女性自身がお届けする新着記事一覧 (24/893)
“ゆうちゃみ”ことタレントの古川優奈(22)の、Xのとある投稿が話題を呼んでいる。ゆうちゃみは、23年まで『egg』の専属モデルを務めていたギャルモデル。飾らないキャラクターがバラエティで人気を呼び、ニホンモニターが発表した「22年度上半期ブレイクタレントランキング」にて第1位を獲得。「お風呂に2日、3日入らん」という怠惰なエピソードを披露する一方で、22年9月に出演した『プレバト!!』(TBS系)で披露した俳句が1位を取るなど、マルチな才能を持つゆうちゃみ。「令和の白ギャル」として、バラエティに引っ張りだこだ。そんなギャルの代表として人気を集めているゆうちゃみだが、Xで投稿した“自撮り”への“意地悪な指摘”が注目を集めてしまうことに。その投稿は、5月2日にアップした《ぎゃるとなちゅらどっちがすき?》というポスト。通常の濃い目のギャルメイクとはうって変わって、三つ編みにナチュラル風のメイク姿といういつもと少し趣の違った自撮り写真を投稿していた。コメント欄では《うーん、選べない》《どっちも可愛いいよ》と称賛の声が殺到。その一方で、あるユーザーが鼻元を拡大した上で「鼻毛が出ている」と指摘する投稿をアップし、X上で拡散されることに。一部メディアもネットニュースとして取り上げたこともあって、当該投稿には780万弱ものインプレッションがついていた。しかし、ゆうちゃみはこの“鼻毛”投稿を削除しないだけでなく、鼻毛を指摘した投稿に対して“いいね”までするという寛大な対応を見せた。ゆうちゃみが見せたこの“神対応ぶり”に、SNSでは「さらに好感度が上がった」と称賛のコメントが相次いでいる。《そんなとこもかわいいやん》《そういう時もあるよ》《鼻毛くらい出るよ》《同じ人間で安心した》《かわいいじゃん、、、#抜け感?》《鼻毛と騒がれても削除しない、ゆうちゃみが良い!》
2024年05月20日米アーカンソー州ブライアントで、教え子の男子と何度も性的関係を持った元教師に13年の実刑判決が下った。連邦検事局が公表した。ブライアント高校で生活科学を教えていたヘザー・ヘア被告(33)は、’21年の新年度がスタートした日に、3年生になった被害者に目を付けた。一対一のカウンセリング・セッションを設定して何度か二人きりで話をした後、InstagramやSnapchatのDMで連絡を取り合うようになったという。そして、生徒に「あなたとセックスする夢を見たの」と言って自宅の住所を教えた。ヘア被告と生徒は’21年から’22年にかけて、自宅や車内、高校の教室や駐車場などで約30回にわたり性的関係を持ったことがわかっている。また’22年4月、被告はワシントンD.C.への校外学習を引率していたが、その間にも被害者と逢瀬を重ねていた。州をまたいで犯行に及んだことからFBIも捜査に加わり、’23年8月にヘア被告は合衆国検事補により起訴された。不法な性行為を目的として、未成年者に州境を越えさせた罪などで有罪を認め、連邦刑務所に13年収監されることが決まった。釈放された後も生涯監視下に置かれるという。「この元教師は、信頼されているという立場と、未成年者のもろさにつけ込み、役割を利用して未成年者を誘い込んで違法な性的行為に関与させました。我々は生徒を性的に虐待した教育関係者に対し、重い罰則を求め続けます」と、アーカンソー州東部地区のジョナサン・D・ロス連邦検事はコメントを公表している。
2024年05月20日5月20日放送の『ヒルナンデス!』(日本テレビ系)に、モデルでインスタグラマーのたけうちほのか(27)が出演した。たけうちの兄は、有名俳優の竹内涼真(31)。たけうちはモデル業などを行っていたが、昨年、『ゴッドタン』(テレビ東京系)の企画「第2の松丸オーディション」で優勝したことをきっかけにプチブレイク。“下ネタOK”なあけっぴろげなキャラを生かし、『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系)『酒のツマミになる話』(フジテレビ系)など人気番組に次々と出演し、“バラエティの新星”として活躍している。この日放送の『世界まる見え!テレビ特捜部』(日本テレビ系)の2時間スペシャルにも出演する竹内は、番宣も兼ねて『ZIP』『DayDay』『ヒルナンデス』に出演。たけうちも前日、Xに《明日はZIP、DayDay、ヒルナンデスまで電波ジャックだぞ〜!楽しみ!!》《明日の朝は日テレずっとつけててよ!》と投稿しており、“電波ジャック”を予告。ヒルナンデス放送終了後に、《ありがとうございましたあの梅マヨソース絶対つくる》などと投稿していた。これらの番組でたけうちが「竹内涼真の妹」と紹介されていたことで、認知した視聴者も多かったよう。SNSでは、竹内の妹の姿に驚きの声が寄せられていた。《竹内涼真の妹はじめてみたな》《ゲストに竹内涼真の妹が出でる。妹いるの知らなかった》《たけうちほのかがヒルナンデスに出てるーーワイプでも可愛いw》《たけうちほのか #ZIP 出てるやん。じわじわ売れてきてるなぁ。#ゴッドタン 効果やなぁ》
2024年05月20日5月18日、フジテレビ系で放送された漫才賞レース『THE SECOND~漫才トーナメント』。結成19年目のコンビ・ガクテンソクが優勝して話題を集めた、祝福が相次いだ。しかし、そんななか番組中に放送されたた“あるCM”が物議を醸している。そのCMとは、中国の激安ECサイト「Temu(テム)」と『THE SECOND』のコラボCM。「THE W2023」で優勝したお笑いコンビ・紅しょうがが登場し、Temuで販売しているアイテムを漫才風に紹介するというもの。そこで紹介されたワイヤレスイヤホンは税込100円、テントは税込300円と格安の値段だ。しかしこのCMに対し、SNS上では疑問の声が相次いでおり……。《Temuってやばいサイトじゃなかったっけ…?こんな大々的にCMしていいもんなんか?》《TEMUってヤバいイメージしかないけどSECONDのスポンサーになってて地上波でCMやるんや…》《スポンサーのTemuって最近発がん性物質で話題になったとこかえ?良い評判聞かないけど安全なとこなんかえ?》社会部記者は言う。「Temuは23年7月に日本に進出したECサイトで、家電、ファッションアイテム、日用品などジャンルを問わずさまざまな商品を販売しています。どの商品も格安で、90パーセントオフなどのクーポンが頻繁に配付されるのも特徴です。中国国内ではアリババなどに次ぐ企業規模だといい、日本のアップルでのアプリダウンロードランキングも現在1位と、徐々に知名度を上げています」いっぽうで、Temuをめぐってはいくつかの問題が指摘されている。「23年、アメリカ議会の『米中経済安全保障再考委員会』が、新疆ウイグル自治区での人強制労働防止法違反やクレジットカードを介した情報漏洩が懸念されるとし、『問題企業のひとつ』と指摘しています。さらに今年4月には韓国の仁川本部税関が、Temuが販売する製品48個から基準値の最大700倍もの発がん物質が検出したと報じています」(前出・社会部記者)問題視されている企業のCMが全国ネットで放送されるという事態。実は4月にも“大人気番組”にTemuが登場して波紋を呼んだ。「4月6日に放送された『オールスター感謝祭』(TBS系)で、出演者がTemuの商品を紹介する場面があり、その際もネット上では今回と同様の指摘があがっていました」(前出・社会部記者)4月、『FLASH』の取材に対し、Temuの安さの理由を同社の広報担当者は次のように答えている。「本来は中国製品が日本の消費者に届くまでにかかる倉庫の保管料や配送などのコスト、メーカーや卸業者への手数料を、Temuはすべてカットしているのです」地上波での宣伝でさらに拡大しそうなTemu。果たしてAmazonを脅かす存在となりうるかーー。
2024年05月20日5月19日、元グラドルの矢部美穂(46)がInstagramに近影をアップ。その美貌に、ファンが大喜びしている。矢部は’92年、雑誌『Momoco』のコンテストでグランプリを受賞して芸能界デビュー。グラビアやバラエティ番組を中心に活躍し、’98年にはイジメについて語った著書『学校拒否』(光進社)が話題を呼ぶことに。近年も『アウト×デラックス』(フジテレビ系)のスペシャル版などのテレビ番組やYouTubeなどで活躍し、プライベートでは’22年5月に騎手・山林堂信彦(45)との結婚を発表している。そんな矢部は19日、Instagramに競馬場と思われる場所での自撮りをアップ。そこにはヒラヒラとした薄手のトップスを纏い、微笑む矢部の姿が。落ち着いたブラウンの髪にシルバーのアクセサリーという、清楚なコーディネートの矢部はこう綴った。《今日もクッションファンデ めちゃくちゃいい パウダリーファンデたまにしか使わなくなった 最近はクッションとパウダーとチークで完成っ 楽になりました》矢部は簡単なメイクだというが、ファンはその美しさに驚くと共に大喜び。リプライ欄には、絶賛の声がこう綴られている。《めちゃくちゃステキな笑顔ですね いつもステキすぎます 白がよく似合ってキレイです》《美穂さんめちゃめちゃ美しい美しい美しい》《可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い》《ギリシア神話に出てきそう〜》Instagramに《そして、今日は東京競馬場でオークス 当てたいなぁ〜!!》とも綴っていた矢部。その後、ストーリーで馬券の写真をアップし《久しぶりにG1当たり》と報告している。その美貌に、勝利の女神も微笑んだのかもしれない。
2024年05月20日お笑いコンビ「パーパー」のあいなぷぅ(30)が5月19日、自身のXを更新し、10キロのダイエットに成功したことを報告。ビフォーアフターの激変ぶりに注目が集まっている。あいなぷぅは《こっそりダイエットして10kg痩せました~!》と2枚の写真を投稿。体重53kgの過去の写真と、減量して43kgになった現在のビフォーアフターが見比べられる。また《ベジファースト!》と記しており、野菜を最初に食べるダイエット法で減量に挑んだことが伺える。所属事務所のホームページに掲載されているプロフィールによると身長は152.5cm。もともと太っていたわけではないが、そこからさらに減量を行なったようだ。あいなぷぅは’22年に30万円をかけて二重まぶたの整形を行ったり、歯列矯正を行っていることも告白しており、女性たちの共感を集める存在。美に対して努力を惜しまない姿勢と、ビフォーに比べてほっそりした足が際立つミニ丈の黒いワンピース姿にファンからは称賛の声が上がった。《凄い!別人みたい!》《足綺麗すぎます。脚やせ教えて欲しいです》《足が凄く違う》《どうやって痩せたかダイエット法教えてください!!!》《どーやったらこんな可愛くなるんだよ教えておくれよおおおお》
2024年05月20日5月20日、4人組人気ロックバンドNEEのメンバー・くぅさんが5月12日に亡くなっていたことが発表された。25歳という若さだった。バンドの公式ホームページでは、「生前 くぅ 改め 村上蔵馬を愛してくださった全ての皆様へ」という掲題で、《小さな頃から音楽が大好きで音楽しかしてこなかった蔵馬が、田舎を飛び出して世界に自分の音を響かせることが出来たのは、何よりも支えてくださったファンの皆様のおかげです》とファンへの感謝を綴った。死因については明かしていないが、《このような形になってしまいましたが、蔵馬は最期まで懸命に生きようとしていました。きっと本人が一番悔しがってると思います》とコメントしている。NEEは17年7月に結成されたロックバンドで、21年9月にメジャーデビュー。くぅさんはボーカルとギターを担当していた。6月23日には東京・日比谷野外大音楽堂でのワンマンライブを控えるなかでのことだった。「5月12日にNEEが出演予定だった音楽フェスはくぅさんの体調不良のため出演キャンセルすると、11日にNEEの公式Xで報告されていました。今後も、『SWEET LOVE SHOWER』など大型音楽フェスの出演をいくつか予定していましたが、すべて出演をキャンセルとなるそうです」(スポーツ紙記者)あまりにも若すぎるくぅさんの死に、X上には《NEEまじか》《NEEのボーカル亡くなったのか……》とショックを受ける声が広がっている。さらにファンが注目したのは、くぅさんの生前最後のSNS投稿。亡くなる3日前である5月9日、くぅさんはXにこう綴っていた。《野音ソールドアウトしたから爆破する》「6月23日の野音でのライブは、9日にチケットが完売したとNEEの公式Xで伝えられていました。ほかのメンバーも完売を喜ぶコメントを投稿しており、くぅさんも同じ思いだったのではないでしょうか」(前出・スポーツ紙記者)野音に向け、意気込んでいたはずのくぅさん。突然の訃報にX上では衝撃が広がっている。《最後のツイートがこれは…》《初めて行くにーの野音たのしみだった、本当に嘘だと言ってほしい、しんじたくない》《帰ってきてくれよ》《嘘と言ってください!!ショックです…信じられないです…》《ねぇ、、まだ爆破してないじゃん。 爆破するって言ったじゃんか、、ねぇ、、 まだだって、、ダメだって いなくならないでよ、、ねぇ、、》
2024年05月20日5月19日、BLANKEY JET CITYの元メンバーであるドラマーの中村達也(59)がXでファンの行為に大激怒した。BLANKEY JET CITYは’91年にデビューした伝説的ロックバンド。「ガソリンの揺れかた」「赤いタンバリン」といった楽曲でカリスマ的な人気を誇ったが、’00年に解散した。以降、中村はバンドでの活動やセッションを行ういっぽうで、ソロのパフォーマンスも行なっている。そんな中村は5月18日、神奈川県横浜市にある商店街で行われたイベントに出演した。イベント終了後、中村はファンが撮影した自身のパフォーマンスの動画をXでリポスト。なかには激しいドラミングにファンが興奮する様子が収められたものもあり、中村のパフォーマンスが大盛況だったことが伺える。ところが19日深夜2:50ごろ、中村は突然Xにこう綴った。《わたしのドラムセットに勝手にすわりこんで記念撮影など今後はお断りいたします。それとわたしのドラムセットはテーブルじゃないです。飲みものなどおかないでくださいね。ありがとうございました》怒りが収まらないのか、その30分後にも中村は《にどとくるな》と投稿し、さらに《スタッフからOKでててドラムにはさわってないそうです。だったらいいのか あほくさ 勉強なりました ありがとうございました》と呆れた様子で結んだ。「現在Xでは、中村さんが激怒したと思われる写真が拡散されています。それはある男性ファンが中村さんのドラムセットに座り、おどけたように手を広げているというものです。ドラマーにとってドラムセットは自身の相棒ですから、中村さんは勝手に座られたことに対して不愉快な気持ちになったのでしょう」(音楽関係者)Xに《茶をしばいてねます!》とも綴っている中村。大盛り上がりのパフォーマンスだったにも関わらず、後味の悪い思いをしてしまったようだ。
2024年05月20日「離婚相談を受けるときは、まず相談者の話を細かく聞きます。感情的なことを受け止めながらも、要所要所で、法的に大事なことを伝える。とくに離婚の場合、経済的な問題が重要となってくるので、お金の話をすると感情が落ち着き、冷静に考えることができるのです」こう語るのは、年間900件以上、累計で6,000件以上の離婚相談の実績を誇る、弁護士法人丸の内ソレイユ法律事務所の代表を務める、中里妃沙子弁護士(63)。現在、離婚問題などに精通した18人のプロフェッショナル集団を束ねる“ボス弁”として、法曹界でも有名な存在だ。そんな中里さん、学生のころはとくに弁護士を目指していたわけではなかったという。「高校3年の2学期の親子面談で、担任の先生から、“東北大学法学部を受験しなさい”と、いきなり勧められたんです。当時、法律にはまったく興味がなかった私でしたが、“先生が勧めるなら頑張ってみようかな~”と、軽い気持ちで受験したのが、この道に進むきっかけとなりました」高校3年のときの担任は、クラスメートの進学に関しては、すべて自分で大学と学部まで決める“変わり種”の先生だったそうだ。「そのとき先生から言われた言葉は今でもよく覚えています。“これからの時代、女性の法律家がもっと必要になってくる”と――」そして東北大学法学部に入学。ところが、大学4年生になっても法律家になるつもりはなかった。「大学4年の4月、周りから“せっかく法学部の学生になったんだから、1度ぐらい司法試験を受けてみたら?”と言われたので、5月の司法試験までの1カ月間だけ勉強して受けてみたんです。もちろん落ちました。でも、こういうタイプの試験は私に合っている、得意な試験だと強烈に感じたんです。ちゃんと勉強をすれば絶対に受かる……。初めて司法試験を受けたときに、弁護士を目指そうと決めました」だが、ここから司法試験合格までの長い道のりが始まる。■2人の“変わり種”の恩師に導かれて――当時の司法試験は、合格率が約2%という狭き門。中里さんは、なんと12回目の挑戦でようやく合格したのだ。その後2年間、司法修習生として実務などを学び、あとは弁護士としての活躍の場を見つける段階となったのだが……。「1995年ごろは、女性の弁護士が就職するのが難しい時代で、20の法律事務所中19落ちました。ただ、運よく自分がいちばん入りたいと思っていた事務所が採用してくれました。そこは男性の弁護士が1人でやっている事務所でしたが、企業案件の実績や事件処理などが天才的で、カリスマ性のある人でした。女性弁護士が就職難のときに、私以外にもう1人女性を採用するなど、ちょっと変わったボス弁でしたけど(笑)。私は19の事務所に落とされた悔しさよりも、この人だという弁護士がいる事務所に入れた喜びのほうが大きかった」就職してから3カ月。中里さんはいきなり、そのボス弁から大きな案件を任される。それは個人経営者が、ある大企業に立ち向かう金銭絡みの訴訟だった。「プロの弁護士として、初めての仕事でした。最初はボス弁が担当していた案件でしたが、途中から最後まで私がやることになり、結審までに2年ぐらい費やしました。第一審でコテンパンに負けました。でも、第二審では和解が成立したんです。大企業相手に和解に持ち込めたのは、事実上、勝ったようなもの。今思えば、ボス弁にはデビュー戦から凄い経験をさせてもらったと思っています」中里さんの法律家人生は、まるで2人の変わった恩師に導かれたかのようでもある。その後彼女は、弁護士としてのキャリアを着々と積み重ね、2009年、離婚事件のリーディング法律事務所として、丸の内ソレイユ法律事務所を設立。離婚問題に悩む多くの女性たちのために、的確な解決策を日々アドバイスしている。「今後は、専業主婦の割合が減少することで、男性も育児や家事に参加する必要がさらに出てくるでしょう。そのような社会変化に伴い、男性からの相談件数も増える時代になってくると思います」今後、アメリカにも事務所を開設して、離婚相談や国際相続の相談にも対応していきたいという中里さん。こんなにエネルギッシュでバイタリティ溢れる弁護士なら、相談したくなりますね!【PROFILE】なかざと・ひさこ東北大学法学部卒業、司法修習47期。1995年に都内法律事務所での勤務を経て、アメリカに留学。南カリフォルニア大学ロースクールLLMコース卒業、2009年に弁護士法人丸の内ソレイユ法律事務所を設立。現在、法政大学大学院公共政策研究科サステイナビリティ学専攻兼任講師
2024年05月20日「三淵嘉子さんが、定年を迎え横浜家裁を笑顔で後にしたときにかぶっていたのが、赤いベレー帽。今日は私もかぶってきました(笑)」キュートな笑みを浮かべながら、そう話すのは、日本弁護士連合会で、再審法改正実現本部の本部長代行を務める、Kollect京都法律事務所の鴨志田祐美弁護士(61)。毎朝、仕事に出かける前に『虎に翼』を見て、「よし、今日も頑張るぞ!」と気合を入れているとか。経歴がとてもユニークで、大学卒業後、社会人、結婚、出産、そして予備校講師を経て、なんと40歳で司法試験に合格したという“変わり種”なのだ。「鹿児島でやっていたときは、“マチ弁”(町医者的弁護士)として、民事事件、家事事件(離婚・相続等)、刑事事件など、さまざまな案件を手がけてきました」その一方で、彼女は「大崎事件」の弁護人を20年間も続けている。現在は、「大崎事件」での再審無罪の獲得と、冤罪被害者の真の救済を可能とする再審法改正の実現を車の両輪と捉え、自らのライフワークとして活動している。「大崎事件」――1979年10月、鹿児島県の大隅半島にある、大崎町内の小さな集落で、当時42歳の男性が牛小屋の中で、堆肥に埋められた状態で発見された、「殺人・死体遺棄事件」。主犯とされ、懲役10年の実刑となったのが、原口アヤ子さん(96)。彼女は事件発覚当時から、そして出所した後も、一貫して無実を主張している。そのアヤ子さんをずっと支え続けているのが鴨志田弁護士だ。「『大崎事件』は、これまで地裁で2回、高裁で1回、再審開始決定が出されています。ひとつの事件で、3回再審開始決定が下されたのは、日本ではこの事件だけです」だが、いずれも検察官の不服申し立てにより、再審開始決定が覆されている。「この事件は、“有罪か無罪か”ではなく、“再審を行うか、否か”で、1995年の第一次再審請求から29年間も闘い続けているのです。私たちはこれを“再審妨害”と呼んでいます。日本の再審制度そのものを改正しなければ、冤罪被害者を救うことはできません」物的証拠もなく、知的障がいのある3人の人物の供述によって、アヤ子さんは逮捕された。「3人は言葉をうまく伝えることができない“供述弱者”なんです。私の弟に知的障がいがあったので、その縁でたくさんの人と接してきました。知的障がいのある人は、争いごとが苦手で、ましてや取り調べで、強い口調で攻め立てられると固まってしまい、抗うことなどできなかったはずです」■物を言えない人の代わりに物を言う鴨志田さんは、子供のころから障がいのある人や在日韓国人・朝鮮人への差別や偏見を目の当たりにしてきた。「極めつきは、私が高校生のときでした。父親が亡くなった後に、父の義兄がハンセン病の療養所にいたことを初めて知ったのです。父からは、伯父は早くに亡くなったと聞いていたので、本当に驚き、ショックを受けました。父は自分の妻や娘にも、身内にハンセン病の患者がいることを言えないまま亡くなったのです。当時、それほど凄まじい差別があったのだと実感させられました。そういう経験から、私は“物言えぬ人の代わりに物を言う”弁護士になろうと思ったのです」40歳を過ぎてから弁護士になった鴨志田さん。ライフワークとしている再審法改正が実現すれば、自分が弁護士になった意味が十分にあったのではないかと感じている。だから、何としても法改正をするまでは、やめるわけにはいかないと強い覚悟を持っているのだ。「日本の再審法のルーツはドイツです。そのドイツでは検察官の不服申し立ては立法で禁止しています。本家はもうやめているのに、日本はまだこんな制度を残したままです。再審が認められても、検察官が不服申し立てをすることで、いたずらに時間をかけるだけ。すぐにでも法改正をしないと、また次の犠牲者が生まれてしまいます」再審法は、大正時代からの規定がほとんどそのままスライドしてきており、すでに100年変わっていないそうだ。「私が三淵さんのことを敬愛しているのは、“女性初”だからでも“女性の代弁者”だからでもありません。救うべき弱者を現状の法制度が救えないのなら、その法制度を変える。それを実現するために闘い続けた、彼女の“ヒューマニズム”に強く共感するからです」ベレー帽はその象徴なのだ!【PROFILE】かもしだ・ゆみ早稲田大学法学部卒業、司法修習57期。2007~2015年、鹿児島家庭裁判所家事調停委員、鹿児島地方・簡易裁判所民事調停委員。2021年、京都弁護士会に移籍、2022年、Kollect京都法律事務所設立。現在、日本弁護士連合会再審法改正実現本部本部長代行
2024年05月20日“法律上の性別が同じカップルが結婚できないのは憲法違反だ!”現在、全国(札幌、東京、名古屋、大阪、福岡)5都市で、「同性婚訴訟」(『結婚の自由をすべての人に』訴訟)の審理が行われている。これまで地方裁判所の判決は、全6件中5件が違憲と判断。今年3月の札幌高等裁判所でも違憲判断が示されたばかりだ――。「海外では、ヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニア、アジアでは台湾など、37の国と地域で同性婚が可能となっています。G7の中で同性カップルを法的に保障していないのは日本だけなんです」こう語るのは、東京訴訟弁護団の共同代表を務める、弁護士法人東京表参道法律会計事務所の寺原真希子弁護士(49)。寺原さんは企業法務や民事事件を手がける一方で、LGBTQ+、性的マイノリティの人権擁護にも力を注ぐ、“弱者に寄り添う弁護士”として、メディアでもよく取り上げられる人物だ。同性婚や選択的夫婦別姓の訴訟で弁護団活動をするほか、同性婚の法制化に向けたシンポジウムや国会議員、企業への働きかけなど、これらすべてを無償で行っている。彼女はなぜ、ここまで熱心に人権擁護の問題に取り組むのか。「私の記憶がある3歳ごろには、既に父は母に暴力をふるっていました。父が暴力をふるうたびに、母と私と弟は家から逃げ出して、近所の家にかくまってもらう、そんな生活が高校卒業まで続きました。当時はDV防止法もなく、警察に行っても民事不介入で対応してくれない。母を助けることができず、自分の無力さを感じました」彼女は、父親のDVに苦しむ母親の姿を間近に見てきたのだ。「母は離婚したがっていましたが、私と弟を養う経済力がなかったので離婚ができず、父の暴力に耐えながら生活するしかなかった」そんな母親から寺原さんは、“精神的自立は経済的自立から”と、幼少のころからずっと言い聞かされていたという。「私が小学校高学年のときに、弁護士という職業があることを知り、将来、経済的に自立するためには、弁護士か医者になろうと」中学生になると、法律への興味がより一層高まる出来事が起きる。「公民の授業で、憲法第25条を習ったんです。“すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する”――。国民には“生存権”がある。国家には生活保障の義務があるということを知りました。私は人間らしく生きる権利があるのだと解釈し、母のように苦しみを強いられる生活はおかしいという気持ちがより強くなりました」ところが、理系が得意だった彼女は、高校卒業後、東京大学理科二類に進学。医者になることも考えたという。だが……。「やはり弁護士になって、母のような境遇の女性の力になりたいという思いが強くなり、大学3年から法学部に転部しました」■自分らしく生きられない人を助けたい寺原さんが人権擁護の問題に取り組む背景には、母親のように“自分らしく生きたいけど生きられない。そういう人たちを助けたい”という信念が根底にあるのだ。現在、彼女のライフワークともいえる「選択的夫婦別姓訴訟」と「同性婚訴訟」の取り組みを本格的に始めたのは、2010年に独立してからだ。「2011年に『選択的夫婦別姓訴訟』が提起され、弁護団に入りました。同年に性的マイノリティの問題に関心を持つようになり、2012年、全国の弁護士会の中で初めてLGBTQ+のためのプロジェクトチームを立ち上げ、シンポジウムを開催するなど活動を始めました」2019年2月、同性婚訴訟が始まって以降、社会的に大いに注目されるようになってきている。「裁判所は社会の関心の高さ、国民の意識などを考慮します。同性婚訴訟はあと2年ぐらい。今年3月に提起した第3次選択的夫婦別姓訴訟については4~5年後に、最高裁で判断が出ると思います。弁護団として、最高裁で違憲判決を勝ち取ることに全力を注ぎます」寺原さんは、自らが立ち上げた、公益社団法人「Marriage For All Japan―結婚の自由をすべての人に」を通じて、世論の関心をさらに高める活動も続けている。最後に、寺原さんの母親は、2000年に離婚し、現在81歳でお元気だ。「母いわく、“間違った結婚だったかもしれないけど、あなたたちが生まれてくれたことが救い。だからつらいことだけじゃなかった”と。母の言葉は、常に初心を思い出させてくれます」【PROFILE】てらはら・まきこ東京大学法学部卒業、司法修習52期。2000年、都内の法律事務所に勤務後、アメリカに留学。20’08年、ニューヨーク州弁護士登録、2010年、榎本・寺原法律事務所(現:弁護士法人東京表参道法律会計事務所)共同パートナー、2022年、選択的夫婦別姓訴訟弁護団の団長
2024年05月20日《自分が作っているのは、“道”だと思うんです。価値観だったり、背景だったり、過去だったり、未来だったり、そういったものが道になり、その道の途中で自分でも気づきがあったり、感じるものがあったり。僕はそれを観客の方に観てもらい、共有してもらう。その道が楽しかったって、歩いてきてよかったって思ってもらえると、やっぱりうれしい。それが幸せだから、この道を歩き続けられるんだと感じています》(「GQ JAPAN」’24年5月8日配信)そう語ったのは羽生結弦(29)。どんな経験も“道”になるという話のとおり、さまざまな苦難を乗り越え、現在は絶好調のようだ。「昨秋から続いていた離婚に関する騒動も落ち着き、今は5月末に出演するアイスショーに向けて練習しているといいます。また、3月からGUCCIのブランドアンバサダーに就任していますが、着用商品は即完売。写真展は予約でいっぱいだそう。なにがあっても衰えない人気ぶりです」(フィギュアスケート関係者)冒頭のインタビューで、羽生はこうも宣言していた。《僕がこの先、あと30年間、フィギュアスケートという“言語”に付き合い続けたら、その年になったからこそ出てくる表現、その時にしか出せないフィギュアスケートっていうものが存在するかもしれないと思って。僕はその可能性があると信じているし、その可能性のために挑み続けなければならないと思っているんです》スポーツ紙記者は言う。「30年後には羽生さんもほぼ還暦。もし60歳で現役バリバリのスケートを披露するなんてことがあれば、伝説になります。今後も唯一無二の挑戦を続けるつもりなのでしょう。とことん未来だけを見据える羽生さんの姿勢がうかがえます」過去を清算し、前に進んでいるように見える羽生。ただひとつだけ整理していなかったのが、マンションだ。「元妻の誕生月でもある’22年3月、羽生さんは仙台市内の高級マンションの最上階、隣接する2室を現金で購入していました。1室約100平方メートルの広さで、価格も1億円超と豪華な“億ション”です。最後の五輪出場も終えて、結婚のために着々と準備を進めていたのだと思われます。実際、1室に羽生さんの両親と姉、もう1室に羽生さんと元妻という形で新婚生活を始めたそうですが、約3カ月で離婚に至りました。外出やバイオリンの禁止など、元妻の行動が制限されていたという報道もありましたね。元妻はその後マンションを出て、東京の一等地で生活しています」(前出・スポーツ紙記者)■“決意表明”の日にマンション売り払い喜びも悲しみも詰まった、たった105日の“愛の巣”。ついに羽生は決断した。前出のフィギュアスケート関係者はこう話す。「4月19日、羽生さんはマンションの1室を不動産会社に売却していたのです。19日は羽生さんにとって転機の日です。’22年7月19日に“決意表明の場”として開いた会見で、彼はプロ転向を発表しました。今年の7月19日は、初の単独アイスショー『プロローグ』のDVDの発売日になっています。今回も、自分の中で一区切りをつけるためにこの日を選んだのでしょう」そして羽生が売却した部屋は、誰もが購入できる状態で売りに出されているという。「大きなクローゼットが印象的な間取りです。寝室がいくつかあるので、子どもを育てる未来も考えていたのかもしれません」(不動産会社関係者)その値段は、購入価格とほぼ同じようだが――。「彼は、一つ一つの数字を大切に扱う人です。たとえば以前、ぴったり311秒のプログラムのメドレー動画を投稿し、被災地への祈りを示していました。“サンキュー”の気持ちを込めて、ファンのために39秒の動画を投稿したこともあります。今回の価格設定にも少しひねりがきいていて、実に羽生さんらしいと感じました」(前出・フィギュアスケート関係者)前出の不動産会社関係者は、販売価格についてこう分析する。「近年、仙台のマンションの資産価値は、基本的には上昇傾向にあります。少し待てば、今より高く売ることもできたでしょう。それでも羽生さんは、購入時とほぼ同価格で“投げ売り”しています。利益を無視してでも、一刻も早くこの部屋を手放したい、状況をリセットしたいという思いがあったのかもしれません」では、残されたもう1室はどうなっているのだろうか。「このマンションを買うまで、羽生さんは家族と住んでいました。リンクへの送迎や食事管理などを家族が行っているからです。ただ、売りに出した手前、自分のファンなどが隣人になって問題が生じる可能性もあります。そのためすでに別の場所へ、一家で引っ越しているかもしれません」(前出・フィギュアスケート関係者)羽生家が経営する個人事務所「株式会社team Sirius」の代表取締役に、マンション売却について尋ねたところ「回答は差し控えさせていただきます」と文書で回答があった。《実際、まだまだ進化の途中だと僕は思っているので。これからも努力し続けて、いろんな経験を力に変えて、応援も力に変えて進んでいけたらいいなと思います》(「スポーツ報知」‘24年4月8日配信)“愛の巣”を売る直前、4月7日のアイスショー『RE_PRAY』宮城公演の終演後に、次の野望を聞かれこう答えていた羽生。苦い離婚の思い出も力に変えて、心機一転、未来に突き進む――。
2024年05月20日大病を患った人の多くが、発覚当初に感じるという「まさか私が……」という思い。その「まさか」を経験した立花理佐さん(52)に、辛く厳しい闘病の日々を赤裸々に語っていただきました。■’23年11月、自身のブログで直腸がんであったことを公表した立花理佐さん。その後もつらかった心境を包み隠さず発信し、読者の反響を呼んでいる。「元気をもらっているのは私のほう。こうして病気のことを語ることができるのも、多くのメッセージに励まされているからです」今は明るい笑顔でそう語れるようになった立花さんだが、闘病中は無意識に何度も「死にたい」と口にしていたという。’20年5月に直腸がんが発覚し、抗がん剤、放射線治療を経て、腸、子宮、卵巣などを切除する手術へ。術後の激しい痛みと抗がん剤や放射線治療の副作用に悩まされた。「今思うと、何かに乗っ取られているような感じでした。『痛い!』と思うときだけわれに返るというか。正直、細かいことは覚えていないことも多いです……」最初に感じた異変は「トイレに行きたい」と思う頻度が、どんどん高くなっていったことだという。「緊張するとトイレに行きたくなるような感じがずっと続いていたんです。スーパーとかトイレがない場所だと急に心配になって、余計に行きたくなるという感じで」そして痛みを伴いはじめた。「痔も出ていましたが、薬で痛みが治まるので、気にしないようにしていました。でも、痛くて座っているのもつらくなってきて……たまにドバッと血が出ることも」’20年3月、新型コロナウイルスが騒がれはじめたころ、トイレの回数と痛みが「尋常じゃない」と思いはじめたという。見かねた夫が立花さんを病院に連れていった。「診察してもらった瞬間に『検査しましょう』と伝えられて、そのまま内視鏡検査に。もう何が何だかわからないうちに『うわあ~』って。それは痛かったですよ」検査結果が出るまでに、不安や恐怖はなかったのだろうか。「『私は痩せてないから、大丈夫だよね』と思っていました。がんで亡くなってしまった堀江しのぶちゃんと仲がよくて、病気がわかる前に会ったとき、痩せてすごくきれいになっていたんです。それで『ダイエットしたの?』と聞いたら『何もしてないの』と、うれしそうな笑顔だったことが印象強くて……」1週間後、一人で告知を受けた。「ドラマとは全然違って、ただ『がんです』と言われただけ。『ほえ?』みたいな。正直、何を言っているか意味がわからなかったです」大きな病院へ転院し、夫と2人で病状の説明を受ける際も、「『腸から子宮にガブッとなっている』って。ほかにもいろいろ話していましたが、難しくて何を言っているかわからないし、どこか人ごとで、私はほとんど聞いていなくて。夫が近所の人に『あいつ本当にわかっているのかな?』と漏らしていたみたいです(笑)」治療では、抗がん剤と放射線治療でがんを小さくしたうえで、腸、子宮、卵巣などを摘出することに。「実は10年ほど前から子宮内膜増殖症という、前がん性の病気のためホルモン剤を飲んでいたんです。そろそろ飲まなくていいかもね、というタイミングで直腸がんが見つかって。摘出については仕方ないというか、そうだよなって」大きな手術にもかかわらず「手術後すぐに復帰できる」と思っていたといい、このときは“悲劇のヒロイン”を楽しむ余裕もあった。「友達や親戚にも『ちょっと手術してパッと取るだけだから』と言っていました。夏場だったので、着替えやすいワンピースを2着買って、病院まで音楽を聴きながらさっそうと歩いたり。体力をつけるために『なんでも食べていい』と言われたのもうれしかった(笑)」そして’20年11月、13時間におよぶ大手術が行われた。術後に目を覚ますと、経験したことのない激しい痛みに襲われたという。「起きた瞬間から、(腹部周辺を指して)この辺り全部。痛かったら好きなだけ押していいっていう、痛み止めが出るボタンを押しまくりました。痛すぎて夢か現実かよくわからなかった気がします」■抗がん剤治療中は冷たいものに触れると激痛が…手術後の癒着を防ぐため、翌日から体を動かすよう伝えられた。「痛くて眠れないし、寝返りもできないし、食事するにも座っていられない中で『動け!』ですよ。私、出産より痛いものはないと思っていたんですよ。体の中が切り刻まれているんだもの、それは痛いに決まっていますよね……」1カ月ほどの入院中も退院後も、痛みは続いていたという。「座っていられないから、立っているか横になっているしかなくて、ほとんど寝たきりでした。歩くのもゆっくりすぎて信号を渡り切れなくて。走りたい気持ちがあっても体が動かないんです」今まで当たり前にできていたことが突然できなくなったことで、少しずつふさぎ込んでいったという。さらに、抗がん剤と放射線治療が追い打ちをかけることに。「副作用がすごくて、放射線はお尻がやけどのような痛みでトイレに座ると傷口に塩を塗られたような感じでしたし、抗がん剤では冷たいものに触れると激痛が走るように。手を洗うのもすごく怖いし、泣きたくても目の奥が痛くて泣けないし。冬だと、病院から出るときに顔が痛くて固まるんですよ」手袋をして洗濯物を干すなど、できる家事はやったが、できないことのほうが多かった。夫と息子の手厚いフォローに、はじめこそ感謝できたが、だんだん「私はいらないんだ」と思うように。そこに副作用への恐怖も重なった。「抗がん剤治療の最後のほうは、副作用が怖すぎて先生の顔を見るたびに涙が止まらなくて『もう無理!』『どうにかしてください』って泣きついていました」このころから「死にたい」と口にすることが増えていった。「ずっと泣いていて、息の仕方がわからない。体も思うように動かないし、悲しいし、痛いし、全部の感情が出てきて、自分でもよくわからなくて。助かってもこんなに苦しいんだから、死ぬときはもっと苦しいんじゃないか、とか『死』についてずっと考えていました。家でできることは少ないし、仕事復帰もできなくて、やりたいことを何も見いだせなかった」ふさぎ込む立花さんを救い出したのは、友人たちだった。「電話番号がわかる友達みんなに『がんでつらいんだけど!』って電話をかけました。中村由真ちゃんは、『ずっと連絡ないのに、急に連絡がきたからよほどつらいんだと伝わってきた』って(笑)。言われて困る人もいっぱいいたかも。でも、私にはいい友達がこんなにいたんだって思いました」立花さんの異変に気付いた友人たちが、外にも連れ出してくれた。「西村知美ちゃんや彼女のマネージャーさんの縁で、懐かしい友人の輪が広がっていって、昔から好きだった女子プロレスラーの方たちとも再会できたんです」そこからジャンボ堀さんが営む店に顔を出すようになった。「お店に行くたびに、わんわん泣いていました(笑)。大好きな人たちとつながり直して、少しずつ自分を取り戻したのかな。私の経験が誰かの役に立つんじゃないかと、公表を勧められて。その辺りから急に元気になったんです」公表によって“伝えること”にやりがいを感じているといい、「もう泣いていません!」と胸を張る。「前だったら、同じ境遇の人たちに『元気出して』なんて言えないと思っていましたが、今なら言える。私にできることをやっていきたいって意欲がすごくあるんです」
2024年05月19日「あら、木村さん。風邪は、すっかりよくなったようね」「ご心配かけましたが、なんとか生きてるわよ(笑)」ママチャリですれ違いざま、高齢の女性たちの会話が始まる。ふたりの背後では、初夏の日差しのなか、団地内の公園で遊ぶ子供たちの声が響きわたっていた。「また体調が悪くなったら、いつでも私の携帯に電話ちょうだい」と、笑顔で70代の住民に声をかけたのは、東京都立川市にある大山団地「大山自治会」相談役の佐藤良子さん(82)。大山団地は正式には都営上砂町一丁目アパートといい、26棟に1千400世帯・3千800人が暮らす。このマンモス団地がいま全国で注目されているのは、20年にわたり「孤独死ゼロ」を続けているからだ。最初の東京オリンピックの前年の1963年に入居が始まった同団地。高度経済成長期を経てわが国に押し寄せた高齢化の波は、当然、ここにも及んだ。佐藤さんが言う。「現在、65歳以上の高齢者が約1千人で、うち一人暮らしが約400人、高齢化率は34%です」同時に孤独死という深刻な社会問題も生じたが、大山団地では自治会がいち早く対策に乗り出し、「孤独死ゼロ作戦」を敢行。その牽引役が、当時の自治会長だった佐藤さんだ。■「自分が死んだあとのことが心配」という声を受けて始めた“自治会葬”「これは、ひどい……」初めて佐藤さんが孤独死の現場に立ち会ったのは、自治会長に就任してすぐのことだった。「あるとき、『一人暮らしの住人の部屋から異臭がする』と自治会に連絡が入り、警察の検視となりました。これに立ち会うのも、会長の役目のひとつなんです。部屋に足を踏み入れると、かつて経験したことのない臭いと、あえて言いますが、ウジのわく現場の悲惨さに絶句し、立ち尽くしてしまうわけです」その住人は、子供会の活動などに一緒に参加していた仲間だった。「なんで、そんな人がひとりで亡くならないといけないんだ。二度と、団地から孤独死は出さない」誓った直後から、佐藤さんは「孤独死ゼロ作戦」を掲げていく。「もう一度、地域とのつながりの在り方を根本から考え直さねば、と思いました」まずは、電力会社、ガス会社と水道局に協力を依頼した。「使用量が急に減ったり、集金時にいつもと違うことがあれば、すぐに自治会にでも私の携帯にでも知らせてください」同じく地域の新聞、牛乳などの宅配店にも出向く。わずか半日でも商品が受け取られないままになっていたら、異変の兆候とみなすという徹底ぶりだった。さらに孤独死以前の予防策として、認知症の兆候を早期発見するために商店街にも呼びかけた。「支払いや会話に異変があれば知らせてほしいと。その状況を、役所とも連携して、民生委員や離れて暮らす家族に伝えるシステムも作りました」やがて住民の間にも、誰も孤独死させないとの意志が行き渡る。「冬なのに窓が開けっ放し、きちょうめんな人が洗濯物を取り込んでいないなどと、連絡が届きました。あるとき、78歳の独居の女性が飼う犬が鳴き続けていた。いつもおとなしい犬なのにと異変に気づいて隣人が声をかけても、ドアホンを押しても反応がない。まず親族、続いて消防署に連絡して、はしご車で3階のベランダから部屋に入ると、トイレで倒れている女性を発見でき、救急車で運ばれて事なきを得たというケースもありました」孤独死ゼロ作戦が続くなか、住民から起こった声をもとに、大山団地独自の新たな取り組みも始まる。それが“自治会葬”だ。「高齢化や独居が進むなかで、住民から『自分が死んだあとの葬儀が心配』という声が多く聞かれるようになります。たしかに民間の葬儀会社に頼むと、一般葬なら150万円くらいかかったりする。自治会が主催してやり、会場も団地内の集会所を使えば、市から借りる祭壇と棺桶代と車代など総額5万円程度で済みます。頼まれれば、私が葬儀委員長もしますし」自治会葬が増えていくなか、さらに佐藤さんの発案で誕生したのが「終焉ノート」だ。「元気なうちに医療や葬儀、財産に関すること、危篤や死亡時に連絡してほしい人のリストなどを書き込むようになっています」 最終ページには“遺影写真袋”まで付く気遣いも「会長さんらしい」と評判になった。こうして、大山団地では2004年からは孤独死ゼロが続き、今年でちょうど20年となる。「住民が困っているなら、困らない仕組みを作ればいい。行政がすぐにできないことをやるのが、私たち自治会なんです。孤独死ゼロや、簡便ながら心のこもった自治会葬が広く知られ始めたころは、この制度に賛同してうちの団地へ引っ越してくる高齢者も多かったものです」一時は入居希望の倍率が14倍にもなり、その人気はいまも続いている。【後編】「向こう三軒両隣」は私が守る!マンモス団地の女性自治会長の奮闘へ続く
2024年05月19日誰もが楽しめる人気のレジャースポットのひとつが動物園。多くの動物園ではSNSで動物たちの最新情報などを発信しているので、かわいさに癒されつつ動物の生態も知ることができる。SNSを見ていると動物たちの名前も気になってくる。「たろう」「だいち」といった人間と同じような名前もあれば、由来が想像できない変わった名前も多い。その中でも特に気になったのが「ほたて」という名前のヒツジ。そこで、「ほたて」がいる周南市徳山動物園(山口県)のスタッフの方に「ほたて」の名前の由来を聞いてみた。「新しいヒツジを仲間入りさせたいとの計画があり、いろいろと探していたところ、北海道生まれのヒツジが来園してくれるらしいと情報が入りました。そこで『北海道生まれ』『ヒツジの色』などから愛称を考え、『ほたて』に決まりました」出生地が決めての要因のひとつだった。しかしこの話には続きがあって「じっさいは千葉県生まれでした」というオチがついていた。ちなみにほたては、おいしいものを発見するとすごい勢いで向かってくる食いしん坊な性格だそう。同園には「シジミ」「はまぐり」「カキ」と貝類の名前を持つパルマワラビーもいる。「お父さんである『シジミ』は別の動物園からやってきて、既に名前がつけられていました。そこで、生まれてくる赤ちゃんが雄なら貝系で攻めよう……となり、赤ちゃんはどちらとも雄だったため、貝由来の名前になりました」親の名前と紐づけての命名。ユニークな名前はノリや勘などでつけられているわけではなく、しっかりとした理由があるのだ。東武動物公園(埼玉県)には、海産物でも魚介類でもない、「まんぷく」という名前のカバがいる。こちらも興味をそそられる名前なので同園に名前の由来をさっそく教えてもらった。「まんぷくは愛媛県立とべ動物園で生まれ、とべ動物園で来園者様の投票により決定されました。『たくさん食べて元気に育ってほしい』との願いが込められているそうです」動物園では動物園同士が協力して展示や繁殖を目的とした移動が行われる。「まんぷく」も愛媛県から埼玉県へ引っ越してきたカバだ。赤ちゃんが生まれると投票で名前を決めるのは動物園ではよくあること。「まんぷく」も来園者に名前をつけてもらったカバなのだ。名は体を表すというが「まんぷくはたくさん食べて活発なカバです」とのこと。今度、動物園へ行った際は動物の生態とともに名前もぜひチェックしてみてほしい。
2024年05月19日お金の使い方も不透明。これはおかしいと、自治会役員に立候補。“向こう三軒両隣”の精神で、コミュニティのつながりを、自らリーダーシップを取り実現してきた佐藤良子さん(82)。そして直面する、少子高齢化。1千400世帯、3千800人が暮らすマンモス団地は、日本社会の縮図なのかもしれない。そこにかつてのにぎわいを取り戻すべく、82歳のいまも奔走する。その姿には日本を再生させるヒントがある。佐藤さんの自治会改革はまた、男性社会の理不尽なカベを突き破っていく闘いの連続でもあった。「自治会の活動を続けてきて思うのは、地域作りの底力となるのは情熱ある“人”ということ。男とか女とかは関係ない」そんな話をしている間も、またすれ違う住民との会話が始まる。「あら、小松さん。スーパーかな。今日も元気そうね」会話をするときは必ず自転車を降り、相手の名前を呼びかける。「自転車を降りるのは、たいてい長話になるから(笑)。長く住む1千人以上の住民の顔も名前も部屋番号も、30年も自治会でやってれば、自然に覚えちゃうものよ」あっけらかんとして言う。いまも24時間、相談の電話を受け付けるし、自治会は住民の駆け込み寺との信念から、自宅玄関の鍵もかけないという。目指してきたのは、住民が「一生ここに住みたい」と思う団地だ。■ほぼ半世紀前に家族で引っ越してきた。古きよき昭和の暮らしがかろうじて残って「抽選に一回で当たったときは、憧れの団地生活ができるんだと、家族で大喜びしたものでした」佐藤さん一家が大山団地に入居したのは、ほぼ半世紀前の1976年3月。会社員の夫(81)との間に、当時7歳の長男、3歳の長女に続いて次男が誕生した直後だった。「そのころはまだ940世帯で、2階建ての3DK。風呂なしだったんですが、どのお宅も、小さな庭に自分で浴室を建て増ししてましたね。家賃は月6千円くらい。幼い3人の子育てに追われ、近くに頼る親類もいなくて不安を抱えていた専業主婦の私でしたが、大山団地で暮らし始めたら、みんなで助け合うのが当たり前の生活がありました」すでに日本中で失われつつあった古きよき昭和の生活が、ここにはかろうじて残っていた。「うちは上の子が病弱でしたが、病院に連れていくときは隣のおばちゃんが下の子たちの面倒を見てくれ、私が熱を出すと『今日は子供たちはうちでごはんを食べさせるから』と言って、私にもおかゆを作ってくれたり。うちの子供たちは、団地のご近所さんに大きくしてもらったんです。24歳で結婚。以降、市内のアパートや借家での暮らしを経て、前述のとおり大山団地へ。やがて、わが子の成長とともに団地内の子供会やPTAの活動にも徐々に参加するようになる。「そのうち、子供会などの活動を通じて、自然に自治会の様子も垣間見えるようになると、さまざまな疑問が生じてきました」■違法駐車をした車に貼り紙をしたら持ち主の男性が「ぶっ殺すぞ!」と「自治会活動について、まず母親として思ったのは、主催イベントが、夏祭りと運動会しかないこと。年に2回集まるだけじゃ、住民同士の顔も覚えられません。次に、役員に女性がひとりもいないこと。外で活動するのは世帯主というのが当時の常識でしたから、自治会もおのずと男性だけ」そしていちばん引っかかったのが、お金の問題だった。「これだけのマンモス団地で自治会費も相当な金額になるはずですが、どうも使い道が不透明。すし屋なんかで会合してるのも、『あれは自治会費で飲み食いしてるのでは』という噂が流れていたり。それでも誰も、『おかしいのでは』と声を上げなかったんです」転機は、末っ子の次男が成人した翌年の1996年に訪れた。「このままでいいのかと、ずっと思い続けていました。ちょうど子育ても一段落して、よし、中から変えていくために私が役員になろうと思い、54歳で自治会の区長に立候補して当選します。これが私の自治会役員デビューとなります」早速、手をつけたのが会計だった。「帳簿を見た瞬間、おかしいと思うことばかりでした。使途不明金はもちろん、明らかに偽造された領収書なども見つけたり。今までの担当者は変だと思いながらも、昔からの慣習で黙ってハンコを押していたんでしょうね」なにやら最近も話題となっている政界のニュースを思い出させるが、その結末はまったく違う。「でも、私は見逃せなかった。猛烈に抗議して、『これでは総会など開けません』と主張しました」いわばパンドラの箱を開けてしまったわけだが、佐藤さんは、そのことで潰されはしなかった。「そんな私の姿を、以前から『このままではいけない』と思っていた人たちが見ていたんですね。2年後に、周囲に押されるかたちで副会長に就任します」そして翌1999年4月、推薦投票で会長に就任。大山団地で初の女性会長で、57歳のときだった。「すぐに“向こう三軒両隣”の精神を提唱し、目指したのは、私たちが引っ越してきたときに味わった“お互いさま”のコミュニティ作りでした。というのも、ここ大山団地もいよいよ、そうした助け合いの精神が時代の進展とともに失われているように感じていたからです」以降、ことあるごとに佐藤さんは住民たちに呼びかけていく。「せめて自分の両隣だけでも、いつも声かけしてください」もちろん精神論だけでなく、改革は“自治会費納入率100%”や“住民名簿の充実”“趣味サークルの立ち上げ”など、具体的かつ生活に密着したものばかりだった。「会費納入率100%達成は、よそではそうはいかないと思います。これも振り込みにしないで、各班の班長が集金に出向くようにしました。実は、安否確認の目的もある。顔を見て、『変わりないですか』『ご苦労さまです』の挨拶を交わすのが大事なんです。“人材登録”も、眠っている技能や資格の活用になります。住民のなかには着付けや通訳など各分野のプロも多かった。その才を催事などで適材適所に生かすわけです」“違法駐車撲滅”では、こんな騒動も巻き起こった。「路上駐車の車に『移動させてください』と貼り紙をしたら、自動車にガムテープの跡がついたと男性が怒鳴り込んできて、最後には『ぶっ殺すぞ!』と。『ひとりで話し合いに来い』と言うから、夫は心配しましたが、私は行きましたよ。最後は、女ながら引かなかった私を認めてくれましたが」団地内に落書きが横行し、中学生らの仕業と判明したときには、地元の中学校へも行った。「落書きは30カ所もあって、修繕費の見積もりをしたら200万円とも。それで話し合いに行ったと言えば聞こえはいいんだけど、実際は朝礼に乗り込んだ(笑)」中学校の体育館で、生徒たちを前に佐藤さんは訴えた。「私に5分ください。犯人捜しをしたいわけじゃない。社会には大人だけでは守れないものもあるから、若いみんなの協力も必要と思っているんです」 その後、4人の生徒が自分たちがやったと名乗り出たばかりでなく、100人以上の生徒がボランティアで清掃に協力してくれた。威勢のいい話が続いたが、その裏側では初の女性会長に対して、陰湿な嫌がらせもあった。「『生意気だ』『男が会長になれない自治会なんて情けない』という中傷ビラがまかれたり、自宅の郵便受けにヘビを入れられたり、自転車をパンクさせられたり。ただ、私は何があっても、いま団地に必要なことを考え、それを実行していくだけ。会長の椅子にデンと座ってるのじゃなくて、自ら夜間にゴミ拾いをしていたら、『会長さんは忙しいんだから、私がやるよ』と、みんなが手伝ってくれるようになりました」例の「ぶっ殺すぞ」の男性との間にも、こんな後日談が。「その人も、最後には自治会活動で私を助けてくれるようになりました。文句を言う人ほど、孤独を抱えているもの。最初は挨拶して無視されても、声をかけ続ければ、やがて『こんにちは』と返ってくるようになるんですね」■会長のバトンは渡しても生活に変わりはない。住民からの電話も24時間対応のまま「『24時間、住民からの電話を受けたり大変ですね』とよく言われますが、私は『ぜんぜん』と答えます。 苦労と感じないのは、私が自治会でやってきたことは、すべて恩返しだから。団地で何か問題が出てくるたびに、ここで暮らし始めたときに私たち家族が周囲の人たちに助けられたことを思い出し、またみんなで力を合わせて乗り越えようと、知恵を絞ってきました」そう語る佐藤さんが、会長職を退き相談役となったのは2015年春。「会長を10年やって、住民たちの要望はほぼ達成されたと思えたころから、5年計画で次世代へのバトンタッチを考えました」会長のバトンを渡された橋本久行さん(65)は、大山団地に暮らして26年。自治会では、例の違法駐車騒動のときに佐藤さんと共に現場で大変な思いをした同志だ。「佐藤さんのすごいところは、たとえ『ぶっ殺すぞ』と言われてもひるまず、相手と向き合い、最後には納得させる胆力。その背景には、豊富な人生経験と知識からくる説得力があるんです。ですから、いまだに何か起きると、『佐藤さんに相談しよう、教わろう』という声が出ます。ただ、あのパワーに加えてアイデアマンですから、次々に新しい施策が飛び出すのはいいんですが、ときに私ら現場はてんてこまい、なんてことも(笑)」時代の流れとともに、自治会を取り巻く状況も変わりつつある。「個人情報などの扱いもシビアになりつつありますし、若い人のなかには、『自治会に入って何かいいことあるの?』という声も実際に聞かれます。今後は、若い世代との交流も大切と思い、すでに地方自治を学ぶ学生との勉強会なども始めていますし、近隣の自治会とのネットワーク作りなど、新しい展開も始まっています」相談役となっても、前出の24時間対応でもわかるが、佐藤さんの生活は以前と変わりないようだ。大山自治会ではこれから連日、8月後半に予定される夏祭りの打ち合わせが始まる。橋本会長は、「コロナもあって5年ぶりの開催。昔に比べて子供の数もぐんと減っていますが、なんとか盛り上げようと、周辺の子供会やPTAにも声かけしてるところです」高齢化や少子化が進むいまだからこそ、かつてのにぎわいを再現できる祭りにしようと、佐藤さんたち自治会役員は大山団地らしいイベントを実現すべく、日々、アイデアを出し合っている。
2024年05月19日大病を患った人の多くが、発覚当初に感じるという「まさか私が……」という思い。その「まさか」を経験した高樹澪さん(64)に、辛く厳しい闘病の日々を赤裸々に語っていただきました。■「自分の意思に反して顔面がピクピク動いてしまい、それでも演じなければならない。こんな状態では、もう女優はできないという絶望感でいっぱいでした」片側顔面痙攣に苦しんでいた当時を振り返るのは高樹澪さん。’82年、井上陽水作詞作曲の『ダンスはうまく踊れない』をリリースし、80万枚のセールスを記録。その後、映画やドラマでも主要な役を演じてきた高樹さんが病魔に侵されたのは’99年のこと。「離婚する直前でした。最初は顔にチック症状が出て『ストレスから?』と思い、事務所の社長から紹介された鍼灸院に通ったり、民間療法を試したりしたのですが」離婚に際し、元夫との共通の友人たちから誤解を受け、精神的にも疲弊していた時期だった。「心療内科を受診すると、原因はメンタルの不調からくるものという診断で睡眠薬を処方されましたが、これは誤診でした」’02年に撮影した映画『チルソクの夏』の現場では、顔の痙攣が止まらなかった。監督は何も言わずに粘り強く「顔が動いていない」一瞬のタイミングを狙い何度も撮り直しをしてくれたという。「目や顔の動きで表現をする女優にとっては命取りです。キャストはもちろん、スタッフやエキストラの方々を長時間待たせてしまい落ち込みが激しくなって。ある日、とうとう所属事務所の社長に電話1本で『もう辞めます』と引退を告げたのです」「引退宣言」をしてからは仕事の重圧から解放されたが、症状は改善せず、心療内科に通いながらラーメン店やパチンコ店といった畑違いのアルバイトを経験した。「事務所側は『休業』ということで仕事のキャンセル手続きに追われたそうで。私も『辞める』と告げたころは寝ても覚めても顔が動くようになっていて、眠ることもままならず。また、まひしているため、水を飲むと口が閉じないのでダラダラあふれるという不便な状況もあり、相当追い詰められていたんです」芸能界から遠ざかっていた’06年のある日、古い友人から「名医がいる」と脳神経外科医の清水克悦氏を紹介されたことが転機に。「『厄介な腫瘍をスルリと切除した名医だから』という説明でした。当時、東京・立川の病院に勤務していた清水先生の外来を受診すると、予約で埋まっているはずが『再来週オペの空きが出たから』と、トントン拍子に予約が取れたのです」症状が現れてから9年、このとき初めて「片側顔面痙攣」という診断が下された。女性であれば10万人に十数人の確率で発症する難病で、痙攣の原因はストレスにより顔面神経が本来の位置から下垂し、脳の動脈に癒着してしまうことからくるとの説明だった。「血管が動くたびに顔面も引きつって動いてしまっていたのです。ストレスからではあるのですが、物理的な原因もあったということ。このとき先生からは『患ってからが長いから早く手術したほうがいい』と促されて。開頭手術ということで、迷いはありました」脳動脈と顔の神経の癒着を剥離するため、頭蓋骨を削る──。手術の成功率は70%だったが、国内の症例でオペ中に亡くなったケースがあったと聞かされたことも不安を増幅させた。「『体にメスが入るなんて!』と母に相談したら大反対されていたはず。ですが幸運なことに名医が執刀してくださるという、こんなチャンスはないのだと理解し、“まな板の上の鯉”になった気持ちで腹をくくりました」’06年6月、オペは5時間かかり、麻酔から覚めた瞬間、執刀医の後ろに研修医が十数人いたことは高樹さんを驚かせた。しかし「名医に執刀してもらえたのだから」と気持ちをチェンジ。間もなく「成功した」ことを実感したという。「術後、麻酔が切れた夜に包帯が巻かれた顔を鏡に映してみたのですが、顔が動かない!『うわー、こんなにあっけなく動かなくなるのなら、私は長年何に耐えていたんだろう!』って」脳や頭蓋骨に関わるオペというから、相当な激痛に見舞われたのではと思われがちだが、痛みはさほど感じなかったという。「実は頭蓋骨って神経が通っていないために痛みがないのです。脳動脈も痛みに鈍感なので、もわっとしているだけでした」「意に反して顔が動く」症状に悩まされはしたが、9年間抱えてきた脳の疾患では激痛にさいなまれる経験はなかったのだ。■電動自転車で転倒し骨折。医師が骨をバキンと……「むしろ激痛体験ならば、その後の骨折時のほうが衝撃でした」顔面痙攣の症状から解放された高樹さんは、’09年には芸能活動を再開。その後’13年には同じ年のIT業界のエンジニアの男性と再婚し、公私ともに順調そのものだったが、大きなアクシデントに見舞われたのは’18年のこと。電動自転車で走行中に、「ハトを避けようとして」転倒。肩から落ちたため鎖骨にヒビが入った状態で救急外来を受診した。「このときわずかに(骨は)つながっている状態だったのですが、整形外科医の先生が『ここだね』と、患部を確認するなり素手でバキン!とへし折ってくれたのです。麻酔もなく息が止まるほどの激痛でした。『中途半端につながっていると、オペできないから』ということで。私は幼いころから、自転車で有刺鉄線に突っ込んだりと激痛体験はあまたありますが(笑)、あんなに痛い思いは初めてです」その後、緊急手術に。骨をつなぐため鎖骨の上から切開してプレートを挿入し、十数針を縫う大けがだった。「今でもデコルテが大きく見える衣装はNGです」と淡々と語る高樹さんだが、暗くはならない。「私を強くするための必然だったのだと。多少の痛みを経験したほうがその後、生きやすくなります」自殺者が後を絶たない悲しい世相だが、高樹さんは絶対に自ら死を選んではダメだと語る。「人間、超えなければいけない病やけががあるのかも。試練を超えたら、めちゃくちゃ強い自分に出会うことができますよ」
2024年05月19日「長く続いた作品のなかで、数話、出演させていただいただけの私が語るのも申し訳ないのですが……、『金田一少年の事件簿』はすごく大好きで、参加できたのは光栄でしたし、青春時代の思い出です」こう振り返るのは、中山エミリさん(45)。もともと、原作マンガのファンだったという。「高校生時代、“ヤンジャン”や同作品を連載していた“マガジン”の表紙やグラビアのお仕事をしていたこともあって、少年向けのマンガ誌でしたが、学校の帰りに買って読んでいました。『金田一~』は、本格的なミステリーで、謎が解明される爽快感が魅力」主人公が高校生ということもあって、学園モノの要素もあった。「実際に、主役の(堂本)剛くんやともさか(りえ)さんとは同じ高校なんです。だから、撮影現場でも、ずっと学校にいるような感覚。私はトップアイドルの役だったので、みんなと同じ制服を着られなかったのが、ちょっと残念でした」ドラマの撮影はハードで、夜中まで続くことも珍しくなかった。「終わりの予定が“28時”とあって、一体、何時のことだろうと不思議に思ったり。そんななか、現場を盛り上げていたのが剛くん。毎週、視聴率に一喜一憂するような時代に、大きな責任を背負ってスタッフや監督とも積極的にコミュニケーションをとっている姿を見ると“本当に私より、一歳下なの?”と思うこともありました」特に驚かされたのはクライマックスのシーンだ。「謎を解き明かすときの剛くんのセリフ量はすごく多くて、一人でしゃべり倒すんです。ふだんの剛くんは、共演者とも気軽にしゃべっているのですが、謎解きのシーンが迫ってくると、一人で台本に向き合うようになり、現場の空気が変わるほどでした」トリックがあるため、通常の撮影現場には顔を出さない大道具のスタッフも大勢いたという。「共演者も裏方さんも一体になっている現場でした。北海道の大雪山で遭難するシーンを撮影したのもいい思い出。スタッフさんとたき火にあたったり、お餅を焼いたり、火に近づきすぎてダウンコートが溶けちゃったり(笑)。日テレには女性の名物広報担当者がいらっしゃって、よくきんつばを差し入れしていただきました」たくさんの思い出が残る現場だったのだ。「スペシャル版のとき、はじめちゃん(堂本)のお葬式のシーンがあったのですが、あまりの悲しさに、本気で泣いてしまったんです」『金田一少年の事件簿』(日本テレビ系・95年~)名探偵・金田一耕助の孫でIQ180の高校2年生の金田一一(堂本剛)が同級生の美雪(ともさかりえ)とともに、“じっちゃんの名にかけて”難事件を解決!一役は松本潤、亀梨和也、山田涼介、道枝駿佑と受け継がれていった。【PROFILE】なかやま えみり1978年、神奈川県生まれ。中学3年生のときにスカウトされ、’94年にドラマデビュー。1995年の『家なき子2』で全国的な人気を博し、ドラマだけでなくバラエティ番組の司会やCMなど幅広く活躍している。
2024年05月19日大病を患った人の多くが、発覚当初に感じるという「まさか私が……」という思い。その「まさか」を経験した医療ライターの熊本美加さん(57)に、辛く厳しい闘病の日々を赤裸々に語っていただきました。■「心肺停止に陥ったときは、ブレーカーがバチッと落ちるように、すべてが一瞬で停止した感じでした。私が体験したのは、自分を含む一切が消滅する“無”の世界でした」医療ライターの熊本美加さんが、仕事のアポイント先に向かう山手線の車内で突然倒れたのは、’19年11月19日のこと。予兆は、あった。「2週間ほど前から毎朝、当時の日課となっていた7時台のドラマ『おしん』の再放送を見ていると、ひたひたと胸が締めつけられるような痛みを感じることが続いていました。それでも10分くらいソファにじっと横になっていると治まるので、ほうっておいたんです。バツイチ、アラフィフで、保護猫3匹と平穏、気ままに暮らしていた私でしたから、友人たちからも『仕事の疲れでは?』『更年期じゃない?』と言われ、私自身もそう思い込んで、予兆を見逃してしまいました」そして訪れた、あの日。浜松町駅手前にて車内で倒れて心肺停止となった熊本さんに対し、駆けつけた駅員がAED(自動体外式除細動器)を4回作動させても心拍は戻らず、20分後に救急隊が到着して、都内の救命救急センターのICUに搬送された。もちろん熊本さん自身には、この間の記憶はまったくない。「車内で居合わせた“バイスタンダー”の方々の命のリレーや駅員さんの心臓マッサージなどがなければ、私はそのまま死んでいた可能性が高い。もっと言えば、あのとき独り暮らしの家で倒れていたら、私は確実に孤独死して腐乱死体になっていたでしょう」心肺停止から50分後、熊本さんの心臓は人工心肺とつながり、一命を取り留めた後に、「冠攣縮性狭心症」と診断された。ICUに入って2週間後には人工心肺が外され、次に「皮下植え込み型除細動器(S-ICD)」を左脇に付ける手術が行われた。「すると、脳への酸素が滞ったダメージによる意識混乱で、看護師さんに暴言を吐いたり、車いすで脱走を試みたりして、鍵付きのベルトでベッドに拘束されました」同時期に、失語や記憶障害など社会的行動に支障をきたす「高次脳機能障害」状態であることも判明し、12月27日にリハビリ病院へと移った。■医療情報をまとめたポーチが“命綱”に作業療法士や理学療法士らのチームが一丸となってのリハビリを経て、やがて車いすを降り、年明けの’20年1月27日、緊急搬送されてからおよそ70日後に退院。在宅リハビリを続けながら、ちょうどコロナ禍が始まるころでもあり、猫互助会(鍵を託し合い出張や急病などのときに猫の世話をする仲間)のリモート打ち合わせなども徐々に再開して、2カ月ほどが過ぎたときだった。スーパーの帰り道、胸に違和感を覚え急いで帰宅。狭心症発作の再発かと焦り、#7119(救急相談センター)に電話をする。10分後に救急隊が駆けつけるが、熊本さんは胸の痛みや嘔吐の苦しみでまともな会話ができない。そんなとき、彼女は隊員らに枕元の横に置いてあるカバンを指さした。その中には、医療情報をまとめたポーチが入っていたのだ。即座に隊員に“医療ポーチ”で心疾患の持病などの情報が共有され、熊本さんは速やかにかかりつけ医院に搬送された。検査の結果、今回は心臓ではなく軽い胆石の発作とわかり、適切な処置で落ち着きを取り戻すことができた。「山手線で倒れたときは、健康保険証なども所持しておらず、スマホもロックがかかっていて使い物になりませんでした。私の身元がわかったのは、たまたまお財布に入れていた父の名刺からでした。まさかは突然やってくる。その教訓から、私は退院後、名前、年齢などの基本情報に医療情報や保険証等の各種証明書を、ポーチにまとめて持ち歩くようになりました。また、スマホやパソコンのパスワードの保管場所などは信頼できる友人に伝えています。医療ポーチの実物がこれです」このインタビューの日も、熊本さんは、大ぶりのカバンからコンパクトな医療ポーチを取り出して見せてくれた。透明なポーチの中には、前述した各種情報に加えて、常備薬やお薬手帳なども。また裏面には、「緊急連絡先」として妹や友人の名前と携帯番号が貼ってあるのに加えて、「私には心疾患があります。植え込み型除細動器が左脇にあります」と記されたメモが貼られている。「ずっと何の根拠もなく、自分だけは大丈夫と思い込んでいましたが、それは妄信と知りました。まさかに備えて準備をしておくことは、私のように大病を経験したり持病のある方だけでなく、今は健康と思っている方たちにも大切なことと思います。現在、7分に1人が心疾患で亡くなっているとのデータもあります。突然、意識を失い倒れるというのは誰にも起こりうることなんです、私がそうだったように」ふだんの生活にも変化が。「私は子供もいない独り身ですから、ご近所との関係は大切だと思い直しました。マンションの理事会にも参加するようになると、下の階に住む93歳の、やはり独居の女性と親しくなり、いざというときは助け合う関係ができただけでなく、偶然2人とも宝塚ファンで、一緒に円盤(DVD等)鑑賞を楽しんだりしてます(笑)」現在も3カ月に1度の定期検査を受けながら、医療ライターとして自らの体験をつづった『山手線で心肺停止!』(講談社)を出版したり、AED講習会などでの講演に声がかかることもあるという。「今日と同じ明日が来ることは、実は奇跡のようなもの。けっして当たり前ではありません。自分はまわりの人によって生かされているんだと蘇り体験で気づき、私も社会に対して何か恩返しをしたいという思いが芽生えました。今は電車や道端で具合の悪そうな方を見かけると、思わず声をかけてしまいます。また、何か世の中の役に立てればと習いはじめた手話は4年目になりました」当面の目標は、来年秋に東京で開催されるデフリンピックでの通訳ボランティア。「神様にもらったアディショナルタイム」との思いで、できることを先延ばしせずにやっていきたいという。
2024年05月19日Xで人気沸騰中の人間まおがミドルエイジのモヤモヤを描く連載コミック!【あらすじ】歳を重ね、絞られていった友達。ひとつモヤモヤしていることが。それは、遊びの誘いがいつも“私から”なこと。これ、誘わなかったらどうなるの!?試してみるとまさかの結果に……。> 前話:「声をかけるのはいつも私」誘ってくれない友達(1)>過去のお話はこちら【全4話】兄ばかりだいじにする母【人間まおのヒトモヤ】【全4話】パートを始めた妻と夫のすれ違い【人間まおのヒトモヤ】【PROFILE】人間まお’18年に『くず系女子。』(KADOKAWA)でデビュー。現在はサルのあげおと共存の日々を送りながら、日常のあるあるをゆる~く描いた漫画ブログが大人気。4月から『おはスタ』(テレビ東京系)で「あげおとティム」のアニメ放送がスタート!
2024年05月18日ジャニーズ事務所からタレントのマネージメントを引き継いだ、STARTO ENTERTAINMENTが新設されてから早半年。ジャニーズ事務所創業者であるジャニー喜多川氏(享年87)による性加害問題はいまだ尾を引き、同社に対する厳しい声も依然強い。それでもSTARTOのアイドルたちは今も根強い人気を誇り、多くのファンに夢を与えている。5月13日には、能登半島地震のためのチャリティー楽曲「WE ARE」のリリックMV・フルバージョンがYouTubeチャンネルで公開。彼らのアイドル活動の中心にあるのは、やはり「歌」だ。そこで本誌はSTARTOファンだという男女500人に、「歌が上手いと思うグループ」についてアンケートを行った。今回対象にしたのは、現在STARTOの公式サイトに掲載されているグループ。一体、どのグループが歌唱力を評価されているのだろうか?まず第3位に選ばれたのはSixTONES。’20年1月にシングル「Imitation Rain/D.D.」でデビューして以降、「日本ゴールドディスク大賞」ベスト5アルバム(邦楽部門)の受賞や「NHK紅白歌合戦」出場など快進撃を続けている。またメンバーの俳優業も活発なため、ドラマや映画のテーマ曲で耳にする事も多い。7月にリリース予定の両A面シングル『GONG/ここに帰ってきて』では「GONG」が田中樹(28)の出演ドラマ『ACMA:GAME アクマゲーム』(日本テレビ系)の挿入歌に、「ここに帰ってきて」が京本大我(29)の主演映画『言えない秘密』の主題歌に起用されている。SixTONESに対してアンケートでは《一人上手いグループはよくあるけれど、全員が上手くて6人が重なったハーモニーは最強だから》《今月に発売した音色でのアカペラのハーモニーが綺麗だった》と6人のハーモニーを絶賛する声が。また《ジェシーと田中樹と京本大我が抜群に歌唱力高くてグループのバランスも高い》《グループ全員がそれぞれ個性がある。歌唱力は京本さんを中心に全員が上手いと思う》など京本を中心にメンバーそれぞれの歌唱力を評価する声も上がった。ジャニーズJr.歴10年以上という下積みを経て、デビューを果たしたSixTONES。確かな実力で、ファンを魅了しているようだ。第2位となったのは嵐だ。’99年11月にシングル『A・RA・SHI』でデビューした嵐は’07年2月のシングル『Love so sweet』で広い支持を得ることに。’09年には『NHK紅白歌合戦』に初出場し、翌年の『日本ゴールドディスク大賞』邦楽部門で史上初となる10冠を達成。名実ともに国民的アイドルとなり、老若男女問わず親しまれていたが、’20年の大晦日で活動を休止した。そんな嵐に対して、アンケートでは《グループが皆仲良く息が合っている》《嵐は歌声そのものよりも感情が入っていてぐっとくる》との声が。また《大野智さんが上手いからです、大野智さんがメインのモンスター等は歌唱力が分かって聴き応えがあります》《大野智さんの安定したキレイでくせがなく澄んだ声が、嵐の楽曲と合っていると思うので》と大野智(43)の歌声を讃える声も相次いで寄せられた。なかには《特に「果てない空」という曲はバラードなので、きれいな歌声が響いていて上手だと思う》《五人の声が合っているシリウスや彼方へなどの泣ける曲はうまいなとおもう》と楽曲に強い思い入れがある人も。5人のハーモニーは、多くの人の胸に届いているようだ。そして映えある第1位に選ばれたのはKinKi Kidsだ。堂本光一(45)と堂本剛(45)からなるKinKi Kidsはジャニーズ事務所にとって初のデュオ。’97年7月にシングル『硝子の少年』とアルバム『A album』を同時にリリースしてCDデビューを果たすと、両作ともオリコン初登場第1位を獲得。さらにミリオンセラーを達成し、一躍トップアイドルとなった。以降、“デビューシングルから47作連続でオリコン初登場1位”という偉業を成し遂げている。ソロ活動も積極的に行っており、光一は主演ミュージカル『SHOCK』を中心に大活躍。剛もソロプロジェクト「.ENDRECHERI.」が好評で、「ENDRECHERI」名義では人気フェス「SUMMER SONIC」に3回出演している。個々の音楽活動も人気が高いKinKi Kidsについて、アンケートでは《音程もはずさないしハモリもすごいし2人の声がシンクロしたり唯一無二だと思うから》《高音で柔らかく声質の剛くんと、低音の真っ直ぐな声質の光一くんのバランスがいい》《2人の歌声の溶け具合が群を抜いている。歌詞の世界観をしっかり歌えている》《2人だけど迫力ある》という声が。デュオ特有のハーモニーに惹かれる人が多いようだ。また《どの曲も、安定して上手いと思う。カナシミブルーのようにテンポの速くて音程の上がり下がりが多い曲でも、強弱がしっかりつけられてて上手い》《「ガラスの少年時代をー」と歌うこのグループはハーモニーが美しいと思いました》《青の時代ライブで上手かった》とそれぞれの曲の歌唱力を評価する声が。さらに《剛君はデビューの頃から歌が上手いと思っていたが、光一君は年齢を重ねて来た今上手くなったなあとつくづく思う》《はじめは剛一人がうまいと思っていたが光一もミュージカルをするようになってから上手になったなと思う》と成長を実感する人もいた。3月末で剛が退所したことに伴い、ファンクラブも閉鎖することとなったKinKi Kids。しかしユニットとしてはSTARTOに所属し、活動を続けていくという。これから、どんなハーモニーを聴かせてくれるだろうか?
2024年05月18日「10年前に杏さんが演じた花咲舞を演じるにあたって、正直、プレッシャーはありました。でも、私も学生のときに見ていてとても勇気と元気をもらった作品です。リスペクトを込めながら、新しいキャストのみなさんと一緒に新しい『花咲舞』を作っていけたらいいなと思っています」ドラマ『花咲舞が黙ってない』(日本テレビ系)の新シリーズで主演を務める今田美桜(27)。銀行内にはびこる不正に立ち向かう“諦めないヒロイン”像はそのままに、イマドキの若者らしさも付け加えられた、令和版・花咲舞を好演中だ。決めゼリフの「お言葉を返すようですが」を聞くたびに、溜飲が下がる視聴者も多いはず。「初めてそのセリフを言うときは、私自身も『ついに来た!』という気持ちで挑みました。ただ、1話と2話とではシーンの空気感もテンションもまったく違ったし、言葉を伝える相手によって、『お言葉を返すようですが』の意味が変わるんですよ。今後もいろんなパターンを見てもらえるのではないかと思います」演じていて感じたのは、「舞は自分のためではなく、誰かのためを思ってその言葉を発している」ということ。「だからこそ、舞の言葉は、人の胸を打つのだと思います。相馬さん(山本耕史)がなんだかんだ言いつつ手助けしてしまうのも、その言葉に心を動かされるからではないでしょうか。人にどう思われようが、誰かのためには黙っていられない。その正義感の強さが舞の魅力で、私も憧れます」また、不正を見て見ぬふりができない舞に共感することも。「いまだにタバコの吸いがらが道に落ちているのを見ると、どうしてだろう? とモヤモヤします。それと、最近、豪雨や地震などの自然災害が多いのがとても心配です」来年放送のNHK連続テレビ小説『あんぱん』のヒロインに抜擢されるなど、主演女優の貫禄もついた今田。しかし、その素顔は意外にも「人見知り」。「このお仕事は“初めまして”の現場が多くて、ようやくコミュニケーションを取れるようになったと思ったら“さよなら”がほとんど。最初は慣れなくて、ひどいときは胃腸炎になったこともありました。だいぶ克服したと思いますが、顔合わせのときは、いまだに緊張して心臓がバクバクしちゃいます(笑)。今回、主演だからといっても何かできるわけではないので、先輩や周りの方に『助けてください』って素直に言うようにしています」
2024年05月18日「娘役の清原(果耶)さんは若いのにしっかりしていて頼もしかったし、25年以上ぶりに共演した小泉今日子さんは、すごくかっこよかった」白石和彌監督初の時代劇映画『碁盤斬り』に主演する草彅剛(49)。冤罪事件に巻き込まれ、復讐に燃える武士・柳田格之進を熱演しているが、撮影現場では共演者たちの豪華さとパワーに突き動かされたという。「國村(隼)さんや市村(正親)さん、(斎藤)工くんとまた一緒に演じることができて、すごく楽しかったですね。ストーリーが進むにつれて、僕を押し上げてくれたり、バックアップしてくれました。共演者とのセッションはまるでジャズみたいだなと。『芝居はまさしくジャズだよ! 福来くん』って感じですね(笑)」今年の3月まで出演していたNHK連続テレビ小説『ブギウギ』の名ゼリフも飛び出し、絶好調の草彅。特に小泉との再共演には心躍る思いをしたそう。「実は隠れキョンキョンファンなんです。僕のドラマデビュー作『まだ恋は始まらない』ですごく優しくしてもらったうえに、その後キョンキョンのCD『オトコのコ オンナのコ』のレコーディングに僕1人だけ呼んでもらって一緒に歌っているんです。めちゃくちゃうれしかったですね。それ以来の共演なのでドキドキしましたし、当時と変わらないキョンキョンに会えたように思えて涙してしまいました」どんな現場でも変わらない熱量を持って挑んでいる草彅だが。「若いときの自分も好きなんだけど、実は今がいちばん好きなんです。仕事に対しての責任感や重み、人への感謝やリスペクトも大きくなっていくし、年を重ねる楽しさってあると思うので、思いっきり楽しんで年を取っていきたいなと思っています。1年先輩の稲垣吾郎さんの背中を見ていて安心したりもします。あんなふうに年を重ねることもできるんだなと」近くにいる同年代の仲間や俳優たちの活躍に勇気をもらいながら、草彅らしいこんな目標も。「いつまでも元気に動ける体でいたいんです。そのためにHIITっていうトレーニングを10年前から毎日やっています。次にどんなお仕事や、どんな役柄が来ても大丈夫なように、ワクワクしながら待っていたい気持ちもありますね」人生もズキズキワクワクしてるよう♪【INFORMATION】映画『碁盤斬り』5月17日公開、白石和彌監督初の時代劇作品。娘と貧乏長屋に暮らしていたが、悲劇の冤罪事件の真相を知らされ復讐を決意する武士・柳田格之進(草彅剛)を描く。
2024年05月18日「5月12日(日本時間、以下同)にパドレスの本拠地・ペトコパーク行われたパドレス-ドジャース戦に米倉涼子さん(48)が観戦に訪れていました。パドレスの松井裕樹選手(28)からサインを貰い、ドジャースのデーブ・ロバーツ監督(51)と肩を組み記念撮影。米倉さんは終始嬉しそうな表情を浮かべていましたよ」(スポーツ紙記者)ドジャースの球団専属カメラマンを務めるジョン・スーフー氏が5月13日、自身のInstagramに米倉とロバーツ監督のツーショットを公開し、日本でも話題に。しかし、いったいなぜ米倉はアメリカのスタジアムにまで足を運んだのか。在米ジャーナリストがその舞台裏を明かす。「ドジャースとパートナーシップ契約を結んでいる木下グループの関係者が米倉さんを招待したのだと思います。住宅事業や医療福祉事業だけでなく、エンターテインメント事業なども手掛ける木下グループの社長は、米倉さんと懇意にしていて、彼女の芸能活動をかなりの範囲で支援するなど繋がりがありますからね」写真や映像では確認できなかったが、米倉はスーパースター・大谷翔平(29)と対面できたのだろうか。「米倉さんがグラウンドに降りたときには、既に大谷選手はロッカールームに戻っていて会うことはできなかったそうです。米倉さんは残念だったでしょうね」(前出・在米ジャーナリスト)今回のロバーツ監督との記念撮影について、米倉の所属事務所に問い合わせたところ「サンディエゴを本拠地としているパドレス対ドジャース戦を観戦に行った際にドジャース側のプレスから撮影を依頼された際の記念撮影であります」とコメントがあった。今回は大谷に会うことは叶わなかった米倉。またチャンスが巡ってくるかも!?
2024年05月18日《知らない人から家にガチ婚姻届が届いた…》5月17日にXでこう明かしたのは、チャンネル登録者数1110万人を誇る人気YouTuber・はじめしゃちょー(31)。続けて《送ってきた人の本籍の情報とか全部入ってた…こわいよ…やめてね… この縁談、白紙にさせていただきます》と綴り、怯えた様子を見せていた。添えられた写真には、はじめしゃちょーの本名である「江田 元」と記された茶封筒が。さらに婚姻届の他に、戸籍謄本と思しき資料の一部も収められていた。なお「Happy Marriage」と記された婚姻届の表紙には「SAPPORO」のロゴも入っており、北海道・札幌市が発行しているものとデザインが酷似していた。はじめしゃちょーが明かした衝撃的な“被害”に、コメント欄では心配の声が広がっている。《こっわ…えぐい…》《人気すぎるのも困りものですね…!》《それは…危なすぎますねトラウマレベル》《えっ、それは怖すぎる。。。 ヤバそうなら警察に相談してください》身の危険を感じるような出来事だが、今年1月にはGACKT(50)との“結婚”をXで一方的に報告するユーザーが突如現れたことも。投稿には“マレーシアの婚姻証明書”の画像も添えられており、GACKT本人も《どうやらボクは結婚したらしい》と困惑する反応を見せていた。このように人気タレントやアイドルに対して、ファンが“ガチ恋”に陥ってしまうという例を聞くことも少なくないだろう。なかでもYouTuberは、プライバシーを侵害されやすいことも指摘されている。「彼らは自宅や事務所で撮影することも多いため、居場所や生活圏を特定されてしまうリスクを抱えています。実際に“自宅周辺にファンが来る”との理由から、引っ越しを余儀なくされたネット配信者もいました。しかも、はじめしゃちょーさんは’17年12月にストーカー被害に遭っており、自宅に侵入した女性が逮捕されています。それだけでなく、’22年9月にも同様の被害が。見知らぬ女性が自宅に侵入を試みる姿が監視カメラに映っていたといい、警察沙汰になったと報告していました。現在も万全なセキュリティ対策を講じているといいますが、ファンには一線を越えないモラルがより求められるでしょう」(WEBメディア記者)現在も200万回再生を超えるような企画で、ファンを楽しませているじめしゃちょー。これ以上、危険な目に遭わないことを願うばかりだ。
2024年05月17日※この記事ではドラマ本編の内容に触れています。《えー山本舞香そういう役だったのか?逆かと思ってた》《山本舞香ちゃんの闇堕ちはマジで怖いからやめてあげて…》《確かに本宮(山本舞香)は勝手に狩山陸の部下としては味方だと思っていた。なんかショック》5月16日、木村拓哉(51)主演のドラマ『Believe―君にかける橋―』第4話(テレビ朝日系)が放送された。初回放送から予想外の展開が繰り広げられてきたが、山本舞香(26)演じる登場人物の“豹変”が反響を呼んでいる。本作は大手ゼネコンの土木設計部部長で、橋づくりに情熱を注いできた狩山陸(木村)が主人公。自ら設計した橋の建設中に死傷者を出す崩落事故が発生し、全ての責任を背負って刑務所に収監されてしまう。だが、隠蔽した事実を明るみにするべく脱獄を決行。部下の南雲大樹 (一ノ瀬颯)にコンタクトを取り、預けていた重要証拠を持ってきてもらうというのがこれまでのあらすじだ。そんな重要なミッションを課された南雲の婚約者・本宮絵里菜を演じるのは、山本舞香(26)。彼女も南雲と同じく狩山を慕う部下だったが……。「絵里菜は当初、狩山を担当する弁護人・秋澤(斎藤工)の連絡を無視するといった南雲の言動を不審がっていました。さらに重要証拠が挟まったアルバムや、狩山から南雲宛に届いた手紙を目にしてしまいます。それでもベトナムへ栄転する婚約者に、『きっと狩山部長も喜んでくれるね』と声をかけていました。ですが部長への恩義よりも、婚約者に出世を求める態度が目立つように。いっぽう証拠隠滅をたくらむ会社側との板挟みに悩んでいた南雲は、狩山に重要証拠を渡す決意を固めます。ですが届けに行く途中で秋澤に阻止され、頭を強く打って救急搬送されてしまうのです」(テレビ誌ライター)かつて世話になった部長を助けようと、婚約者が重傷を負ってしまった――。その事実を知り、病院に駆け付けた絵里菜は号泣しながら錯乱していた。だが落ち着きを取り戻すと、待合席で秋澤と話していた刑事・黒木(竹内涼真)に歩み寄る。そして虚ろな瞳と静かな声で、「南雲さん狩山部長に呼び出されていました」「何か頼まれて、会社に行ったんです。きっと」と暴露。さらに「全部、狩山部長のせいです」と逆恨みし、狩山の“敵”になってしまったのだ。狩山を尊敬していたものの、婚約者が事件に巻き込まれたことで態度が一変した絵里菜。当初は“味方”だと思っていた視聴者もいたようで、Xでは冒頭のように期待外れを嘆くコメントが続々。だが“誰も信用できない”ストーリー展開に、ドラマ終盤で逆転を期待する声も上がっている。《山本舞香が助けてくれると信じています》《山本舞香さんが演じる本宮さんも終盤ぐらいに味方になりそうな気がする》
2024年05月17日シンガー・ソングライターのmiwa(33)が16日、自身のインスタグラムを更新。最近話題を呼んだ“激変姿”にさまざまな反応が寄せられている。5月29日に発売するニューアルバム「7th」のジャケット写真のために、最近、大胆にイメージチェンジしたmiwa。これまでの黒髪や茶髪姿から一転、ピンクがかったハイトーンのヘアカラーに変更し、衣装もカラフルでド派手な個性派ファッションに。まるで別人のような姿に《誰だかわからない》などと注目が集まっていた。miwaは16日にインスタグラムで《『GIRL CRUSH』配信スタートまで起きてる人?》と呼びかけるとともに、カラフルなマーメイドドレスを着て錆びた金属のようなものに寄りかかって地面に座る写真をアップした。この投稿には、《人魚のよう》《可愛すぎる》《かっこよすぎる》《髪の毛の色似合う》など激変した姿にファンから称賛の声が集まった。いっぽうで、この投稿を取り上げたネットニュースのコメント欄には、こんな困惑の声も……。《Le Sserafimのサクラかと思った》《宮脇咲良さんかと思った》《可愛いけれど、あまたいる量産型女子にしかみえない》《なんか残念かな。印象に残る可愛さから量産的な可愛さに移行した感じ》「miwaさんは髪の長さに変化はあれど、これまで黒髪のことが多く、“優等生”といったイメージを抱いている人も多かったはず。それが今回、今若い女性の間で流行している髪型になっただけでなく、3月に元競泳選手の萩野公介さんとの離婚を発表した後ということもあって、困惑している人が多いのかもしれませんね」(音楽関係者)
2024年05月17日アルジェリアで27年前に誘拐された男性が、隣家の羊小屋から生きて見つかった。Mail Onlineなどが報じている。1998年、17歳だったオマル・ビン・オムランさんは忽然と姿を消した。当時アルジェリアでは激しい内戦が起こっており、家族は政府軍とイスラム反体制派による戦闘に巻き込まれ、殺されたのだろうと考えていたという。しかし、それから約26年が経った今年5月12日。自宅から200メートルも離れていない隣家でオマルさんが発見された。羊小屋の地面に掘った穴の中に監禁されており、命に別条はないものの、病院に運ばれ心身のケアを受けている。この家に住む61歳の男が犯人と見られており、逃走を図った際に拘束され、当局によってそのまま連行された。アルジャジーラによると、発見のきっかけとなったのは”内部通報”だったという。容疑者とその兄の間で相続争いが起こったことから、兄がソーシャルメディア上に監禁の事実を暴露。当局が捜査に乗り出したという顛末だった。オマルさんは救助隊に「遠くに家族の姿を時々見ることができたけれど、彼にかけられた”呪文”のせいで声を出すことができなかった」と語ったと地元メディアは伝えている。モスクに向かう家族の姿を見て、母親が亡くなったことにも気づいていたが、容疑者による監視のために逃げ出すことはできなかったという。’90年代に始まったアルジェリアの内戦は2002年に終結。だが、激しい戦闘で約20万人が命を落とし、約2万人が誘拐されたとアルジャジーラは伝えている。オマルさんはその犠牲者の1人だと、家族はずっと思い込んでいたそうだ。羊小屋の干し草の中から助け出されたオマルさんに、家族は歓喜の涙を流しながら抱きついた。オマルさんは最初こそ言葉が出しづらい様子だったそうだが、すぐに兄弟たちの名前を呼んで再会を喜び合ったと、地元紙エル・ハバルが報じている。
2024年05月17日5月16日、高橋一生(43)と飯豊まりえ(26)が、双方の公式サイトを通じて入籍したことを報告した。《一つの作品に参加させて頂いた事がきっかけとなり、現場を共にする中で、互いに縁の深まりを感じておりました。約一年の交際を経て、作品に関わる皆様からも祝福を受け、この日を迎えることが出来ました事を、ご報告させて頂きます》二人は、’20年12月から放映されたドラマ『岸辺露伴は動かない』(NHK)シリーズで共演。主人公の漫画家・岸辺露伴役を高橋が、露伴を担当する漫画編集者の泉京香役を飯豊まりえが演じた。発表文からは、このドラマでの共演が縁になったことが伺える。高橋は、発表文で伴侶となる飯豊のことを《彼女は自分の発する言葉で自身を穢すことなく、明るく生きることを諦めません。品性を持って歩みを進める彼女の純粋な陽の力に、幾度となく救われて参りました》と表現。飯豊の人柄が自身の生きる支えとなったと明かしている。新たな家族を得た高橋に対し、SNS上では多くの祝福の声が上がった。特に、コアな高橋のファンの間では今回の結婚が、とりわけ嬉しいことのように喜ばれている。《高橋一生さんは複雑な家庭環境で奔放な母親に苦しめられ、父親の違う弟たちの面倒を見てきた。やっと自分の家庭を持てるんだね。おめでとう。末永くお幸せに》《複雑な家庭環境やった高橋一生様には本当に幸せになってほしい》《高橋一生の生い立ち知ってるファンは、彼が結婚したいと思える人に出会えてよかった…ってなると思う》■3人の父親、母親から金の無心…ファンの脳裏に浮かんでいるのは、高橋が経験した“壮絶な家庭環境”だ。東京・港区赤坂で生まれた高橋。幼少期の遊び場は、同級生の親の多くが御所に勤めていたこともあって、東宮御所だったという。華やかな暮らしに見えるが、実父を早くに亡くした後、母親は2度再婚しており、自身、次男と三男、四男と五男で父が3人違う。母親は衝動的な性格だったといい、高橋の弟で、人気バンド「never young beach」のボーカル・安部勇磨は自身の幼少期についてこう語っている。《金回りのいい時はよかったですよ。小学校から中学生ぐらいまでは、私立の学校に通わせてもらってたし。でも、中学の修学旅行の1週間前だったかな?母からいきなり「学費をずっと払えていなかったから、あんた今日で学校辞めることになりました」って告知されて、それまで通っていた学校を辞めることになったんです》(Quick Japan Vol.124 2016年2月号)「破天荒な母親を支えなければならなかったのでしょう。高橋さんは長男として弟たちの面倒をよく見ていて、おむつを変える事もあったそう。面倒見の良い兄のことを弟たちも慕っており、兄弟仲は非常に良かったそうです。しかし、安倍さんは前出の『Quick Japan』のインタビューで“一番上の兄貴に連絡していると、母親からお金を無心するよう言われた”とも語っており、長男である高橋さんは金銭的に苦しめられていました。高橋さん自身も、‘17年1月に放送された『A-Studio』(TBS系)で、母親とは仲の悪い時期が続いており10年くらい会っていなかったと告白。母親が癌であることを安倍さんから聞いても『いま会ってしまうと、また口げんかになる可能性があるから、変な話ですけど弱ってから会わしてくれと。そうすればお互い怒りも出てこないだろうって』と会うのを避けていたと明かしています」(週刊誌記者)母の体調は徐々に悪化。やっと対面したのは、主演を務めた映画『blank13』のクランクイン前、’15年の夏頃だったという。映画の監督を務めた斎藤工との対談では、離れていた母との距離が縮まった瞬間についてこう語っている。《病院に会いに行った時はもう相当弱っていて、あまり会話もできなかった。けれど、言葉じゃないんです。病室でただ手を握っていた時間、一緒に病室で昼寝をした時間……。そんなひとときを最後に持てたことに救われた気がします。母とは仲の悪かった時期が長くて、ずいぶん言葉でぶつかってきた。けれど、ああいう奇跡みたいな救いの時間を過ごしてから看取ることができて、本当に良かったと思うんです》(婦人公論2018年2月27日号)34歳にして“家族”のしがらみから解き放たれた高橋。これからは、飯豊と幸せな“家族”を築いていくことになるだろう。
2024年05月17日近ごろ、X上に蔓延る“インプレゾンビ”が注目を集めているーー。‘23年8月からXで、インプレッション(閲覧数)に伴って広告収益が有料プラン・X Premiumに加入しているユーザーに分配されるようになった。これをきっかけに、閲覧数を稼ぐことを目的とした投稿を繰り返すアカウントが急増。話題の投稿に群がって《あなたの投稿は美しいです!》《これはたくさんあります》といった内容に直接関係のない返信などを繰り返す人たちは“インプレゾンビ”と呼ばれている。‘24年1月1日に能登半島地震が発生した際には、インプレッション稼ぎを目的とした“偽りの救助要請”投稿を行う者まで現れ、批判が殺到した。5月11日放送の報道番組『サタデーウオッチ9』(NHK)ではパキスタン人のインプレゾンビを直撃。閲覧数稼ぎを始めたきっかけは1月に起きた能登半島地震と羽田空港の航空機の衝突炎上事故で、1週間で200万件ものインプレッションを稼いだと話していた。そんななかある人気芸人が“インプレゾンビ”に……。4月15日、「R-1グランプリ2024」王者・街裏ぴんく(39)がR-1グランプリ2022王者のお見送り芸人しんいち(39)と、X上でやり取りしていると、突如ハリウッドザコシショウ(50)が、《あなたはいつでもそれは叶う》と文脈から外れたリプライを送ったのだ。さらにその3時間後にも、同じぴんくの投稿に《あなは一度も素敵だ》《あなたのそれはいつもありがとう》と続けて返信すると、ぴんくもたまらず《いやもうええねん閲覧数稼ぎたいだけのやつ!》とツッコミをいれていた。このほかにもインプレゾンビをオマージュしたと思しきリプライが複数見られた。閲覧数が29万件を超える投稿もあるが――。「乗っ取りなどではなく、ボケと考えまちがいないでしょう。現在、ハリウッドザコシショウさんのアカウントはX Premiumに加入しておらず、収益を得ることはできませんから」(スポーツ紙記者)X上では、ぴんくとの一連のやり取りをみたファンがハリウッドザコシショウの“芸”を絶賛されていた。《本物?wゾンビ感めっちゃ出てるw》《収益化してないから一銭も入ってこないのオモロすぎる》《インプレゾンビ芸w》《しかも公認マーク?着いてないからほんとにただのヤバいやつっていうねww》《実はどんな芸人よりも流行に詳しいザコシ本当に愛してるwwww》
2024年05月17日