アマビエを「イメージの力」と置き換えて、コロナ禍を生きるアーティストたちが創造する「コロナ時代のアマビエ・プロジェクト」。2020年11月から会田誠、鴻池朋子、川島秀明、荒神明香、大岩オスカール、大小島真木の順にリレー形式で展示が行われてきた。角川武蔵野ミュージアム4階エディットアンドアートギャラリーでは、その集大成として、展覧会『コロナ禍とアマビエ6人の現代アーティストが「今」を考える』が開催中だ。大きな本の中を歩くような空間構成で、各作家たちがこの約1年で考えたことを含む言葉とともに作品が展示されている。荒神明香《reflectwo》2006/2021内覧会には大小島真木と川島秀明が登場した。2階フロアには、大小島が自らの手で描き、昨年発表した巨大インスタレーション《綻びの螺旋》を引き続き展示。『ヒューマン』という言葉がラテン語のフムス(腐植土)を語源とすることから、人間も土に還るというイメージを持って描いている。今回は新作として、AIを用いたアニメーションの自動生成によるキメラたちの群像を発表。「動植物を食べ、排泄する〈私〉は、どこからどこまでが〈私〉となのか。〈私〉というものは存在せず、〈私〉以外の他種との関係性の中で常に変わっていく生存の現象である。関係には良い絡まりあいも悪い絡まりあいもあって、その良し悪しは見方によっても変わる」ということを表現している。大小島真木《Re-forming〈I〉》2021一方、比叡山延暦寺で仏道修行した経験を持つ川島秀明は、昨年、絵画《SHI》(下の写真中央)を発表。今回は四季を表す新作4点と旧作も併せて展示されている。当初からコロナ禍における世間の反応に違和を感じており、父の死などについて綴りながら「死別は関係の断絶ではなく変化だ」という諸行無常の教えを示している。川島秀明《SHI》(2021)など展示風景また、会田誠は、昨年発表した《疫病退散アマビエの図》ほか、コロナ禍の今だからこそ見え方が変わる《一人で酒を飲め》などの旧作を展示。毒気のあるユーモアが効いている。架空の首相が鎖国などの荒唐無稽な提案をする映像《国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ》は水際対策に重なる。会田誠《一人で酒を飲め》(左)2013、《灰色の山》(右)2009-2011大岩オスカールの旧作では、ARアプリを用いて絵画の中に入るような体験ができる。2階には昨年発表した大型壁画《太陽と10匹の妖怪》も展示されている。大岩オスカール《path to the light》2018鴻池朋子の《武蔵野皮トンビ》は、設置に至る写真とプロジェクトに関わったスタッフの言葉も掲示。作品をあえて外にさらし、変化する過程を展示した鴻池と、限界を決めずに挑戦した人々の力こそが「アマビエ」=救済になったとも言える。6作家のイメージを未来につなげたい。鴻池朋子《武蔵野皮トンビ》《武蔵野皮トンビ制作インスタレーション》2020-2021取材・文:白坂由里【開催情報】『コロナ禍とアマビエ6人の現代美術家が「今」を考える』2022年1月22日(土)~ 5月8日(日)、角川武蔵野ミュージアム 4階 エディットアンドアートギャラリーにて開催
2022年02月10日会田誠の個展「GROUND NO PLAN」が、東京・表参道の特設会場「青山クリスタルビル」で開催される。会期は2018年2月10日(土)から2月24日(土)まで。今回の個展「GROUND NO PLAN」は、大林財団が新設した助成プログラム「都市のヴィジョンーObayashi Foundation Research Program」によるもの。都市における様々な問題を追及した上で、住んでみたい都市や新しい都市のあり方を、建築系の都市計画とは異なる視点から、アーティストに提言してもらうことを目的としている。その第1回目の助成対象者として選定されたのが会田誠だ。会田誠は、現代の日本社会を鮮烈に批評し続けるアーティスト。取り扱うテーマは美少女から政治までと幅広く、都市計画に関する作品も『新宿御苑大改造計画』や『「人」プロジェクト』などを手掛けてきた。今回の個展では、自身が考える未来の「都市」や「国土」を、ドローイングや完成予想図、建築模型などで表現。その他にもテキストやインスタレーションなどの新作を通して、"理想の都市のあり方"を提案していく。【詳細】会田誠展「GROUND NO PLAN」会期:2018年2月10日(土)~2月24日(土) ※会期中無休開館時間:10:30~18:30(金曜日は19:30まで)※入場は閉館の30分前入場料:無料会場:青山クリスタルビル(東京都港区北青山3-5-12 青山クリスタルビルB1F/B2F)【問い合わせ先】公益財団法人大林財団TEL:03-3546-7581
2018年02月04日会田誠展「はかないことを夢もうではないか、そうして、事物のうつくしい愚かしさについて思いめぐらそうではないか。」が、東京・ミヅマアートギャラリーで開催。会期は2016年7月6日(水)から8月20日(土)まで。50歳という節目の年を迎えた会田誠が、一度も試みたことのない新しい方法・形式・素材に挑戦。本展において、“これまでの会田誠”という作家イメージを根底から覆す。また、新作のイメージを公開することは禁じ、ヴィジュアルに関してはオープン初日まで完全秘密。展示内容は「なんなら今までの僕のファンが総取っ替えになっても構わない」と、会田が言い切るほど予測不可能だ。そんな中でも、彼が目指すものは絵画における「純粋な美」。本展のタイトルは岡倉天心の『茶の本』(浅野晃訳)の第1章 末尾の言葉から採用した。こんな荒んだ時代だからこそ落ち着いて「純粋な美」について再考したい、という思いが込められている。出品点数は、ギャラリーにおける個展としては過去最多となる30点以上になる見通しであり、現代美術コレクターにはきっと満足のいく内容になるだろう。会田は本展開催に向けて「こんな絵画展らしい絵画展をやるのは、これが人生で最初で最後だろう」「ゲルハルト・リヒター、ジェフ・クーンズ、ダミアン・ハーストといった国際的アーティストと、自分との関係を深く考えた末の結論だ」と語る。【開催概要】会田誠展「はかないことを夢もうではないか、そうして、事物のうつくしい愚かしさについて思いめぐらそうではないか。」会期:2016年7月6日(水)~8月20日(土)開館時間:11:00~19:00休廊日:日・月・祝日※夏季休廊:8月9日(火)~13日(土)会場:ミヅマアートギャラリー住所:東京都新宿区市谷田町3-13神楽ビル2FTEL:03-3268-2500
2016年06月03日――今後“メディア”を取り巻く環境には、どのような変化が起きると考えていますか。ツイッターやフェイスブック、またはスマートフォンが登場する以前は、それらがこれだけ社会一般に普及するということは、皆さん一様に想像できなかったことと思いますし、それは僕も同じです。けれど日常的にプロフェッショナルとしてかかわっている専門家というのが必ずいて、そういう人たちは普通の人達よりもいくらか早く先が見えているんですね。なので、ココイクでは分野の専門家を講師に招きます。教育の専門家というよりは、それぞれのジャンルの専門家から指導を受ける形です。――メディアは場所に捕らわれることなく、世界と繋がれるという魅力もありますね。そうなんです。YCAMでも離島へワークショップをしに行ったりしていましたが、プログラミングとかスライドショーとかを作る環境としては東京の子と全く変わらない環境がありますから。一方で、その題材は漁師さんや里山の自然をテーマとしていたりして、当然大都会とは異なります。同じアニメーション作りのプラットフォームを用いて、それらの作品交換を通じて都会と地方が交流できると面白いと思っています。――ココイクでは「創造力」がコンセプトになっています。メディアを通じて身に付く創造力とは。ココイクでは創造力に関して明確に定義しています。いわゆるアートとかデザインを小綺麗にセンスよくまとめる能力のことではなく、全然違う確度で定義します。たとえば、思いも寄らないトラブルが起きた時には、未曾有の状況の中で思考回路が停止してしまい何も出来ない人と、現状をよく観察してこの次に何をすべきなのが考えられ一歩踏み出していける人と、2パターンの人達が出てきます。次の一歩を踏み出していける人の方が打開力がありますし、そういう能力を「創造性」と定義したい。社会の変化が早く先が見えない状況があるからこそ、どんな状況に対しても一歩踏み出せる頭の柔軟さや勇気、深く考えられる思考力というのが求められます。そのためには、メディアの使い方をHow toとして学ぶのではなく、様々なジャンルの専門家の多様な「創造性」に直接触れることが重要だと考えています。――一方、思考回路が停止してしまうのはなぜなのでしょう。やっぱり立ち止まってしまうのは、失敗を酷く叱責された経験がトラウマになっていることが多いと思うんです。失敗を恐れずトライアルしてみる、表現してみるということを、安心して出来る体験が繰り返されていくと、気軽に挑戦できるようになりますよね。特に子供のうちは安心して失敗できる環境が必要だと思います。ココイクはそういう場でありたいと思っています。――安心して失敗できる環境が必要なのですね。そもそも“安心して失敗できる環境”を教育と言ってもいいんじゃないかと思うんです。例えば、インターネット上に書き込みをする時も、実名が出てしまう取り返しのつかない形でやるのは怖いですよね。ある意味守られた環境の中で試してみて、こういう書き方だと人を傷つけてしまうとか、傷つけられたときにはこう考えたほうがいいとか、安全な環境の中でやってみてコツを掴んでいくのが教育なのかなと。「安心して失敗できる場」というのを用意しておくのが大事なことです。――来春からのココイクには親のための授業も用意されていますね。こと“メディア”については変化のスピードも速く“あいうえお”を教えるのとは全く次元が異なりますね。その通りですね。インターネット関連のプロフェッショナルでも、自分の子どもがどうやってネットと触れるべきか、まだまだ議論は尽きません。それでも「とにかく危ない」と素人が叫ぶよりは、建設的な議論が重ねられるのではないでしょうか。「触れさせる/触れさせない」という二者択一ではなく、子どもの成長段階にあわせた付き合い方を、家族も一緒に探っていく必要があります。事実、就職活動になって初めてパソコンでネットに接続する、という大学生も出てきはじめています。その時に急にネットの中に放り出されて事故に巻き込まれても、それまで素朴に「禁止」していた人がその責任を取ってくれることはありません。子どもに親が全て教えてあげるという関係よりも、子どもと共に親が学んでいける場になると良いのかも知れませんね。それは結果的に、子どもが歩みながら育つ環境としても有効だと思うわけです。1/2に戻る。
2014年12月03日新年まで、あと1ヶ月を切った。ファッションの世界に留まらず、多様な角度から、少し先の未来を読み解くヒントとなる言葉を各人に聞こうと思う。最初に登場するのは、ミュージアムエデュケーター・会田大也。会田は03年から14年まで「メディアアートをコンテンツとして扱う山口情報芸術センター(以下、YCAM)で経験を積んだ人物。現在は、東京大学のGCL育成プログラム特任助教として大学院生の教育にある他、15年4月に開校する三越伊勢丹のメディアに特化した学びプロジェクト「ココイク(cocoiku)」を監修する。“メディア社会”と言われて久しい今日において、情報に溢れた「メディア社会」を生きるとはどういうことか。今後、求められる力について訊いた。――「メディア」という言葉の概念をどのようにとらえていますか。メディア(media)はメディウム(medium)の複数形で、真ん中、ミドル、ということを表します。何かと何かを繋ぐものはすべてメディアといっていいと思っています。具体的にこれまでは電話なら電話線、想いを伝えるなら手紙であるとか、「モノ」が繋いでいて、90年代頃まではこれだという名指しができるものでした。それが電子テクノロジーの発達によって形のない「電子メディア」が登場したことで、現在は実に様々なメディアが出てきている状況だといえますね。環境のような、ありふれたものの一つになりつつあると思います。――世間では、ツイッターやフェイスブックなどのSNSも「メディア」と認識され、身近な表現手段である一方、オンラインで世界中にプライベートが流出するリスクもあるという考えが定着しつつあります。これは僕がよくする例え話ですが、森に住む人は森のことを、海に住む人は海のことを知っています。こっちに行けば川が流れていて、この実は食べてはいけないということを知っていて、波や天候から明日嵐が来るということが分かる。快適に暮らすためには、住まう地域や環境に合わせた知恵というのが必要です。現在の日本はどういう社会かというと、メディアに取り囲まれた社会です。そういう意味でメディアのことについてよく知っている必要がある。海に住む人が海洋学を知っているとか森に住む人が地学をしっているとかそういうアカデミックな学問としての知恵ではなく、日常的な知恵として使いこなす術としてメディアを知っておくべきだと思います。――実際に生活の中で、どう使いこなしていくかという部分が重要であるということですね。そうです。現代のメディアは、「文房具」としての役割を果たすものだと思います。それを駆使して様々なことを学んだり考えたり表現したりしていくことが重要です。――来春から未就学児童にメディアについて教育する場「ココイク」を監修されるとのことですが、その意図は。メディアってこういうところが楽しいよね、こういうところは怖いよね、ということを知恵として知っておくのは大切なことなので、それを身につけられる教室にしたいと考えています。学校でも家庭でもない、それ以外の場所を作るイメージです。――子供にとって「学校」や「家庭」以外の場所の必要性とは?子どもが増えていく時代においては、効率的な知識の伝達は急務であったので、知のコピー&ペーストという教育システムを用いるのは必然でした。しかし、少子化や国際的、文化的多様性といった社会状況の中での教育となると、これまでとは多少やり方を変えてみてもよいのかな、と考えています。それが「学校」や「家庭」以外の教育の場の必要性につながると考えています。――学校以外の場で、学校では習えないことを教える場所が必要であると。もちろんこれだけ電子メディアが普及しているので、いま現在は学校で「メディア」について学ぶ機会は設けられています。ただ、その内容は、ブラインドタッチが出来るようになりなさい、インターネットは危ないですというようなものが多いのです。それはメディアの文房具としての使い方としてはあまり正しくないと思うのです。メディアも日々状況が変わっていくものだし、SNSが出る前と出た後のメディア環境は全然違いますから。そういった内容に対して、学校型の教育システムはあまりフィットしない。本当に実質的なことを習うとするなら相当の時間を要しますし、学校で習うのは難しくなる。家庭でもお父さんお母さんが教えるのは難しい。それならメディアに詳しい人が、教える場が必要だと考えています。2/2に続く。
2014年12月03日