られるジミー・ベインが、68歳で死去した。ジミーとはディオとラスト・イン・ザ・ラインとして共に活動していたヴィヴィアン・キャンベルがフェイスブックでこの悲報を発表し、音楽業界に対するジミーの貢献をたたえた。デフ・レパードのギタリストであるキャンベルは「僕たちの親愛なる友人でラスト・イン・ラインのバンド仲間でもあるジミー・ベインが他界したことを心苦しいながらもお伝えしなければなりません」と発表。「音楽業界でブレイクする足がかりとなってくれたのはジミーでしたので僕は彼に一生の借りがあります」と感謝の気持ちを伝え、「ジミーが長年自身の悪と戦っていたことはよく知られていますが、ここ1年半はその戦いについに打ち勝ち、明るくさえ渡った頭とやる気で作曲活動と新作のレコーディングに取り組んでいました」と近年の様子を明かした。そして、「彼はレインボーとワイルド・ホーシズ、ディオ、そしてラスト・イン・ラインを通して豊かな作品の数々を遺していきました。ジミーはニューアルバムをとても誇りに思っていましたし、その作品への彼の貢献は図り知れません」とたたえ、「彼はとても親切で寛大な魂を持った紳士でしたし、彼を知ることで僕たちの生活もとても豊かになったものです。僕たちはこれからも彼の音楽を通じてその人生をたたえていくつもりです」とつづっている。スコットランド出身のジミーは、シン・リジィのフロントマンであるフィル・ライノットとも共に活動したほか、1980年代にディオではロニー・ジェイムス・ディオと共に『ホーリー・ダイヴァー』『レインボー・イン・ザ・ダーク』など数々のヒット曲を生み出した。ジミーの死因についてはまだ明らかになっていないものの、メガデスのデイヴ・ムステインやモーターヘッドのフィル・キャンベルなどすでに各方面から追悼メッセージが相次いでいる。(C)BANG Media International
2016年01月26日米ロックバンド・イーグルスの創立メンバーでギタリストのグレン・フライさんが、67歳で死去した。急性潰瘍性大腸炎、急性肺炎、リウマチ性関節炎などを患っており、さまざまな疾患が重なったことで死に至ったという。同バンドの公式ウェブサイトには、「われわれの悲しみ、彼が僕らに与えてくれたもの全てに対する私たちの愛と尊敬を言葉では表すことはできません」と家族とバンドメンバーたちからの言葉が記載されている。さらにTMZ.comは、グレンさんが11月に手術を受けた後、経過は順調だったにもかかわらず、最近になって症状が急変していたと伝えている。イーグルスは『ホテル・カリフォルニア』『ならず者』『テイク・イット・イージー』『テキーラ・サンライズ』などでヒットを飛ばして人気を博し、グレンも多くの代表曲の曲作りに参加。6回のグラミー賞受賞も果たしたイーグルスは1980年に解散したが、グレンはその後もソロシンガーとしての活動を続けて『ヒート・イズ・オン』『ユー・ビロング・トゥ・ザ・シティ』などのヒット曲を世に生み出した。先月にはイーグルスの復活パフォーマンスがケネディ・センター名誉賞の席で行われる予定だったが、グレンさんの体調不良により中止となっていた。(C)BANG Media International
2016年01月20日特撮怪獣映画『ゴジラVSビオランテ』(1989年)をはじめとした平成『ゴジラ』シリーズの特技監督で知られる川北紘一さんが5日、肝不全のため都内の病院で死去したことがわかった。72歳だった。川北さんが代表取締役を務めるドリーム・プラネット・ジャパンがFAXを通じて発表し、葬儀、告別式は近親者で営まれた。喪主は妻繁子さん。後日お別れの会が予定されている。川北さんは、東宝の特殊撮影係を経て、『ウルトラマン』シリーズで知られる円谷英二特技監督をはじめ、有川特技監督、中野特技監督に師事。1972年には、特撮TVドラマ『ウルトラマンA』で特撮を初演出している。そして、平成『ゴジラ』シリーズと呼ばれる『ゴジラVSビオランテ』(1989年)から『ゴジラVSデストロイア』(1995年)までの計6作品で特技監督を務め、現在のところゴジラ映画における"特技監督"の肩書をもつ最後の人物だった。(『ゴジラ 2000ミレニアム』以降は「特殊技術」というクレジットに変わる)。初代・特技監督の円谷英二氏に師事した川北さんは、怪獣映画の草創期を知る人物で、文字通り"特撮の生き字引"として活躍した。2003年には、株式会社ドリーム・プラネット・ジャパンを設立して代表取締役に就任し、平成『ゴジラ』シリーズのスタッフを集めて特撮TVドラマ『超星神グランセイザー』を制作。以降の「超星神シリーズ」、2006年に公開された特撮映画『超星艦隊セイザーX~戦え!星の戦士たち』の特撮演出を担当した。2013年には、大阪芸術大学の客員教授も務め、「映像美術論」という講座で学生に特撮を教えていた。川北さんは今年9月のインタビューにて「今はデジタルで何度でも撮り直しが利くし後で加工もできるから、学生は片っ端からバシャバシャ撮っちゃうんだよ(笑)。だけどそれじゃあ新しい映像作りというものは生まれない。そのために特撮の、やり直しがきかない緊張感というものを教えてるんだ。やっぱり特撮は現場で学ぶしかないからね。座学なんかじゃ何も学べないんだ」「彼らの中から1人でも次の映像作りを支える監督やスタッフが育ってくれればいいなあと思ってるんだけどね」と自身の特撮への想いを伝えていた。twitterでは、川北監督が特技監督を務め、1989年に公開された『ガンヘッド』にマット画の助っ人として参加した"怪獣絵師"で知られるイラストレーターの開田裕治氏、『超星神グランセイザー』の制作時に企画デザインを描いたというアニメーション監督、メカニックデザイナーのさとうけいいち氏、『ガンヘッド』や『ゴジラVSビオランテ』などで従事したアベユーイチ監督など、多く関係者や親交のあった人々から続々と追悼メッセージが寄せられている。
2014年12月11日アサヒビール名誉顧問で元代表取締役会長の樋口廣太郎(ひぐち・ひろたろう)氏が16日死去した。86歳だった。問い合わせ先はアサヒグループホールディングス秘書部門。追悼ミサ・告別式は9月20日午後1時30分から東京都千代田区麹町6-5-1の聖イグナチオ教会。喪主は妻の樋口公子さん。樋口氏は、アサヒビール社長を務めていた1987(昭和62)年、日本初の辛口生ビール「アサヒスーパードライ」を発売。ビール業界に革命を起こすヒット商品を生み出した。【拡大画像を含む完全版はこちら】
2012年09月18日末期がんで闘病中だったデニス・ホッパーが29日午前(現地時間)、前立腺がんの合併症により、ロサンゼルスの自宅で死去した。享年74。友人のアレックス・ヒッツさんによると、ホッパーはベニス・ビーチの自宅で29日午前8時15分、家族や友人らに見守られながら息を引き取ったという。1950年代から俳優として活躍し、『理由なき反抗』、『ジャイアンツ』でジェームズ・ディーンと共演、1969年には『イージー・ライダー』で監督・脚本・出演を兼ね、アカデミー賞の脚本賞候補となった。その後、アルコールとドラッグに溺れてキャリアは低迷したが、依存症を克服して、1986年の『勝利への旅立ち』でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。反骨精神旺盛な俳優、監督として活躍を続ける一方、私生活では5度の結婚で4人の子供をもうけたが、昨年10月に体調不良を訴えて入院したところ、前立腺がんと診断された。その時点で転移が確認され、余命宣告も受けたホッパーは今年1月にヴィクトリア夫人との離婚を申請、4月にはヴィクトリア夫人にホッパーへの接近禁止命令が出ていた。『イージー・ライダー』に主演した盟友、ピーター・フォンダは「デニスは私にポップ・アートと、“失われた映画”の世界を教えてくれた。私たちはアメリカのハイウェイをバイクで乗り回し、ハリウッドで作られる映画の在り方を変えた。私は彼の情熱と友情に恵まれていた」とコメントを発表、90年の監督作『ホット・スポット』でヒロインを演じたヴァージニア・マドセンは「さよなら、デニス。あなたから沢山のことを学びました」とTwitter上で追悼をつぶやいた。今年3月にハリウッドの殿堂入りを果たし、わが子たちや親友のジャック・ニコルソンに囲まれて授賞式に出席したのが公の場に姿を現した最後だった。(text:Yuki Tominaga)写真はアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた『勝利への旅立ち』より主演のジーン・ハックマンとの一幕。© Everett Collection/AFLO■関連作品:エレジー 2009年1月24日よりシャンテ シネ、Bunkamuraル・シネマほか全国にて公開© 2008 LAKESHORE ENTERTAINMENT GROUP LLC. All Rights Reserved.ヘルライド 2009年1月17日よりシアターN渋谷、銀座シネパトス、新宿武蔵野館ほか全国にて公開© 2008 The Weinstein Company,LLC.All rights reserved.■関連記事:末期がん闘病で余命わずかと宣告されたデニス・ホッパー、念願のハリウッド殿堂入り「妻に看取られたくない」!?がん闘病中のデニス・ホッパーが離婚申請ペネロペ・クルスを新たな高みに導いた『エレジー』 イサベル・コイシェが描く恐怖年齢差30歳の男女が織り成す愛の傑作『エレジー』試写会に15組30名様をご招待映画賞レースもいよいよスタート!インディーズ映画のゴッサム映画賞授賞式が開催
2010年05月31日80年代に『ロストボーイ』、『ルーカスの初恋メモリー』などでティーン・アイドルとして人気を博したコリー・ハイムが10日、ロサンゼルスの病院で死去した。享年38。ハイムはロサンゼルスのバーバンクに近い自宅アパートから救急車で病院に搬送された。オークウッドの名で知られるアパートで、若手俳優が多く住んでいるという。死因は今後の検視で確定されるが、ハイムは数日前から風邪のような症状を訴え、処方薬を服用していたという。ロサンゼルス警察はハイムの死に事件性はないとしながら、「病死の可能性も、ドラッグが関係している可能性もある。彼には薬物使用の前歴があります」とコメントしている。ハイムは2004年に英国のタブロイド紙「Sun」のインタビューで「初めてマリファナを吸ったのは『ロストボーイ』の撮影中だった」と15歳の頃からドラッグに手を出していたことを告白、「コカインを1年半くらいやった後はクラックに手を出した」と明かした。その後、リハビリ施設で更生を目指したが、処方せん薬の中毒になり、トランキライザーを1日85錠も飲むようになってしまったという。3年前にABCのニュース番組「Nightline」に出演し、ドラッグによってキャリアを棒に振ったと話していた。カナダのトロント出身で、10歳のときにTVコマーシャルでデビューし、『ロストボーイ』出演時がキャリアのピークとなった。同作で共演した同じファースト・ネームのコリー・フェルドマン(『スタンド・バイ・ミー』、『グーニーズ』)と意気投合し、『運転免許証』などコンビで主演作も撮ったが、2人ともキャリアは低迷していくばかりだった。その後、「Two Coreys」(原題)というリアリティTVで復帰を図るが、2シーズンで番組はキャンセル。フェルドマンによると、ハイムの薬物問題で日本では昨年公開された『アドレナリン:ハイ・ボルテージ』に出演するなど、細々と活動は続けていたが、最後までドラッグとの縁を切ることは出来なかったようだ。残念でならない。(text:Yuki tominaga)チャーリー・シーンやウィノナ・ライダーも出演した『ルーカスの初恋メモリー』の一場面。© Everett Collection/AFLO■関連作品:アドレナリン:ハイ・ボルテージ 2009年9月26日より新宿バルト9ほか全国にて順次公開©2009 LAKESHORE ENTERTAINMENT GROUP LLC AND LIONS GATE FILMS INC.ALL RIGHTS RESERVED.■関連記事:シビれる続編!『アドレナリン:ハイ・ボルテージ』試写会に15組30名様をご招待リンキン・パークのチェスター、自慢の刺青全開で『アドレナリン』シリーズに再登場!マキシマム ザ ホルモン「爪爪爪」があの話題作の予告編イメージソングに決定!
2010年03月11日