ピチカート・ファイヴの3代目ボーカリストとしての、輝かしいまで存在感と伸びやかな歌声。歌手としてデビューした野宮真貴さんは、いつ、どんなきっかけでそうなりたいと願い、夢を叶えたのか――歌への深い愛と情熱は、世代を超えて多くの人を魅了し続ける理由でもあった。■Hint 2 歌:情熱を持ち続けること――小さい頃から歌手になりたいと思われたとお聞きしましたが、それはなぜですか。なにかきっかけがあったのですか。野宮さん:小学生の頃の私は、人とコミュニケーションすることが苦手で、お喋りも得意ではありませんでした。それでも、子供心にも存在感を示したかったのでしょう。うまく人と話すことができなくても、歌でなら表現できると思ったのです。当時、テレビから流れてくる歌謡曲を聴いていた時に、そう考えたのでしょう。おしゃれも好きでしたから、綺麗なドレスを着て、好きな歌も歌える!この職業しかない!と思えました。当時、ミニのドレスで歌う麻丘めぐみさんは憧憬の的でした。――そして、アイドルを夢見る少女=野宮さんは夢の実現に向けて動き出すのですね。野宮さん:NHKの「ステージ101」という番組が70年代にあったのですが、全国のオーディションで選ばれた歌手の卵たちを集めて“ヤング101”というグループを結成し、当時流行っていた洋楽のアーティスト――ビートルズ(The Beatles)やサイモン&ガーファンクル(Simon & Garfunkel)などの――の歌の、主に訳詞を付けたものを番組の中で歌って踊るという番組です。番組から生まれたオリジナル曲もヒットしました。この番組を見ることではじめて洋楽を知ることが出来ました。そんな音楽との出合いから、こういう曲を歌いたい!“ヤング101”のメンバーになりたい!と夢は広がっていきましたね。――しかし、メンバーになることはなかった。そして、だからこそ、野宮真貴さんとしての活動があるのですね。野宮さん:応募資格に年齢制限があったと思います。確か16歳以上だったかな?うろ覚えですが。その年齢に達するまでに、残念ながら番組は終了してしまったので、応募することすらできませんでした。でも、その番組で聞いた洋楽との出合いが、私をバンド活動への道を拓いてくれたと言ってもいいかもしれませんね。――その活動は北海道でなさっていたのですか。野宮さん:北海道に暮らしていたのは中学2年まで。その後に居を移した東京で、バンド活動を始めました。読む雑誌が音楽関係のものに変わっていったのもこの頃。高校卒業後、英語の専門学校へ進み本格的にバンド活動をはじめて、デビューのきっかけを得たいという思いで、コンテストにもたくさん出ました。そうこうするうちに卒業となり、デビューまでこぎつけずとりあえず就職をしました。いわゆるOL業というものも経験しました。一年ほどと短い時間ではありましたが。――OL…!!それはどのような職種だったのでしょう。野宮さん:普通の会社の営業事務です。月に一度、外出する仕事がありましたが、ほかはデスクワークで電話をとったりしていましたよ。そんな社会人としての毎日を過ごしながらも、変わらずバンドとコンテストに出場し続けていました。ここは自分の居る場所ではない、という思いで。バンド活動を続けていることで、音楽仲間も増えていきました。その仲間の中から、デビューするバンドが出てきて、そのバンドのレコーディングにコーラスとして呼ばれて、担当ディレクターからスカウトをされました。――夢を実現することも苦難があると思いますし、叶ってからは続けることもまた大変な努力が要ることだと思います。しかし、野宮さんの生き方には迷いがないように感じます。野宮さん:デビュー当時は、いわゆるバブル期と言われる頃で、広告ひとつとっても、お金をかけたクリエイティブな作品がたくさん生まれていたと思います。今、思い返しても面白いものが溢れていました。そんな80年代にデビューしたのですが、私のデビュー・アルバムはあまり売れませんでした。デビューしたものの、現実は甘くなく、厳しさをも味わいました。それでも、できるだけ音楽の仕事に携わっていたいと思い、それで、CMソングの歌唱や、他のアーティストのコーラスなどをしていました。ピチカート・ファイヴに三代目のボーカリストとして加入したのは、その後の90年です。ピチカート・ファイヴでの10年間の活動は、非常に多くのものを見、経験することができました。プライベートでも結婚や出産もありましたし。30代は、ジェットコースターに乗っているかのような目まぐるしくも、楽しい時間だったと思います。--最終章、Hint 3は「美:ずっとハイヒールを履き続けたいという思い」。
2015年08月01日野宮真貴さんと聞いて、なにをイメージするだろうか。ミュージシャンでありファションリーダー、それでいてエッセイも書かれる才女。そのマルチに活躍する、すべての根底にあるのは“おしゃれ”である。そんな野宮さんはどうしておしゃれで在り続けるのか。また、ルーツとは何なのか。ファショニスタではなくおしゃれ番長と呼びたい、野宮さんの素顔に迫る。■Hint 1 ファッション:野宮真貴さんの原点――おしゃれすること、ファッションに興味を持ち始めたのはいつ頃でしょうか。野宮真貴さん(以下、野宮さん):こどもの頃から、おしゃれすることに興味がありました。時は、60年代。女性の多くはミシンを持ち、洋裁和裁ができた時代ではありましたが、洋裁が得意で妹と私の洋服も作ってくれた母の存在が大きかったし、影響を受けていると思います。よくお揃いの洋服を作ってくれていましたし、それを着るのがとても嬉しかったですね。新しい服が出来上がるのを楽しみにしたことはいまでもよく憶えています。こどもだった私の目にも、母はとてもおしゃれにしていたと思います。そんな姿を見ては、はやく大人になって、母のようなファッションを楽しみたいな、などと思い巡らせては、楽しんでいるような子でした。丁度、ミニスカートが流行り出した頃で、とても憧れを持っていました。4、5歳の頃です。どんな洋服を着ていたか、ぼんやりとする部分もありはしますが、いまでもほとんどを憶えているくらい、その頃から洋服が好きでした。――当時のお気に入りのお洋服はどのようなものでしたか。野宮さん:輪投げのアップリケが付いた、フエルト製のサーキュラースカートを気に入ってよく着ていました。当時、中原淳一さんの『それいゆ』のこども向けのスタイルブックをよく見ていたのですが、これも母の影響によるところが大きかったと思います。小学生に上がった70年代は、ベルボトムのパンツやレイヤールックなど――長袖のシャツに半袖のニットを重ね着したり――それからニーハイソックスを好んで着ましたね。この頃の私は、北海道に暮らしていましたから、東京ほど大きなデパートはなく、更にいまと違って情報も直ぐさま入るような時代でもありませんでした。流行のファッションもすぐには手に入りませんでした。それでも、その頃に創刊された『an・an』などの雑誌を見たりしてはデザイン画を書いて、母に頼んでピエール・カルダン(Pierre Cardin)風のワンピースを作ってもらったこともありましたね。その後、中学生になり、制服を着ることになるのですが、幼い頃から私は、身体がとても小さかったので、制服も一番小さいサイズを選んだのですが、それでも大きくて、母が得意の洋裁で大改造してしまいました。スカート丈をミニにしちゃったりね(笑)おまけに元々髪が赤かった上に、パーマまでかけて…目立っちゃいますよね。先生や先輩に目を付けられてしまったり、なんてこともありました。懐かしいです。――その頃の野宮さんは、どのような雑誌を読み、ファッションの参考にされていたのでしょう。野宮さん:この頃です、はっきりと歌手になりたい!と思い始めていたのは。ロックに夢中になってからは、『ミュージックライフ』などの音楽雑誌を眺めては、ミュージシャンの着こなしをお手本にしていましたから、当時流行っていたパフスリーブのワンピースなどは目もくれず、否、少しは着ていましたが(笑)、主にロック少年の格好でしたし、男の子のようなファッションでした――その好きなファッションは今も変わりませんか。野宮さん:変わりませんね。そして、そんな自分の好きな洋服を着てこれまでステージに立ってきました。ただ、「ピチカート・ファイヴ」の頃の私のイメージはきっと、’60sなのだろうと思います。実際にそういうイメージのスタイルが多かったと思いますし、何より私がずっと愛するファッションでもあります。ヘアメイクもつけまつ毛やウィッグを使ったり、色々な女性を演じることをとても楽しんでいました。――「ピチカート・ファイヴ」の殆どの曲でウィッグを使われていたそうですが、ご自身がお探しになっていたのですか。野宮さん:初期の頃はヘアメイクさんもつかなかったので、NYに行くと韓国街のウイッグの問屋へ行ったり、スタイリストとしても有名なパトリシア・フィールドのクラブキッズ御用達のお店へ行って、専属ヘアスタイリストがゴージャスにスタイリングしているウイッグを買ったりしていました。その後、ピチカート・ファイヴでのわたしのイメージは、アートディレクターをはじめとするスタッフスの力も大きいです。ビューティーやファッションだけでなく、音楽にも精通しているスタイリストさん、ヘアメイクさんだと同じゴールを目指して良いものを作っていくことができますから。そうやって、それぞれのプロの力を結集して、作品作りをしていたと思います。--続く2/3で野宮さんが語るHint 2は「歌:情熱を持ち続けること」。
2015年07月31日11月12日、元祖渋谷系女王こと野宮真貴が、ピチカート・ファイヴ、コーネリアス、オリジナル・ラブ、小沢健二らの「渋谷系」を代表する楽曲に加え、そのルーツとなった名曲をカバーした『実況録音盤!野宮真貴、渋谷系を歌う。―Miss Maki Nomiya sings “Shibuya-kei Standards”―』をリリースする。東京・表参道の「パスザバトン(PASS THE BATON)」( 東京都渋谷区神宮前4-12-10表参道ヒルズ西館地下2階)ではこれを記念して10月23日から11月24日まで、店内の小さなミュージアム空間「LITTLE PAVILION」で、期間限定のスペシャルコラボレーションを展開する。期間中は常設の展示に加えて、野宮真貴の過去作品におけるアイコン的衣装や私物コレクションを展示販売。展示されるアイテムの点数は、約600点にも及ぶという。中には、2001年の解散ライブでステージ衣装として着用された、アンディ・ウォーホルの紙のドレス(80万円)や、セットになったペンチを使って自分で組み立てる「フラワープレートウェディングドレス」(10万円)などのプレミアものもある。また、11月15日には、店内でスペシャルライブ&トークイベントも開催される。併せて、1年前に賞賛を巻き起こしたビルボードライブも再演(野宮真貴、渋谷系を歌う―2014―。―Miss Maki Nomiya sings “Shibuya-kei Standars” 2014―)。熱狂的なファンのリクエストに応えた野宮真貴が、昨年の「渋谷系スタンダード化計画」のライブをさらに進化させた形で、今年はよりエレガントに渋谷系ナンバーの数々を披露する。予定されている楽曲は、ピチカート・ファイヴのものはもちろん、アルバムにも収録されている渋谷系名曲の数々だ。開催日は、11月1日・ビルボード大阪、11月7日・ビルボード東京。チケットは絶賛発売中。
2014年10月10日