女性自身がお届けする新着記事一覧 (888/893)
「友達が『ぎんざNOW!』に応募して、オーディションに行ったら受かっちゃって。そのまま5週連続勝ち抜いた結果、ずるずるこの世界にいるわけです」 そう語るのは、隔週連載『中山秀征の語り合いたい人』第76回のゲスト・タレントの小堺一機さん(61)。中山がデビュー時にとてもお世話になったという小堺さんと2人、「何が出るかな」でおなじみ『ごきげんよう』さながら、トークたっぷりの時間を過ごしました。 中山「初めてお会いしてから、もう31年ですよ。『いただきます』(『ごきげんよう』の前身番組)に出していただいて」 小堺「秀ちゃんが17歳で、僕が28歳のときか。頑張ってたね」 中山「当時はどんな思いでしたか?」 小堺「まず、ありえないと思ってた。そのころは『欽ちゃんのどこまでやるの!?』のグレ子をやってたから、『笑っていいとも!』後の番組をできるわけないって。それなのに、朝からスタッフが大勢来て、発表会見で『司会の小堺一機さんです』って紹介されて、質疑応答まで……最後まで手の込んだどっきりだなと思ってたら本当だった」 中山「まったく信じてなかったんですか?」 小堺「そんなわけないもん。その直前に初出演のドラマでNGを16回出して、ディレクターにひっぱたかれてるんだよ」 中山「『欽どこ』で関根勤さんとやられていた“クロ子とグレ子”もすごい人気でしたよ」 小堺「それも僕と関根さんは1回、役をクビになってからのことだから。僕たちとしては、挫折したグループだし(笑)」 中山「そうだったんですね。でも『いただきます』は人気になっていきますよね」 小堺「初めのうちは評判もよくなくて、『空っぽのやつが汗かいてるだけ、消えて“いただきます”』なんて記事も書かれて。矢面に立つってこういうことなんだって、それまでは堺正章さんや、萩本欽一さんがいたでしょ。でもさすがに受け止めるしかないから『いつでも消えてやる、3カ月で終ってもいいや』って開き直って、変なことを言い出したの。小森(和子)のおばちゃまたちに『こんな人、悪寒が走るわ』って言われたら、『どうせ入りますよ、もうすぐお棺に』とかね。そしたらウケ始めた」 中山「番組も変化していくんですね」 小堺「それとね、僕が空回ってたものだから、関根さんが『“あんなに面白いおばさんたちがいるのに、なんで1人でしゃべってるの”って堺さんが言ってたよ』って教えてくれて。萩本さんに『お前にピンの仕事はこない、全部自分でいっちゃうから』と言われたこととかを思い出して。人の話を聞くのも大事な仕事だったんだよね。自分だけ頑張ろうとすると、うっとうしく見えちゃう。それで自分の話を半分にしたら、宝物のようにおばちゃまたちから面白いことがザクザク出てきたの」 中山「視聴率が上がっていきましたよね。僕はそのころに番組に入れていただいて、女のコにキャーキャー言われるようになって生活が変わりましたよ(笑)」 小堺「僕はその前に萩本さんに『視聴率10%は子どもと女のコが騒ぐ。20%でおばさんが“あら”って声をかける。30%超えるとおじさんが“おっ”と言う』って言われてるから。調子には乗らなかったと思う」 中山「萩本さんは1週間で視聴率100%とってたんですもんね。“100%男”と呼ばれて。でもやっぱりうれしいことですよ」 小堺「そうだね。人から見たら調子に乗ってたかもしれないな。取材もたくさん入って、『10分ずつでお願いします』なんて、これが売れるってことだって思ったよね。僕もキャーキャー言われたんだから」
2017年03月04日「『いただきます』(『ごきげんよう』の前身番組)の視聴率が上がってきて人から見たら調子に乗ってたかもしれないな。僕もキャーキャー言われたんだから。でも、僕はその前に萩本さんに『視聴率10%は子どもと女のコが騒ぐ。20%でおばさんが“あら”って声をかける。30%超えるとおじさんが“おっ”と言う』って言われてるから。調子には乗らなかったと思う」 こう語るのは、隔週連載『中山秀征の語り合いたい人』第76回のゲスト・タレントの小堺一機さん(61)。『欽ちゃんのどこまでやるの!?』で関根勤との“クロ子とグレ子”で、一躍人気者となった小堺さん。だが、『ごきげんよう』の前身番組『いただきます』を始めたばかりのころは、自分が空回りし、視聴率が思うようにあがらなかったそう。 そのとき、思い出したのが萩本欽一さんの「お前にピンの仕事はこない、全部自分でいっちゃうから」という言葉だったという。この言葉に「人の話を聞くのも大事な仕事だったんだ」と自分の立場をあらためたところ、『いただきます』は人気番組となっていった。そんな、“欽ちゃんのびっくり伝説&金言”を小堺さんが教えてくれました! ■「仕事と私生活、両方幸せ」なんてありえない! 「『仕事と私生活、両方幸せなんてない』『運を使ってる人がいるとダメだ』と、よく聞きました。結婚した人は現場からはずすし、買ったマンションの鍵を捨てさせていたことも。ゴルフに行って、天気がいいと萩本さんは『ダメ。仕事がうまくいって、気持ちよくゴルフできるなんて、そんなわけない。神様そんなの許さない』と」 ■「ただいま」と言って帰ってくる日にドラマはない! 「台本を読んで『“ただいま”って書いたの誰だ、“ただいま”って帰ってくる日にドラマはないよ。その前に言いたいことがある日にドラマがあるの』と言って、作家が書き直してましたね。それで、「“芋みつけたよ”。『これだよ、これ!話が転がるよ』と、丸く収まりましたが、翌日には“ただいま”に戻っていました(笑)」 ■偉人伝を読め。大事なのは「失敗ばかりしていた」の部分! 「『伝記を読め』ともよく言ってました。偉人伝には、成功が最後の少ししか書かれていないと。それまでの失敗談や苦労話がほとんどで、大事なのはその部分。『最初からうまくいってる人は偉人になってない、そこに気がつかないとダメ』とも。萩本さんもいろいろな苦労を経験されて、視聴率100%男になった方ですからね」 ■焼き肉を食べ終わった後に「もう一回、稽古に行こう」! 「少し視聴率が下がったときに、焼き肉を食べに行ったんです。『これね、誰かが嫌だなって思ってるんだよ』という話になって、そのまま終わると思ったら、『もう一回、稽古に行こう』って。夜の10時にテレビ朝日に戻ったら、暗いから警備の人が萩本さんのことを『どなたですか?』と止めてしまって。それは一大事でした」
2017年03月04日「僕は家では何もしてない、全部女房ですよ。うちの子たちは困ったことはなかったね。息子の翔太も自分でアナウンサーの仕事見つけてきたし、下の子も働いているし。それは女房がやってくれたことだと思います」 そう語るのは、隔週連載『中山秀征の語り合いたい人』第76回のゲスト・タレントの小堺一機さん(61)。中山がデビュー時にとてもお世話になったという小堺さんと2人、「何が出るかな」でおなじみ『ごきげんよう』さながら、トークたっぷりの時間を過ごしました。 中山「『ごきげんよう』もそうでしたが、『おすましでSHOW』の公演も小堺さんのライフワークのひとつですよね。笑い、トーク、音楽が楽しめるショーを’85年から続けられて、今回ファイナル(東京・新国立劇場中劇場にて3月9〜12日まで)なんですね」 小堺「『ごきげんよう』をひとつ区切ったでしょ。最初は怒られたりしたけど、居心地のいい番組だったわけですよ。『おすまし』も最初は『テレビタレントが舞台なんてできるのか』なんて言われたりしながら、なんとかやっていって、だんだん気持ちよくなっていくんだけど、居心地いいところにいると次に進めないのかなって。母が亡くなったこともあるし、これでひと区切り。まずはやり切って、また新しいライブのカタチを探りたいと思っています」 中山「次へ行くしかない状況を作られたところもあるんですね。節目を迎えられ、今後はどこを目指すんでしょう?」 小堺「今のところ何もないですよ」 中山「いろいろやりつくされている?」 小堺「今『かたらふ〜ぼくたちのスタア〜』(フジテレビ系)というトーク番組をやらせていただいてるんですね。『ごきげんよう』のスタッフなんだけど、食事会で『あの映画がああで、こうで』なんていろんなことを話してたら、スタッフが『すごい知識ですね』って言ってくれたの。みんなに話したいから勉強したわけじゃなくて、30年も見てれば知識は増えるじゃない。そしたら皆さん面白いと言ってくださって」 中山「すごい映画の知識ですもんね」 小堺「僕は1回見るとだいたい覚えるんですよ、それはちょっと関係しているかもしれないけど、世間一般のことはひとつも覚えないんですけどね」 中山「好きなことだと頭に入るんですか」 小堺「だからブロードウエーなんかもショーの勉強だと思って見るとダメだね。沢田研二さんも『勉強で見るより、客として見たほうが頭に入る』と言ってた。とにかく、僕は本当に運だけでここにいるんだろうね。何もしてないからね。どん底も味わってないし、悔しくて泣いたことがあるくらい」 中山「小堺さんにもそんなことが」 小堺「ドラマで16回NG出したときね。その日は寄らなきゃいいのに、彼女の家に寄っちゃったんですよ。『どうだった?』って聞かれたから、僕泣いちゃった。『畜生!』っていう強い感じじゃなくて、膝の上で延々。『才能ないんだ、え〜ん』って、甘ったれでしょ。それが今の女房。いまだに、何かあると『あなた、泣いたわよね』って言われるんですよ(笑)」
2017年03月04日3月1日発売の「an・an」(マガジンハウス刊)で初のヌードグラビアに挑戦した高橋一生(36)。その一糸まとわぬ官能的な姿に女子たちが大興奮!浮き出る血管、脇腹のほくろ、腕毛などなど、いろんなフェチたちを騒がせている。 そんななか、意外なところに注目している女子たちがいた。それは高橋の二の腕にあった“BCG跡”だ。 BCGとは、結核の予防接種。9本の針がついたスタンプを2カ所、二の腕に押し付けて接種することから“はんこ注射”とも呼ばれている。接種後に跡が残ることもあるのだが、ネット上ではこんな声が上がっていた。 《やば…高橋一生の凄い萌えを届けてくれてる…全BCG萌えに告ぐ…BCGの跡です…》《高橋一生目的で真っ先に購入したan・anだけど美人とキスしたり美人と裸で抱き合ってる写真よりも一番キュンときたのは彼の腕に残るBCG跡だった》《例の高橋一生さんのヌードグラビア…腕にBCGがあって最高だっていうのが超話題のトレンドになってませんか?!!》 実は、このようにBCG跡に萌える女性が意外と多いのだという。今回のヌードグラビアを見た30代“BCG跡萌え”女子はこう語る。 「BCGって、幼いころみんなやってるじゃないですか。つまり、“過去の生活臭”があるんですよね。だから生活感のないようなイケメンが服を脱いだとき、左腕に“あの跡”があるとギャップを感じてキュンとなるんです。『ああ、彼もお母さんに連れられて行ったのかな』とか妄想を掻き立てられて……。ただ、BCG跡に萌えるのはイケメンに限りますけど」 世の中にはいろんなフェチがあるものだが、高橋もまさか自分のBCG跡がセクシーだと言われるとは思いもしなかったことだろう。
2017年03月04日「医師と患者の懸け橋になりたい。それが、骨髄移植から社会復帰した私の役目かなと」 そう語るのは大谷貴子さん(55)。大谷さんは、26歳のときに骨髄移植を受けた元白血病患者。そして、一人でも多くの命を救いたいと、患者とドナー(骨髄の提供者)を結ぶ「骨髄バンク」を日本で初めて立ち上げたトップランナーとして、約30年もの間、講演や啓発活動、患者の相談など日本中を駆け回ってきた。診察に付き添うことも多く、“患者仲間の大谷さん”として信頼される。いわば日本の骨髄バンクの「顔」だ。 大谷さんは、’61年大阪市生まれ。開業医の父・幸郎さん(故人)と、医院の事務を手伝っていた母・巻枝さん(82)、姉・睦子さん(57)の4人家族に育った。 「やんちゃでしたね。健康そのもの。父は、患者さん第一の人で尊敬していました。でも父と母の間には軋轢があって、小学6年のときに別居してのちに離婚。私と姉は母親と暮らすようになりました」(大谷さん・以下同) ’85年、女優の夏目雅子さんが白血病で亡くなった。正直、人ごとと思っていた大谷さんだったが、翌年12月、彼女も白血病と診断される。千葉大学大学院英語教育科の学生として、大阪の自宅で修士論文に向かっていた25歳のときである。生理の血液量の異様な多さに驚いて婦人科を受診すると、すぐに内科への入院を命じられた。慢性骨髄性白血病だった。 「アメリカで看護師をやっていた姉も駆けつけて、はっきり病名を教えてくれました。あまりにショックすぎて涙も出ませんでしたね」 白血病は、原因不明の「血液のがん」である。現在も毎年6,000人が発病。誰がいつ発病してもおかしくない病気だ。抗がん剤で完治する種類もあるが、当時、慢性骨髄性白血病患者は、骨髄移植でしか助からなかった。しかも、その移植が可能かどうかを判断するHLA(白血球の型)は数万通り。兄弟姉妹なら4分の1の確率で適合するが、それ以外では500人から数万人に1人となり、当時、骨髄移植は夢のような治療と思われていた。 まず異常増殖した白血球を抗がん剤で正常数値に戻すべく、大谷さんは京大病院に転院した。白血球が正常値を保っている間は「慢性期」と呼ばれ、一般的には3年ほど日常生活を送られる。しかし、白血球がふたたび異常増殖する「急性転化」は必ず訪れる。こうなると余命は半年だ。 「でもそのころの私は、楽観的だったんです。きっと姉のHLAと一致するし、アメリカで移植を受ければいいと」 ’87年4月に退院した大谷さんは、両親と姉と一緒に渡米し、4人でHLA型の検査を受けた。結果は、姉と「骨髄移植が可能」というもの。 「私は恵まれていると思いました。京大病院に入院しているとき、妹のようにかわいがっていた14歳のさおりちゃんという子がいたんです。ひとりっ子のため兄弟姉妹間の移植は望めなくて」 9月からは、東京電機大学で、英語の非常勤講師として教壇に立つこともできた。事態が急転したのは翌月である。主治医から「お姉さんとは、HLAが完全には合っていないんだ」と言われたのである。大谷さんの顔からいっきに血の気が引いた。 「アメリカでの検査結果は、『適合』ではなく、『適合可能』だったんです。突然の死刑宣告に思えました。さおりちゃんのために、骨髄バンクの運動に協力し始めていましたが、ここにきて、自分の問題になったんです」 このときが白血病との闘いのなかで、いちばん苦しかった、と大谷さんは振り返る。 「このまま死ぬのかなという精神的なつらさは、ずっと続きました。あの地獄のような苦しみが、いまの活動の支えとも言えます。同じ気持ちを抱えている人がいるかと思うと、体が動いてしまいます」 奇跡が起きたのは、もう一度家族4人でHLAの適合検査を受けたときだ。1万分の1という確率で、母親と完全に一致していたのである。移植された巻枝さんの骨髄が、26歳の大谷さんの体のなかで、健康な血液を作りはじめた。しかし、悲しい知らせもあった。14歳のさおりちゃんが亡くなったのである。 「入院していても、いつも好奇心でキラキラしていました。さおりちゃんの夢は“普通の高校生”になることでした。その無念を思うと……。彼女の存在も、いまの活動を支えている一つです」 ’17年1月現在、骨髄バンクの登録者数は46万9,348人、移植は2万309件を達成した。さらに3,527人の患者がドナーを待っている。24時間365日、大谷さんは受け付けている。自分のように白血病になった人、骨髄移植を必要としている人、診察の付き添いなどの相談を。
2017年03月03日「近くに緑道があるのですが、そこでお子さんを遊ばせているのをよく見かけますね」 そう話すのは、要潤(36)が住む、東京・世田谷区内の自宅近くの住人だ。ちびっ子だけでなく、母親たちまでもとりこにした『仮面ライダーアギト』でブレークしてから15年。 「要さんほどの人気俳優なのに、マスコミが気付いてないのが不思議ですが……。じつは都内の高級住宅地に、“億超え”の自宅を建てているんですよ」(要の知人) 要が、121平方メートルの土地に建つ自宅を購入したのは14年8月のこと。角度のついた屋根が印象的な、スタイリッシュな一軒家は木造2階建て。近所の不動産業者によれば、「土地と建物あわせて1億3千万円」という豪邸だ。 「要さんは14年4月に、元タレントで美容関連会社社長のA子さんと結婚しました。その年の12月に第一子が生まれていますから、子供が生まれるのにそなえて、広い家を買って移り住んだということでしょう」(スポーツ紙記者) その後、15年12月には第2子も誕生。自宅の周辺では、そんな要の“イクメン”ぶりが噂になっていた。 「休日には、犬を散歩しているのをよく見かけますよ。子供さんと散歩する姿も見ます。ジャージ姿に帽子を深くかぶっているんですが、背が高くてスラッとしているので、目立つんです」(別の近所住人) 要の仕事ぶりは「順調」そのもの。ドラマ出演にくわえ、コンスタントにCMも入っており、収入は安定している。 「現場に遅れてきたことも一度もないですし、台本もすべてインプットしてくる完璧主義者。後輩のセリフにまで目を通し、アドバイスをしてあげる性格で、撮影現場での信頼は大きいですよ。ただ、女性ファンが多い彼にとって、“パパ”のイメージが強くなるのは諸刃の剣。だからインタビューなどでは、家族の話はNGにしています」 ますます仕事への情熱が燃え上がりそうだ。
2017年03月03日「この1~2週間、すごい回復ぶり。病院の先生も驚いてたよ」 昨年12月29日に脳梗塞で倒れてから2カ月。待望の退院を果たした2月14日、詰めかけた記者たちにそう語ったのはラモス瑠偉(60)。横には、一昨年11月に再婚したばかりの俊子夫人(39)の姿も。ラモスはサッカー選手としての“現役復帰”まで口にし、回復ぶりをアピールした。 だが、それから1週間以上が過ぎた2月22日。本誌が目撃したラモスは夫人に手を引かれて、ヨタヨタと歩いていた。見るからに、片足を引きずっている。退院時に口にした「回復」は本当なのか――。 翌日も、夫人は献身的に夫に付き添っていた。昼12時過ぎ、ラモスは前日のように夫人に支えられながら停まっている車に乗り込むと病院へ。途中、先に車を降りた夫人は、満面の笑みでラモスの乗る車に手を振っていた。ラモスのリハビリ訓練が終わるのを外で待っているのだろう。 だが、夫人がずっと付き添ってなければならないほど、状態は悪いのだろうか。リハビリに向かうラモスに声をかけると、以前と変わらぬ笑顔で応じてくれた。 ――もう普通に出歩いているんですか? 「いや、してないです。昨日が初めて。リハビリに車で送ってもらってね。毎日やってるけど、まだ治ってないです」 そう言いつつ、表情に悲壮感は感じられない。ラモスの事務所関係者に話を聞くと、謎が解けた。 「ラモスはリハビリでも、メチャクチャ頑張ってしまうんです。限界までやる。だから頑張った翌日は、筋肉が張って、歩けないほど痛みが出ることがあって(苦笑)。ハードなトレーニングに挑んでいくところは、現役時代と変わらないですね」 俊子夫人の深い愛に支えられた“闘将”ラモス。回復も早そうだ。
2017年03月03日女優の堀北真希さん(28)が2月末で事務所を退社し、芸能界を引退することを発表しました。堀北さんといえば、夫である山本耕史さん(40)との「交際0日婚」が世間を騒がせたことで有名。結婚後も妊娠出産を極秘に行うなど、徹底してプライベートを明かさない姿が何かと話題にあがっていました。 そこへきて今回の突然の芸能界引退。理由は「愛する家族を守るため」というもの。なんとなく予想していた幕引きに、世間も応援ムードが多いようです。 最近ではめずらしい子育てによる人気女優の引退。残念ではありますが、彼女の引退に際し、賞賛と同時に「ママタレとして活動するよりずっと潔い」という、ママタレ批判が混じっていたことも気になります。 近年、女優もタレントも子どもを産むと“ママ”という立場をキャラクターの1つにしたママタレに転向しがちです。良いか悪いかは別として、気づけばママタレ枠は飽和気味。 それでも、子どもを持ったらママ目線を売りにする人が増え続けるのはどうしてなのか。やっていることは普通なのに“ママキャラ”希望者が後をたたない現状はなぜ生まれるのか考えます。 ■嫌がられても“ママタレ”が増える理由 振り返ると、「ママタレ」というキャラクターはいつから当たり前の存在になったのでしょう。その昔はアグネス・チャンさん(61)あたりが有名だったのかもしれませんが、今や芸能界の子持ち女性をみると、あの人もあの人もママをアピールポイントの1つにしているような……。 タレントさんであればブログで食事や子供の成長記録を公開し、女優さんであればママ役を積極的に演じ「自分も母になって演じることで、いろいろ考えさせられます」なんてコメントを発するのが定番です。 飽和状態といわれているのに、それでも女性たちがママタレ枠を目指す。その理由の1つとして、ママキャラという生き方は「特別じゃないのに特別感を見る人に与えることができる」のだと思います。 具体例を出しますと「芸能人ママが作る我が家の食卓」という情報には、特別な準備は不要でもハタから見ると「芸能人の手料理を覗き見れた」というレア感が生まれるものです。同じように「うちの子育てルール」なども“芸能人”というちょっとしたラベルがつくだけで、ただ子育てをしているだけでもレア感のある情報になりやすいもの。 日常に“芸能人ママの~”という主語をつけるだけで、今すぐ共感とレア感を生むコンテンツになるのがママタレなのです。そんな楽なら、誰しもがママタレに移行したくなるのもうなずけます。 ■なぜ引退する女性は聖女扱いなのか 忙しいママにはもってこいの、美味しい要素満点のママキャラ(笑)。飽和するからこそ一部の人から叩かれるのだと思いますが、こと芸能人の場合、堀北さんのように子育て引退(休業)する女性に対して異常なまでの称賛が集まるのも気になります。 堀北さんに対しても「でしゃばるママタレよりずっと好感が持てる」なんて上から目線っぽいコメントも集まっております。専業主婦願望の強い一般人女性に対してはおおむね冷たい目線が集まるのに、芸能人が家庭を優先して引退するとホメるのはなぜなのか……と心底疑問が残ります。 女性には今の時代、国レベルで「生め!働け!輝け!」という追い風っぽいプレッシャーがかっているわけですが、そんな追い風の裏側には「でも男以上にでしゃばるのはナシね」くらいに思っている人が多いのかな、なんて思います。 その証拠が、芸能人という“ある意味でしゃばるのが仕事”の女性たちに対するママタレ批判、そして子育て引退称賛の空気なのかもしれません。 堀北さんの引退はとても残念ですが、彼女の引退が称賛される様子には若干男の幻想すらも感じた今回の話。 とりあえず堀北さんのニュースから「清楚で多くを語らない女の評価の高さ」を痛感したわけですが、結局いつもどおり長ったらしく、ネチネチと多くを語ってしまった女の私なのでした。
2017年03月03日トランプ大統領就任式翌日、女性権利デモに参加したジェーン・フォンダ(写真:REX FEATURES/アフロ) 二度のアカデミー賞に輝いた女優ジェーン・フォンダ(79)が、オンラインガジン「Edit」で行ったブリー・ラーソンとの対談の中で、10代のときにレイプ被害に遭っていたことを明かした。 ヘンリー・フォンダの娘であるジェーン・フォンダは、幼い頃から舞台に立っていた。1960年に映画デビューし、『コールガール』(1971)、『帰郷』(1978)でアカデミー主演女優賞を獲得。女優として輝かしいキャリアを築き続ける一方で、反戦運動や女性の権利向上を訴えるフェミニズム活動にも力を注いだ。 ラーソンに「なぜフェミニストになったのですか」と問われたフォンダはこう答えた。 「私は50年代に育ち、フェミニズムに目覚めるまでには長い時間がかかったわ。これまでに会った男性の多くは素晴らしい人たちだったけれど、父権制度を信じこまされた犠牲者でもあった。私は貶められていると感じていたの。(中略)私はまだ子どもだった頃にレイプされ、性的虐待を受けていた。ボスと寝ることを拒んだら、仕事をクビになったこともあったけれど、それは自分が悪いんだと思い込んでいた。私がしたのは正しいことじゃなかった、とね。他にもレイプされた女の子たちがいたのを知っていたけど、それがレイプだとは思っていなかった。彼女たちも『いや』と言うことが間違っていると考えていたのよ」 男性優位のハリウッドで、女性は虐げられ、食い物にされ続けてきた。性的搾取を受けた経験が、フォンダをフェミニズムへと駆り立てたのだ。 大先輩の告白を受けて、ラーソンは「私は性的虐待被害に遭う役を2度演じたことで、被害女性と共にたくさんの活動を行っています。虐待が自分の責任だと考えることを被害者に許すべきではありません。それは“人を喜ばせたい病”なんですよね」と続けた。 レイプ被害に遭うと、女性は自分に非があったと思い込み、心を病んでいく場合が多い。フォンダはこの精神状態を「疫病」と表現した。今年80歳になる彼女は、今後も女性のための活動を続けていく。
2017年03月03日「’16年7月7日の朝、携帯の着信音が鳴り響きました。声の主はなんと、東京都知事選挙に立候補を表明したばかりの小池百合子さん!『保育現場の視察をしたい。それから待機児童問題について、お話を聞きたいんです』と。私は東京都江戸川区の認可保育所に連絡を取り、翌日すぐに小池さんをご案内しました。“現場第一主義”のその姿勢に『この方を応援したい!』と強く思いました」 こう振り返るのは、東京都議会議員の上田令子さん(51)。小池百合子東京都知事(64)の会派「都民ファーストの会」東京都議団の一員であり、7月に行われる東京都議会議員選挙の会派公認候補第1号の1人だ。 上田さんは’65年、東京都生まれ。白百合女子大学を卒業後、外資系の生命保険会社などに勤務。結婚を機に、夫の実家のある江戸川区に転居した。長男を出産した’94年、勤務していたサービス業の会社でマタニティーハラスメントの被害に遭っている。 「企業って巧妙で、辞表を書かせる方向に持っていくんです。育休を取得した人など誰もいない会社でしたので、私がお願いすると、部長は『結婚しても妊娠しても、会社に置いてやった。そのうえで育休を取りたいなんて。やっと辞めてくれると思っていたのに!』と言ったんです。男女雇用機会均等法も、育児休暇も“絵に描いた餅”だと、そのとき気づきました。女性の社会進出のために行動したいと思った原体験です」 その後、子育てしながら働きたいと思った上田さんを、衝撃の事実が襲う。 「なんと、江戸川区には0歳児保育をしている公立保育園がゼロだったんです!幸い私は息子を私立保育園に入れることができたんですが、『待機児童のママはどうしているんだろう?』とずっと気にかかっていました」 ’99年、次男を妊娠中に、地域の働くママに情報を発信するグループ「江戸川ワークマム」を立ち上げる。 「0歳児保育の実現のために、赤ちゃんを抱っこしたママや、妊娠中の女性たちと陳情に行ったのですが、たばこをプカーッとふかしながら男性議員が、『昔の女は4人も5人も産んで育てたんだぞ!』と。そのとき、『私たちはこういうバカジジイどもに、白紙委任状を渡していたんだ。選挙や政治にあまりに無関心すぎた!』と。そのころですね、『立候補』が視野に入ったのは……」 内閣府主催の男女共同参画リーダー会議に、東京都代表として参加するなどの社会活動を経て、’07年、江戸川区議会議員に。そして’13年、東京都議選に立候補して当選した。都議になってわかったのが、都議会が“黒い頭のネズミたち”が牛耳る世界だったということ。 「ものすごい権力構造。発言権を奪われて改革できず、親分議員に飼い殺しにされているような子分議員を見ました。威圧感が支配する文化、つまり『忖度しろ!』というような恐怖支配の世界です。昨年、小池さんが都知事選立候補を発表され、私たちが真っ先に『小池百合子さんを応援する超党派有志の会』を開催したのは、オッサン政治の闇に光を当て、“見える化”してほしかったからでした」 「希望の塾」の設立が発表されると、上田さんも“一塾生”として参加。そして今度は会派の中で議会活動をリードする立場になった。7月の選挙をどう展望しているのだろう。上田さんは次のように語る。 「できれば単独過半数(64議席)を目指したい。『希望の塾』には女性が4割います。待機児童とか、子育て、介護など、半径1メートルのなかにある、生活に根差した問題から、政治の世界に入ってくることが多い女性にとって、利権とか、親分・子分なんてバカらしい。小池さんも国会議員時代からずっと、そういうガラスを溶かそうと行動なさってきたわけで、同じ感性を持つ女性が集まってくるんです」 “小池新党”の候補者選びはこれからが本番だ。
2017年03月03日「どんなときも前向きに、『この試練を乗り越えれば成長できる』と思うことができれば、人間、強いものです。私自身、これまでの人生のいろいろな局面で“崖から飛び降りる”覚悟で挑戦してきました。特に女性は、人生90年といわれる時代、どの世代のみなさんも『人生、これからだ!』という意気込みで次のキャリアにトライしてほしい」 2月のある夕刻、都内のホテルの一室に「こんばんは」とやわらかい声で颯爽と登場した東京都知事の小池百合子さん(64)は、ひと息つく間もなくこう話しだした−−。 2月5日の千代田区長選挙で応援に回った石川雅己氏が圧勝すると、7月の東京都議会議員選挙で、自身の会派「都民ファーストの会」の単独過半数の獲得を目指すと言う。 さらに、市場移転問題では、3月に石原慎太郎元都知事、浜渦武生副知事らの都議会での参考人招致がされる見通しで、発言内容に法的拘束力のある百条委員会も設置。“男性社会の悪しき体質”をぶち壊してしまおうという勢いは増しているようだ。 小池さんは昨年最後の定例会見で「女性初の東京都知事」に就任した’16年を振り返り、次のように話した。 「大体私のライフサイクルというのは、10年に1回ぐらいは大爆発することがございまして、今年は、爆発の年になりました!」 20代のエジプト留学中には第4次中東戦争が勃発したが、’76年にカイロ大学を卒業し、帰国。アラビア語の通訳・講師として活躍後、’79年にキャスターデビュー。 30代の“大爆発”は’88年、35歳で経済ニュース番組『ワールドビジネスサテライト』(テレビ東京系)の初代メインキャスターに抜擢されたことだ。’92年、40代に差し掛かる年には、キャスターから政界に転身。 50代では小泉元首相の「郵政選挙」(’05年)で“刺客”として注目され、兵庫から東京へと“国替え”当選。以後、「クール・ビズ」など多くの政策を実現させた。そして昨年7月、60代で都知事に−−。 小池さんの場合、40代までにすでに輝いているともいえるが、“時代を変える”存在になったのはまさに50代か。 「私は自分自身をリスクテーカー(=危険を覚悟で挑む人)と表現しているのですが、最初からダメだと思わないで、とにかく、心に火がついたら『エイヤ!』と飛び込む。そのときこそが最大のチャンスなんです。人生は一度きり。やらないで後悔するよりやったほうがいい。たとえ失敗してもそれは自らの糧になる。一歩踏み出すことでひっくり返るかもしれないし、大きく転べば痛みも感じるでしょう。それでも、何もしないよりは必ずプラスになると思っています。昨年の都知事選のときも、崖から飛び降りちゃった(笑)。決心したら、あとは最大限努力してリスクを軽減し、プラスに変えていくだけです」 ただ、大きな組織のリーダーとなれば“重大な決断”を迫られることも多いだろう。小池さんが息切れすることはないのだろうか?そこで、自身の「ストレス」について話を聞いた。 「基本的に、私はストレスを感じません。あえて鈍感になる。目の前のハードルをストレスだと思わずポジティブに捉える。できない理由を並べるよりできる方法を探す。つまり、『どうやって切り開いていくか』を考えることに喜びを感じています。それは私がある種の自営業だから言えることで、『会社員の自分にはできない』と思う方もいるかもしれませんが、これは考え方ひとつです。どんなに厳しい局面でも、神様が与えてくれた試練。ここを乗り越えれば『さらに自分を磨くことができる』と思ってみてはどうでしょうか。そう考えれば、たとえ職場に合わない人がいても、『この人は私を助けてくれているんだ』と思えてきます」
2017年03月03日「これまでの女性リーダーは大きく3パターンに分類できます。1つ目は組織の中で男性から引っぱり上げられるタイプ。2つ目は政党などに担がれて人気を集める形。サッチャー元英国首相はこのパターンで登場し、後に支持基盤を固めて本格的なリーダーになりました。3つ目は男性政治家の妻や娘がその座を継ぐ、王族に多いパターンです。では小池都知事がどのタイプかといえば、実はどれにも当てはまらない」 こう小池百合子都知事(64)を分析するのは、国際政治学者の三浦瑠鵜麗さん(36)。三浦さんは小池都知事のことを「組織ではなく小池百合子個人で活動し、そのスター性や決断力で大衆からの支持も集める。いわば王道のリーダー。日本の政治家では珍しい存在」と話す。都知事選での小池支持は男性が多かったというが、なぜいま全国の女性に受け入れられているのだろうか? 「リスクを取った人にはご褒美があるということです。女性からの人気の理由を考えてみると、やはり石原元都知事から『大年増の厚化粧』と言われても、ショボンとせずに立っていたことでしょう。また多少スキャンダラスな話が出てもダメージが小さいのは小池さんが“無理なキャラ設定”をしていないからだと思います。そういう意味ではウソがないように見える。声質もずっと聞いていたいと思わせるもので舛添要一さんのようにイライラさせることはない。こういう女性の主張の仕方があるのかと感じた女性は多いと思います。主婦の方から見れば土井たか子さんのような“異質な”雰囲気もない。記者の質問に『失礼なんじゃないですか?』と答えるかわいらしい面と、毅然とした芯の強い主張とのバランスが絶妙なんです」 政界以外の分野にも新しい女性リーダーの登場が期待されるが、その資質とは? 「政治家は自分がいちばんかわいいものですが、それでは人気は得られない。とくに小池さんの『利他性の高さ』を参考にすべきでしょう。このあたりは稲田朋美さんとは違うところ。“小池塾”のように、これまで社会で割をくってきた側の女性に気を使ってあげたいと思う部分は重要です。つまり今後の女性リーダーは、後輩の女性を引き上げようとする気持ちがなければダメ。男性にヒラメのように引き上げてもらうのを待っている人ではありません。生理や出産など、女性特有のつらい部分を“見えないところに押し込める”人とも違います」 また、「カリスマ的に女性の関心を引きつけるリーダーだけでなく、もともと女性に多い組織内での調整力があるタイプのリーダーも増えていくでしょう」と、三浦さんは語る。 「無電柱化を唱える政治家のような“未来志向”がムーブメントになるかもしれません。ゴミ出しとか近所の保育園とか“公共のこと”に関わる時間を持っていることも、リーダーの資質の1つになっていくと思われます。かつて女性の社会進出には目に見えないガラスの天井があるといわれましたが、小池さんに続く女性のリーダーシップには期待しています」
2017年03月03日《契約が満了したこのタイミングで、アーティストとしての初めてのお引っ越しを決めました》 自身のオフィシャルブログで3月1日付けで所属していたレコード会社、ユニバーサルミュージックからソニー・ミュージックレーベルズへの電撃移籍を発表した宇多田ヒカル(34)。10年に「人間活動」のために音楽活動を一時休止。その後、宇多田はイタリア男性との再婚、出産を経験していた。8年間のブランクを経て昨年、久しぶりに発表したオリジナルアルバム『Fantome』が大ヒットした。 「『Fantome』は、国内のCDセールスでオリコンチャート4週連続1位を記録しました。デジタル配信とCD合わせて売り上げ100万を突破。海外でも配信ダウンロードランキング『iTunes』で全米3位と大成功を収めたんです。通常であればこのままレコード会社とも契約を延長し、次作の制作に取り掛かるところなので、驚きました」(音楽関係者) “異例の移籍”の裏で何があったのか――。そのカギを握る“3人の恩人”の存在を別の音楽関係者が明かす。 「デビュー以来ずっと宇多田を支えてきた恩人で“チーム宇多田”ともいえるクリエーターたちです。移籍先でこの3人の再結集が可能になったことが、宇多田の決断を後押ししたのです」 その一人が、プロデューサーのM氏。 「メジャーデビューする前、宇多田は、母親で歌手の藤圭子(享年62)と父親の宇多田照實氏(68)と家族バンド『U3』を結成して、英語の楽曲を歌っていたんです。当時、14歳だった彼女の才能を最初に認めたM氏が、「日本語で歌わないの?」と持ちかけ、デビューにつながったのです」(前出・別の音楽関係者) M氏は別の曲の予定だったデビュー曲を『Automatick』でいくことを強く推して、765万枚の記録的ヒットにつなげた。宇多田をスターダムに押し上げた立役者でもある。 もう一人が制作面を支えたO氏。やはりデビューから関わり、彼女のことを「アーティストとして信じる」と公言して憚らない。宇多田本人からも最も信頼されている。 そして3人目がプロモーション担当のK氏で、母・藤圭子の死をテーマにした「『花束を君に』を、NHK朝ドラ『とと姉ちゃん』の主題歌に採用されるように仕掛けた人物だ。 「『花束を君に』をはじめとして、前のアルバムは母の藤圭子に捧げるものでした。ただそれを最初から前面に押し出すことは宇多田にとって本意ではなかったんです。楽曲の良さをきちんと伝えることを優先したいという彼女の意向を踏まえて、連日流れる報道番組『NEWS ZERO』(日本テレビ系)のテーマ曲に起用させるなど、K氏は完璧なプロモーションを仕掛けました」(広告代理店関係者) この“3人”と移籍先で再び最強チームを組むことを望んだ宇多田。その思いを前出・音楽関係者が語る。 「彼女は13年8月に飛び降り自殺した母親の死後、改めて藤の曲を聴き込んで、歌手としての母の偉大さがわかったそうです。演歌からジャズまで歌いこなす歌唱力や表現力に対し、アーティストとして自分はまだそこまでいっていない。前作『Fantome』は売れ行きを含め作品として評価され、母に近づくことはできた。しかしまだ超えてはいない。次回作は母を超えるアルバムを残さなければと、強い制作意欲に掻き立てられているようです」
2017年03月03日「まだ詳細は決まっていませんが、あややが今年か来年に歌手復帰するんです。夫の橘慶太さんも、その“復帰プロジェクト”には関わります。夫婦で別々の事務所に所属していますが、レコード会社は同じポニーキャニオンなので協力しやすい関係なんですよ」(レコード会社関係者) 松浦亜弥(30)の“復帰プロジェクト”が水面下で始動したという極秘情報をキャッチ!あややは、13年8月にw‐inds.の橘慶太(31)と12年越しの交際を実らせて結婚。翌14年12月に女児を出産して以来、育休に入っている。本誌の取材では、あややの“復帰曲”は、橘が作曲するとの話も――。2月下旬、娘とともに車で自宅を出たあややを直撃した。 ――女性自身です。歌手復帰されると聞きました。 「えっ、いえ……すいません、事務所に聞いていただければ」 ――ご主人が楽曲提供されるそうですね。 「……すごいですね。情報が早いですね(苦笑)」 びっくりした顔で答えてくれたあやや。すると車の中から「ママ、ママ」とかわいらしい声が聞こえた。あややは車から女の子を降ろすと、抱っこしながら話を続けてくれた。子育てを聞くと「私はすごくエンジョイしているほうだと思います」とニッコリ。 「楽しくて、楽しくて。夫や私の両親が協力してくれて、辛いことがいっさいないんです。私が子供と離れるのが寂しいので、保育園にも行かせていません。この歳の子って成長が早いので、1日、2日で子供がやれることが変わるんです。その瞬間が見たくて、保育園に預けられないんですよ(笑)」 すっかりママの顔のあやや。でも、育休もすでに2年。そろそろ仕事が恋しくなった? 「今までは夫と子育てを優先してきたので、歌いたい気持ちが全然なかったんです。でも家で夫の仕事を手伝っているうちに、私も歌いたいなって。ゆっくり考えて行きますよ!」 双方の両親の協力で子育て順調ななか、家の外に目が向き始めたのだろう。所属事務所に確認すると、「復帰は何も決まっていません」と否定した。でも、あややの気持ちはノリノリ。復帰が今から待ちきれない!
2017年03月03日「ネガティブを含んだ人間たちが、すごく人間くさく物事を解決していくドラマなので、その人間ドラマの様子を、深夜のゆっくりした時間に見てほしいなと思います」 そう語るのは、ここ数年耳にする、男子よりかっこいい“イケメン女子”“男装女子”の代表格ともいえるルウト。現在、ルウトはドラマ『増山超能力師事務所』(日本テレビ系・木曜11時59分〜)に出演中。そのかっこよさを見られるかと思いきや、金髪ギャルという役どころなので、ロングヘアにスカートといういでたち。 「ファンの方をはじめ『かわいいね』って、みんな優しい言葉をかけてくれました。でも女性で女性の格好をしていても男に見えるという大カオスがおきまして、『不思議です』という意見もありました」 バイト中にスカウトされ、メンズファッション誌などでモデルとして活躍。舞台で役者経験は何度かあったものの、本格的なテレビドラマの出演は今回が初めてになる。 「ドラマ経験がなかったので、楽しみでもありましたけど、大丈夫かなという不安のほうが勝っていました。ご一緒させていただく先輩方の名前を見まして震えあがりまして、大変不安になり。でも、皆さんが励ましてくださって、それから変な緊張から、いい意味での緊張感に変わりました」 その堂々としたギャルぶりはドラマ初出演とは思えないほど。そんなルウトに今後の夢を聞いてみた。 「今後も役者活動をしていきたいですし、男性のような女性のような二面性を持った役を極めてみたいと思います。男性の役をやる女の人はあまりいないので、ルウトは性別不明で『あの人はどっちなんだろう』というのを、ずっと続けていきたいと思います」
2017年03月03日ものまねタレントのコロッケ(56)が3月1日、『1周回って知らない話』(日本テレビ系)に出演。ものまねをしてきた大御所有名人達との知られざるエピソードや、ものまね業界の暗黙のルール、ビジネス形態など、業界の裏話を赤裸々に告白した。 1980年に日本テレビの『お笑いスター誕生』で業界デビュー。番組の同期に「とんねるず」などがおりグランプリこそ獲れなかったが、“岩崎宏美”や“ちあきなおみ”のものまねで瞬く間に大ブレーク。以来今日までものまね業界を牽引し、現在のレパートリーは1000種類を超えている。 視聴者からの「ものまねをして本人に怒られないの?」という素朴な疑問に対しては、「直接(怒られたこと)はない」と回答。ただ番組収録で本人と一緒になった際には、収録中に挨拶をすませ、収録が終わってからは毎回逃げるようにスタジオを後にするのだという。 そんなコロッケも2010年に芸能生活30周年を迎え、その年おこなわれた記念イベントには、北島三郎(80)や五木ひろし(68)、武田鉄矢(67)など、コロッケが今までものまねしてきた大物有名人達がサプライズで出席。舞台上で北島から「これからも良い芸を、そして良い歌を聞かせてください」と激励され、号泣するシーンが放送された。 また「ものまね芸人はどうやって売れるの?」という質問に対しては、「TVしかないっすよ!」と即答。ただしTV出演はあくまで“営業のための宣伝”であり、ものまねタレントの収入源の大部分は営業であることを暴露した。実際に同番組にVTR出演していたものまね芸人達も「ものまねは儲かる」と口を揃えており、企業のパーティーや地域のお祭りなどのイベント出演が収入源のほとんどを占めていると語っていた。 コロッケは他にも昨今の“ものまね業界の変遷”についても言及。自身をはじめ、コージー富田(50)や原口あきまさ(41)など、特徴を誇張した“パロディー派”が業界を席巻していた時代に、青木隆治(36)のような正統派が久々に出てきたことで視聴者のハートを掴み、彼が一躍スターになったのでは?と独自の視点で分析をしていた。 最後に、ものまねタレントとしての今後の目標について聞かれたコロッケ。「ものまね=(イコール)エンターテインメント。ものまねでエンターテインメントをする子が増えて欲しい」と、ものまねタレントのパイオニアとして“ものまね業界全体の発展”を祈念していた。
2017年03月03日Instagramを中心に話題沸騰中のイラストレーター・横峰沙弥香さん。2015年に産まれた愛息「まめちゃん」の爆笑成長記録を、ほっこりするイラストとともに本誌で連載! まめは図鑑遊びが好きでした。 図鑑を開いては写真を指差し、「これはりんご!」とか「これは納豆!」などと覚えたての単語を大喜びで披露してくれる様子はとても微笑ましく、私にとっても楽しいひととき。毎日のようにふたりで図鑑遊びをしていたものです。 かくしてぐんぐんと言葉を吸収して行ったまめですが、言葉の覚え方に若干の癖があり、どうしてそういう覚え方をしちゃったの?というような謎ワードが飛び出すこともしばしば。 以前この連載でも書いたことがあるのですがたとえば『いちご』を『がやんご』と覚えていたり、『新幹線』を『がないちん』と呼んだりするのです。 何度正しい言葉を教えても全く聞く耳を持たない頑固者なまめ。成長すればどうせ正しい言葉を覚えるものだろうからと深く考えずに放っておいたところ、いつしか『いちご』も『新幹線』も正しく言えるようになっていました。 ところが、いつまでたっても治らない言葉がひとつ。 『なんどう』です。 これは、(まめ的には)ブドウを指す言葉。 ぶどうはまめの好物なので自ずと使用頻度が高い言葉になるわけですが、こうも毎回間違えるのは如何なものかと矯正を試みるも、あえなく撃沈。なおす気配も全く見えないのでこれは長期戦かと私も諦めモードでした。 そんなある日。 とびきりのいいブドウをお土産でいただきました。季節外れのブドウ……言うまでもなく高級品です。 これはまめと一緒に楽しまなければなりません。私はいそいそとまめを誘いました。 すると … …… ちょっと待て。 正しく「ブドウ」が言えるようになったのはいい。喜ばしいことだと私も思う。 ただね、その という態度ですよ。 今まで間違えていたあなたに気を遣ってこちらが寄せて差し上げたのに、「何言ってんのアンタ」っていうその顔! 拍子抜けだわ、小憎たらしいわ、それがまた可愛いわで、結局また大量のムービーを撮る羽目になるんですよねえ……。
2017年03月03日『ふくれっ面をする稲田朋美防衛大臣』 ボン!2月14日、勢いよく自席のクッションを叩いた稲田朋美防衛相(58)。この日の国会では、野党の追及に防戦一方だった。「廃棄扱い」とされた南スーダン国連平和維持活動(PKO)派遣部隊作成の日報が、のちに発見。問題を追及され、しどろもどろになっていたのだ。 「立つたびにクッションが倒れて邪魔になるので、叩きつけて戻していました」(国会担当カメラマン)というから、わかりやすいご婦人である。 安倍晋三総理(62)の「秘蔵っ子」と目され、早くから要職に抜擢された稲田氏。ところが、トレードマークの網タイツがビリビリになるくらい、大臣の座はすでにボロボロだ。ハイヒールで護衛艦を視察して批判を集めたことや、お粗末な国会答弁で、党内外の評価を下げているのだ。 「’16年末に、防衛相として靖国神社を参拝。この後、稲田氏は総理にこっぴどく叱られていた。真珠湾慰霊訪問の直後だったから、他国を刺激するような振舞いをするなと戒めたわけだ。稲田氏は、『こんなはずじゃ』と苛立っていた」(自民党関係者) さらに不満を溜めさせたのが、先述の南スーダン派遣部隊の日報問題だ。14日、不明瞭な答弁に終始する稲田氏を見かねた総理が「代打」答弁に。ところが、それが気に障っているという。 「弁護士出身の大臣は、事務方に根拠法などを明記させ、一応詳細な答弁用の資料を準備しています。そのせいか、総理が自分を制して答えることに、『答えになっていないのに』と悪態をついているのです」(防衛省幹部) 助け船に悪態をつくほど、不満が溜まっているのか。22日朝、自宅から出てきた稲田氏に聞いてみた。表情は硬かったが、悪態のことを問うと……。 「ぷっ!」。問いかけに一瞬噴き出し、すぐに車に乗り込んだ。稲田事務所に、一連のご不満な様子について問い合わせると、「すべて事実無根です」と回答した。さて、稲田氏の今後は……。 「副大臣、政務官、事務次官による『秘密会議』が開かれているほど、稲田氏は省内を掌握できていない。まだ総理は続投させるつもりだが、もはや女性初の総裁候補としてはみていない」(政治ジャーナリスト・藤本順一氏) 「ポスト安倍」候補の座は、防衛できなさそうである。(週刊FLASH 2017年3月14日号)
2017年03月03日Aaron Poole / (C)A.M.P.A.S. 作品賞を呼び間違えたり、追悼メッセージで別人の写真を流したりと、何かと不始末が多かった今年のアカデミー賞。何事もなく終わったかのように見えた主演男優賞の発表でも事件が起こっていた。ベン・アフレックの弟であるケイシー・アフレックが受賞したが、プレゼンターのブリー・ラーソンが拍手を拒否したのだ。 ラーソンは昨年、『ルーム』で主演女優賞を獲得した。『ルーム』では、17歳のときに誘拐され、その後7年間に渡り性的・身体的虐待を受け続ける女性を演じた。監禁生活の中で犯人の子どもを産み育て、息子が5歳になったことをきっかけに脱出計画を実行する。 役作りのために1か月間どこにも外出せず部屋に閉じこもり、性被害に遭った女性の心情を理解するために精神分析医とじっくり話したというラーソン。撮了後は性的暴行の被害者を支援する活動をスタート。昨年のアカデミー賞授賞式では、大学内で起こったレイプ事件を題材とした作品『The Hunting Ground』に主題歌「Til It Happens To You」を提供したレディー・ガガが、レイプされた過去を持つ52人の女性たちと共にステージで同曲を披露した。ガガ自身も性的暴行のサバイバーだ。パフォーマンス後、ラーソンは立ち上がって会場を後にする女性たち全員と抱き合い、彼女たちの勇気を讃えた。 ケイシー・アフレックの話に戻ろう。彼は2010年、監督作『容疑者、ホアキン・フェニックス』を撮影中にわいせつないやがらせがあったとして、プロデューサーと撮影監督からセクシャルハラスメントで訴えられている。アフレックは容疑を否認し、結果示談となったが、その真偽は今もって明かにされていない。 オスカー像授与後の拍手を拒否し、祝意を表さなかったことで、ラーソンは性的犯罪の加害者に対する無言の抗議を行ったのだ。彼女の毅然とした姿勢はSNSで絶賛された。 アカデミー賞の受賞を祝われるはずが、性的犯罪の容疑者であった過去を蒸し返されることになってしまったアフレックは、疑惑を払拭するべく、ついにボストン・グローブ紙の取材に応えた。 「どんな理由があっても、誰であろうとも、いかなる虐待も許すべきではないし、忌まわしいものだと思っています。そして全ての人に、職場をはじめとしたあらゆる場所で敬意をもって応対される価値があると思います。本当に覚えのないことです。僕にできることといえば、ただ、自分の人生を僕なりに生き、自分の価値観に従って話し、行動するだけですよ」と改めてセクハラを完全否定。 これまでは偉大な兄の陰に隠れ、パッとしなかった印象のアフレックがいよいよ脚光を浴びる時が来た──と思ったが、有り難くない方向からのスポットライトもしばらくは消えそうにない。
2017年03月02日「あれ?似てない!?」と思った人は少なくないハズ。先日、「幸福の科学のために生きます」と、突然芸能界引退を表明、直後に暴露本を出版した女優・清水富美加(22)に、「ゲス不倫の過去」があったことが報じられた。 その不倫相手・KANA-BOONの飯田祐馬(26)の顔が、昨年ベッキー(32)との不倫騒動で注目されたゲスの極み乙女。・川谷絵音(28)になんだか通ずるものがあるようで。そこでオネエ占い師のLove Me Doさんに2人の顔相を見比べてもらうと、数々の共通する“ゲス不倫顔相”の傾向があるという。Love Me Doさんが解説してくれた。 ■顔を覆う髪形は「隠し事アリ」のサイン 「髪で顔を隠している部分が多い人は、感情も隠して、本当の自分を見せない秘密主義。世の中にアピールしていることとは違うことを裏でやっている人が多いわね。独占欲も強く、エロい人も多いのよ」 ■一重まぶたは「コソコソ根回し」が得意! 「まぶたは二重の人より一重の人のほうが、冷静で客観的。何事もオープンにするタイプではなく、裏でコソコソやるのが得意な人。そういう駆け引きの仕方が上手だったり、根回しにもやたらと長けている人なのよねー」 ■小さめおちょぼ口は何かと「未練たっぷり」! 「口は愛情を表すところ。女性のように小さめの口の2人は、少し女々しいようなところがあったり、未練がましい部分があるみたい。相手から拒否されると強がってCOOLさを出してくるタイプという一面もあるんですけどね」 ■ぼんやりした輪郭は「理屈が通じない」独りよがり! 「頬が平らで鼻が目立つ2人。頬は世間を、鼻は自分を表します。こういう人は“オレ様気質”の人が多く、先のことより今が大事で、理屈の通らない、独りよがりな行動を取る傾向が。実は目立ちたがり屋さんだったりするの」 とは言っても、何もこんな形で目立たなくてもよかったのに……。昨年の芸能界に吹き荒れたゲス不倫の嵐、今年もまだ何かありそうです!
2017年03月02日「『いまのバッティング、いいね~。でも、もう一歩踏み込んだ方がいいよ!』なんて言ってノリノリで指導していましたね」(地元住人) 曇り空の肌寒い日、小学校のグランドに子供たちを熱心に指導する男性の声が響き渡っていた。声の主は元SMAPの中居正広(44)。 2月12日、中居は多忙な仕事の合間を縫って、地元・神奈川県藤沢市に帰省。少年野球の指導を行ったことをラジオ番組『中居正広のON&ON AIR』で明かした。 「中居さんが藤沢に帰ってきて少年野球の指導をしているとママ友から連絡があったんです。行ってみると、スポーツメガネをかけて黒いジャージに赤いパーカー姿の中居さんがすぐ目に入ってきました。地元の友人の子供がいるチームに飛び入りで参加させてもらったらしくて、午後は自分の母校のチームの練習にも寄ったそうです」(別の地元住人) 最初は指導したりせず、楽しそうに仲間と談笑して、見学だけしていたという中居。 「中居さんも子供のころ少年野球をしていたそうで、そのうちたまらなくなって『もっとよくボールを見たほうがいいね』って言いながら、直接身振り手振りで教えだしていましたね」(前出・住人) 中居は、とてもリラックスしたようすで、子供たちを我が子のように教えていた。最後には、子供たちと父兄といっしょに記念撮影もしたという。 「中居さんは今でもよく少年野球の仲間と地元の居酒屋に集まっては昔話に花を咲かせているそうです。中学に進むとジャニーズの仕事を始めて野球はやめてしまったし、高校は近隣の街の学校に通っていたので、ゆっくり過ごした小学生時代の仲間と一緒にいるのがいちばん落ち着くんでしょうね」(地元の商店主) 地元愛をますます深めた今回の野球指導。それは彼にとって、亡き父の思い出を甦らせるものでもあった。中居は、父への思いを前出のラジオでもこう語っている。 《ウチの父ちゃん、『お前、少年野球チーム作って、子供を教えてやれるようなことできないのかな。そしたら俺も参加できるのにな。お前がチーム作って子供に教えているところを見てるの、それが俺の夢だな』なんて言っていたのをすごい覚えてる》 地元でのコーチ奮闘で父への思いを馳せるとともに、仲間で支えあう大切さも改めて身に染みたという。 「練習後、父兄たちがみなボランティアで指導していることを知って、中居さんは感心していました。街の大人がみんなで子供たちを支えているのを見るのは気持ちがいいなって」(前出・商店主) 大晦日のSMAP解散後、年明けに気管支炎と肺炎で入院していた中居。闘病とソロ活動と“孤独な日々”を過ごしていたが、張り詰めていた気持ちが癒やされた休日だった。
2017年03月02日歌手のムッシュかまやつさんが1日、がんのため都内の病院で亡くなった。78歳だった。 昨年9月に肝臓がんを公表し、「絶対復活するから心配しないでください」と宣言。10月末に退院してからは、いとこである歌手の森山良子(69)の自宅で治療をしながら、12月には堺正章の70歳記念ライブに飛び入り出演もしていた。 訃報を受け、ザ・スパイダースのメンバーだった井上順(70)が2日、事務所を通してコメントを発表。井上は「スパイダースが多くの人達に愛されたのもかまやつさんの存在があったからです」と故人を偲んだ。 つづけて「いつも温厚でどんな時もあの優しい笑顔で場を和ませてくれました」と思い出を振り返り、「素晴らしい兄貴であり、人生の先輩だったかまやつさん、本当にありがとうございました」とコメントした。 かまやつさんは1939年に東京で生まれ、青山学院高等部時代から本格的に音楽活動を開始。1960年代からはザ・スパイダースのメンバーとしても活躍し、ソロでも「我が良き友よ」など多くのヒット曲を生み出した。
2017年03月02日「最初に記事を見たときは、怒るも何も呆れました。まさしく“フェイク・ニュース”ですからね。トランプさんのお気持ちが、よ〜くわかりました(笑)」 こう笑いながら本誌の直撃取材に答えてくれたのは、麗人・美輪明宏さん(81)。2月20日付の『サンケイスポーツ(以下、サンスポ)』の、《美輪明宏、舞台引退を示唆〜》の記事を読んで、多くの人は驚いたはず。 美輪さんが、「肉体的にも節という節が曲がってきて、キーが下がって音域も変わりましてダミ声になって、肺活量も少なくなって。それでものを言いますから時々震えがきます」と苦労を吐露。「今度のお芝居でひょっとすると、おしまいになるかもしれません」と、覚悟を語ったという内容であった。この記事はネット上でも大きく取り上げられ、たちまち“美輪さん引退か!?”と、大騒ぎとなる事態に−−。 ことの発端は前日の19日、美輪さん自身が演出・主演する舞台『葵上・卒塔婆小町』大阪公演の記者会見でのこと。美輪さんが語る。 「大阪のホテルで、20人ぐらいのジャーナリストに集まっていただき、舞台内容、演出などについてお話をしました。『卒塔婆小町』は100歳の老婆と20代の美女・小野小町を早変わりで演じます。肉体的にも大変で、その演技の難しさについて、ご説明したのです。老婆の役では関節の節々を曲げて演じます」 美輪さんは取材陣の前でその姿を演じてみせたという。 「背中を曲げて、手足を震わせながら演じる。それをみなさんの前でもお見せしました。背中を曲げると横隔膜が動きづらくなるので、呼吸が苦しくなり、しわがれ声になるんですよ、と。そして20代の小町の役では、背筋を伸ばし、声の質もハイトーンに変わる。私は10代のころから(出せる)音域が変わっていない、というお話もしました。ところが、翌日のサンスポさんの記事では、そういう舞台演出上の話がすべてカットされ、あたかも今の私が老いぼれて舞台を引退するような話にすり替わっていた。だから、ビックリしたのです」 ビックリしたのは、ご本人だけではない。ファンをはじめ、仕事関係者らにとっても寝耳に水のニュースだったことから、事務所への問い合わせが相次いだ。だが数時間後、話は急展開する。20日の午後、サンスポはネット配信で《美輪明宏さん、舞台引退を示唆は誤りでした》と以下の訂正記事を掲載したのである。 《美輪さんの発言はあくまで今回の演目に関してのもので、舞台からの引退ではありません。また美輪さんの歌唱のキーが下がっているというわけでもございません》−−。 サンスポに訂正記事掲載に至った経緯を聞いたところ、「記事に書いてあるとおりです」(広報室)。これで美輪さんが舞台引退を示唆したという記事は完全に撤回されたわけだが、今回ばかりは、さすがにオカンムリになられたのでは……? 「私が“怒っている!”という記事を書きたいんでしょ?そうはいきませんよ(笑)。最初から呆れて笑っちゃったぐらいです。それよりも今は音楽会や舞台の稽古で大忙しなので、終わったことを気にしている暇なんてありません」 美輪さんが現在稽古中だと語る舞台『葵上・卒塔婆小町』は、今回で5回目の公演となる人気のお芝居。 「台本を3〜4回読み直したら、完全にセリフが頭の中に入っていました。稽古も順調です。みなさん、ぜひご覧になってください。見ないと一生の損ですから(笑)」 美輪さんの辞書に“引退”の2文字はなさそうだ。
2017年03月02日「2月16日は『戌の日』でしたので、安産祈願のために日本橋にある水天宮さまに行ってきました。そのときも若い人から年配の人まで、さまざまな方からお祝いの言葉をいただき、うれしかったですね。妊娠を発表して以来、本当に多くの方から応援のお言葉をいただき、夫婦でほっこりとあたたかい気持ちに包まれています」 声優でタレントの金田朋子(43)が自身の妊娠を発表したのは2月9日のこと。出産時には44歳を迎える高齢出産ということもあり注目を集めているが、妊娠までの道のりを、あの特徴のあるアニメ声で語ってくれた。 「現在は妊娠6カ月で、6月に出産予定です。ようやく安定期に入ったところで報告させていただきました。おかげさまで赤ちゃんは順調に育っていて、もうおなかを蹴るようになっているんです。5カ月のときだったかな、おなかの中から押される感覚があり、これが最初に『赤ちゃんが動いた』、と感じた瞬間でした。今はおなかの中でピクピクピクピクッて、お魚が泳いでいるような感じでよく動いています」 金田が9歳年下の俳優・森渉(34)と結婚したのは’13年で、当時、彼女は40歳。結婚当初から子どもを欲しがっていた2人だが、あえて子づくりには踏み出さなかったという。 「2人とも子どもは大好きです。でも旦那さんも私も2人でバラエティ番組に出させていただけるようになったばかりで、結婚してからもお仕事に専念してきました。いっぽうで私も確実に年を重ねていきますから、葛藤もないわけではなく、子づくりのタイミングについては、けっこう頻繁に話し合っていたんです。結局、子どもをつくることを決めたのが’16年2月ごろのことでした。当時の私は42歳でしたが、実は『高齢出産になるけど、まぁなんとかなるだろう』くらいにしか考えていなかったんです。でも婦人科のお医者さんから、『40歳を超えると自然妊娠の確率が5%なんですよ』とか『もう時間がないからすぐに不妊治療を始めたほうがいいですよ』とか、言われて驚きました。そのとき初めて、自分たちがいかに無知だったのかと、気付きました」 医師に勧められたとおり、すぐに不妊治療を受けるかどうか、金田と森は選択を迫られたが−−。 「2人でずいぶん悩みましたよ。でも、まずは治療を受けずに、やるだけやってみよう!と、妊活をスタートしたんです。排卵検査キットを買ってきたり、病院に行って排卵日を教えてもらったりですね。思っていたようには子宝に恵まれず、夫婦関係もギスギスしていた時期がありました。私も、相手のちょっとした言動にイライラすることが増えていたんです。でも赤ちゃんだって、怒ってばかりいるお父さんやお母さんのところには来たくないですよね?私もそう反省して、『もうケンカをするのはやめようよ』と、旦那さんに話しました。コミュニケーションを積極的にとって、仲よくするようにしたんです」 テレビで見せる金田のキャラクターからは想像できないが、なかなか赤ちゃんを授かることができず、落ち込むことや悲しくなることもあったという。 「だから妊娠がわかったときは、本当にうれしかったですよ。でも『安定期までは、まだまだ安心できないぞ!』と、2月までは公表を控えていたんです。ご存じのように、私はこんなワチャワチャした人間です(笑)。そんな私と旦那さんを選んで来てくれた赤ちゃんには感謝の気持ちでいっぱいです。男の子でも女の子でもどっちでもいいんです。私たちを成長させてくれる存在になることは間違いないなって感じています。でも、いったいどんな子なんでしょうか?旦那さんは私の“ミニ版”が生まれるんじゃないかと戦々恐々としています(笑)」
2017年03月02日「昨年出版した私の著書『子供が夢を確実に叶える方法〜そのために親がすべき29のこと〜』(スターツ出版)のなかで『失敗することはラッキーであると教える』と記しましたが、物事は考えようで。負け=失敗は、今の自分を分析して、ステップアップするチャンスだと考えれば『失敗』ではなくなるんですね。私も美誠も『負けはラッキー。明るい未来への切符』と考えて、これまでも2人で負けを分析することを楽しんできました(笑)」 そう話すのは、’16年リオ五輪の卓球女子団体戦で銅メダルを獲得した伊藤美誠選手(16)の母・美乃りさん(41)。卓球史上最年少という記録でつかんだ銅メダル。次世代のエースを作り上げたのは、彼女のコーチも務めたシングルマザーの“執念の子育て”だった。美乃りさんが、母娘卓球“スポ根”ストーリーを明かしてくれた。 静岡県磐田市出身の美乃りさんは中学1年から卓球を始め、高校時代はインターハイ(高校総体)、大学時代も全国大会(インカレ)に出場。結婚後はクラブチームで活躍し、’00年10月、長女・美誠を出産した。 「両親が卓球をやっていた関係で美誠は生まれたときから卓球と触れ合い、卓球にとても興味を持っていました。そんな美誠が『卓球をやりたい』と言い出したのは2歳の終わりのころ。ただ『何歳だろうと、やるからには本気でやる』『中途半端ではなく、頂点を目指す』が私のモットーですから。『それでもやりたいの?』と何度も聞きました。そのつど美誠は『やりたい!』と」 そこで、福原愛選手モデルの子ども用ラケットを買い与え、翌日から近所の体育館を借りて練習を始めた。 「練習初日。美誠の卓球を見て『美しい』と思いました。スイングも、足の運びも、球との位置感覚もすべて美しかった。2歳の子とはとても思えませんでした。美誠が4歳のとき『もっと卓球をやらせてあげたい』と思って、新築した家のリビングに卓球台を置くことにしました。それから10歳までの7年間は、まさに『卓球づけ』の毎日。わが家では日々の練習を『訓練』と呼んでいました」 幼稚園時代は通園する前に朝の訓練。幼稚園から戻るとお昼ごはんを食べて、お昼寝をしたあと、4時ぐらいから午後の訓練。それから晩ごはんになるのだが、美乃りさんは幼い美誠選手が納得するまでとことんやらせた。そのたため、晩ごはんが8時、9時になることもしばしばだった。そして、晩ごはんのあとは夜の訓練−−。 「1日最低7時間は訓練していましたし、美誠が卓球台を離れるのはお手洗いのときだけ。それも3分以上入っていると、お手洗いの戸をドンドンドンと。寝不足の美誠はときどきお手洗いで居眠りをしていましたから(笑)。訓練中の私たちは異常というか、ほかの人が入り込めない状態でした。近所に住む私の両親が、晩ごはんのおかずを持ってきたときも『ここに置いておくよ』と言って帰ってしまった。両親が言うには、鬼気迫る空気で『息ができなかった』そうです」 それでも負けず嫌いな美誠選手は「卓球をやめたい」とはただの一度も言わなかった。泣いたことは何度もあったそうだが、それは、うまくできない自分、ふがいない自分に対する悔し涙だったという。 「1日の訓練が終わると、私は一転『甘〜いママの顔』に戻るんですね(笑)。私の子育ては欧米風で、何かというとスキンシップするんです。ですから、訓練が終わった瞬間、美誠を思いっきりハグして『大好きだよ』『愛しているよ』。そう言って彼女をねぎらい、『母娘の愛』を確認しました。卓球づけの7年間を振り返って美誠は、私のことを『鬼と一緒にいるような感じでした』と言っていますが(笑)、私は自分のすべてを美誠に懸けていました」 ’20年の東京五輪に向けての今後を、美乃りさんはこう語る。 「私のこれからについては、3年後の東京オリンピックに向けて全身全霊を傾けて美誠を支えていくつもりです。東京オリンピックは人生の通過点。私と美誠にはどんな道が待っているか、今から考えるだけでワクワクします」
2017年03月02日『写真・AFLO』 韓国・江陵の四大陸選手権で僅差の銀メダルに終わった羽生結弦(22)。平昌五輪の前哨戦となる大事な大会での敗北だったが、その健闘ぶりに会場からは惜しみない拍手が送られていた。そんな会場で、“ひときわ目を引く光景”が。実は今大会には、中国から多くの“ユヅリスト”たちが駆けつけていたのだ。 「日本の国旗や日本語の応援プラカードが並ぶなかで、『加油羽生!』(がんばれ羽生!)などの中国語のメッセージもたくさん混ざっていたそうです。というのも、実はいま中国では羽生選手がアイドル的な人気。非公式のファンクラブも数多く存在しているそうで、今大会も中国から韓国まで100人ほどが押し寄せたといいます」(フィギュア関係者) この羽生ブームのきっかけは、15年3月に上海で行われた世界選手権だった。現地メディアに報じられた彼の姿が女性たちの心を鷲掴み!そこから一気に人気者となったようだ。だがいま、その中国人ファンたちの応援マナーが問題視されているのだという。 「彼女たちは公式練習のときからハイテンションで応援していましたが、その声がものすごく大きくて……。日本人ファンの間では『羽生選手が不快に感じることはやらない!』という暗黙のルールがあるのですが、彼女たちはそんなこともまったくお構いなし。羽生が宿泊するホテルの前にまで押し寄せたかと思えば、夜遅くまで出待ちを続ける人も。羽生選手も困惑を隠せないでしょう」(スポーツ紙記者) 急騰する中国での羽生人気。そこに目を付けたのが、現地企業だ。中でもある大手企業では驚きの“爆ギャラ”を用意して“囲い込み”をもくろんでいるという。 「いま中国企業の間では、羽生選手の争奪戦が起き始めています。羽生選手はすでに日本国内で複数社とスポンサー契約を結んでいますが、彼らはお金を積むことで自社企業のCM起用をもくろんでいるといいます。なかには『1億円のギャラを出してもいいから、何としてもCM契約を!』と息巻いている企業もあるそうです」(広告代理店関係者)
2017年03月02日「’97年に夫を亡くした1年後に、この作品の翻訳・出版権を獲得できた決め手は、私が送った手紙が『情熱的だったから』だと原作者のJ・K・ローリングから聞きました。でもその情熱は、出版業を愛し、志半ばで早世した夫の魂を受け継いだものでした」 こう振り返るのは、世界的ベストセラーで日本語版も2,400万部以上を売り上げている『ハリー・ポッター』シリーズの翻訳者で静山社会長の松岡佑子さん(73)。4歳上の夫・幸雄さんとは大学時代に交際が始まった。 「彼は作家志望でしたが、すぐに稼げるまでになるとは思えなかった。私は大学院進学をあきらめ“生活のために”通訳の仕事に就いたんです」 後に夫は一端、ペンをおき、’79年に自分で小さな会社を立ち上げた。だが18年後にがんに倒れ、後には負債だけが残った。54歳で会社を引き継いだ松岡さんは、ある日、友人に薦められたハリー・ポッターの原作本を開くと瞬く間に夢中に。すぐさま原作者“熱い手紙”を書いたのだった。 「幸せを失って、素のままでスクッと立ったときに、人間には不思議な力が出る。夫を亡くした後だからこそ、ハリーの作品と出合うことができました。でもその“人生のチャンス”は、努力もなしに待っているだけでは決してやってこないものなのです」 思い出すのは通訳の仕事に就いたころのことだと続ける。 「人前に出るのが苦手な私は通訳に向いていなかった。でも採用されたからにはと、予習、復習、関連知識の習得など睡眠時間を削って勉強を重ねました。その下積みが後につながったんだと思います」 50代で成功を収めた松岡さんは、友人だったオーストラリア出身のボブさんと63歳で結婚。現在はスイスで暮らすが、70代になって“新しい目標”を見つけたという。 「ボブも私もブルゴーニュのワインが大好き。そこで日本の方にも少しでも安くおいしいものを楽しんでいただきたいと、欧州から輸出を始めました。コストを抑えるために『フェニックス・ワイン・クラブ』のHPで限定販売しています。全身全霊、私たちが一つひとつ試飲して選んだ自信のボトル。ぜひお試しくださいね」 そう目を輝かせ、最後にこんなアドバイスをくれた。 「いま仕事がつまらないと思っている人でも、続けるべきです。与えられた仕事にはつねに真剣に向き合うことが重要。地に足をつけて、目を天に向けている人にだけ、チャンスの天使が舞い降りる。それはいくつになっても変わらないことだと信じています」 松岡さんの仕事に対するモットーは、まさに人生90年時代にぴったりの“魔法の言葉”かもしれない。
2017年03月02日今や日常の中に溶け込んだ100円ショップ。必要なものがあったら駆け込む人は少なくないだろう。しかし、必要なものがなくたってそこは楽しい夢の国だった!?2月にオープンしたばかりの大型店舗で、100円天国を満喫してきた。 人間は、広い世界のほんの一部で生きている。全てを知ることはできない。世界のどこかには、自分の知らない何かを熱狂的に愛してる人がいる。研究する人がいる。そんな人が集まると、小さなブームになる。誰かの世界を、少しだけ覗いてみちゃおう。それが「うさこの覗いた世界」なのだ…! 日本には3つの夢の国があるのはご存知だろうか。ディズニーランド、ディズニーシー、そして100円ショップチェーン最大手のDAISOである(個人の見解です)。 DAISO有する株式会社大創産業が創業したのは1977年。以来驚きと感動を与える商品を開発し続け、今や「え、こんなものが100円…!?」「これも100円…!?」とワクワクが止まらないテーマパークと化した。今では国内外に4,500店舗。オリジナル商品開発に力を入れ、「もう100円ショップで売ってないものなんかないんじゃないの…?」と大量のアイテムを前に呆然と立ち尽くすほどの商品数を誇る。 今回わたしは2/10にオープンしたばかりのDAISO吹田泉町店へ足を運んだ。 3階まであるピカピカの大型店舗。3階まであっちを見てもこっちを見ても100円という奇跡の空間である。たくさん買い物をしてもバッチリな駐車場完備でありがたい。 入るとすぐに飛び込んできたのは…! え… めっちゃオシャレやん…。今すぐにでもカゴに放り込みたい気持ちを押さえながら店内を散策する。 かわいい…!! いかにも原宿系なオーラ漂うモフモフのリュック(400円)に虹のポシェット。柄が冴えわたるポーチもかわいい。 かわいい…。100円ショップのスマホケースなんて無地で無愛想なのがお決まりじゃなかったの!?何が起きてるの!??? これはGIRLS’ TRENDとコラボした「GT」と言われる商品や、DAISOオリジナルブランド「gg.」の商品。看板にある通り「こんなにかわいい♪ な・の・に100YEN!!!!」という驚異の価格破壊だ。若い人たちが実際に考えて実現した商品だけあって、なんとも女子の心に響く品揃え…! こちらはGTの人気の小皿。どこを見てるか分からない目…!絵のみならず「ITADAKIMASU. So yummy yummy」と文章までユルすぎる。 和雑貨も人気だ。外国人観光客に史上最強のお土産屋さんとして知られるようになったDAISO、「日本に行ったらDAISOに行け」と海外ではもっぱらの噂らしい。 お寿司のマグネット。赤身に中トロまで用意されるマグロの豊富さがすごい。 お相撲さんペン。外国人観光客だけでなく日本人の心もグッと掴むかわいさなのは言うまでもない…! 日常のいろんなことを便利にするアイテムも充実。 何度も洗って使える「伸びラップ」。もう毎回捨てられていくラップに心を痛めることはない。安くて、エコなんてことが…あるんだね…? 熱で開けた袋も密封できる「イージーシーラー」、茹でる前に穴を開けることでゆで卵をスルリとむけ卵に変える「プッチン穴あけ器」、塩分おさえる「しょうゆスプレー」。売れ筋の3点だ。 圧倒的なおもちゃコーナーもある。 男子の夢。ミニカーやプラレール。男児を連れてきたら興奮で鼻血が出そう。お母さんも怒り知らずの安さである。 バッドにフリスビーに、サッカーボールに卓球のラケット…1,000円もあればスポーツの英才教育ができそう。自分に合うスポーツを探る新しいタイプの自分探しをしてもいいかもしれない。 頭からかぶれるアニマル(300円)にパペット(200円)まである。ここでは何が起きてるの?と問い詰めたくなるような品揃えだ…。 わたしは日頃から足繁く100円ショップに通う自称100均ソムリエにも関わらず、吹田泉町店に並べられたまだ見たことのない商品に浮かれまくって2時間も探検し尽くしてしまった。 「月に700個以上新商品が開発されますが、どれを置くかはお客さんのニーズに合わせて店舗が選びます。繁華街なら観光客が多かったり、住宅街だったらファミリーが多かったりと立地の違いによって置かれる商品が違うので、ひとつとして同じDAISOはありません!」と語るのは店長さん。 これが3階建て2万2,000アイテムの力か…!! かつては「安物買いの銭失い」「安かろう悪かろう」と言われることも多かった100円ショップ。買うにも「まぁ安いし100円ショップで買うかぁ…」というテンション低めのモチベーションだったかもしれない。しかし今あるのはカワイイ・便利・面白いとノンストップのドキドキ…!どんなに高品質でも100円で…という社長のこだわりによって、あれも、それも、これも!?と素晴らしの数万アイテムがお出迎えしてくれる。余りにも革命的すぎて、泣きながら「こんなお店を作ってくれてありがとう」と感謝するおばあちゃんもいたそうだ。 赤ちゃんのためのかわいいプラスチック用品から、ちびっこが喜ぶおもちゃ、学生にうれしい文房具、新生活に役立つ食器や収納用品、老後にやさしい介護グッズ…と、人生の様々なシーンで役に立つアイテムは誰しもの心をワクワクさせてくれるはず。100円を握りしめてこのテーマパークを全力で楽しむしかない!! 株式会社大創産業『DAISO』吹田泉町店大阪府吹田市泉町2丁目47-8営業時間:10:00~21:00
2017年03月01日リビングルームはとにかくこまごました雑貨なども多く、家の中でも特に散らかりやすい空間。家族それぞれの所有物が入り交じっているだけでなく、新聞やダイレクトメールなどもどんどんたまってしまう。 「まず新聞など、毎日増えるモノは、まっさきに処分しましょう。同じ紙類でも、子どもが通う学校のプリントや宅配メニューなど、今後使う可能性もあるモノは、とりあえず保管しておき、古くなったらどんどん捨ててください。小さいお子さんがいる家庭では、図工の時間に作った工作などもあり、捨てがたいのもわかります。でも新しい作品を持ってきたら1つ捨てるなどの心構えは必要です」 そう話すのは、整理収納アドバイザーのすはらひろこさん。家の中でもリビングルームは、毎日毎日、さまざまなモノが集まってくるため、そのつど片づけを行うのが基本となる。そんなリビングルームの整理術を、すはらさんが教えてくれた。まず、リビングルームをスッキリさせるためのポイントは、収納からあふれた分を処分すること。 「もしリビングルームに本棚があるのでしたら、まず、あふれた分だけでも処分してください。特に雑誌の情報鮮度は1年程度。取っておきたいページだけファイリングすれば、スペースを節約することもできます。テレビ周りも同様で、あふれた分のDVDやCDだけでいいですから捨ててください」 リビングルームで乱雑になりやすいのはソファ。 「気がついたら、お子さんのカバンやランドセル、ご主人やあなた自身の脱いだコートなどに占領されていた、ということもあるのではないでしょうか。当たり前のことですが、ソファはあくまで座る場所で、収納スペースではありません。クッション以外は置かないようにしましょう。どうしてもバッグなどを置いておくスペースが欲しいときは、バスケットやふた付きのボックスなど“とりあえずの箱”を用意し、テーブルの下に置き、そこに入れる習慣をつけるといいと思います」 そして、ソファと同じくらい散らかりやすいのがテーブルの上だ。 「テーブルの上には、書類などは置かないほうが食事も気持ちよくとれます。でも、なかなかそうもいかないのが実情です。そこで、3つの書類ボックスを用意してみましょう。100円ショップなどで気に入ったデザインのものを探すのもいいですね。書類はたとえば、1.まだ読んでいないもの。2.今週までは必要なもの。3.今月までは必要なものなど、3種類に分類します。ただ週に1度はチェックし、不必要になったら捨てるようにします。文房具やリモコンなども、100円ショップの雑貨ケースなどに、とりあえず入れるだけで、見違えるようにスッキリして見えます」 いくら片づけたいからといっても、注意しなくてはいけないことがある。 「家族の持ち物を処分するときです。ご主人にもお子さんにも、“置いていい場所”を説明し、理解してもらいましょう。散らかっていて、何度言っても片づけないからといって、“勝手に処分”はやっぱりダメですね。あくまでも捨てるためには、所有者本人が納得することが大事です」
2017年03月01日家をスッキリさせたいと思ったら、あなたはまず、何から始めますか?「収納用品を増やす」、「押入れやクローゼットの中を整理する」という人も多いのでは?しかし、収納スペースの大きさが決まっているのに、あふれるモノをムリヤリ入れようとしても、なかなかうまくいかないもの。 「衣類が片づけば、家の中の8割が片づいたといっても過言ではありません。それほど整理の“難度”が高いのがクローゼットなのです。クローゼットの衣類を捨てることができるようになれば、ほかのスペースの整理もたやすく感じるようになるでしょう」 そう話すのは、整理収納アドバイザーのすはらひろこさん。衣替え、引っ越し……春こそ「整理」の大チャンス!そこで、“整理難度”が高いというクローゼットの収納術を、すはらさんに聞いた。まずは、クローゼット内の処分術。 「洋服は、どれほど定番のデザインでも年月が経過すると古ぼけた印象になります。ですから寿命は3年程度が目安です。また選ぶときには、好きか嫌いか、似合うか似合わないか(太って見える、垢抜けないなど)のほかに、現在の自分の年齢も意識してみるといいですね。以前は気に入っていた洋服でも、実際に着てみて鏡を眺めたとき、顔映りが悪かったら、捨てるモノに分別するのです」 もちろん悩んだら、いったんは保留にしてもよい。だが、もともとは外出着だったのに、「まだまだ近所では着られるから……」などと、未練がましく取っておくのはNG!ある程度捨てることに成功したのなら、今度は効率よく収納したいところ。 「冬物はとにかくかさばるため、場所を取ります。ですが衣装ケースなどにギュウギュウ詰めにすると、翌シーズンに使用するときにシワだらけになっていてガッカリすることもあります。詰め込みすぎず、余裕のある入れ方を心がけることが基本です。また、私がセーター類の収納で便利だと考えているのは圧縮パックです。今年2月に発売された『ムシューダ圧縮パック 衣類用』(エステー)は、衣類を2分の1に圧縮しながら脱酸素剤で防虫するタイプです」 脱酸素剤はニオイがしないため、圧縮袋から衣類を取り出したときも気にならないのだ。また、収納ケースは横置きに寝かせて収納せず、縦置きに立てて収納するのが、すはらさん流。 「そのほうがセーターを多くふんわり収納できるのです。もちろん、この場合も詰め込みすぎには注意しましょう。コートやダウンジャケットなどもベルトが付いていればそれで巻けば、衣装ケースなどに収納できます。こちらもセーター同様、ふんわりした状態で入れましょう。また、ストールやマフラーはラップの芯などを使ってクルクル巻いていきます。ラップの芯以外でも、画用紙やケント紙などを丸めて筒状にすれば利用できます。この方法だと、長い期間しまっていてもシワにならなくて便利なのです」 またこの時期は、クローゼットの手前に春夏物、奥に冬物をかけると、スッキリして見えるだけではなく、取り出すときに散らからずに済むそう。ぜひ、参考にしてみては?
2017年03月01日