人気漫画家・五十嵐大介原作の「リトル・フォレスト」が、新たに韓国映画としてリメイクされることが分かった。主演は『お嬢さん』で鮮烈なデビューを果たしたキム・テリ。併せて予告編とティザービジュアルも到着した。何ひとつうまくいかない人生に悩む主人公のへウォン(キム・テリ)が、全てを手放して故郷に戻ってくるところからストーリーは始まる。幼なじみと共に、四季折々の風景の中で、農業をしたり、季節にちなんだ料理を楽しみながら、日々を丁寧に過ごすうちに、自身の輝きを取り戻していく。本作は、14年に橋本愛主演で2部作品として映画化された。日本で“ロハスブーム”の火付け役ともなった『リトル・フォレスト』だが、今度は舞台を韓国に移し、イム・スルレ監督がメガホンをとる。公開された予告編では、春夏秋冬が色鮮やかに映し出され、まさに四季を味わうような料理の数々が登場する。主人公のへウォンを演じるのは、今韓国で最も注目を集める若手女優キム・テリ。パク・チャヌク監督『お嬢さん』で、1500人の中から選ばれ華々しいデビューを飾り話題となった。現在公開中の『1987、ある闘いの真実』にも出演中で、今後の活躍が期待される。本作では、明るく初々しい20代らしいキム・テリの魅力も楽しみだ。またヘウォンの幼なじみのひとり・ジェハを『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』の出演でも話題となった、リュ・ジョンヨルが演じている。予告編と共に公開されたティザービジュアルでは、田舎の一軒家の縁側に座る、ヘウォン、ジェハ、ウンスク(チン・ギジュ)の3人の姿が映し出されている。そして、新鮮な野草の天ぷらや、卵のサンドウィッチ、ハーブティーなど本作に登場する季節に合わせたロハスな料理と共に、へウォンが食事を楽しむ姿を見ることができる。『リトル・フォレスト 春夏秋冬』は2019年夏、シネマート新宿ほか全国にて公開予定。(text:cinemacafe.net)■関連作品:リトル・フォレスト夏・秋 2014年8月30日より全国にて公開© 「リトル・フォレスト」製作委員会リトル・フォレスト冬・春 2015年2月14日全国より全国にて公開© 「リトル・フォレスト」製作委員会
2018年09月14日こんなに「子どもが、子どもとして存在する」映画はこれまであっただろうか? ひと言でいえば、映画『泳ぎすぎた夜』は、そんなことを思わせる作品です。描かれるのは、少年の過ごすたった1日のこと。その日になにか特別なことが起きるわけではありません。ごくごくありふれた日常でしかない。でも、主人公の少年の一挙手一投足から目が離せなくなる。この映画を観ると、「親は子どもの持つ力をもっと信用しないといけないのでは?」と、問いかけられている気がします。世界の映画祭でも“いままでにない、子ども映画”と高い評価を受けた本作の五十嵐耕平監督とダミアン・マニヴェル監督に話をお聞きしました。■大人にコントロールされない本当の子どもの姿とは『泳ぎすぎた夜』で驚かされるのは、少年のほんの些細で日常的な行動になぜか目を奪われてしまうところ。子どもの世界や子どもの時間そのものが作品に刻まれています。どうやったらこんな子どもの自然な姿をとらえられるのだろうか。――どうして子どもを主人公にした作品を撮ろうと、思ったのでしょうか?五十嵐耕平監督(以下、五十嵐):二人の意見で、「雪国での少年の物語」ということになったんですが、僕が「子ども」という題材に取り組みたかった理由は、その存在の曖昧さというか。ひと言でいうと、子どもって次にどんなことをするのかリアクションが読めないから。たとえば大人だったら取っ手のある荷物を持つとなったら、迷わずその取っ手をつかんで持ち上げる。その行動はこちらの想像の範囲内で収まります。でも、子どもの場合は、想像に収まらない。取っ手があってもそれをつかまないで、もちあげようとするかもしれない。そんな子どもの意外性のある感性が引き出すことができたら、おもしろい作品ができるんじゃないかなという漠然とした考えがありました。ダミアン・マニヴェル監督(以下、ダミアン):ただ、子どもを主人公にした映画ではあるんだけれど、通常のアプローチとは違うものにはしたかった。五十嵐:通常の映画に出てくる子どもは、ほとんど子役です。映画の撮影というのは、基本的にすべてにおいて大人の都合で進んでいく。何時から何時までというスケジュールから、セリフを言うタイミングまで大人の指示。子どもの役を任された子役はその指示どおりに動くわけです。ふと、「そこにほんとうの子どもの姿が存在しているの?」と疑問に思ったんです。僕たちが撮るのであれば、子どもの本質をとらえたい。大人にコントロールされていない子どもの本来の姿を映画の中に落とし込めないものかと。ダミアン:コントロールできないということはリスクがあるということ。撮影が滞りなく進むとは限らないし、最悪、映画が完成しない可能性も否定できない。でも、子どもはすごくクリエイティブ。被写体としては最高で、そこに賭けてみようと思ったんだよね。■「子どものルール」は大人とはまったく異なる?監督たちは、「いまどきの子どもはシャイでおとなしい」といったイメージを持っていたそうだが、主人公を演じる古川鳳羅(こがわ・たから)くんはそのイメージとまったく違ったと話します。鳳羅くんは、自分の想いを体ごとぶつけてくるエネルギーを持ち、次の瞬間、何を考えてどう動くのかまったく予想できなかったとか。――演技経験のない彼を起用して映画作りに取り組まれたわけですが、子ども本来の姿をひきだすため、どんな創作がなされたのでしょうか?五十嵐:鳳羅くんに出会ったことで、はじめて形になっていたことが多いですね。子どもの純粋な姿を撮りたいと思っていたわけですけど、鳳羅くんに接するようになって、子どもには「子どものルール」があるということがわかってきました。ただし、大人が考えたルールからは完全にはみだしているんですけど(苦笑)。時間の使い方、何に目的意識を持つのか、何に興味を持つのか。これらが大人とはまったく違う。同じ風景をみても、大人が考える範囲以外のところを見ていて、まったくの別世界を感じていたりする。それを映し撮りさえすれば、自然と目指すものになるのではないかと思いました。ダミアン:僕は鳳羅くんの中に、喜劇王のチャップリンを見いだしていました。彼ならきっと人とは違う世界を見せてくれる。たぶん彼が次にどんなリアクションをするのか楽しみで目が離せなくなると。五十嵐:僕ら大人はもう子どものころの感覚って、忘れてしまっている。考えたところで浅はかなアイデアでしかない。だから、そこに頼るよりも、鳳羅くんを信じる。こちらの枠にあてはめないで、彼に自由にやってもらう。そうすれば、なにか彼から子どもならではのことが出てくるだろうと。たとえば犬を相手にほえ合うシーンがあるのですが、犬にほえられたら、本能的な反射で彼はほえ返す。それだけなんだけど、もう目がくぎ付けになる。最終的には、僕たちが、鳳羅くんの世界に入っていって、そこで映画を撮る感覚でした。■「子どもの正しい判断力」を親は奪っていないか少年は父の仕事場を探して、寒さ厳しい雪の中、道をトコトコ歩いて、電車にのって記憶をたよりに目的地を目指します。しかし子を持つ身としては、ついつい“危ない”とか“気をつけろ”とか思ってしまう。しかし一方で、もっと子どもの本能を信用しなければいけないという気にもさせられます。筆者自身、「寒いから手袋して」、「マフラーまいて」とか、本人任せにしてもいいことまでついつい口を出してしまっている気がします。でもそんなこと言わるまでもなく、「子どもには子どもの正しい判断力」があって、過度な干渉は必要ないのではないか? といったメッセージが作品から伝わってきます。五十嵐:雪が降っている中で、子どもがひとりで出かけるというのは相当危険な行為だと思います。道をわたるのも危なっかしいし、電車に乗るのも大丈夫かなと思いますよね。子どもにとっては大冒険。ただ、こうした経験を多かれ少なかれ僕らも子ども時代に体験しているんじゃないですかね。海で泳いでいたら、想像以上に沖に出てしまったとか(笑)。それで初めて身をもって危険を感じる。そういったことはいまでもふと頭をよぎる瞬間があって、忘れてはいない。こういう判断力って自分で実際に経験して初めて実感として体得していくような気がするんです。それが自分の生きていく上での力にもなる。危ないことは知識として知っているけど、「どう危ないのかわからない」ことが本当は危ない気がする。もちろん経験することの限度はあると思うけれど、危険なことをすべてシャットアウトしてしまうのはどうなんだろうと個人的には思います。僕自身も今回、鳳羅くんをとおして、子どもの判断力や自立心をもっと信じてあげてもいいんじゃないかなと思いました。ダミアン:そして子どものときの自由な時間、ひまな時間ってすごく長い。大人になると、「子どものとき、あんなに時間があったのに、なんでなにもしなかったんだろう」って思ったりするぐらい(苦笑)。この「自由に想像をめぐらす時間」も子どもには必要なんじゃないかなって思いました。こういう自由な時間が持てるのも、じつは子どものときだけなんじゃないかな。だからこそ大切にしてあげたい。実際の日本についてはよく知っているわけではないけれど、なんとなく日本の子どもにはあまり自由がない印象がある。フランスはもうちょっと自由がある。ただ、怒るときは世界共通で、親はものすごく怖いけどね(笑)■「子連れのお母さんを見守りたい」と思える作品本作を撮るときに、監督たちは鳳羅くんと男同士の約束を交わしたと言います。たとえば「今日は終わったら一緒に遊ぶから、あとワンシーンは撮ろうね」と。それを鳳羅くんが守れないときは、きちんと叱ったそう。「映画とか僕の都合ではなくて、人と人が約束したこと。僕と鳳羅くんの問題だから。」と五十嵐監督は話します。――今回の作品をとおして、自身の少年時代といまの子どもたちと比べて、感じた違いはありましたか?五十嵐:たとえばスマホといった社会や時代で表面的なことは変わっている。でも、本質的なところでは、あまり変わってないんじゃないか。子どもは子どもでしかなくて、じつは僕たちが子どものときとなにも変わらないのではないかと思いました。ダミアン:僕も同じ意見。たとえばパリの子は大人っぽいし、田舎はもっと子どもっぽい。でも、子どもの持っている本質みたいのはまったく変わらないんじゃないかな。五十嵐:たとえば鳳羅くんはゲームが大好きです。でも、あんな雪国に住んでいるのに、雪でも楽しんで遊ぶんですよね。「雪=ちょっとウキウキ」みたいな感覚は、子どもから失われていない。――お二人ともまだお子さんはいらっしゃらないということですが、ご自身も将来、子どもを持ちたいと思いましたか?五十嵐:想像できないというのが正直なところ。でも、毎日のこと考えると、大変ですよね。とくに悪ガキの男の子をもったら(笑)。今回、鳳羅くんと接するなかで、僕は自分の母に感謝しました。そして東京などで電車に乗っていると、子連れのお母さんをよく見かけます。いつも大変そうだなと思ってましたが、その苦労は想像以上だと思う。もっと社会として優しい目でみていいんじゃないかなと思いました。ダミアン:想像はしましたね。自分も「子どもをもったらどうなるのか?」と。たぶん大変。でも、そうなったらがんばるしかないかな(笑)『泳ぎすぎた夜』4月14日(土)よりシアターイメージフォーラムほか全国順次公開日本の五十嵐耕平監督とフランスのダミアン・マニヴェル監督が、青森県平川市に住む小学二年生の男の子、古川鳳羅くんとともに作り上げた、これまでにない子ども映画。ある朝、すでに仕事に向かっていない父親にふと自分の書いた絵をみてほしいとおもった6歳の少年。思い立ったが吉日と彼は父親の働く魚市場へ! ここから少年のとても小さいけど、本人にとっては大きな冒険がスタートする。子どもだけに流れる豊潤で自由な時間を映像に映しこむことに成功したそのシーンの数々に驚かされる1本。大人が見過ごしがちな、子どもの可能性と豊かな感性を体感できることでしょう。
2018年04月13日サクソフォンの上野耕平、ピアノの阪田知樹という注目の若手が、平日午後のアフタヌーンコンサートで初共演を果たす。上野耕平(sax)/阪田知樹(P) チケット情報「大学時代、友人に誰かすごいピアニストはいないか聞いたとき、阪田君の名前があがったことがありました。以来、面識はないながら気になっていたんです。共演できることになって、ワクワクですよ!」と上野。阪田のほうは、「すばらしい活躍をされていますから、もちろんお名前は知っていました。あと、大学で一度だけ、僕の友人と一緒にいる上野さんとすれ違ったことがあるんです(笑)」と話す。ふたりは東京藝大出身だが、学年が違うので接点もなかった。そんな中、今回の共演は、主催者からの提案で実現したものだ。しかしそうとは思えないくらい、両者はすでに意気投合している。冒頭はそれぞれソロでバッハを演奏するが、これも細かい相談なしに自然と決まったそう。『フルートのためのパルティータ』を演奏する上野は、「神秘的で、天から降るようなソプラノ・サクソフォンの音が、この曲に驚くほど合う。当時まだ存在しなかったサクソフォンによるバッハを聴いてほしい」と考え、選曲した。阪田が弾くのは、ブゾーニ編曲の『シャコンヌ』。原曲の魅力を保ちながら、ピアノならではの表現の幅を生かしているということで、同じタイプの作品といえるだろう。阪田がこれを、「バッハの中のロマンティックな感情が現れた名曲」というと、すかさず上野が「そう、バッハはロマンティックだと僕も思う!」と同意。ふたりで別の角度から見たバッハを届けたいという。その他、ドビュッシーやシュルホフなど楽しみな曲は多いが、注目したいのは、阪田が書き下ろすサクソフォンとピアノのための作品(世界初演)。阪田は作曲にあたり、「技巧が生かされるモダンなテクニック、サクソフォンから切り離すことのできないジャズの要素も取り入れています。また、実際彼の演奏を聴き、サクソフォンでこんな風に歌える方がいるのかと思ったので、そこを存分に聴かせられる曲にしたい」と話す。そう言われた上野は「歌うところが好きだと言ってもらえると、うれしい」と喜ぶ。「サクソフォンの歩んだ歴史を取り入れながら生まれた、新しいクラシック作品は大好きです。それにしても、何も伝えなくても楽器の良さをわかってくれていて驚きます……」。両者とも高い演奏技術を持つうえ、クリエイティビティにあふれていて、これがお互いを刺激しているようだ。「本番を迎えたとき、例えばこちらが攻めたら上野君がどんな反応をするか、とにかく楽しみです」(阪田)「濃い内容になると思うので、聴き終わったらぐったりされるかもしれません(笑)。普通のコンサートではありませんから、絶対聴きにきてほしいです」(上野)公演は東京オペラシティコンサートホールにて2018年1月11日(木) 13:30より開演。チケット発売中。取材:高坂はる香
2017年12月01日田中宏による、累計400万部突破の同名原作を実写映画化した『莫逆家族 バクギャクファミーリア』。本作で元暴走族の主人公・火野鉄(徳井義実)と対峙する五十嵐けん役で怪演を披露した村上淳が、五十嵐の役割とキャラクターの創造秘話を語った上で、作品に込めた熱い想いを打ち明けた。その他の写真暴走族「神叉」として熱い青春を送った不良たちの、“その後の人生”を描く人間ドラマ。暴走族がモチーフの激しい世界観だが、村上は「その奥にあるレイヤーに注目してほしい」と言う。「あの頃は…じゃないけれど、40代手前になった人間たちの日常として置き換えると、誰もが迎える人生の本質的な岐路を描いてます」。本作は、理不尽な仕打ちが多い社会に不満を抱く元不良たちが、もう一度自分たちのイキザマを貫こうとする戦いのドラマでもある。その岐路の過程で社会に迎合はおろか、精神のバランスまで失ってしまう男が、村上演じる五十嵐。「哀しい男ですよね。10代、20代の反抗に理由は要らないけれど、年を重ねれば反抗にも理由が要るじゃないですか。それでも理由はないと哀しいまでに己に言い聞かせている男――それが五十嵐ですよね」。五十嵐は鉄と同じく元「神叉」のメンバーで、第18代目総長の渡辺(中村達也)が溺愛する弟を事故死に追いやってしまい、その復讐に怯えて暮らす“哀しい男”。出所した渡辺は自責の念で腑抜け状態と化していたが、過去の亡霊に怯えきっている五十嵐の恐怖は狂気へと変わる。映画の前半と後半でキャラクターが激変する難役を演じた村上は「苦労した分、楽しかったです」と振り返った上で、「自分の中で五十嵐が勝手に暴走するので、手綱を引き切れていない感じもありました。自分以上、五十嵐以上のモノがスクリーンに映っていると思いましたね」と自信を示す。その五十嵐は『ダークナイト』(08)のジョーカーを連想する狂気のキャラクターで、「熊切監督を始め、映画好きの30代が集まれば、ヒース・レジャーが演じたジョーカーは絶対の存在なわけですよ。それに俳優であれば、大抵はヒール(悪役)を演じたいもので」と熊切和嘉監督とアイデアを出し合いながら共同で生み出していったと明かす。「五十嵐を白くしたかった理由には、ヴィターリー・カネフスキーの『ひとりで生きる』(91)の疫病を患った人間のイメージもあって、その違和感が『莫逆』にも欲しいよねって話していました。違和感って、怖いですよ。それを追求する作業は面白かったですね」。また、「この映画を誰にでも観てほしいと思っていますが、40歳手前の人間たちがズブズブになって頑張っている必死な姿を、今の2012年の人たちにどう映るかが楽しみで(笑)。この映画に出ているメンツって僕が全員意識していた人たちで、皆で『莫逆』という作品を作れたことは今後の僕の俳優人生にとっても絶対にデカいと思う。自分でも何かが上手くいっている作品だと現場でも思ったので、そこを感じてほしいです」と本作をPRした。『莫逆家族 バクギャクファミーリア』2012年9月8日(土)より、ロードショー取材・文・写真:鴇田 崇
2012年08月31日