千葉県在住30代主婦。イザム似の夫と息子(3歳)、娘(2歳)の4人家族。
趣味は柔軟体操と絵を描くこと。家族が寝た後夜中にこっそり柔軟をして、その後絵を描くのが毎晩の小さな楽しみ。そんな趣味が高じてイラストレーターとして活動できるようになりました。身体も随分柔らかくなったのですが、まだどこにもお披露目する機会がありません。
インスタグラムにて日々の育児絵日記を綴っています。
グラハム子:@gura_hamuco
母が私に整形をすすめたのは、中学を卒業した春のこと。「あなたのためになんでもしてあげる」と、すでに美容整形の予約まで取ってあったのです。あれから20年、現在私には子どもがいます…。
インスタグラムで人気のグラハム子さんによる、育児絵日記。イザム似の旦那さん、息子くん、娘さん、の4人家族が繰り広げる、楽しい日常を、あたたくてやわらかなイラストで綴ります。
■前回までのあらすじ 仕事を辞めてついてきて欲しいという彼。でも母と自分が目標としてきた職を辞めるなんて簡単に考えられず…。 ■私は自分の選択に自信が持てない… 『自分の気持ちを大切にする』ことは『我が強く、わがまま』であり、良くないこと。 『人の気持ちを優先してあげる』ことは『懐が広く、優しい』であり、正しいこと。 私はずっとこう信じていたのです。 おそらく小さい頃からの母との関係の積み重ねが、そんな強固な思い込みを築きあげてしまったのでしょう。 また、 『自分の中に正しい答えはない』 とも思っていました。 母に自分の考えや感情を否定されて育ったので、他人と意見が異なったときには、いつも自分が間違っているのだと感じていました。 だからなのか、自分の感情に自信が持てません。 この時も、自分は納得しきれていないのに、彼の気持ちを優先するという選択をしてしまったのです。 ※ストーリーでは、1日で退職を決めたように描いていますが、実際には1ヶ月間ずっと毎日悶々と悩み続けて出した結論でした。 →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2021年01月15日■前回までのあらすじ 整形していることを知っても態度を変えることがない彼。そんな自分を好きと言ってくれる人がいると知り、心が生き返ってくるように感じたのだが…。 ■「一緒についてきて欲しい」という彼だが… 結婚や転職をするわけでもないのに『仕事を辞める』という考えは私の中にはありませんでした。 そして摂食障害の療養も必要ないと思っていたのです。なぜならいままで高校も大学も社会人の3年間も、ずっとその状態でも頑張れていたのだから、いまさら休養するなんて甘えた考えだと思いました。 また、この仕事は今までずっと目指してきた職でした。 ただ「私」が目指していたのか、 「母」が就かせたかったのか、 「母の希望に応えなければならない」と思ったのかは、 もう心の中で複雑に絡みあっていて、自分でもよくわかりませんでした。 その職に就くためのどんな理由があったとしても、ずっと目指していた職には変わりありません。 それをそんな簡単に「辞めればいい」と言われ、職や私自身の人生を軽視されたような気がして、ショックでした。 →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2021年01月14日■前回までのあらすじ 過食嘔吐が彼にバレたことで、整形している事実も打ち明けることに。彼に整形前の写真を渡すと…。 ■整形前の写真を見た彼の反応は…? 今まで、自分の中のほとんどの部分が嫌いだった。 けれど、もしかしたら… 【自分の嫌いだった部分を、すべて好きと言ってくれる人がいる】 かもしれないということ。 これは私の中で新しい発見でした。 母が「ダメだダメだ」といっていた部分も、母ではない人から見たら、全然ダメではないのかもしれない…。 家族以外の人は本音を言ってくれないものだと思っていましたが、この時の彼の言葉にはなぜだか、本音を言ってくれていると素直に思えました。 『母の理想どおりの自分になれなくても、私を愛してくれる人はいるのかもしれない』 そんな感情が、私の心を生き返らせてくれたのです。 →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年12月18日■前回までのあらすじ 過食嘔吐した直後に、突然彼が部屋に来てしまう。そこで食べ散らかした部屋の中をみられてしまい…。 ■過食嘔吐、整形を彼に話すべき? いつかは伝えないといけない… そうと思っていた整形と摂食障害のこと。 予想していないタイミングで彼に打ち明けることとなりました。 もし彼に本当のことを伝えたら―― ドン引きされて嫌われる もっと健康な子と付き合いたいから振られてしまう と思っていました。 「どうせ振られるならどうにでもなれ」と、自棄になって少し取り乱しながら告白してしまいました。 →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年12月17日■前回までのあらすじ 気持ちが落ち込むと、大量の食べ物を詰め込み吐き出してしまう…。そんなことしても新しい自分にはなれないのに…。 ■今の私を絶対見られたくない人だったのに…! 今まで連絡なしで彼が来ることはありませんでした。 この日だけ、なぜか来たのです。 実際には、彼だとわかってからドアを開けたのですが、このとき、まさか中に入られてしまうとは思いませんでした。 →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年11月27日■前回までのあらすじ 私と波長が合う彼氏ができたけれど、いつか終わる。だって本当の私が劣った人間だといつか隠し通せなくなるから…。 ■気持ちが落ち込んだときは… 胃の限界まで食べて吐くのは苦しいことです。 とくに吐く時は涙が出ます。 胃液やよだれを無理やり逆流させて出すかのように、自分のなかにある醜い感情を力づくで苦しみながら押し出そうとする…そんな感じでした。 「自分のすべてが出ていってほしい」…そう思って吐いていました。 でもそんなことは叶う訳がありません。 吐き終わっても、新しい自分になれるはずはないのです。 ただむなしさと自己嫌悪が強まるだけでした。 →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年11月26日■ 前回 までのあらすじ 「職業は何でもい」と言われた彼の言葉にショックを受けつつ、その後も外で会うようになり…。 ■誰かが私を好きになってもそれは本当の私ではない… 彼とは相性が良く、一緒にいても疲れませんでした。 なので流れのまま付き合い始めてしまいました。 やはり若かったのもあってか、パートナーを求めるのは本能なんでしょうかね…。 手を繋いだとき、私の心のなかにある「嫌われてしまう恐怖」、「この先ずっと演じ続けなければいけない苦痛」といった自分の感情に無意識に蓋をしていました。 だってその恐怖よりも「付き合いたい」という気持ちが強かったから。 でも少し時間が経ち一人で冷静になると、ふとした時にやはり恐怖がわきあがってきました。 『本来の私を見せたら嫌われる』 『私はずっと元気で明るく、しっかりしている女性を演じなければいけない』 だって私の職に魅力を感じてくれない彼には、性格や容姿で好かれるしかなかったのですから。だけれども、その性格や容姿にしても、実際には作り物。 今までも、容姿を整形し、過食嘔吐で体型を維持し、明るい女性を演じ続けてきたからこそ、母や友人は私を愛してくれた…。そう思っていました。 『ありのままの弱い私を愛してほしい―― だけれども、それは不可能なこと。 だったらできるだけ長く、すこしでも弱い私を彼に見せないようにする。 でもそれはとてもつらい。そしてやっぱり本音では弱い私を愛してほしい… いややっぱりそれは不可能なんだ… それもこれもすべて私がこんな弱いからいけないんだ…』 こんな堂々巡りの想い。 彼との付き合いには、そんな苦しい思いが心の奥にいつもありました。 →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年10月30日■ 前回 までのあらすじ 職場の先輩に「街コン」に行こうと誘われる。母に「あんたは結婚は無理」と言われて育った私は… ■私が大切にしてきた価値は意味がないもの? 当時、私は自分で唯一価値があると思っていたのは、仕事でした。 昔からずっとこの考え方をしてきたのです。 「スポーツ強豪校でレギュラーのハム子」 「進学校、有名大学に通うハム子」 「安定した資格職のハム子」 自分の所属しているものが私の唯一誇れる価値でした。 自分自身は何も長所がないから、世間的に良いと言われる団体や肩書に自分が所属することで、なんとかかろうじて「自分には価値がある」と思うことができていたのです。 それなのに、この男性に、「所属には価値を感じない」と言われてしまい…。 (実際には、そのように言われたわけではなかったのですが、私はそう感じてしまいました) まるで「私自身がまったくの無価値である」と突き付けられたようでした。 それどころか、『所属に頼って、学歴や経歴にすがりついている器の小さな人間』と、自分で自分が恥ずかしく、情けなくなりました。 でも、とてもハッとさせられ、心に残る出来事でした。 →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年10月29日■ 前回 までのあらすじ 友人たちから結婚の案内が送られてくるように。だけど結婚することは一生ないように思えて… ■結婚をする自信がない… 私は当時、人からの誘いを断るのが苦手でした。 目上の人だったり、権力があったりといった人たちからの誘いを断るという選択肢はほぼありませんでした。 なぜなら、いままでの人生経験、そして母との関係から、 『相手の希望に従わない=嫌われてしまう』という考えが、私の中奥深くにこびりついていたのです。とくに嫌われたくない相手には、自分の気持ちなど無視して従おうとしてしまうのが、私の中ではもうあたり前の事でした。 でもそれは、母も同じだったのでしょう。 だから、職場の上司に勧められた習い事を、たとえ娘が嫌がろうと、断るという選択肢はなかった… もうそれが当然の正しさとして認識していたのだと思います。 子育てには『世代間連鎖』という言葉がありますが、このように、価値観はごく自然に親子間で連鎖されていってしまいます───── さらに母は幼いころから私に 『あんたは容姿が悪くて結婚はできないだろうから、1人でも生きて行けるような良い仕事に就くべき』 『独り身でいることは恥ずかしいことではなく、むしろ強いことだ』 と言っていました。 母は自分が1人だったので、それを自分自身で納得、肯定させたかった、というのもあるのかもしれません。 【容姿の悪い娘が将来どうなっても良いように、就職はしっかりしたところに就かせなければ】という親心もあったのでしょう。 しかし私には、【お前は結婚できないだろう】というメッセージが残り、周囲が結婚をするようになってそのメッセージがじわじわと、自分でも気づかないうちに私の自信を奪っていってしまっていたのです。 →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年10月16日■ 前回 までのあらすじ 母から子育ての苦労を聞いたことで自分は恵まれていた…そう思うとするけれど、ネットでは「生きるのが辛い」ばかり調べていて… ■人前ではごく普通の社会人、でも家に帰ると… 社会人になっても過食嘔吐は続いていました。 病院に行った方が良い、という知識ももちろんありましたが、「自分の意思が弱いだけじゃないか」、「もうすこし自分自身の力でどうにかできるんじゃないか」という気持ちもあり、結局病院には行かず、過食嘔吐を続けていました。 いま思えば、病院に行って治療することで、自分自身に何か変化が起こることを怖れていたのかもしれません。 過食嘔吐を辞めたいはずなのに、辞められない… 吐いた後はいつも激しい自己嫌悪に襲われる。 それなのにその存在を失ってしまうのを恐れてしまう…。 自分のことなのに自分じゃどうしようもできない。 それは過食嘔吐だけではなくて、人生のすべてにおいてそうでした。 容姿も、職業も、趣味も、生き方も…自分のことなのに、自分ではどうしようもできない。 整形もずっとしつづけなければならない。いつも「いつ二重の線が取れてしまうか」というぼんやりとした恐怖を抱えながら生活していて、心の底から笑ったことはありませんでした。 このころ常に私は被害者でした。被害者意識でした。 自分が自分の人生の当事者である勇気も責任も持てず、楽で言い訳ができる被害者の立場にしがみついていました。 そんな自分が嫌で嫌でたまりませんでした。 →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年10月15日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 周囲が私の子育てを絶賛する中、文句ばかりの娘。感謝されこそすれ不満を言われるなんて、思っても見なかった…! ■母に感謝できない私…どうして生きるのがつらいの? ここからはまた私(ハム子)目線の話になります。 私は学生時代も、就職もすべて母の希望を叶えることがあたり前だったので、社会人となり目標がなくなると、仕事中以外は自分では何も動けない人間になっていました。 せっかくの休日でも、趣味も特技もありません。 母の希望で10年間やっていた剣道は、段を持っていましたが、やりたいとはまったく思えませんでした。 漫画は好きですが、漫画を描くなんてオタクっぽくて世間ウケの悪いことはできるはずがありません。 ダンスもやりたいという気持ちがないわけではないけれど、将来性のないただの趣味に時間を費やすなんて意味のないこと… そんな、自分でやりたいことが自分でもわからない。 自分の感情がマヒしているような状態でした。 母からの教えが脳内に深く根を張っていて、それが正しいことだと信じて疑いませんでした。 唯一の趣味は、ネットサーフィンだけ。 調べることといえば、 【生きるのが辛い】 【過食嘔吐】 【過去に戻ってやりなおしたい】 そんな暗いワードばかり。 死ぬ勇気もないのに、自殺方法のサイトを毎日のように見る日々。 寝る前は何時間もネットを見続け、そして起きているときは、過食嘔吐を繰り返す。 とてもつらい日々でした。 皆は普通に楽しんで生きているのに、自分は人生に「つらい」「つらい」と文句ばかり言っている… なんて自分は愚かな人間なのだろう… 生きているのが苦痛でしかたがありませんでした。 →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年09月25日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 能力の低かった娘を志望校に入れ、安定した就職まで就かせることができのは、私の子育てが正しかったからだ… ■私の子育てを周囲は絶賛するのに、娘だけが… こうして母は、今までどんな想いで私を育ててきたのかを話しはじめたのです─────。 今回の話は、第21、22話で私目線で語った内容を母目線から描いたものです。 ■グラハム子side STORY 私が母のために作ったストラップを、親戚一同の前で母は「マサト(いとこ)からもらった」と言いました。 「自分の子を少し下げて話す=謙遜」は理解できます。 ただ、話を作り変えてまで他人を上げ、自分の子を下げる必要があるのかを、当時の私には理解できませんでした。 でもきっと母の中では必要なことだったのでしょう。 * 次回から私(ハム子)目線に戻ります。 文:著者(グラハム子) →次回は9月24日(金)更新予定です。 ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年09月24日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 「親は子どもの気持ちを尊重する」と話す学校、「子どもの意見を親が聞くときは見放した時」とする私。娘はどちらが正しいのか?と聞いてきて… ■能力がない子は堅実な道を歩むべき ■能力の低い娘をここまで…私の子育ては成功した! 母は私が母の希望の職に就いたのがとてもうれしかったようでした。 そのこと自体は私もうれしかったです。 母を喜ばせてあげることができた。親孝行ができた、と思いました。 ある日母から 『エリちゃんのお母さん、最近俯いて歩いてるよ。話しかけてもすぐ行っちゃうの。 エリちゃんの就職先がアレだから、なるべく人と会いたくないんだろうね。話しかけちゃかわいそうよ』 と言われました。 でも私は少し前に偶然エリちゃんのお母さんに道で会ったのですが、別に俯いてもいなかったし、普通に立ち話もしてくれました。 「それはきっとお母さんにだけだよ。お母さんがマウンティングしてくるのが嫌なだけで、お母さん以外の人とは普通に話してると思うよ」 母にそう言いたかったのですが、やめました。 エリちゃんのお母さんが、母と私は親子なのに、私にはちゃんと話をしてくれたことがうれしかったです。 ※エリちゃん:剣道の習い事で一緒で同じ中学に通っていた女の子 文:著者(グラハム子) ■グラハム子side STORY →次回は9月24日(金)更新予定です。 ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年09月11日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 娘が一番気にしている体型を褒めてあげたら、急に怒りだして…。どうしてこんなに性格が歪んでいるの? ■娘が進学先を好き勝手しようとしている!? ■私は提案してるだけ!決めたのは娘なのに… 当時、世の中はだんだんと 『自分の好きなことを仕事にしよう』 という流れになっていました。 そんななか私は、 世の中と家庭内の乖離 に苦しんでいました。 親の望むように生きることが親孝行だと信じていた私は、「母の理想どおりに生きてあげたい」という気持ちを当然もっていました。 しかし一方で、 「自分で自分の人生を決めたい」、「たとえ母であっても介入されたくない」 という感情もありました。 でも、母の期待を裏切ることは親不孝なことだと信じ込んでいたのです。 (私は母を裏切ることはできない) そう思うと、自分の進路を真剣に考えること自体、放棄しました。 ほぼ無意識で、親に従う選択を自らしていたのです。 しかし自ら親に従う選択をしたくせに、胸の中には常に重く黒い靄があり、その靄は晴れたことはありませんでした。 文:著者(グラハム子) ■グラハム子side STORY →次回は9月11日(金)更新予定です。 ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年09月10日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 食べては吐くを繰り返す娘が、「精神科を受診したい」と我儘なことを言ってきたので、思いとどまらせたのだが…。 ■娘を褒めなければ!と思ったのだが… 当時摂食障害だった私は、体型を人一倍気にしていました。 「細いね」と、他人から言われることはうれしかったです。 でも、母にはそこを褒められてもまったくうれしくありませんでした。 うれしいどころか、絶望を感じてしまうのです…。 文:著者(グラハム子) ■グラハム子side STORY →次回は9月10日(木)更新予定です。 ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年08月28日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 他人は建前しか言ってくれない。だから、親が本音で娘に「太っていることは見苦しい」と言ってあげなければ…。 ■娘が痩せて嬉しい!しかし気がかりが… ■娘はどうしてこんなに意思が弱いのか 今でこそ世間に理解されてきた摂食障害ですが、母世代(昭和20年代生まれ)にはなかなか理解されにくい病気だと思います。 当時は戦後間もなく、食べるものがあるだけで感謝しなければいけなかった時代ですから、理解できないのも当然なのかもしれません。 そして、昔は今よりも精神科や心療内科への偏見も強かった気がしています。 『そんなの病気ではない』 『意志が弱すぎる』 『もっと自分に厳しくなりなさい』 そう何度も母に言われました。 私も、「どうして自分はこんなに弱いのだろう。なぜ人が当たり前にできていることができ来ないのだろう…」 と劣った自分が大嫌いでした。 文:著者(グラハム子) ■グラハム子side STORY →次回は8月28日(金)更新予定です。 ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。 ※今回の体験記に記載された症状や対処法は、あくまでも筆者の体験談であり、症状を説明したり治療を保証したりするものではありません。また、適切な時期に医療機関に受診することをお勧めします。
2020年08月27日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 高校入学した娘が私のことを「厳しすぎる」と反抗する。しかし親は子どもの言いなりではなく、我慢や忍耐が大切だと考える私は… ■わが子を成功ルートに乗せたい ■他人が建前しか言ってくれないなら親は… 高校の部活は、人生で初めて「自分で選んだ」と思えるものでした。 しかし、母は3年間、結局最後まで応援してはくれませんでした。 【母の意に反して自分の希望をとおす=母にずっと不快な思いをさせていまう】 ということを学びました。 逆に、今までは 【自分の意に反しているけれども、母の意見に従う=母は喜んでくれる】 でした。 母の気持ちを殺すか、自分の気持ちを殺すか。 どちらもつらいものでした。 本当なら、自分の選んだものを母にも応援してもらいたい。 もしくは、母の選んだものを自分が心から好きになりたい。 でも、それはどちらも無理で、お互いが気持ちよく過ごせる環境はこの世に無いということを学びました。 どちらかの意見を尊重すれば、どちらかは苦痛を強いられる。 それだったら、女手1つで育ててくれた母に苦痛を与えたくない。自分が我慢するべきだったんだ…。 部活を自分で選んだことは、私の中で初めてのチャレンジでした。 でもそのチャレンジをしたせいで、そんな「自分の気持ちは殺すべき」という考えがより強まっていきました。 文:著者(グラハム子) ■グラハム子side STORY →次回は8月27日(木)更新予定です。 ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年08月14日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 長所が何もない娘が不憫で、高校入学が決まった段階で、整形させることに…。 ■どうして娘がすることに親が口出しをしてはいけないの? ■「親は絶対だ」この価値観こそ正しい 「親は威厳あるものだ」 「親を敬わなくてはいけない」 「最近の親は子どもに嫌われたくないからって、子どもの好き勝手にさせているバカ親が多すぎる」 「世の中は思いどおりにいかないことばかりだから、忍耐を養わねばいけない」 当時母がよく言っていた言葉です。 当時、【個性を伸ばす教育】が流行り始めた時代でした。 母はそれを間違っているとよく言っていました。 母には【個性なんてなくていい。潰せ】という教育をされ、 学校では【個性を伸ばしましょう】という教育を受けました。 もちろん世の中にはいろんな価値観があって良いと思いますが、当時の私は『自分の価値観』を自分でまったく信じていませんでした。 ずっと母から自分を否定されて育ってきたので、「自分の価値観はすべて間違っている」と思い込んでいました。 だから「外で良いとされること」が「良い価値観である」という生き方をしてきたのです。 しかしここにきて、外からの価値観が母と学校とでバラバラになってしまい、もう何が正しいのかもわからなくなっていき…。 ただただ生きづらかったのを覚えています。 文:著者(グラハム子) ■グラハム子side STORY →次回は8月14日(金)更新予定です。 ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年08月13日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 周りから見下されてると感じ、わが子を偏差値の高い学校に進学させることに… ■大切な娘なのに受け入れられない… ■子どもの評価は親の評価となる ■悲惨すぎる娘に親がしてあげられることは 母は失敗を極度に恐れる人でした。 失敗したら影で嘲笑われる、見下される、と思ってしまっているようでした。 もちろん見下したり嘲笑う人もいるとは思いますが、 「嘲笑われたからって別にいいのに…」 と今の私なら思えますが、母はそうは思えない、心の弱い人だったのだと思います。 自分が弱いからこそ、傷つきたくない 傷つかないためには、娘に失敗してもらっては困る 母がどこまで自分の気持ちを深くまで考えていたかはさだかではありませんが、今になって考えるとこう思えるのです。 母は心が弱いからこそ、世間の評価が良いものを身にまとわせ、強くしていく必要があったのだと思います。 きっと母も、祖父母から、私と同じような子育てをされてきたのだと思います。 だから自分に自信がなく、弱くなってしまった…。 世代間連鎖だったのでしょうか。 私も今でこそ心が強くなってきましたが、当時は母の考え方が当然で、世の中の道理だと思っていました。 文:著者(グラハム子) →→次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。 ■グラハム子side STORY
2020年07月24日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 熱心に学校の部活をさせたが、思った通りの結果が出せない娘のために、親である私が適切な道をサポートすることに… ■周りが我が家を見下している…!? ■最終的に勝つのはうちだ! 母はよく、『勉強か運動か、どちらかが上位でいなければいけない』と言っていました。 私が運動で上位にはいけないと判断した母は、今度は勉強で上位にいかなくては、と考えたのだと思います。 母にとって、『普通』ではダメだったのでしょう。 でももし私の容姿が上位なら、勉強や運動は普通でも良いと判断したのかもしれません。 容姿が劣っているからこそ、別の所でカバーしなければいけない、と考えたのだと思います。 何事も、世間からの相対評価で物事をはかる母でした。 わが家では、世間から見た評価が絶対でした。 それが当然だと私も思っていました。 『私は良いところが一つもないから、せめて学校はネームバリューのあるところにいかないといけない。 そうしないと私は目も当てられない悲惨な人間になってしまう。』 と、私自身も本気で思っていました。 文:著者(グラハム子) ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年07月23日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 娘を全国レベルの運動部がある学校に越境して進学することに決めたのだが… ■全部娘のためとこれだけ頑張っているのに… ■親の期待をことごとく裏切る娘 「高校ではもうやらなくていい、 これ以上やっても意味がない 」 これを言われたとき、自分の身体がボロボロ崩れ落ちたんじゃないかと思うくらいショックでした。 いままで10年間、嫌だったのに、嫌という感情を無理やり押し殺して押し殺して、自分に『私は剣道が好き』と思い込ませ、感情をマヒさせ、どうにか頑張ってきたものなのです。 なのに、『意味のなかった』ことを10年間もやらされていたのか…と、怒りや悲しみが一気に押し寄せてきました。 私の今までの10年間はいったい何だったのか。 そんなことなら、最初からやらせないでほしかった。 私の10年間を返してほしい。 嫌なことから解放された喜びよりも、10年間を返してほしいというつらさの方が大きかったのです。 もちろんこの10年で得たものもたくさんあります。 とくに中学校の3年間は全国レベルの環境のなか、私がみずから望んで剣道をやっていたのだとしたなら、最高の環境だったのだと思います。 精神力も身体能力も身についた、仲間の大切さも知った、のちに高校受験や就職活動においても、『運動部で全国大会に出た経歴がある』ことは大きな武器にもなったことは事実です。 後悔はしていません。恵まれていた。支えてくれた方々に感謝しています。 ただ、私はいまだに 「中学校は何部だったの?」という質問に上手く答えられないし、『剣道』という単語を聞くと身体がこわばってしまうのです。 文:著者(グラハム子) ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年07月10日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 親が決めた習い事を娘は嫌がるのだけれども、教育をおろそかにしたくない私は… ■娘にはできるだけ良い条件の環境を与えたい ■娘の希望を聞くよりも親として大切なこと こうして私は越境して剣道部の強い学校へ行きました。 もし自分で選べるのなら、私は学区の中学校に行きたかった。 このころよく、私は母にこう言っていました。 「もし生まれ変わったら、学区の中学校に行って新体操部に入りたいな」 母は「そうなのね」と笑っていました。 いま考えれば、今を生きているにもかかわらず『生まれ変わったら』ばかり考えるなんておかしい。 でも当時は、自分が願いや望みと言った感情を持ってしまうことは間違いで、母の進める方向こそが正しい生き方なのだ、と本気で思っていました。 『人生とは親の決めた方向に行くもの。世の中の子どもは皆そうなのだ』と思っていました。 文:著者(グラハム子) →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年07月09日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 娘の容姿や性格といった欠点ばかりが目に付いた私は、娘の将来のためにある習い事をやらせる決心をする。 ■上司に紹介された習い事を嫌がるなんて! ■習い事を子どもが嫌がったとき親は 私はこのエリちゃんのお迎えが毎回恐怖でした。 『人に迷惑をかけてはいけない』 この想いが染みついていた私には、「エリちゃんが迎えにきてくれたんだから行かない訳にはいかない」と、思っていました。これが週4回あったのです。 憂鬱でした――。 でも母としては、「どうにか私を行かせよう!」と、必死に考えた結果だったのです。 習い事は、私の中で『どんなに嫌でもやらなくてはいけないもの』という位置づけ。 学校の勉強と同じ感じでした。 私には「習い事を辞めてもいい」という選択肢はありませんでした。 文:著者(グラハム子) →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年06月26日■ 前回 までのあらすじ <母が語る物語> 夫と別居したことで「どこに出しても恥ずかしくない娘に育てる」という重圧が私にのしかかってきて…。 ■娘の欠点ばかりが目に入る… ■娘が自立できるために親がしてあげられることは… 母は 「強くて外交的=長所」 「気弱で内向的=短所」 という考えを持っていました また、「漫画は教育に良くないもの」という認識でした。 もしかしたらそういった考えを持っている方は、多いのかもしれません。 でも、気弱なことを欠点と捉えないで 『優しい子』として捉えてくれていたら… 私の人生は変わっていたのかもしれません 。 「短所は長所」という言葉をよく聞きますが、人の見方によって短所に感じたり、長所に感じたりするのでしょう。 もしこの頃の私に声をかけてあげられるなら――― 『おとなしいことはダメなことじゃないよ。あなたはあなたのままでいいんだよ』 と言ってあげたいです。 その上で、 『自分の気持ちはちゃんと伝えようね』 『大勢と遊ぶことでしか得られないものがあるんだよ』 と、外にも目を向けられるような声をかけてあげたい。 まず否定が先にくるのではなく、 『そのままでもダメなんかじゃない。あなたは唯一無二の大切な存在なんだよ。生きていていいんだよ』 このことを、心に根付かせてあげたいなと思います。 文:著者(グラハム子) →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年06月25日■前回までのあらすじ 母がどんな想いで私を育ててきたのか――母が話してくれた私が産まれた時の気持ち、そして母の考え。母は、「褒められない=ダメ」と考える人だった…! 母が語る私を育てることの苦悩とは。 ■「二重じゃないとかわいそう…」娘のためにできること ■母に課せられたプレッシャーとは 私が具合が悪くなると母がうれしそうだったのは、私自身も覚えています。 「熱が出ると優しく看病してもらえてうれしい」 「お母さんがうれしそうで私もうれしい」 こんな気持ちもありました。 でも 「私が熱で苦しんでいることよりも、二重になったことが母はうれしいんだ」 という気持ちもあり、私自身どこか複雑な感情を抱いていたのを覚えています。 父のことは、ずっと単身赴任だと聞かされ、数年に一度、会っていました。 父が単身赴任だと言うと、周りからは 「お母さん大変ね」 「お母さん偉いわね」 「ハムちゃんもお母さんの迷惑かけないようにしなくちゃね」 と言われていました。 私はそれが、 【良い子でいなくてはいけない】 と、常に少しプレッシャーでした。 でも母は、そんな私のそれよりも遥かに大きな、『1人で育てないといけない』『ひとり親だからって言われないように立派に育てないといけない』という、とてつもないプレッシャーを常に抱えながら、私を育ててくれていたのです… 文:著者(グラハム子) →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年06月12日■前回までのあらすじ 親戚の集いの場で私を貶す母。「お母さんはいつも私を傷つける!」と本心をぶつけると、母から返ってきたのは「あんたは昔から育てにくかった!」という言葉だった…! ■母の本音が紐解かれる! ■なぜ母は娘の容姿にこだわったのか…? ここからは母から聞いた話を基にした、母目線の話を綴っていきます。 母の話を聞いていくうちに、「私が感じていたこと」と「母が考えていたこと」との違いが段々とわかっていきました。 母は、 「褒められない=ダメなのだ」 と感じてしまうタイプだったのです。 そして、「顔がダメなのに可愛い服を着せるなんてみっともない! 周りから笑われる!」と考え、私(ハム子)に「スカートを履かせたくなかった」と言っていました。 母には母なりの正しさがあったのです。 文:著者(グラハム子) →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年06月11日■前回までのあらすじ 親戚の集まりで、容姿や就職先について「母の育て方がよかった」と口々に言われ、私自身も「やっぱり母の考えが正しいのだ」と思っていました。しかし、いとこが母にプレゼントしたとき、私は何もプレゼントしたことがない冷たい人と母が言っているのを聞いてしまい…。 ■母は私がプレゼントしたものを忘れてしまった? ■親は自分の子どもを貶すもの!? ■私が母にかけた苦労とは…? 普段は母の日に実家に帰ることができないので、宅配便でプレゼントを送っていました。 でも、大学4年のとき母校で1ヶ月の教育実習のため5月に実家に戻っていました。だからその年の母の日は、プレゼントを手渡しすることができたのです。 私は、少し張り切って、母のためにテディベアのストラップを手作りしました。 そのとき、母はとても感謝してくれて、携帯への付け方が分からないというので、私がストラップを付けてあげたのです。 そんな、私にとっては思い入れのあるストラップだった… しかし母にとっては『いとこを褒めるためなら、 娘は蔑ろにして構わない 』程度のものでした。 私は母とのあまりの考え方の乖離(かいり)に、とてもショックを受けました 日本の文化で、『謙遜の文化』があるのはもちろん分かります。 人前で自分の子を褒めるのを控えるというのもわかります。 ただ、 大きな嘘をついてまで自分の子を貶めて、他人に良い顔をする …それが私には理解できませんでした。 そして母にとってはおそらく大きな嘘ではなく、ほんのささいな嘘なのです。 母は、身内よりも他者からの評判に比重を置き、世間体や周りからの評価をとても大切にしている人。 そのために 身内は犠牲になるのは当然 、という考え方です。 それが悪いと言いたいわけではありません。 周りからの評判は生きていく上で大切なものだと思います。 そして生きていく上で「何に比重を置くか」は人それぞれ異なるでしょうし、きっとそのどれもが正しいのだろうと思います。 ただ、 母の正しさと私の正しさとでは、大きなズレがありました 。 ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年05月29日■前回までのあらすじ 3回目の整形手術の日。涙が止まらなくなった私。これまでも意志に反して涙が出て、先生に呼び出されたことも。しかし親のことを打ち明けても、「お前は甘えている」としか言われず…。 ■親戚に私が褒められると母が決まっていう言葉 ■「母の育て方がよかった」そう言われて… ■母にプレゼントしているのに… うちの家系は、お正月は本家に集まるのが習わしでした。 田舎ではそういう家庭が多いのではないでしょうか。 だから毎年お正月は親戚の叔父叔母、従兄弟などに会うのが恒例となり、今年はとくに親戚たちから私は褒められました。 なぜなら公務員という安定した就職に就いたことが高く評価されたのです。 そして私を褒めると同時に、それ以上に親戚が口にしたのは、「私を育てた母」への賛辞でした。 そんな母はとても嬉しそうでした。 母がこうやって育ててくれたから今の私がある。 だから「母が正しいんだ。私のこれまでの選択は間違えていなかった」と、自分を思い込ませようとしていたのですが…。 ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年05月28日■前回までのあらすじ ある日、二重の線が薄くなっていることに気づく。本当は整形はせずに「ありのままの自分」で母からも周りからも愛されたい。しかし「せっかく整形させてらもった」母に対して、醜い容姿のままでいるという選択肢を選ぶことはできなかった…。 ■自分で決意した整形だったはずが… ■整形は「やらなければいけない」もの 泣きながら施術を受けました。 いまなら「泣くほどつらいならやらなければいい」と判断ができるのですが、当時はそんな判断はできませんでした。 意志に反して涙が出てくることは、中学生の頃からたまにあったのです。 中学校で授業中突然泣いてしまったとき、一度先生に呼び出され、「なぜ泣くのか?」「悩みがあるのか?」と聞かれたことがありました。 そして正直に 『親が厳しい、部活をやりたくない』 と打ち明けると、 『そんなの皆そうだ。お前は甘えている。お前の悩みはたいしたことない』 と言われました。 『かまってほしくて泣くのなら不適切だからやめなさい』 とも言われました。 いくら先生でも、生徒の家庭の内部の内部まで見ることは難しいと思います。 家庭は、たとえ内部が歪みに歪んでいたとしても、表面だけなら取り繕えるからです。 うちの場合、親が外での評判がとても良かったので、 『親はあんなに良いのに、なんでお前はそんなんなんだ』と言われたこともあります。 そういった少しずつの積み重ねで 【母が正しい。自分は悪い。自分以外の人が正しい。】 と、すっかり刷り込まれ、疑う事もありませんでした。 →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年05月15日■前回までのあらすじ 小さいころから『母の求める正解』だけを探し求めていたために、「自分の好きなこと」「やりたいこと」が自分でもわからなくなってしまった。そうして、成長するにしたがって母の評価指標である「他人からどう思われるか」が判断基準となっていってしまう。 ■整形をしたい気持ちとしたくない気持ち ■「整形しなくても愛されたい」これを考えることは罪なの? 整形するか否か、考えているときに、脳裏に浮かんだのは母の言葉でした。 『他人は言ってはくれない。親だから容姿の悪さを言ってあげられるんだ』 『他人も口に出さないだけで、皆ブスだと思って見下しているよ』 そう思うと、 【もう整形しなくてもいい?】と一瞬でも考えてしまった自分が、とてもおこがましく感じました。 母は私を思って整形させてくれたのに、それを嫌だと感じてしまう自分が悪い、間違っているのだ、と思いました。 母は私を思って整形させてくれたのだから、ブスに戻って絶望させてはいけない。 美人でなければ、母からはもちろん、誰からも愛されないと思い込んでいたのです。 →次回に続く ※この物語は私の経験を基に、一部フィクションもまざっております。
2020年05月14日