を、こうした感覚レベルでさえ、細かく区別しています。
苦しみが解決したとき。そして、自らの行動で良いことが起こったと感じたとき。この条件が「幸福」を生み出すのではないか、と私は想像しました。
たとえば、保険会社やハウスメーカーの「幸福な家族」のイメージを思いえがいた時、「彼らは生まれつき裕福な家庭に生まれ、何の問題もなく育ち、特に挫折することもなく出会い、子供を持ち、みんな健康で、引き続き問題なく裕福に暮らし続けている」と考えると、なんとなく薄ら寒いような、リアリティのなさを感じてしまいます。もちろん、そういう家庭も存在するかもしれませんが、それが「幸福の究極の形」と言えるかというと、頷けない気持ちになります。
一方でもし、その家族は実は、破産を乗り越えてもう一度再生した家族だったとか、家族の誰かが重病から回復したとか、そういった「苦労した過去」があったなら、「この人達は今現在の幸せの価値や意味を、誰よりも知っているのだろうな!」と想像したくなります。
また、「ギフトを受けとる側と、ギフトを贈る側では、どちらが幸福か」というテーマがあります。
ずっと欲しかったものや憧れていたもの、見た瞬間に気に入るようなものを「プレゼントされる」